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売られる戦場買う人でなし3


 そういえば、長らく僕は同居人の仕事を知らなかった。同居人が就職活動をしているのを見る前に僕は大学を辞めてしまったし、同居人に関することで僕にとって大事なことは、同居人が家賃を払うに足る収入を得ているかどうかだけだったので、聞かなかった。僕が無職だからとかいうことでは断じて無い。単に興味がなかった。ふわふわとした関係でいいと思いながら、むしろそうじゃなくちゃいけないと思いながら、ただただ同居生活を送っていた。
 こういった関係は対外的には奇妙なものに思えるようで、しばしば社会からは勝手なレッテルを貼られる場合がある。例えば、こういったことがあった。

「はい」
 思わず手に取った電話は重かった。同居人が同居人になって三ヶ月ほど、元気に毎日を怠惰怠惰で過ごしていた時期の話である。生活ペースは完全に社会生活不適合者のそれなのに、いかんせん鳴り続ける電話を無視できるほど僕は俗世間から離れられていなかったのだ。
 三ヶ月という微妙な案配の時期も悪かったかもしれない。魔のマジックナンバースリー。同居人と暮らし始めてから一月の間は息すらするのが辛かった。二月目は苦しんでいたのが嘘のように慣れて、少しだけ安らいだ。三ヶ月目は退屈だった。何もする気が起きなくて、何もしなくても許されてしまう時期。
 それはまあ、電話くらい取るよなぁ、と。
 電話の向こうの声ははきはきとした声で同居人の名前を呼んだ。沈黙する僕に耐えかねたのか、同居人ですか? と二度聞き返す。社会にちゃんと適応している人間の声だった。聞きやすいし堂々としている。対する僕の声は、いきなり野に放たれた猫の子のような可哀想な声だった。小さく震える声で返す。
「え、あの、い、違います。人違いです」
「え、あの、どなたですか?」
「え、いや、どなたですか?」
 思わず同じ言葉を返してしまった。相手が一気に訝しげになる。まずい雰囲気だった。目当ての同居人の代わりに出てきた男がこんな様子じゃ、怪しいにも程がある。取り繕うように僕は言葉を続けた。
「ぼ、僕は彼女の同居人で・・・・・・」
「同居人!? 旦那さんいたんだ・・・・・・いや、彼氏、ですかね?」
 相手の声が一気に興味と好色に満ちたものになる。あ、まずい、と思った。慌てて方向を修正する。
「あの、違うんです。僕と彼女は何の関係もなくて、えっと、本当は、あ、でも同居、同居してるんですけど」
「・・・・・・はあ、それは」
「違うんです! あっ、あう、あ、の人と僕は無関係で! 無関係で! 同居はしてて! あっ」
「・・・・・・あの、失礼ですけど貴方本当に彼女のーー」
 ガチャンと派手な音を立てて、子機を本体に向かって投げつける。ちゃんと切れたかは怪しいけれど、子機がツーツー可哀想な音を立てているので、とりあえず通話は終了出来たのだろう。ほっとしながらも、体の震えが止まらなかった。
 そのまま僕は布団に籠もり、震えてる間に気持ちよくなってきて寝た。同居人がスーパーの総菜を買って帰ってくるまで、僕はそのままずっと寝こけていた。
 夕御飯の席で、同居人は電話機を背に笑って言った。
「出なくてよかったのに。留守番契約してるよ?」
「出たくて出たわけじゃない。電話が鳴ってると、気になるだろ」
 僕は何の気無しにそう言ったのだが、同居人は顔を強ばらせて、「うん、そうだよね。そうだね。ごめん」と、やたら申し訳なさそうな顔をして頷いた。同居を始めて三ヶ月しか経っていなかった。「連絡」「電話」というキーワードで無闇やたらに反応してしまったのだろう。それを見て、僕の方もどうしていいのかわからなくなった。ここに来ることになった経緯を思い出して、少し義務的に顔を歪ませてやる。同居人は更に萎縮して、もう一度「ごめんね」と呟いた。心の内でこっそり呟く。何の儀式だよ。
「というか、電話大丈夫だったの? 妙な風に思われたとか、僕からの怪しい電話の所為で仕事クビになりそうとかないの?」
「あはは、君を元気に養って行くた為にもクビになるわけにはいかないしね」
