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売られる戦場買う人でなし4


 その日は晴れだった。問題の無い凡庸な天気だ。そんな日に、同居人は僕達の家に不遜にも仕掛けられたテロの話を始めた。
 同居人の口から発せられるにしては随分重々しく語られ始めたそれは、最初は単なる世間話にしか思えなかった。じっとりとした目線を華麗に無視して、同居人は語りだす。
「扉の前にしめじが落ちてたの」
 同居人は箸を一切休めずにそう言った。
「はあ、しめじ」
「ねえ、真面目に聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。怖いね。これだから不景気は嫌なんだ」
「扉の前にしめじが落ちてたんだよ。それも一本じゃなくて、一パック分丸々。そのままにしてたんだけど、見てない?」
「帰ってないっていうか、出てないっていうか……それで? ああ、そう、しめじが落ちてたんだっけね」
 同居人があまりにも途方に暮れているように見えたので、仕方がなく僕は助け舟を出した。途端に、白米だけをもしゃもしゃと咀嚼していた同居人が顔を明るくしてチンジャオロースの更に箸を伸ばす。同居人の感情表現は表情よりも食事風景に現れる方が顕著のようだ。
「そうなの。ピッキングの為の針金だったらまだわかるんだけどね、しめじなの。新鮮そうなしめじなのに地面に潔くぶちまけてさ、何か気概を感じた」
「僕が自殺未遂を起こした時は気概があるって言ってもらえなかったんだけど」
「頼むからこのキッチュでキュートなホラーを話させてくれよ」
「ホラーとは言っても広がりがないからな」
「でも意味わかんないものって怖いからね。何かよくわからないけど」
「まあしめじならいいだろ、実害はないし。キノコはバターで焼いて醤油かけたら大抵美味いし。……拾ってくるなよ?」
 不満そうな顔の同居人を、一応牽制しておく。そして同居人は、次のような言葉で今日の食事と僕達の家の前にばらまかれたささやかなテロについて纏め上げた。
「ともあれ、これは事件だよ。何かを感じる」
 事件。
 大袈裟な言い方だけれど、そこを強く否定することも難しそうだった。だって、人間どんなことがきっかけで崩壊してしまうかなんてわからない。
「事件か。……事件ね」
「これからどうなっていくんだろう」
「どうもならないよ。そうだろ」
 しめじが落ちているならシュールなホラーになるだろうし、針金が落ちていたらクライムサスペンスになるだろうと同居人は言った。

 この物語が一体どんな方向に向くべきなのかはわからなかったけれど、次に落ちていたのは、針金だった。
 路線変更の始まりである。
「これは事件だよ」
 同居人がそう決めつけた。傍迷惑な路線に行かれてしまった。
 重々しく話す同居人が読んでいるのは、僕には縁遠い新聞だ。新聞にはお伽噺か三文ゴシップしか書かれていないのに。
 はてさて。ピッキングだろうがしめじによるテロだろうが、どちらにせよ殆ど家から出ない僕には関係がない。家の目の前にしめじが落ちても、針金が落ちても、僕の生活は変わらない。
 こんなことで同居人と僕との間に波風なんかを立ててやるつもりはないのである。僕と同居人の生活は、ある意味で危うい均衡の上に成り立っていた。それをわざわざ崩したくはない。
 僕達の生活が何かによって壊されるのなら、それは同居人が僕に愛想を尽くすことか、もしくは僕がまともに社会に出て、こんな場所から輝かしい明日へ踏み出すことじゃないといけなかった。
「新聞にはくだらないことしか書いてないね。最初にしめじ、次に針金だよ。こんな大事件が載らないのがおかしい」
「正直実際に鍵がぶち壊されたわけでもないし、鍵が壊されて僕が殺されるかなんかしないときっと載らないだろうね」
「でも、七本も落ちてたんだよ。ラッキーでもないのにラッキーセブンに合わせてきてるんだよ。なんだか凄い気概を感じる」
「僕が七回バイトの面接に落ちた時は気概があるとは言って貰えなかったけど」
「凄いね。気概を感じる」
「賞賛が遅い」
「過去の行動に今から賞賛を送ることが出来るっていうのはゴッホが死後に認められたことからもわかるだろ? 頼むからこの身近に迫るサスペンスに震えてくれよ」
 同居人は僕を愛おしそうに見つめながら、またしても途方に暮れていた。
 僕達には確実に温度差があった。確かに何かはこれからも起こるだろうし、僕達の間では確かに大事件なのかもしれないが、僕には興味がなかった。端的に言ってどうでもいいのである。意識してしまったら負けだ。それに、ここのアパートの扉が針金くらいでどうなることもないだろう。
「監視カメラでもつけるべきかな」
「まあ、君の気が済むならそうしたほうがいいんじゃない」
「いつも家にいるのは君だから、君が気になるならそうした方がいいかな」
「僕は別にどうでもいいけどね」
「殺されるかもしれないだろ」
「別に構わない」
 どうせぶち壊れているのである。今更のお話だ。
「やめてよ、そういう言い方」
「……なんで」
「嫌なの」
 それなのに同居人は、こういう話をすると酷く哀しそうな顔をする。合わないな、と思う。釣り合わないのだ。同居人とは。僕は同居人といるべきではないのだろうし、同居人は言わずもがな僕と一緒にいるべきじゃない。
 けれど、ぶち壊れた僕をただ一人待っていてくれたのも同居人なのだった。僕は思い出す。大学をやめた僕はアルバイトという身分ながらも働いていて、妹ちゃんと二人になった家に生活費を入れていた。
 僕は夜間のアルバイトしか受からずに、昼間大学に行く妹ちゃんとは入れ違いになる生活をしていた。
距離を取ったその分、僕と彼女がうっかり家で鉢合わせてしまうと、戦争だった。戦争といっても、大体は妹ちゃんが仕掛けてくる掃討戦だ。僕は指を折られた時のように、ただ黙って妹ちゃんの激情を受け続けていた。
 妹ちゃんは、僕の退学理由を、彼女の学費に求めてしまっていたらしい。美しいけどおよそありえなさそうな思い込みだ。そんなの馬鹿げているしナンセンスだった。
 僕は僕の為に大学を辞めたのだ。母親の実家はなかなか裕福で、実を言うと働かなくたって生活費には困らないし、保険金だって結構な額があった。妹ちゃんが気に病むことなんて一つもなかったのに、妹ちゃんはあれでなかなか神経質だったのだ。
「殺してやるから」
 妹ちゃんは料理が上手かった。母親からよく楽しそうに教わっていただけのことはある。その妹ちゃんが包丁を構えたのを見て、彼女がいよいよ切実であることを知った。料理を大切にする人間にとって、包丁が大事なものであることはわかっていた。少なくとも妹ちゃんにとっては大事なものだったはずだ。それを僕なんかに向けるということは、多分、そういうことなのだろう。
「ごめんね」
「謝るな」
「ごめんね」
「出ていけ」
「うん」
「出ていけ! 私とお母さんと、お父さんの家から出ていけ!」
 妹ちゃんは泣いていただろうか。覚えていない。ただただ怖かった。殆ど何も持たずに転がるように飛び出していくことになったのもその所為だ。あのままあの場所に留まっていたら、きっと妹ちゃんは僕か自分を刺していただろう。あの包丁は、母親が使っていたものなのだ。
 もうあの家には帰れないと思った。あのまま僕が妹ちゃんの傍に居れば、妹ちゃんはいつか必ず崩壊してしまう。まったく、同居人の悪戯は随分な余波を残してくれたものだと思う。けれど、妹ちゃんが事の真相を知ることはきっと一生ない。
 行くところはなかった。財布の中には六千円程度しか入っておらず、自分の口座にも、おぞましき数字しか記されていない。家にいても外に出ても命の危険性がある。それなら、妹ちゃんを犯罪者にしない為に外で野垂れ死ぬのもいいかもしれない。上手い具合に今は冬だし、きっとこの冬一番の冷え込みだ。
 どうしてこうなってしまったのかは結局わからないままだった。妹ちゃんと和解する方法とか、同居人と和解する方法とか、大学を辞めずに済む方法とか。基本的に僕の心持一つで何かが変わったかもしれない物達だ。
 それでも、物事にはタイミングというものがある。
 どれだけ後でああだこうだ思ったとしても、こうなってしまったことに対して何を言っても無駄なのだ。
 というわけで、僕は半ば全てを諦めきっていた。妹ちゃんや同居人、もしくは死に際の母親がしたのとは違った方向でだけれど。
 吐く息だけは白くて嫌になった。これじゃあ全ての物事に理由を付けたがっている可哀想な人間みたいだ。一体誰が決めたものが罪だと咎められるのだろうか。誰一人法なんか犯しちゃいない。一体誰が誰に償いをすればいいのだろう?
 前述の通り、寒い日だった。震えながら僕を待っているのを見て、僕は受験以外にはおよそ使わないであろうと、たかを括っていた知識を思い出す。……カノッサの屈辱、だっけ? あの、法王か誰かを怒らせてしまった皇帝が三日間くらい雪の中で許して貰えるまで立ってたという、アレである。
 同居人の立ち姿はまさにそれを彷彿とさせた。恋人を待っている可愛らしい女の子の姿でもなければ、退屈な講義をやり過ごす学生の姿でもなかった。はっきり言ってしまえば、同居人の立ち姿は随分屈辱的だったのである。きっとあの女はそんなことを認めやしないだろうけれど、同居人は寒気がする程切実だった。面倒臭いことも、面倒臭い男も嫌いなはずだ。ましてや、僕であるならば。
 罪悪感なのか責任感なのか惰性なのか、精々その三つと擦り合わせて同居人の在り方を観察してやろうと思っていたのに、そのどれとも違う。同居人は僕がいないと生きていけないんだというような、真摯な姿をしていた。屈辱的な姿だった。件の歴史用語との共通項は簡単に見つかる。同居人も皇帝も、どうしたって許して欲しかったのである。
「待ってたよ」
 僕を見つけた同居人が浮かべたのは、今ではすっかりお馴染みの、慈愛と諦念を華麗に織り交ぜた笑みだった。
「待ってたも何も。……何、君はエスパー? 僕が妹ちゃんに家を追い出される未来が見えてたの? それならもう少し前に教えてくれたらよかったんだけどな。教えて貰えたんなら支度をしておいてたのに。身一つで放り出される羽目にはならずに済んだ」
「ううん。エスパーじゃないよ。監視してただけ」
 同居人はさらりと言った。監視してた? 季節は春から凍てつく冬になっていた。あの永遠に思えるような長い夏を越えてなお、同居人は僕のことを見ていたというのか。普通に怖かった。ストーカーに遭うのは初めてだった。
「もう会ってくれないだろうって思ってたから、ずっとチャンスを待ってたの」
「それでそのチャンスが今やって来たってわけか。はは、何だよそれ。怖いし気持ち悪いし、変だろ」
「まあまあ、とりあえずココアでも飲みなよ。寒いでしょ?」
 そう言いながら同居人が強引に押し付けたココアは完全に冷めていた。一体、どれだけの間僕を待ち、ココアを渡す機会を伺っていたというのか。全く、大した執念である。押し付ける時の手の震えが寒さによるものだけじゃなさそうだったので、心底この女は不憫だと思った。
「私は料理が出来ないんだ」
「僕も出来ない」
「でも私よりは出来ると思うよ。私は包丁一つで全てを終わらせようとする人間だから。それなのに随分食べるのが好きだ」
 同居人は後にオニオンスライスのみの食卓を作りあげる手をひらひらさせながら、そんなことを言った。
「私は多分一人では生きていけないと思う」
「それは難儀だね。でもまあ君は両親に家から追い出されたりとかしないだろ? 妹ちゃんに八つ当たりされて命からがら逃げだすようなことにもならないはずだ」
「確かにそうだと思う。私に妹はいないしね」
「それじゃあ大丈夫だな。達者で暮らせよ。ああ、この台詞一度は言ってみたかったんだ」
「ねえ」
 同居人は僕の腕を掴んだ。存外強い力だった。驚いた僕は、あっさりとココアの缶を取り落とす。吐く息が震えた。冷たい風に晒された顔が軽く痛いくらいだった。同居人はこんな風の中に晒されていていい人間じゃないと思った。……本当に。心の底から。
「一緒に暮らそう」
「どうして」
「今夜は冷えるよ。……ねえ、一緒に暮らそうよ」
 茶番だと思った。僕達はお互いのことなんて知りたくもない関係のはずだから。もう全ては取り返しのつかないことで、いくらチャンスを伺ったからといって簡単には戻れない。けれど同居人は、同居人になる前の同居人は、白い息と一緒にこのアパートの名前を吐いた。明るさなんてどこにもない、暗い展望を備えた昏い名前だった。
「大丈夫だから」
 何の根拠もなく同居人は言った。
 そこから同居人は僕の同居人になった。
 そこから同居人は僕の宗教になった。