 それはもう本当に。切実な話だった。今の僕には収入がない。行く場所もない。電話を受けたことをもう一度改めて後悔する。
「大丈夫だよ。そこまで変なことにならなかった。寝ぼけてたんだって言い切ったら大抵のことは何とかなるもんなんだよね」
「僕のことはどう説明した? 同居人?」
 僕は必死に同居人の同居人であることを主張し続けたけど、信じてもらえたかは怪しい。下手したら通報されていたかもしれない。
「何で?」
「いや、知らない男が君の部屋にいて、電話にまで出たらおかしいだろ。不審に思うだろ。どうやら君は随分慕われてるみたいだし・・・・・・」
「別に不審に思われてないよ」
「思うに決まってるだろ! 僕は恋人じゃないって異常に過剰な反応返しちゃったんだぞ!」
「いやそれも大丈夫」
「どうしたんだよ!」
 まさか、トチ狂って恋人だなんて紹介されてないだろうな。と、僕は背筋が薄ら寒くなる。もう一生社会復帰出出来る気がしないからどうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど、・・・・・・なんだろう、ぞっとしない。
 けれど、同居人はあっさりと言った。
「弟だって紹介しておいた」
「弟」
「自然でしょ。寝ぼけた弟がお姉ちゃんの仕事の電話に出たの」
「・・・・・・勝手に血を繋げるなよ」
「いいじゃん、自然なんだし。本当はそういう関係じゃないといけないんだよね」
 同居人の指摘はごもっともだった。
「人はね、名前の付けられない関係のことを見落としがちなんだよ」
 同居人は何でも知った風に笑った。三ヶ月目の余裕だった。もしくは、諦め?
 それから更に九ヶ月が経ち、加えて更に少し経って冬が深まり、僕と同居人は未だに人に説明しづらい生活を送っている。名前のない関係は見落とされがちで、今日も日々の隙間に挟み込まれている。僕は未だに無職のままだ。

 そうして迎えた何でも無い日の休日。
「お腹が空いたんだよね」
 同居人がエンターテインメント性に欠けた呟きをした。生憎、つまらない発言に付き合ってやる程度には暇だった。
「そうか。僕もだよ。ご飯は炊けてる?」
「炊けてる」
「そうか。それを食べよう」
「もういい加減文明的な食事をしたいんだよ」
 それなら外食をしろ、と言いたかったけれど、黙っていた。同居人は僕と食事をすることに対して心底抵抗があるらしい。理由は簡単、僕は同居人と一緒じゃないとろくに食事を摂らないからだ。
「何か買ってくれば?」
「外に出るには化粧したりとか、髪セットしたりとか色々あるからね。私は凄くお腹が空いてるから、そんな体力が無いんだよ」
「困ったことになったね」
 同居人の言外の主張はわかっている。お腹が空いて、なおかつ白米だけでは我慢が出来ない。でも外に何かを買いに行く気にもなれない。だから、早く台所に立って、何かを作れ。同居人はそう言っているのだ。言葉を介さないコミュニケーションを身につけてしまったことが少し悲しい。これだけ長く一緒にいるのだから仕方がないのかもしれないけれど。その時間の長さすら悲しい。
「……作らないよ」
「えっ」
「意外そうな顔をするなよ。なんか作る気になれないんだ。確かにお腹は空いてるけど、僕は家政夫ってわけじゃないんだ。気が向いた時に料理するけど、気が向かない時には絶対にしない、単なる無職」
「やだやだお腹すいたよ」
「それじゃあ、今日は君が作るといいよ」
 僕はなるべく優しげな口調でそう言った。突き放した口調で言ってしまえば、昼食は更に遠くなってしまうだろうからだ。まるで子供に実験を促すように。大事なのは強制させるような口調にならないようにすることだ。
 同居人は大きな目をくるくるぱちぱちとさせて、僕の言葉の裏を探ってやろうとしていた。裏も何も。面倒臭いという気持ちの純度は高い。
「だって、私は包丁で全てを終わらせるような存在だよ」
「達人っていうのは一つの物事だけで全てを語る存在だっていうよ」
「玉葱を水に晒すことすら知らなかったのに?」
「それはこの間覚えたじゃないか」