「ピッキングされるってことは、ここの家に誰か入ってくるかもしれないってことだよね」
「その場合、やっぱり殺されるのは僕だろうな」
「でも君はあんまり世間に認知されてないし、狙われてるのはやっぱり私なんじゃないかな」
「案外わかんないよ。娘に寄生して暮らしているクズ男を殺しにきた君の両親かも」
「お父さんお母さんには君のこと隠してるから、大丈夫。その点は」
 僕は犬か猫か。
「私、少し怖いんだよね。そう考えると外に出るのが」
 同居人が僕のようなことを言った。
「でも、会社には行かなくちゃいけないから困るよ」
「それは僕へのあてこすりか?」
 同居人は慌てて首を振る。悪意がないからといって何をやってもいいってわけじゃないんだけどな。
「……一人でいるのはやっぱり怖いんだよ。明るくても何が起こるかわからないし、針金のすぐあとだから」
「要するに、一緒に行って欲しいって?」
「駅まででいいし、明日だけでいいの。ただ、やっぱり怖いんだ。……駄目かな」
 迷った。前のお願いとは質が違う。基本的に、僕は同居人が強引にねだらなければ同居人の頼みなんて絶対にきかない。そこで、妙なことになるのが怖いからだ。妙なこと。具体的に、といわれれば困ること。
 今日の同居人はそこまで強引というわけじゃない。流されただけ、という言い訳が使えない程度にはしおらしくて、切実だ。同居人にはもしかすると付け狙うストーカーがいるのかもしれず、同居人は怖がっている。同居人は――。
 舌打ちが出た。こんなことは初めてだった。単純に苛立ったのだ。外の明るさ。面接に行けなかった僕。医者から貰った薬は面倒なので飲むのをしばらくやめていた。
「……もしかして、いいの?」
 返事はしなかった。結局僕は同居人を駅まで送りに行った。同居人は終始笑顔で、何かを話していたけれど、内容よく覚えていない。
 駅に着いて、満点の笑顔をした同居人がからっと言う。
「私と一緒なら、昼でも君はちゃんと外に出られるんじゃないかなぁ」
 言いたいことは色々あった。別に、お前の存在なんてそんなに大きなものじゃないよ、とか。外に出ることそれ自体と僕の社会復帰はまた大きく違う話だ、とか。
同居人は僕を廃墟のラブホテルに連れ出したことを思い返している。きっと、それを何だかキラキラしたベールに包んで、輝かしいものと見ているに違いない。たまらなかった。
 僕を外に出したのは針金だった。珍しく怯えた同居人。同居人の笑顔。そうだ、僕は外に出られる。同居人なんかいなくても外に出られる。
「僕は外に出られるよ」
 僕はきっぱりと言った。
 同居人の顔が少しだけ緊張する。
「そうか」
 同居人はそれだけ言った。僕は太陽の温かさを背中に受けながら、同居人に向かって深く頷いた。

 そうしてついに鍵が壊されたという知らせを受けたのが、今日の話である。針金が見つかってから、ゆうに三週間が経っていた。
 僕は珍しく、とあるアルバイトの面接に行っていた。今までのような珍妙で物悲しいアルバイトではなく、とあるゲーセンのバイトだった。
 「面接に行ってくる」と告げた時の同居人の顔くらいしか特筆することはない。同居人は何故か少しだけ動揺した様子で、ぎこちなく「いってらっしゃい」と言った。そしてゆっくりと窓の外を見る。今が夜でも明け方でもなく、真っ当な朝だということを確認して恐ろしくなったのだろう。
「朝だよ」
「まだ出ないけどね。面接は昼過ぎだ」
「私、今日早上がりなんだよ」
 同居人が何の仕事をしているのか知らなかった。なので、ふうん、とだけ返す。まさか、誰もいない家に帰りたくないだなんて言いだすんじゃないだろうな。
「そうか。珍しく僕が後に帰るのかもしれない」
「覚悟しておかなくちゃね」
 そうして同居人が少し笑った。そんなことに対して何の覚悟をするんだよ、と思ったけれど、何も言わないでおいた。
 僕は同居人がいなくても外に出られること証明しなくちゃいけなかった。針金が僕にもたらした恩恵はそう考えると素晴らしかったのかもしれない。
 あんなもので僕は外に出られるのだ。
「ああ、そう考えるとやっぱりこれも覚悟しなくちゃいけないのかな」
 歌うように同居人が言う。そういえば同居人は歌が上手かった。一体いつ聴いたのかは覚えていない。
「君がいない家にまた何か起こるんじゃないかって」
 その声を聞いてもなお、僕は面接に行く。

 ゲームセンターは最寄駅から二駅行ったところにあった。
「早稲田とか慶応とか、何年か前なら東大の生徒も働いていたんだよ」
 恰幅が良く人もそこそこ好さそうな老人が面接の相手だった。個人経営に近い形態をとっているこのゲームセンターでは、社長が直々にアルバイトの面接もこなすのだという。社長は近くの喫茶店に僕を呼び出し、何だか高そうなコーヒーを目の前に置いてそう切り出した。
「はあ」
「何故かそういう人間が集まるんだよ。別に募集要項にそう書いてあるわけでもないのにね」
「……そうなんですか……」
 どういう返答をしていいのかわからなかったので、とりあえず相槌を打っておく。僕がそこそこ有名な大学を中退していることを揶揄しているのかと少しだけ狼狽える。学歴コンプレックスというものはなかなか侮れない。けれど、どうやらそういうことでもないようだった。
「だから、ここは他の職場よりも存外働きやすいんじゃないかと思う。きな臭い人間は基本的に雇わないからね。職場作りというのは人間関係から始まるものだと思っているんだ」
 どうも、自分の職場の働きやすさについて説明したかったらしい。学歴イコール人柄の良さということではないと思っているけれど、社長に悪意が無いのは伝わってきた。それなら尚更のこと僕のような人間を雇うべきではないと思う。
「素晴らしい職場だということは募集要項を見た時点から思わせて頂いておりました」
「うん。それで、君の志望動機は?」
「人に笑顔を与えたいからです」
 微妙にずれた答えを返してしまったが、構わず話し続けた。同居人以外とでも普通に話せる自分に驚く。長い間の引きこもりと人恋しさは、果たして人間を成長させるのだろうか。
 月並みな質問に対して、面接指南書に書いてありそうな言葉達で応じる。社長は終始笑っていて、表情の変化と言えば時々目を細めるくらいだったから、心情が心底読みにくかった。少しだけ震える。この笑顔の裏で、僕はまだ出来損ないの烙印を押されているんじゃないか、と。
 その度に僕は何度でも同居人を刺し殺す。お前の所為でまたこんなことになったじゃないか、と責め立てる。実際の所、この面接での失敗に同居人がどんな形で関わってきているのかなんかさっぱりわからないというのに。
 一通りの質問が終わった後は、沈黙がやってきた。こういう時に軽い質問や、仕事に関するアピールトークなんかを出来れば良いのかもしれないけれど、生憎僕にそこまでの技量はなかった。
 社長は、どうして僕が突然大学を辞め、今までさしたるバイト歴も無くのうのうと暮らしてきたのかについて尋ねてはこなかった。それを聞く必要はないと判断したのだろう。
 もし尋ねられていたら、僕は何処から話していたのだろう? 同居人と僕が恋人だったところから? 同居人が僕の携帯電話を隠し、母親の死に目に出会えなかったところから? 妹ちゃんから家を追い出され、同居人に半ば償いのような形で同居を持ち掛けられ、その稼ぎで暮らし始めるようになったところから? わからないから、多分僕は尋ねられた瞬間に逃げ出していたに違いない。
 沈黙は毒だと思った。どうしても悪い方向に考えてしまう。今日は木曜日だった。同居人は今日も元気に働いているだろう。僕のいない場所できらきらと楽しそうに働く同居人を想像した。個人的な感情を絡めないで眺める同居人は、やっぱり申し分なく魅力的なのだった。
「さっき君、そこでソフトクリーム食べてたよね」
 僕の中身のない履歴書を指先で弄びながら、社長が不意にそう尋ねてきた。
 どうしてそんなことを言うのだろう、と思いながら僕は頷く。この喫茶店を出て少し行ったところに小さなソフトクリーム屋さんがあって、うっかり注文してしまったのだ。バニラとチョコレートのミックス。
「そのソフトクリームどうだった?」
「普通のソフトクリームでしたね。よくも悪くも平凡です。カラースプレーをかけるなら、もっとかけて欲しいですし。カラースプレーが高いのは僕だって重々理解しているつもりですが、あれじゃ困りますよ」
「実はね、あそこのソフトクリーム屋さんも私がやっている店なんだ」
 自分の笑顔がひきつるのが分かった。いくら社会に出ていないといっても、こういう時にカラースプレーの量に文句をつけるべきではないということはわかる。社長の笑顔は未だに崩れてはいなかったけれど、そこが逆に怖かった。
 僕はようやくコーヒーのカップを手に取った。持ち上げて飲み下す。あまり美味しくもないコーヒーだった。苦い上に薄いので、深みが全くない。でも、何かをコメントする勇気も無かった。ここが社長の経営しているカフェではない保証はどこにも無い。
 社長が、口を開く。
「うん。それじゃあ採用にしよう。早速、来週の火曜日から入ってもらえるかな?」

 こうして僕はめでたく無職からフリーターへと進化したわけだけれど、そのニュースを手放しで楽しそうに報告できる雰囲気でもなかった。僕が面接を済ませて家に帰ると、同居人が呆けた顔で部屋の扉の前に立ち尽くしていたのである。鍵でも失くしたのだろうか、と思った。半分正解で、半分不適切な回答だった。
 僕と同居人は未だにお互いの携帯電話の番号を知らなかった。僕は同居人に隠された携帯電話を捨てて、新しいものに換えていたし、携帯電話を新しくしてからしばらくは同居人に会っていなかった。新しい番号を教える機会も、登録し直す機会もなかった。だから、同居人はこの一大事を僕にいち早く伝えてやることが出来なかったのである。
「それでも、家の中で待っててくれればよかったのに」
「だって、君が気付かないかもしれないって思ったんだよ」
「言えばいいじゃないか」
「そうしたら君は外に出てまで見るのを面倒臭がって放っておいたに違いないからだよ」
「それは言えてる。正解だ。慧眼だ」
 ここまでしたのだから見ないと許さない、と同居人が無言で訴えていたので、大人しく扉の鍵に目を向ける。……うん、壊れている。鍵を差しこむ銀色の丸い部分が丸ごと無い。僕の適当な観察でもわかるくらいにわかりやすく、鍵は壊されていた。
 まるで、壊れた様を見せつけるような壊され方だ。前衛芸術だと言い張ってもいいくらい。この鍵は恐らくもう何の役割も果たさないだろう。鍵の交換にいくらかかるのかはわからないが、きっとそれも同居人が払うのだから僕には関係のないことだけど、犯人に対しての経済的憤りは少しばかり覚えた。でも、それだけだ。
 同居人は壊された扉の鍵を見ながら神妙な顔をしている。僕を待っている間に散々見ていただろうに、僕が来たことで新たな展開が見込めるとでも思っているかのようだ。生憎、僕は名探偵でもなければ犯人でもない。
 同居人はぽつりと呟く。
「とうとう壊されたね。鍵変えないと」
「そうだね。鍵ってそんな簡単に壊れるものなの?」
「ここのアパートの鍵はしょぼかったからね。それに、多分扉の方が損傷がひどいよ」
 僕の実家の鍵よりは数段立派だろうに、とは言わなかった。僕の実家の鍵はまだディンプルキーにもなっていない。
「そうか。何でやられたんだろう」
「バールとかじゃないの? 執拗に壊されてた」
「怖い?」
「執拗だったからね、暴力が」
 同居人はまるで横からそれを眺めていたかのような深刻な表情でそう言った。執拗に破壊された鍵。周りの扉も傷だらけ。誰も見ていなかった。そういえば、このアパートの他の住人というものを今まで僕は意識したことがなかった。とことん、僕の世界には同居人しかいなかった。
「……警察には言ったの?」
「行ったし、言ったよ。でも取り合ってもらえないの。まだ直接的な被害が出たわけじゃないから」
「鍵が壊されてるのに?」
「それだけじゃ弱いんだよ」
 同居人は強い口調でそう言った。
「鍵が壊されてたんでしょ? 何か盗まれたものとかなかったの?」
「私が調べた限りなかった。君こそ、何か盗まれたものあるかもよ。確認しないと」
「僕のノートパソコンあった?」
「あったよ」
「それじゃあ多分大丈夫。僕の持ち物なんてそのくらいだから」
「いや、君のパソコンの中身を抜き取りにきたサイバー泥棒かもしれない」
「中身はポルノ画像と何かよく分からない自己啓発サイトとバイト探し用サイトだけなんだけど」
「往々にしてそういうところから国家機密は漏れているのかもしれない。陰謀が始まっているのかもしれない」
「僕のノートパソコンから始まる陰謀なんかで崩される国家なんてもう転覆した方がマシだろ」
 くだらない話をしている場合でもなかった。盗まれたものが無いというのは客観的に見れば奇妙だし、怖かった。部屋の鍵が壊されたのに何もされていないなんて。それはつまり、部屋の中に欲しいものがなかったということだ。
 あの部屋にあるもので、犯行当時になかったもの。
 それが犯人の目的だと考えた方がいいだろう。
「つまりまあ、君だよね」
「え?」
「最近変わったことない? 誰かに尾行されてる気がするとか、誰かに見られてる気がする、とか。なるべくお薬をキメてない時がいいんだけど」
「生憎私はお薬をキメて満員電車に乗る習慣はないんだけどな」
「それこそ駅までの道程だ。誰かと頻繁に遭遇するな、とか。そういう自意識過剰な案件は何か無いの?」
 同居人は美人である。
 目立つ容姿をしているし、気立ても頭も良くて、お人好した。何度でも言いたいことだけれど、大学時代は僕以外にも随分モテていたのである。
 同居人は魅力的で、人を惹きつける。それが悪い方向に向かってしまう事例を、僕は知らないわけではなかった。ここまで発展したのは流石に初めて見たけれど、エスカレートした愛情が暴力の形を取って僕に突きつけられたこともある。
 あの時はびっくりしたなぁ、と少しばかり懐かしく思った。同居人と同じゼミの男がいきなり拳で殴りかかってきたのだ。僕はそれほど腕っぷしに自信がなかったので、「話せばわかる」と叫び倒し逃げ回っていただけだったけど、同居人は果敢にもその男に平手打ちを喰らわせて、常識人らしく説教をした。
 襲い掛かってきた男は可哀想に泣いていて、最終的にはすごすごと帰っていった。僕はそんなものを見せられて食欲が吹っ飛んでいたというのに、同居人が何事もなかったかのように、これから鰻の美味しい店に行きたいのだと言い出したのも鮮明に覚えている。同居人はそんなことに煩わされたりなんかしないのである。
 度を越した愛情は無理を通して道理も通そうとする。
 度を越した愛情は全ての理由を吹き飛ばして、人間を本能に忠実な生き物にさせる。
 冷静に考えれば、好きな女の子の彼氏を殴り飛ばしたからといって好きな女の子がいきなり「愛してる!」と叫びだすはずはないし、そもそも暴力なんて加えてしまったら一転犯罪者となってしまうのだから、そんな行動に全く意味はないのだ。
 それでもやらせてしまう恋の熱を、僕は恐ろしいと思っていたのだと思う。あの時点から、僕は少しばかり愛情に疎い人間であることを自覚すべきだったのかもしれない。
 もしくは、あそこで同居人をあの男に向かって差し出してやればよかったのだ。同居人を物みたいに扱うのは心苦しくもあるけれど、仮定の話だから許して欲しい。そうすればあの男は惨めに泣くこともなく、同居人は僕みたいな男を居候させることもなく、妹ちゃんは無事に僕に連絡をつけることが出来た。全てが上手くいくような気がする。
 けれど、このパターンで幸せになるのは、もしかすると妹ちゃんだけかもしれない、とも思った。
 それって、どういうことだろう。

「あ!」
 同居人が不意に発した大声によって、僕はどうにもならない仮定の話からようやく戻ってくることが出来た。もしも、という話は僕達にとっては毒なのだと、どれだけ言い聞かせれば覚えられるのだろう。それだけ仮定の話というのは甘いのだ。気を取り直して、同居人に向き直る。
「どうしたの」
「そういえば、二、三日前から帰り道になんだか視線を感じるような気がしてたんだ」
「どうしてそれを早く言わないの」
「言ったら君はどうにかしてくれたの?」
 小首を傾げながら同居人がそう言ったので、僕は黙る。
「そもそも僕より君の方が断然強そうじゃないか」
「か弱い女の子に言うには不適切な台詞だと思うよ」
 そうだろうか。平手で男を打つ同居人。エアガンを持って僕を迎えに来た同居人。妹ちゃんに追い出された僕を待っていた時の得体の知れない恐ろしさを持った同居人などが思い出される。少なくとも、弱そうには見えなかった。
「それなら、それを警察に言った方がいいんじゃないの?」
「でも、何にせよこれでも弱いよ。だって、まだ何の被害も出てないし、私自身に何の危害も加えられてないし」
「鍵が壊されるっていうのは相当だと思うけど」
「だって、まだ私のストーカーが犯人だって決まったわけでもないし」
 同居人は珍しく弱気だった。疑わしきは積極的に罰せという僕の姿勢がもしかすると随分過激派なのかもしれない。社会に生きていくというのは大変なことだ。もっと派手に喚きたてればいいのに。
「私達は自分のことを自分で守らなくちゃいけないんだよ。もしかすると最初のしめじにも重要なヒントが隠されてるのかも」
「しめじにねえ」
「しめじの花言葉が『お前を殺す』とかかもしれないし」
「しめじは花じゃないけど」
「菌言葉とか、あるかもしれないし」
「犯人の特徴とかは覚えてないの? それに用心するだけでも大分変わるでしょう?」
 同居人は一瞬だけ俯いた。そして、指先で空中の何かをなぞる。何かを思い出そうとする時の同居人の癖なのだろうか。同居人は少し考え込んでから、言う。
「背は百七十センチ前後。痩せ形で、黒髪。あんまり特徴とかよくわからなかった。あんまり注意してみてなかったから。でも、強いていうなら」
 同居人が不意に口元を歪める。どういう意図かはわからない。同居人のことは、いつだってよくわからないのである。
「君に似てたよ」
 同居人が小首を傾げた。どうしていいかわからない時の同居人の癖だ。僕も真似して、小首を傾げる。