 同居人は自分の壊滅的なまでの料理の才能をちゃんと自覚している。自分の能力を見誤る僕のような存在とは違うのだ。素晴らしい。人間、少しは自省的にならないと。
「大体お腹がすいたら僕に頼むだなんて、いつか僕がいなくなったらどうするんですか、お嬢さん」
 至極真っ当な僕の言葉に、同居人の目が丸くなった。先日の真夜中の話を思い出す。今日の同居人はエアガンを持ってない。
「いなくなるの? いつ?」
「いや、今すぐって話じゃなくて、仮定の話。だから、この前みたいなことはしなくてもいいんだよ。うん、そう、仮定の話。僕がいなくなって、料理が出来る人がいなくなって、君が化粧とかして外に買い物に出ることが死ぬほど億劫になっちゃったらどうするのかなって。死んじゃうよ」
「でも……」
「大丈夫。見ててあげるから」
 僕の言葉があまりに優しいことに同居人は心底驚いたらしい。
 僕なんかに見られていたからといって何の御加護も期待できないというのに、同居人は何故だか嬉しそうに頬を緩め、「それじゃあやってみようかな」と行った。同居人のスイッチはよくわからない。
 そういうわけで、化粧や髪のセットが億劫になる程度には空腹だったはずなのに、同居人はまんまと僕の提案に乗った。
「何か食べられないものある? 思えば私ってあんまり君の食べ物の好き嫌いについて知らないからさ。好きなものって言われても、ココアくらいしか思いつかないくらい」
「言っとくけどそれはお前の好物だ」
「そうか……。やっぱり何にも知らないんだよね。いけないよね。ねえ、君は三人のパンケーキ職人の話を知ってる?」
「聞いたことないね」
「ある王国に三人のパンケーキ職人がいたんだ。一人目のパンケーキ職人は、王様に生クリームの載ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。二人目のパンケーキ職人は、考えた末チョコレートをふんだんに使ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。三人目のパンケーキ職人は青ざめながら必死で考えてさ、結局何もトッピングを施さないまんまのパンケーキを王様に献上したんだ。でも、彼もまた、首を刎ねられてしまった。そう、王様は実はパンケーキ自体が大っ嫌いなのでした! そういう話」
 同居人はジェスチャーを交えながら表情豊かに世界理不尽残酷物語を語った。現代文の成績は悪くなかったはずなのに、言っていることがさっぱりわからない。作者の気持ちを答えさせたいなら、選択肢を作って欲しい。
 僕は大人しく同居人に尋ねた。
「つまり、その話の教訓は?」
「相手への理解というものは心底大切。ちなみに、三人のアップルパイ職人の話っていうのもあるんだけど、聞きたい?」
「いや、いい。何となく予想がつく」
「残念だな。こっちは裏切りと愛に満ちたスペクタクル巨編なのに」
 その言葉に少しだけ後悔をそそられつつも、僕は黙った。同居人が名残惜しそうに僕のことを二、三回見て、台所に向かう。冷蔵庫の中から取り出される食材からは、一体何を作ろうとしているのか全く見当がつかなかった。トマトに、大根に、セロリに、人参。まあ、煮込めばきっと食べられるもの達だ。
 同居人の後ろ姿はとても可愛らしい。華奢なのに、すっと背筋が綺麗に伸びているから実際よりも背が高く見えるのもいいと思う。何処から取り出してきたのかわからないエプロンも、ばっちり似合っていた。
 こういう同居人の姿を見て、心の動かされる人もいるかもしれない。理想の相手だと夢見る人間もいるかもしれない。だって、後ろ姿だけなら本当に完璧だった。例え同居人が切ったトマトを丸ごと床に落とし、驚いた拍子にそれを無慈悲に踏みつけてしまうくらいの手際の悪さを誇っていたとしても。
 どうしてそこまで台所で右往左往してしまうのかがさっぱりわからなかった。そもそも、『切ったトマト』なんてお世辞めいた言い方をしたけれど、同居人の手によってカットされたトマトは皮一枚で繋がっていた。切れてない。同居人の素足に、赤い汁が滴る。同居人は途方に暮れた顔をして、結局そのままにした。どうしてそのままにしてしまうんだ?