 昔からドッペルゲンガーというものに妙な関心があった。見たら死ぬと言われているものは案外あるものだけれど、ドッペルゲンガーはそのなかでも異彩を放っているような気がしたのである。死を告げる相手と同じ姿をとるだなんて悪趣味にハイセンスだ。いなくなった後の穴を埋めてくれるのかもしれない、と僕のような人間は薄暗く期待してしまう。
 はてさて。今回の話はドッペルゲンガーと似て非なるものだ。どっちかというと、多分生霊とかそういうものに近い。僕の中のイメージの中で、件のそれがドッペルゲンガーのイメージと可憐に重なるというだけで。
 僕と似た姿のストーカーと聞いた時に、僕は本気で一瞬、それが僕のドッペルゲンガーである可能性を思い描いたのである。ドッペルゲンガーの僕が仕事帰りの同居人の跡をつけていく。同居人が振り返るのを、彼女の視力が怪しくなるぎりぎりの距離から待っている。
 鍵を壊した謎の犯人も、イメージの中では僕と同じ顔をしている。執拗な暴力。理屈に適わない衝動。恋と並んでその衝動を引き起こさせるものとして、憎しみがあげられる。掛け値のない憎しみは、復讐の先に一体何が得られるのかを正確に把握せずに、誰かの手にバールを持たせる……のかもしれない。
 僕はそこまで聞き分けのない憎しみを身体の中で飼っているつもりはなかったのだけれど、もしかすると自分が気付いていなかっただけで、実は僕の憎しみというのは理屈とか未来とかコストパフォーマンスとか、そういうものを一切口にしない傲慢な美食家だったのかもしれない。
 それが、僕の知らない内に僕のドッペルゲンガーを生んで、同居人をじっとりと濡れた目で見ているのだ。
 ドッペルゲンガーは鍵なんかで満足するような奴でもないだろう。ドッペルゲンガーは同居人との距離を詰めていき、いつかはバールで鍵ではなく同居人を執拗に攻撃するかもしれない。同居人はドッペルゲンガーと僕との区別がつかなくて、いつものように柔和な笑みで僕の元に駆けてきて、そしてあっさり殺されてしまう。可哀想なことだ。
 そうして同居人を殺した暁には、ようやく僕を殺す為に僕の目の前に現れてこう告げるのだ。
「大丈夫。お前の仇は討ってやったから。売られた戦場にけりはつけたよ。だからお前は大人しく、僕に任せて死んでしまうといいよ。多分、それがいい」
 バールが振り下ろされる。
 ……なんて、馬鹿馬鹿しい想像だった。ここは現実だ。ファンタジーの世界じゃない。戦場みたいな現実だけれど、好き好んで戦争を受ける人間はそういない。どこもかしこも妥協と諦念で停戦協定を売り買いし、自分の中のショットガンを片隅で錆びさせていく。そういう血生臭い怪物が出てくる余地なんてない。
 そもそも、それじゃあ同居人と心中することになるじゃないか。僕は同居人と死にたくなんかなかった。死ぬなら一人で死んでやりたい。死に際まで同居人と一緒なんて考えただけで眩暈がした。そんなことになったら、今までと何にも変わらない。心中だけは絶対にしてやらない、と頭の中のドッペルゲンガーを押しこめた。
 同居人が見た僕に似ているストーカー、というのもきっと勘違いの産物だろう。生憎僕には目立った特徴がないし、同居人も同居人で顔は広くて社交的な割に、自分の世界は狭いのだ。少し覇気の無い男が背後に居たら、誰だって僕に見えるんじゃないだろうか。嫌な贔屓のされ方である。
 何が起こるわけじゃないのだ、そう思った。僕と同居人の戦場だって未だに停戦協定がしっかりと結ばれている。お互いにそれを無造作に切ってやるつもりなど更々なかった。警察はフィクションの世界のように無能じゃない。これ以上のことがあれば即座に動いて、犯人を逮捕してくれるだろう。僕はともかくとして、同居人はしっかりと税金を納めているのだから。
 そう思っていた。

 同居人があまりに怯えるので、僕は嫌々ながら食材の買い出しに出た。外には出たくないという癖にどうしてもロールキャベツが食べたいと駄々をこねるので、僕は渋々スーパーに行く羽目になった。バイトが決まって、外に出ることに対しての抵抗が薄まっていたのだろう。うっかり、同居人に報いてやることになってしまったのである。
 僕がグレープフルーツ教授と勝手に名付けている初老の男性がスーパーにはいた。僕がスーパーに来る頻度はそう多くないのに、いつも見かけるから、恐らくグレープフルーツ教授は殆ど毎日スーパーにやってきているのだろう。
 今日も教授は五百ミリリットル紙パックに入ったグレープフルーツジュースを片手にスーパーのベンチに向かって確率の講義をしている。
 いつも開店一番に乗り込んでくることで有名な彼の荷物はグレープフルーツジュースと小さな青い鞄だけだ。荷物の軽い彼の職業が教授でないことはよれよれのシャツに合わせられた青いジャージのズボンが証明している気がしたし、周りの買い物客たちはグレープフルーツ教授を大声でわめき散らすただの精神病者としてしか見ていない。
 けれど、僕はグレープフルーツ教授が好きだった。僕はグレープフルーツ教授に負けず劣らずの社会生活不適合者だと思うし、彼の声は嫌いになるには勿体ないくらいとても綺麗だ。それに堂々としている。それに、これはおまけだけれど、グレープフルーツ教授が話し終える瞬間に見せる、切なげな、それでいて満足げな表情は、何だかそこはかとなく尊い。
 でも、今日の彼は単に確率の講義だけをしているわけじゃなかった。彼は、学生時代に野球部に所属していたという雑談をしていた。教授というものは、学生にくだらない雑談や、それに絡めた人生訓を話すのが大好きなのである。彼は何かを懐かしむような顔で言った。
「私はですね。ある大事な試合でね、盗塁をしようか迷ったのですよ。足が遅い癖にね。その時は絶好の盗塁チャンスだったんです。これほどまでに盗塁にうってつけな時なんて訪れないんじゃないかって思うくらいのチャンスです。だから私は走りました。まるで自分が自分じゃないみたいでした。背中に羽が生えたよう、駆け抜ける姿は風のようでした。あれほど、気持ちいい瞬間はあれ以来一度も味わったことがありません」
 グレープフルーツ教授は柔らかな笑顔で講義を形作っていく。夕飯時が迫って、色々な人間が教授のことを忌まわしいもののように無視していく中、僕は教授の話を聞いていた。教授が一瞬言葉を切った。溜息と共に、次の言葉が吐き出される。
「それでもやっぱり私の足は遅くて、全ては錯覚で、私はアウトをとられてしまいました。私はチームメイトや監督から袋叩きです。わかりますか。人は、身の程を知ることが一番重要なのですよ」
 反響した。
 ――「人は、身の程を知ることが一番重要なのですよ」
 僕は、何故か酷く尊いものを見たような気分になった。しめじも針金も暴力も盗撮も悪意も同居人も僕も罪も罰も、全部がその言葉に貫かれたかのようだった。
 ええ、存じ上げていますとも。
 そういうことなんでしょう。
 グレープフルーツ教授は話し終わると、静かに泣き始めた。泣きながら、合間合間にグレープフルーツジュースを啜っている。僕は歩き出した。同居人にロールキャベツを作らなくてはいけなかった。

 そこから来週の火曜日まで、何も起こらなかった。
 来週の火曜日というのは、すなわち僕の新しいアルバイトの出勤日だった。鍵の騒動の後、遅ればせながら無職からフリーターに進化したことを同居人に告げると、同居人はまるでこの世界から戦争が無くなったと聞かされたような、大袈裟な笑顔を浮かべた。テーブルに載ったココアがひっくり返るんじゃないかと思うようなジェスチャーで、大仰に同居人が祝う。
「よかったね。これで君はもう大丈夫だよ」
「今までが大丈夫じゃなかったみたいな言い草だね」
「今までも大丈夫だったけど、更に大丈夫になったんだよ」
「今までもバイトが決まったことはあったじゃん。僕の場合、そこから何日もつかって話になるんだよ。自分で言うには憚られることだけどさ」
 最後にバイトをしたのはいつだったのかは判然としないけれど、三日でやめたことは覚えている。確か、下駄箱の形が気に入らなかったのと、店長に人生は何たるかを説教されたからだ。何を言われたって人生なんてそう変わるものでもないのだということを理解されないのが嫌だったのだと思う。
 同居人はとことんそこまで甘ったれな僕のことを十分知っているはずなのだが、何故か自信ありげに微笑んでいた。今までにあまり見たことがないパターンの笑顔だった。
「今回は大丈夫。私が保証する。そんな気がするの。君もそんな気がするでしょ?」
 そうでもない、と僕は答えた。そんなことはわからない。自分の意志が及ばないところがあるものは怖い。そういうものだ。
 同居人もそのことは十分わかっているはずなのに、頑なに首を振り、大丈夫だと繰り返した。そのまま、女の勘についての見解を尋ねられる。タクシーの列と携帯電話の影を見たので、僕は大人しく、わからない、と答えた。その答えに、同居人は納得なんかできないようだった。
「絶対に成功するよ。大丈夫さ。きっと、何かが起こらない限り、君は真っ当な一日を踏み出すだろうさ」
「……それはどうも」
「感慨深いよ。色々とね」
「それもどうも」
「それでさ、君は幸せ?」
 同居人が囁いた。不適切な言葉を発する時のようだった。
「……じゃあ、君はどうなんだよ。僕がまともになって、幸せなのか」
「私は幸せだと思うよ。君が幸せならね」
 そう言って、同居人は立ち上がってしまった。話を穏便に終わらせる為によく使われる遣り方だ。話が絶妙に噛み合っていないことに対して噛みつくのは不適切なように思えた。だって、傍目から見たら随分健康的な展開なのだし。
「私、凄くロールキャベツが食べたいんだよ。長いものに巻かれたい気分っていうか」
「キャベツは別に長くない」
「それじゃあ、よろしくね」
 同居人は流れる笑顔でそう言った。

 結局のところ、同居人の太鼓判なんて全く当てにならずに僕のフリーター生活は頓挫した。一度も働かずにしての終了だった。今回は僕の気まぐれじゃなく、極めて対外的な要因だったわけだけれど。
 社会で働くにあたって、連絡手段というのは脇に置いておけない大事なものである。だから僕は、携帯電話を持っていた。新しいバイト先にも、僕の携帯電話の番号は当たり前だけれど教えてある。殆どその為のものなのだから当たり前だ。仕事の為。社会生活の為。
 その場合、同居人に番号を教える意味はないような気がしていた。だって、同居人と僕の世界はあの家の中で完結するわけだし、外で連絡を取ることも特にない。
 「今から帰るよ」と星を眺めながら報告したり「君の声が聞きたくなって」とか美しい山間の風景を眺めながら呟いたりしちゃうようなことが僕達に起こることもなさそうだったし。そんなことになったら、もう僕達の生活なんて地獄みたいなものじゃないか。
 それなのにこうなったのは、やはり、同居人と僕の家を襲った謎のテロの所為に他ならない。くだらなくて意味もわからない行為だと思ったけれど、なかなかどうしてこんな微妙な問題にまで切り込んでくるものだ。
「電話番号教えて貰ってもいいかな」
 同居人はおずおずと僕にそう尋ねた。あの時の同居人の顔と言ったら! まるで、清水の舞台から飛び降りる時みたいだった! あそこから飛び降りても死にはしないらしいけれど。正確に言うなら、まるで断られたら死んでしまうんだよ、と主張せんばかりの顔、だろうか。
 一瞬だけ迷った。
「いや、また何かあるかもしれないじゃない? それで、その時に連絡が取れなかったら嫌だな怖いなって……ほら、言い残したいこととか、あるかもしれないし。非常事態だからいいんじゃないかなって」
 その一瞬の間に同居人はぺらぺらとろくでもない理由をつらつらと述べた。死んでしまうかもしれない、だなんて御冗談を。死ぬとしたら同居人ではなく僕の方だ、という確信があった。けれど、同居人の目は切実だった。同居人の最後の言葉を、僕は受け止めきれないんじゃないかと思うような。
 同居人に死ね、と言う勇気はなかった。だから承諾した。そういう気分だった。同居人の最後の言葉を受け止める覚悟を決めたわけじゃなかった。
「……ありがとう」
 もっと派手に喜ぶものかと自惚れていたのだけれど、同居人は極めて静かに、噛み締めるかのようにそう言った。
 同居人は乳白色の石鹸みたいな携帯電話に、久しぶりに僕の電話番号を登録した。そんな洗練された見た目をしている機械に僕の番号を入れるとなんだかいけない化学反応が起きてしまいそうで怖かったけれど、同居人の意向なのだから仕方がない。
 こうして、同居人は僕の電話番号を手に入れた。さしたる価値も無い電話番号だ。同居人はその電話番号を一度だけ読み上げて、それきり黙った。僕の携帯電話に同居人の電話番号は入れなかった。例え今死んでしまうとなっても、同居人に言い残したい言葉なんて一言もなかったからだった。
 正直なところ僕は、まさか同居人から電話がかかってくるなんてことを全く想定していなかったのだけれど、ある意味そうやって高を括っていたのだけれど、その考えはあっさりと裏切られた。
 僕がバイト先の最寄駅に降り立った瞬間に、同居人から電話がかかってきた。
 電話の向こうの同居人は泣いていた。
 会社に行く時に、ボーガンで撃たれたと、同居人は言った。普通に生きてきたのならおよそありえなさそうなシチュエーションを、同居人は嗚咽と一緒に吐きだした。こんな素晴らしい朝に、同居人はボーガンで撃たれてしまったのだ。
「それで、もしかして死にそうなの?」
「そんなことないよ。でも、避けようとしたら足を挫いたの。周りの人が大丈夫ですかって言ってたけど、怖くて逃げ帰ってきたの。私、はっきり犯人の顔を見てやろうと思ったんだけど、逆光で見えなかったの。怖かった。私、殺されちゃうんだね。無残に殺されちゃうんだ」
「落ち着きなよ。死ぬ前に言い残したいことは?」
「死にそうなわけじゃないんだって! 私、もう家から出られないかも。怖いんだ。今も、一人でいるのが怖くて」
「僕みたいなことを言うなよ。立ち位置が被ると色々困ったことになっちゃうだろ」
「ねえ」
 同居人の声が、一瞬だけクリアになった気がした。嗚咽になんか邪魔されないすっきりとした声。シフトの時間は迫っていた。僕は歩きだして、輝かしい社会人としての第一歩を踏みしめなくちゃいけないはずだった。
「帰ってきてくれたりしないかな」
 同居人がそんなことを言ってしまってはおしまいだと思った。僕はそんなものを求める相手じゃない。そもそも求めるべき相手でもない。僕はあくまで同居人の償いを受け止める為に同居人と暮らしているのだから。
 けれど、僕は殆ど考えもせずに電話を切って、出て来たばかりの駅へと戻る。周りの人からすれば、忘れ物でもしたように見えているかもしれない。こういう時はやけに自意識過剰になってしまうから困る。実際は駅員でさえ僕のことを覚えていやしないだろうに。
 同居人がボーガンで撃たれた。転んで足を挫いた。会社を休んだ。
 僕はボーガンで撃たれなかった。真っ直ぐ歩いてここに来た。バイトをバックレた。