 同居人の綺麗な手が、何を思ったか残ったトマトを鍋に入れた。トマトは生でも食べられるのに、と言う前に、鍋が火にかけられる。水分量の多いトマトがはぜる音がした。同居人が焦って、何かを切る。鍋に入れる。油を足す。このタイミングで肉を入れる。その間に踏み潰された食材は数知れずだ。
 控えめに言っても、地獄絵図だった。
 絶望的な調理風景を見ながら、少し心配になってしまう。同居人はこのままでまともにお嫁に行けたり、まともな誰かとまともな生活を送ることは出来るんだろうか。見た目も社会的地位もハイスペックなら、案外大丈夫なのかもしれない。世の中の価値基準はとても複雑な物差しで出来ている。
 でもまあ、それにしても限度がある。僕はもう鍋の中を見られない。だって、怖くて。
「ねえ、何だか黒くなっていくよ」
 同居人の途方に暮れた声がする。
「何が? 未来が?」
「全部だよ、全部」
「がんばれー」
「心が籠ってないよ!」
 いつかの同居人の結婚式には真っ白なスーツで行ってやろうかなぁと思っている。
 別にウエディングドレスを着た美しい同居人を名作映画よろしく攫ってやろうと思っているわけじゃない。ただ、それを見た瞬間の同居人の反応を面白がってやりたい。だって、同居人の結婚式に招待される、なんて最高に悪趣味なジョークだ。
 こんな展望を語った後では尚更悪い冗談に思われるかもしれないけれど、実を言ってしまえば僕と同居人は昔恋人だったことがある。何の事情も知らない人間から見れば、同居人と僕は今でも恋人に見えるのかもしれない。何せ、年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしているのだし。加えて同居人は僕がねだれば性欲処理くらいなら余裕でしてくれちゃうような女の子なのだ。
 けれど、今はもうそういう間柄じゃない。
 少なくとも、僕と同居人は恋愛という関係で括れる間柄じゃない。
 エプロン姿で跳ねる同居人は、僕と付き合っていた頃と変わらないようにも見えた。
 変わってしまったのは関係だけなのだ。

 大学生の頃、同居人はとても面倒な女の子で、可愛らしい女の子だった。自分の面倒さを可愛らしさで包み、誰からも愛される女の子だった。僕の視界を自分で満たさなくちゃ、我慢のならない子だった。
 思い出す同居人は本を読んでいる僕の頬を突き、いつだって悪戯っぽく笑っている。
「そういうのやめろ、正直面倒」
「景ちゃんが構ってくれないからじゃないですか」
「それなら何で僕と付き合ってるの? 僕は元よりそこまで社交的な人間じゃないし」
「景ちゃんの顔が良いからですかね……」
 同居人は目を細めながらそう言った。茶化しているような雰囲気を醸し出しているけれど、本気であることは何となく察せられた。同居人はこういうところで嘘を吐くのが苦手なのである。正直者が最上の美徳であろうというお伽噺譲りの擦り込みにやられちゃっている。
「だって、格好いい人ってあんまりいないんだよ? 世の中を見てみなよ。皆何処か欠けてるんだよ。完璧に理想の相手なんて殆どいないの。だから、私は恋人選びの時には何処か譲れないところを一つ決めて、残りの部分は出来るだけ妥協と許容をすべきだと思ってるの。私が譲れないのは外見だったから、それ以外のところは全然許容出来ちゃうの。全く以てオールオッケーってわけ」
 同居人は僕の顔がどんどん苦々しくなっていっていることにようやく気がついたらしい。
「それでも私が君と一緒に居ることに、実をいうと妥協なんてちっともないんだ。景ちゃんは素晴らしいと思うよ。真面目だし、堅実だし、実直だし」
「それは殆ど同じだと思う」
「いいんだよ。私は景ちゃんが好きなんだからさ」
 同居人が甘えた声を出して僕に擦り寄る。
 僕は同居人を十分に赦せていたのだと思う。何様だと思われるかもしれないけれど、本当に的確で素直に答えるなら、僕は確かに同居人を赦せていたのだ。僕の人間関係というのはとにかく許容から始まっていた。同居人は恋人として僕の傍にいても許容できるような女の子だった。それどころか、僕にはあの時点での僕でさえ、同居人には釣り合わないくらい、素敵な子だったと思う。
 同居人は悪戯をするのが好きだった。今はもう絶対にそんなことをしないだろうけれど、課題に集中して同居人をほったらかす僕の靴紐を解くとか、いきなりクラッカーを鳴らしてみせるとか、そういう悪戯をしては僕の気を引こうとした。
 多分、世間一般からすれば可愛らしい茶目っ気に分類されるであろう悪戯の数々。僕はそれを受け止め、たまに苛立ち、極稀に愛しいと思った。
 あとは、例えば、物を隠した。