 家の最寄駅を出た。朝のキラキラとした太陽が出迎えてくれる。
帰ってきてしまった。そこにどんな背景があれども、シンプルな事実としてそれは存在する。僕はバイトをバックレて、多分クビになるだろう。
 同居人からの着信を受けてからすっかり気が滅入ってしまったので、携帯電話の電源なんかとっくに切ってしまった。
 ボーガンで撃たれたら人は死ぬ。それだけの悪意を同居人は向けられたのだ。僕以外にはさして恨まれる要素も無さそうな同居人だけれど、それでも撃たれた。撃たれてしまって、足を挫いた。
 帰り道ざわついた箇所があったので、ここが同居人が撃たれた現場なのかと覗いてみた。けれど、そこにボーガンの要素は全く無かった。
 どうやら路上全域にケチャップがぶちまけられるという悪趣味な悪戯が起こったらしく、警察やら何やらはそちらにかまけているようだった。ボーガンよりもケチャップ。同居人の事件は話題にすら上っていないようだ。
 僕はケチャップをべちゃべちゃと踏みながら、家へと急いだ。同居人が殺されていたらケチャップよりも注目されていただろうに。ボーガンで撃たれたなんて衝撃的な事件はケチャップよりもぬるいものなのか。答えはイエス。だって、ケチャップの方が面白いし、あれだけ派手だったら新聞に載るかもしれない。
 ケチャップで出来た足跡がすっかり見えなくなるくらいのところで家に着いた。取り替えたばかりの鍵を差しこんで扉を開ける。その音に反応して、部屋の中から同居人の声がした。
「帰ってきてくれたんだ……」
 驚きと安堵と歓びを織り交ぜた素直な声だった。僕はその声を手繰るようにして部屋に入り、何も映っていないテレビの前で、お誂え向きにクッションを抱えている同居人を見つけた。部屋の中には湿布の匂いが充満している。癒しとは程遠そうなツンとした匂いだ。
「……帰って来るって言ったじゃん」
「言う前に切れてたよ、電話。酷いなあ」
 同居人は以外にも穏やかな表情をしていた。どうやら、僕が戻ってきたことで少しのことは黙認される状態になっているらしい。寛容なのはいいことだ。同居人は、そういう生き物なのだ。
「これは立派な事件じゃん。殺されかかってるんだからさ。警察に言った?」
「逃げるのに必死で言ってない。……もし君が帰ってきてくれたら言おうって思ってて……」
 同居人はクッションに顔を埋めながらそう言った。聞き取り辛くて少しだけ苛ついた。右足にこれでもかと言わんばかりに巻かれた包帯が痛々しい。こんなところまで不器用なのか。
「警察が来てたよ」
「えっ」
「でも、どうやら君の事件じゃないみたいだ。路上にケチャップが塗りたくられたとかいう事件が君の事件のすぐ後に起きたみたいで、君の事件のことについてはどうにも話題にもなってなかったみたいなんだ」
「ケチャップ……?」
「適度に悪趣味で適度に面白くて誰も死ななかったし誰も怪我してないから、君の事件よりもエンターテインメント性に溢れてて、皆が好みそうだよね。そんなわけで、君の事件は改めて警察に言わなくちゃいけないんだけど」
「うん……そうだね」
 僕は同居人の元へ歩いていく。僕に見下ろされる形になった同居人が少しだけ怯えの色を見せたのがわかった。例え僕であっても見下ろされるのは怖いのだろうか。それとも、僕だから怖かった? どうでもいいけれど。とりあえず、僕は同居人の抱えていたクッションを取り上げて部屋の隅に放る。同居人は特に何の抵抗も見せずに一連の流れを見ていた。
「でも、思うんだ」
「…………何を?」
「警察に言うのはもう少し待とうかなって」
「……何で?」
「だって、路上がケチャップで塗りたくられてたんだよ。警察はそっちで大忙しじゃないか。だから、少し待とうかなって。だから、もう少し待ってから警察に言おうよ。君は心底怖いだろうし殺されるような目にあったんだからそんな悠長な話は我慢ならないかもしれないけど」
 さて、どうくるか。
 これは十二分に事件だよ、と事件性を主張して可愛らしく頬を膨らませる同居人。本当に心配してるのかと僕を責める同居人。不安で泣き出してしまう同居人。ケチャップの海を見に行こうとする同居人。撃たれたボーガンのことを事細かに僕に説明してみせる同居人。戻ってきて嬉しかった、と生温いことを言いながら微笑んでみせる同居人。
 僕が想像した同居人はそんなところだ。僕が想像した好ましい同居人、と言い換えてもいいかもしれない。
 現実というのは大抵の場合好ましいものを裏切るように出来ているので、僕の想像した同居人は結局何一つ現実に飛び出てきてくれることがなかった。
 同居人は無表情だった。そこには何一つ色が無い。
「……ケチャップの海、見に行く?」
「……ちょっとまだ外に出るのは怖いかな」
「君の赤いハイヒールに似てたんだ、あの赤色。途中まで僕のケチャップの足跡もついてるよ」
「そうなんだ」
「君をボーガンで撃った犯人がケチャップもやったんだと思う?」
「それはないと思う。だって、私以外にやっても意味ないじゃない。私はケチャップの海なんか見てないんだし」
「どうしたって犯人は君狙いみたいだね」
 まるで世界に同居人しかいないみたいだ。
「とりあえず、落ち着いたら。僕だって帰ってきたんだし」
「……そうだね。そうだ、バイト……」
「バックレたけど」
「それ、いけないんじゃないの」
「クビだろうね。クビ。また面接からやり直しだと、次まともに働けるのはいつになるやら」
「私も会社休んでられないね」
「呆れたように言うなよ」
「ううん。でも、これはモチベーションになるから。君との生活を円滑に進める為にも、私は働かないとって」
「モチベーションの和訳の欄に、でかでかと『理由』って載せることに対してはどう思う?」
「私は反対しないと思う」
 同居人が笑った。
 僕も同居人の隣に座る。同居人は微動だにしなかった。そのまま尋ねる。
「ずっと前から聞いてみたかったことがある」
「なーに?」
 同居人は意図的になのか無意識になのか、妙に間延びした声で応じた。さっき、殺されそうになったというのに。怯えていたはずの同居人は僕が来たことで安心しきっているように見えた。見えない悪意からも飛んでくる矢からも、僕なら守ってくれると無邪気に信じ込んでいるのだろうか。やめてくれよ、と思う。これ以上笑えなくなると困る。
「全部僕がやったって告白したらどうする?」
「……何を?」
「しめじに針金、ストーカー行為にボーガン」
 なるべくリズムが良く聞こえるように言ってみた。真面目な空気が苦手なのである。音楽は全てを和らげる効果があるというし、いいかもしれないな、と思ったのである。
「……嘘だよね?」
 微かに笑みを零しながら、同居人が尋ねた。念を押すような言い方をしたのは、これ以上僕が失言を繰り返さないようにする為だろう。生憎そういう配慮は無視するつもりでいる。
「いや、仮定の話だよ。仮定の話」
「仮定の話? じゃあ、本当じゃないってことだよね」
「もしかして、少しは本当なんじゃないかって疑ってる? だから、そこまで過敏に反応してるのかな? まあ、本当かどうかはそれこそ当ててみたらいいんじゃないかな。暇潰しみたいなものだよ」
「探偵役と犯人役を一手に引き受けるなんて贅沢だよ」
「僕は割合欲張りな人間なんだ」
 同居人の頭をおざなりに撫でて、僕は話を続けようとする。その感覚があまりに久しぶりだった所為か、同居人の顔がワントーンだけ明るくなった。それを見てから、僕はまた口を開いた。
「まあ、そういうわけなんだけど」
「でも……それにしても、どうして君がそんなことをするの? そもそも私が一番聞きたいのはどうしてしめじだったのかってことなんだけど」
 それは尤もな話だと思った。僕だって客観的にその話に向き直ったらまずどうしてしめじだったのか聞きたがるだろうし。
 けれど、その答えは教えてあげられない。
「まずはその話は置いておいて、僕が君を襲う二つの理由について話そう」
「二つの理由……?」
「そう。思い当る節はある?」
 同居人が緩く首を振った。嘘を吐くのが下手だというのはいつだって致命的なのだと思い知る。しらばっくれるつもりのようなので、懇切丁寧に教えてあげることにした。同居人の目が、やめてくれと懇願していた。残念、やめない。
「一つ目。僕は試してるんだよ。どこまで君は我慢できるのかって。どこまでなら君は僕を赦せるのかって。それで、ありとあらゆる行為で自分を貶めてやろうと思ってるんだ。どう? その為に君を恐怖に陥れて、あまつさえ殺そうとしてる。一つ目の理由はなかなか複雑でね。僕は君を試すと同時に、それで死んでしまったらそれはそれで構わないと思っているんだ。だからボーガンなんて使ったんだよ。死ぬような目に遭わせて、反応を見る。万一それで死んでしまったら、ゲームはおしまい。僕は復讐を果たす」
 復讐という言葉を同居人に対して使ったのは初めてだ。今まで僕達がやってきた共同生活というものの意味が根本から固定されてしまう魔法の言葉。全ては不幸な事故だった、という暗黙の了解を破り、同居人が自ら背負っていた十字架に自分で登るえげつない行為。
 同居人が浅く息を吐く。過呼吸にならないか心配だったけれど、同居人はそこまでやわじゃないはずだ。
 僕は続ける。
「二つ目。僕は今日君を襲ってバイトをバックレたことで当然バイトをクビになるだろうね。でも、それも計算の内なんだよ。これで僕はフリーターから働く間もなく無職に逆戻り。働くのなんか正直な話面倒だし、しんどいからね。一石二鳥ってわけだ。君は僕を責められないだろ? 何しろ君がどうしてもって言うから戻ってきた僕なんだ。もしかすると罪悪感すら覚えるかもしれないな。君は善良で素敵な人間だから」
 嫌味を言ったわけじゃない。事実を述べただけだ。ボーガンで撃たれた同居人。命の危険があった。一緒に暮らしている相手に何をどうしたって伝えたかった。わかる。同居人だって責められる要素なんて何も無い。
 死にかけるということはそういうことなのだ。
 だから、僕達はお互いに何の咎も背負わずに元の生活に逆戻り出来る。
「君は僕のことを完全に把握してるわけじゃないだろ? 君が仕事に行っている間、一体僕が何をしているか、君は知る由も無いんだ。僕が君の命を狙ってボーガンを構えて駅への道で息を潜めていたとして、君はそれを知らないんだ」
 同居人を殺す。そのことを全く今まで考えたことがないとは言えない。僕の中でやっぱり同居人はよくも悪くも大きな位置を占めている存在だ。同居人を殺してしまえば、嫌でも僕の生活は変化する。僕と同居人が加害者ぶったり被害者ぶったりする必要もなくなるわけだ。そもそも、殺してしまえば僕は完全に殺人犯だ。法に裁いて貰える犯罪者になれる。
「そこで考えて欲しいのはそれからの話だよ。君の今までのスタンスを鑑みて、一つ考えて欲しいことがある」
「……一体何を考えるの? そんな状況で」
「つまり、こういうことだよ。こんな告白をされた後でも、君はそういう人間をまだ赦せる? 一緒に暮らしていける? どうしようもなく落ちぶれたクズな僕でも、庇いたててくれるの?」
 一方的な言葉だった。けれど、今までもずっとこういうパターンだったはずだ。同居人は右手をさすりながら、僕の方を見た。この世に酷いことなんて沢山ある。一体どのレベルまで、同居人は償いだと見做してくれるのだろう?
「まさか、殺されるまでなんて言わないよね。君の背負っている罪なんて殆ど君の自縄自縛みたいなものなわけだ。君が背負い込む癖を持っているとはいえ、そこまでのレベルってわけでもないだろう? でも、時々思うんだ。君はもうとっくに正気を失っていて、あんなささやかな罪で自分を死刑に追い込むまでになってるんじゃないかって。馬鹿は死なないと治らない、狂人は死なないと直らない、さて、君はどうするの?」
 まくしたててしまったことに心の中で謝りながら、同居人を見据える。
 同居人は長い間何も言わなかった。全てが冗談だったと言ってもらえるのを待っているみたいだった。生憎僕にジョークセンスは無いし、僕はそんなことを同居人には言わない。
「復讐」
「うん」
「復讐、って、何」
 同居人がようやく言葉を発した。小さな声だ。
「私は罪なんか背負ってない。罰を受けてるつもりもない」
「へえ」
 思いの外冷たい声が出てしまったことに驚いた。同居人の顔がいつになく真剣で、本心の言葉であると少しでも認められたからこそ、もう少し優しい相槌を打ってやろうと思っていたのに。なんて可哀想なんだろう。同居人は長い間苦しめられ続けて、正しい判断が出来なくなってしまっているのだ。
「私は殺されたって脅かされたって、君と一緒に暮らすよ。でも、罪なんて絶対に背負わない。どうして罰とかいうの? 私は」
 その先に待っている言葉が予想できた気がして、慌てて僕は同居人を制した。
「――待てよ。仮定の話だよ。仮定の話。大丈夫だから、心配しなくても」
 そう。これはあくまで仮定の話だ。同居人が不安に思うことなんて何もない。子供がやる暇潰しみたいなものだ。大人がやる自慰みたいなものだ。
 同居人は不意に正気に戻ったかのような顔をして、僕の顔を見つめた。生まれて初めて僕という人間に出会ったかのようだ。人間関係が更新される時はこういうものなのかもしれない。
「……そうだよね。そうだよ、うん」
 同居人は、何故か自分に言い聞かせるようにして言った。自己暗示。思い込み。それは何かを守る時に往々にして使われる手法だ。
「それより、まともなことを考えないとね。君が犯人のはずがないんだから、そんな話しててもしょうがない。うん、しょうがないんだよ」
 そう言いながらも、同居人は何だかとても怯えているように見えた。そんな反応はずるい、と思う。こっちまで色々と意識してしまうじゃないか。まるで、気にしないで、と言いながら上目遣いで睫毛を震わせてくる女の子みたい。何かを訴えたいなら言葉か暴力のどちらを用いらないと。
「撃たれた記念にココアいれてあげようか」
「本当? 鍋で煮る奴?」
「そうだよ」
 同居人は壊滅的に料理が下手なので、純ココアとミルクココアの粉の違いすら分からない。その癖大量にまとめ買いをするものだから、家には大量の純ココアが貯蔵されている。砂糖を入れて鍋で煮ないと美味しいココアにならない純ココアは、同居人には作れない。同居人はココアが大好きだというのに。
 ココアの粉を適当に入れて、砂糖を混ぜて練り込む。本来の作り方はよく知らない。けれど、僕が作ればそれなりに美味しく出来るので気にしない。鍋の中で黒色が渦巻く。
「何だろう。なんだか優しいね」
「ココア作ってやるくらいで優しいって言われるのも何だか複雑だけどね」
「優しいよ」
 匂いが過度に甘い。砂糖を入れ過ぎたかもしれない。
「私はずっと、優しいなって思ってたよ」
 携帯電話も土下座も屈辱もなかったかのようにそう言った。
「そうでもないよ」
「いや、私はずっと」
「そういうのいいから」
「……いや、真面目な話ね」
「そうだね、真面目な話か」
「真面目な話なんだけど、いい?」
「うん」
「それでさ、君はいつまでこんなことやるの?」
 唐突な僕の言葉に、同居人の目が少しだけ大きくなる。元から大きな目をしているのだから、そんなことをしても少しも驚いているように見えないのが、同居人の数少ない欠点の一つだ。
「ココアは多分、ずっと好きだよ。何か一つ飲み物を選んでそれとセックスしなさいって言われたら、ココアを選ぶと思う」
「それじゃなくてさ」
 僕はグレープフルーツ教授の言葉に従っただけである。身の程を知ってやろうと思っただけだ。だからもう、全てを終わらせようとしている。身の程を知らない人間は必ず破滅する。僕は大分落ちぶれているけれど、破滅したくはないのだ。そして、同居人にも出来ればそんなことにはなって欲しくない。
「もしかして、死のうとか思ってないよね」
「……何の話?」
「償うのに疲れたから、もう後は地獄で閻魔様に委ねようってこと? やめなよ。きっと君は天国に行っちゃうよ。絶対にそうだ」
 神様から沢山の贈り物を貰っている君だから。自殺は罪だとか無粋なことを言う人間もいるかもしれないけれど、彼女はちゃんと架空のストーカーまで犯人役に用意してくれたじゃないか。セーフに決まっている。
「そんなにつらいならどこかでピリオドを打っておけばよかったのに。僕は別に怒りはしないよ。というか、君に怒ったことなんてそんなにない。お雑煮に小豆をぶち込んだ時は流石に雑煮と共に腸まで煮えくり返ったけどね」
「ごめんね、私よくわかんない」
「嘘吐き」
「嘘じゃない!」
 同居人が声を荒げた。怯んではやらない。嘘じゃないというのは本当だろう。でも、その言葉が向けられる対象が違う。
 火を止めて、僕はココアを煮詰めるのをやめる。ココアが固まってしまいそうだけれど仕方が無かった。本当はココアでも飲ませながらゆっくりと、それこそ解くように話を聞こうと思っていたのだ。けれど、こういうのもやはりタイミングの問題だから仕方がないのだろう。
 もうココアなんか期待出来ない展開になってしまったことを、同居人も察したのだろう。声を荒げて三秒後、同居人の眉がへたりと下がった。困ったような笑顔。本気で困っているのか、殊勝な顔をしていれば赦してもらえるとでも思っているのかいまいち判別がつかなかった。
「なんていうかさ、お粗末な物語だとは思うよ。何せ僕の世界には君くらいしかいないんだからさ」
「ミステリーにあるまじき狭さだったよね。私はこれをミステリーだとはこれっぽっちも思ってないけど」
 それなら何だと思っていたのだろうか。僕達の関係はある意味サスペンスだったし、生ゴミ以下に成り下がった僕の姿は十二分にホラーだった。二人共が大変に不器用で生々しいから、ドキュメンタリーもアリなのかもしれない。僕は同居人に微笑みかける。牽制の笑みだ。まさかお前、恋物語をここに当てはめようとしているんじゃあるまいな?
 同居人はまた困ったような顔をする。悪戯がバレた時のようだ。同居人が仕掛けることはいつだって冗談では済まない代物だけれど、そう思った。
「なんだったのあれ」
「大きく括って考えてよ」
「それでもよくわからない」
 同居人は少し考えるような素振りをみせてから、丁寧に言った。
「なんていうかね、君と同じ位置まで行こうと思ったんだよ」
「へえ、それって上昇? 下降?」
「平行移動」
「そうくるか」
「君と同じ位置にまでいけば、君がもう離れなくても大丈夫だって、こんな人間なら利用したって構わないって思ってくれるんじゃないかと思ったんだ」
「それでしめじにピッキング? いやいや大きく括れ、なんだっけ?……犯罪行為?」
 同居人は頷く。ああ、可愛らし過ぎて吐きそうだ。同居人は僕が同居人のことを、罪悪感だけで縛れるような人間じゃないと思っていると、殊勝に思っていたらしい。いやはや、同居人だってこれで自分なりに考えたに違いない。努力の跡が透けて見えるかのようだ。
 同居人だって恐らくはもう限界だったのだろう。それで、僕と同居人の間に何かを起こしてやろうと思ったに違いない。何かが起きなければ物語は進まない。僕らは永遠に停滞している。もう何処にも進めやしないのだ。可哀想な僕の同居人! その変化が、僕の就職だけじゃ、駄目だったんだろうか。
「でも、あれでしょう。君は優しいから他人を傷つけたり迷惑をかけたり出来なかったわけでしょう。それで、自分の家の前にしめじやら針金をぶちまけて、自分の家の鍵をぶち壊した。非実在のストーカー野郎の行為をエスカレートさせて、最後にはどうするつもりだった?」
 良識的に考えたら全く意味が分からないけれど、同居人とずっと一緒に居た僕なら容易にわかる。結局のところ、同居人が傷つけられるのなんて僕くらいなのだ。この家は同居人の家であり、僕の家でもある。ざまあみろ、と思う。同居人の悪意は、僕を傷つけることしか出来ないのだ。
 同居人はしおらしく僕のことを見つめている。殊勝なことじゃないか。
「ということは、僕は君の中で犯罪者並ってわけだね。わからなくもないんだけど」
「そうじゃないの。……そうじゃないんだけど」
「要するに、お前はクズとしてのレッテルが欲しかったんでしょう。でも、あまりに真っ当に生き過ぎてて、こんなことになっちゃったんだ」
「随分勝手なことを言うんだね」
「そこまでして、まだまだやり直せる素敵な君が僕と釣り合うような残念な何かに落ちぶれたい理由って何よ?」
 同居人は大きな目を瞬かせる。同居人の瞳の中に、月並みな比喩だけれど星が見えた。キラキラと輝いていて、生憎僕には眩しくて疎ましい。
 愛とか恋とか、そういうのはもううんざりなのである。だって、同居人は僕じゃなくたって十二分に幸せになれるような人間なのだ。それが、僕じゃなくちゃいけない理由なんてない。彼女は結局、妥協や罪の意識で僕と暮らしていると思われることに耐えられなかったのである。誰に? 他ならぬ、僕と自分にだ。だから、いけないと思うようなことをしたのだろう。僕は初めて同居人を残念な奴だと思ったし、心の底から哀れんでいる。……だって、愛とか恋とか共同生活って、そういうことじゃないだろう?
「どうしたらいいかわからないんだよ」
 いつの間にか同居人は泣いていた。彼女が最初に狙っていたのが吊り橋効果なのか、はたまた自分を僕に釣り合うような何かに貶めることなのかはわからないが、同居人は貪欲なのである。どちらだって欲しくて堪らなかったはずだ。
「私は料理が出来ないからさ、茸って焼いてバターと醤油でどうにかすれば大抵美味しいんでしょ? だから、そのくらいならまだどうにかなるかなって。安かったしめじを買って家に帰ろうとして、でも、その途中で、何だろうね、何かに憑りつかれた」
 そうして、君はしめじをぶちまける。おかずになるはずだったものだ。そうして針金をぶちまけて、暴力をぶちまけて、……案外会話の糸口が欲しかっただけじゃないの? と僕は邪推する。いつだって同居人は、何かに追われて僕と一緒に居ることに必死だ。
 何か、なんてもう濁せない。罪悪感である。罪悪感。もう何が何だかわからなくなったそれだけが、僕と同居人を繋いでくれている。それが無ければ、同居人と僕なんかはもう絶対に一緒になんかいない。
 そんな関係は不健全だと思っている。
 間違っているのは同居人の方だ。
「一緒に居ちゃ駄目かな。私と君が同居人でいるのは、そんなに駄目かな」
「駄目だね!」
 即答する僕に、同居人が微かに笑った。その笑顔は何処か諦めているのに完璧だ。同居人はこれからも、落ちぶれる為の行為に余念を許さない。非生産的でどうしようもないことを続けるだろう。僕はわかっている。同居人にとって、僕を愛すること以上にどうしようもなく残念な何かなんてありはしないのだ。
「ねえ、駄目でもいいよ」
 同居人が僕の背中に手を回した。屈辱的なことのはずだ。惚れた方が負けだけれど、お互いにどうしたって可哀想なお話だ。愛しさは腐り果てている。ぶちまけて欲しいのは本音ではなく建前で、きっと同居人は解放されたがっている。本当はもうやめたがっているはずなのに。
「私のこと、どう思ってる?」
「大変遺憾に思ってる」
「……上手いこと言ったつもりになってるかもしれないけど」
「ちっとも上手いこと言ったつもりになんかなってないから勘弁してくれよ」
 僕はやっぱり死んでおくべきだったよな、と過去の自分を責めている。妹ちゃんに家から追い出されたあの日に凍死しておくべきだったと思っている。同居人は音信不通になってあげていた間に僕のことを切り離しておくべきだったと今でも思っている。
 あのささやかな偶然がなければ、僕達はこんなことにはなっていなかっただろう。そして、もしかしたらお互い別れて別の道を歩んでいたかもしれない。この同居が始まったのも、あの偶然がきっかけだとしたら? 同居人の監視が始まったのは、あれをきっかけとして僕が同居人との連絡手段を絶ったからだ。
 同居人は今も罪悪感に苦しんでいる。その所為で、僕から離れられないでいる。この膠着状態を破らなくては。その為に、ああ、簡単なことだ。僕が言うべき言葉はたった一つ。
「赦してあげるよ」
 同居人が真っ直ぐに僕を見る。
「だから、もういいんだよ」
 もう僕と暮らす必要なんかないんだよ。
 これはそういう意味だ。
 終わりの言葉はいつだってシンプルなものでなくては。
「君は世界が狭いよ」
「それ、インドア無職に言う台詞じゃないよ」
 同居人は未だに泣いていた。ずっと望んでいたものが手に入ったはずだ。全ての魔法は解けて、同居人の異常なまでの執着だって空中に消える。隠された携帯電話なんてどこにも無かった。そうしたら、同居人は笑えるはずだ。
「わかってないね。もうそんなの、どうでもいいんだよ」
 同居人は静かに言った。
 どういうことか、一瞬わからなかった。
 けれど、遅れて理解する。何せ僕はずっと同居人の傍にいたのだから。
 手遅れだったのだ。同居人は頭のネジが外れて砕けてしまっている。砕けたそれを、そのまま飲み下してしまったのだ。
 同居人の罹っている病気はどこまでも普遍的でありながら、恐ろしい程性質が悪く、それでいて僕が全く好ましいと思っていない結末を運んでくる。
 同居人は泣きながら、ようやく笑顔を見せた。
「一緒に暮らそうと必死なのも、何処かに行こうと持ちかけるのも、君がどれだけ社会に上手く馴染めなくても私だけはそれを赦してあげるんだと思ってるのも、君がどんなに私を憎んでいようとそんなことはどうでもいいことなんだって思うのも、愛だよ。恋だよ。そういうものだよ」
 同居人の手が自分のブラウスのボタンを外していく。
「わかってたはずでしょ。私はずっとずっと大好きだったんだから。私達は少しのタイミングの違いで恋人じゃなくなってしまったかもしれないけど、そんなことはもう心配ないんだよ。だって、私は償わなくちゃいけないんだから。君がもう私を好きじゃなくても、一緒に居るしかないんだよ」
 そこでようやく気が付く。もう少し早く許してあげるべきだった。
 戦場を売ったのは僕。買ったのは人でなしの同居人の方だった。
「僕は絶対に赦さないからな」
「うん、いいの。それでいい」
 同居人の細い肩が露わになった。白い肌。唇まで多分白い。大丈夫だよ。好きだから赦してあげる。大丈夫。好きだから。私には責任があるから。何をしたって一緒にいられるから。大丈夫。
 最初から最後までそうだったのかもしれない。僕は頭がおかしいくらい僕のことを愛している同居人に囲われて、可哀想に。逃げられないね。
 もう全てがどうでもよかった。僕は結局まともな仕事につけなかったのだから。アルバイトなんてもう関係ないよ。だから、大丈夫。
「諦めろよ、私のこと、心配だったんだろ?」
「調子に乗んなよ、絶対に赦さねえからなクソ女」
「あはは、ありがとう」
 同居人の細く長い舌が僕の首筋を舐めた。全てを赦されている気分になって、それだけで射精しそうになる。同居人の爪がいつの間にか長く鋭く伸びていた。この爪で柔らかい部分を触られたら、きっと肉が抉れてしまうだろう。
「私達はそれでいい」
 同居人の手が僕の服にかかる。気に食わないものだと言わんばかりにその手が服の裾を丸め込んだ。ラフな灰色のTシャツ。脱がせるには、少し手間取るし、僕が手を挙げてやらなくちゃ脱げない服だ。
 同居人の涙がぼたぼたと灰色の生地に黒い染みを作っていく。雨みたいだ、と思う。悲しかったね。辛かったんだね。
 簡単なことだというのに、どうして同居人は言葉に出来なかったのだろう。同居人は僕が真っ当に働き始めることなんて、全然嬉しくなかっただけなのだ。
「景ちゃん」
 同居人の声が響く。
 安心する声だった。

 初めて同居人の隣で眠った夜、夢を見た。
「結局お兄ちゃんは私のことより同居人さんのことを優先するんだ。同居人さんはお母さんの仇なのに。同居人さんがお母さんを殺したも同然だよ。親子の愛って強いんだよ。もしあそこでお兄ちゃんがお母さんのところに駆けつけてくれたなら、お母さんは助かったかもしれないよ。うん、そうだ。絶対にそうだ。だって、お母さんはとても善良な人間だったんだから。お母さんが選ばれないなんてことがあるはずなかったんだから。死にそうだったタクシーの運転手さんなんてあそこで死ぬべきだったんだ。お母さんは助かるべきだった。だって、奇跡は善良な人間にもたらされるものだと思うから! 同居人さんの気まぐれさえなければ、神様はきっとお母さんを助けてくれるはずだったんだ。それなのに同居人さんは……同居人さんが、あんなことをするからいけなかったんだ。私、知ってるよ。お兄ちゃんは何も悪くないんだって。何にも悪くないんだって。お兄ちゃんが毎日惨めに暮らしてるのは、悲惨なトラウマの所為でしかないんだって。だからお兄ちゃんは何にも悪くないんだって。でもね、私、お兄ちゃんのこと赦せなくなっちゃったんだよね。ごめんね。だからお兄ちゃんは無条件に赦してくれる同居人さんのところに行っちゃったんだよね、ごめんね。でも、わたしやっぱりお兄ちゃんのこと赦せない。裏切り者。死んじゃえ。死んじゃえ」
 妹ちゃんはそんな殊勝なことを言わない。もっと直接的な、暴力という名前の肉体言語でコミュニケーションをはかってくる。今度妹ちゃんに会う時は、僕が殺される時だ。言葉なんかより包丁で僕を刺すことを選ぶはずだ。そこで気が付いた。
 夢の中の妹ちゃんは、それきり口を開かなかった。どうやら僕の言葉を待っているらしい。夢の舞台は母親と妹ちゃんと僕が暮らしていたあの家だった。けれど、包丁とかナイフとか、そういうおよそ物騒なものは何処にも無い。
「大学辞めてごめんね」
「どうしてそこで謝るの」
「妹ちゃんが一番怒ってたのはそこだと思ってたから」
「なら、どうしてそんなことしたの」
「……正直な話、よくわからない。妹ちゃんはどう思う?」
「さあ。わからないから怒ってるんだよ。同居人さんに大学内で絶対に会いたくなかったからかもしれないじゃない」
「妹ちゃんは同居人が嫌いなんだね」
「大嫌いだよ」
 妹ちゃんは素直に言った。同居人からはもう失われてしまった素直さだった。妹ちゃんは僕から取り残されて、今は順調に大学に通っているのだろうか?
「私は」
「うん」
「愛とか恋とか、そういうのだから同居人さんと一緒に居るとか、そういうの絶対に赦さないから」
 妹ちゃんも泣いていた。泣き顔は同居人に似ていた。僕の脳内の女性の顔のレパートリーが少なすぎる所為だろう。ずっと一緒に居たはずの妹ちゃんの顔も、同居人に浸食されてしまっている。これも同居人の思い通りなのかもしれない。
「赦さなくて良いよ」
「良いとか悪いとかじゃないの。私は赦さないって言ってるの」
 妹ちゃんが心の底から憎らしげに言った。妹ちゃんらしくない。もう妹ちゃんの振りをすることもやめてしまうつもりらしい。それでいい。それでこそ。
「赦さないから」
 これから、こういう夢とは長い付き合いになるのだろうと、薄ら寒く確信した。夢の中で姿だけを借りて、僕は妹ちゃんを凌辱する。僕は一生ここから抜け出せない。妹ちゃんに会うことも、多分もう二度とないのだろう。
 僕は繰り返す。同居人に似た顔の妹ちゃんに向かって、同居人のような口調で言う。
「僕を赦すのは同居人だけでいいんだよ」
 僕の言葉が終わるか終らないかのあたりで、妹ちゃんが僕を刺し殺した。凶器なんてどこにもないのに。
 僕の傷口から流れるのは安っぽくもキュートな電子音だった。そのメロディには聞き覚えがあった。

 携帯電話のアラームで起こされるなんて久しぶりだった。
 鳴っているのは同居人の携帯電話だろう。同居人が隣に寝ている所為で、同居人の目覚まし時計に僕まで巻き込まれてしまった。当の同居人はアラームに気付かずにまだ眠っている。頬に刻まれたのは涙の流れた赤い痕、髪に乾いた精液が散っていた。どんな気持ちで、同居人はその口を離したんだろうか。
 携帯電話のアラームは美しく響くカノンだ。
 どうして携帯電話の初期アラームの中にカノンは必ずと言っていいほど紛れ込んでいるのだろう。美しい音楽なら、誰かを不躾に呼び立てても構わないと思っているのかもしれない。不遜な考えだ。
 僕はセキュリティロックなんか掛かっていない同居人の携帯電話を手に取り、アラームを勝手に切った。スヌーズ機能もしっかり切って、まだ微睡んでいるままの同居人をもう起こさないようにしてやった。
 そし、朝のコーヒーを淹れるついでに、僕は乳白色をした同居人の携帯電話を、ゴミ箱の中に放り込んだ。鈍い音がする。
 おやすみなさい。

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COMMENT

- 蚊取り線香

前作にコメントした者です。まさかこんなに早く更新して頂けるとは思わず、なんだか恐縮です。二人の結末を見届けることが出来たことをすごく幸せに思います。本当にありがとうございました。体感で三年くらい寿命が延びたと思います。

2017.07.22(Sat) 19:07 | URL

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