 ペンケースの中の青ペンだとか、講義のノートだったりとか、もしくは辞書だったりとか。そういうものを同居人はこっそり隠して、あとで気が付いた僕の前でふふんと何故か得意げに笑ってみせるのだった。僕は溜息を吐いて、同居人と一緒に隠し場所までわざわざ隠されたものを取りに行った。これが、『物を隠す』悪戯のおおまかな流れだ。
 何回も何回も物を隠され、何回も何回も探しに行った。……とんだ茶番! 大概の場合僕が気が付くのは隠されてから随分後になってからで、悪戯のことをうっかり忘れていた同居人が慌てて僕の『失くし物』に顔を青くすることもあった。チャーミングなエピソードである。
 だから、いつものことだった。茶番とはいえども、台本のちゃんと用意された代物なのだから、何のイレギュラーも介入しないはずだった。同居人は僕に構って欲しかった。それだけの話。でも、悪いことというのは本人の意志とは無関係の場所で起こる。
 ある日、同居人はいつものように僕に悪戯を仕掛けた。僕はもう半ば慣れきってしまっていて、同居人の動向に全く気を配らず、その日の夜中が締切であるレポートに取り組んでいた。図書館に来るといつもそうだった。同居人は活字にさほど興味がなかった。
 僕はある程度まで真面目だったから、目の前の課題に必死だった。そういうわけで、同居人がこっそり僕の鞄から持ち物を抜き取って、はるばる遠くの棟の無料ロッカーに隠しにいったことなんか気が付かなかった。
 ささやかなサプライズを仕掛けた同居人は妙にご機嫌で、僕の横で落書きをしたり、持ち込んだ漫画を読んだりしていた。あとで儀式的な茶番が行われることがわかっていれば、同居人はどれだけ僕にほったらかされても、全然平気なのだった。
「……お前はレポートないの?」
「私は景ちゃんと違って要領いいですから」
「要領がいいとか悪いとか何だか不公平に感じるの何でだろうな。お前にもいつかしっぺ返しがくればいいのにって思ってるよ」
「喋ってる暇があるならさくさく書きなよ。私暇なんだよー?」
 同居人は可愛らしく頬を膨らませてそう言った。口の端に隠し切れない笑み。妙に殊勝で静かな同居人。きっとまた何か隠されたのだろうな、と思いながらレポートに戻った。レポートが書き終わるまでの三時間半の間で、同居人と僕がした会話はそのくらいだった。

「……携帯がない」
 レポートを書き終わって数分後、今回の失くし物はすぐにわかった。現代生活に追われる人間なら、何か一段落したら確認せずにはいられない代物、携帯電話だった。僕は隣でいつの間にか眠ってしまっていた同居人を文字通り叩き起こす。同居人が魚のように跳ねて、恨みがましそうな目で僕を見た。
「いったー……何するの!」
「また人の物勝手に隠しただろ」
「あ、わかった? 私が隠したもの」
「携帯だろ。どこにあるんだ」
 正解、と言いながら同居人が笑った。きっと、これから同居人は僕の手を引いて一緒に探しに行こうとのたまうのだろう。僕は溜息を吐いてそれに従うのだ。いつもの茶番。同居人をほったらかした僕へのささやかなる仕返し。
 でも、今回は少し様子が違った。
「ねえ景ちゃん。私、たまに不安になるの」
「何が」
「……上手くいえないんだけどさ、予想以上に景ちゃんのこと好きで困ってるのかも。でも景ちゃんはなかなか本心が見えにくいっていうか、私ほどわかりやすくないから」
 しおらしい言い方だった。
 でも、ありがちな言葉ではあった。女の子ならこういう風に悩むこともあるんだろうな、と理解出来なくはない凡庸な悩み。
「……不安にさせたならごめん」
 白々しく聞こえてしまったかもしれない。こういうことを言うのに慣れていなかった。
「私、ちょっと一人で携帯取って来るね」
 同居人はそう言って一人で行ってしまった。僕が同居人を追いかけなかったのも、単なるタイミングの問題だった。追えばいいのか待てばいいのか、瞬時に判断が付けられなかったのだ。
 ぬるい言い方をさせて貰えるのなら、僕は同居人が嫌いなわけじゃなかった。世間一般の恋人基準には十分適う程度には同居人のことが好きだったはずだ。
 けれど、同居人にとってはそうじゃなかったのかもしれない、と思う。この大学構内だけでも沢山のカップルがいるだろうし、その中の大半は自分の人生やらを懸けてまで、その相手と一緒にいなくちゃ駄目だと考えている人間じゃないと思っている。学生時代の男女交際なんてそんなものだ。同居人と僕は今の所別れるなんてことを考えたことはなかったけれど、一緒に居る為に『何か』を懸けなくてはいけない場面も確かにあって、それはまさに今なんじゃないか、と思ったのである。
 人が少なくなった図書館内で僕は大きく伸びをする。電源を切ったノートパソコンを寄せて、さっきの同居人がやっていたようにテーブルの上に突っ伏した。眠りのポーズ。同居人がいなくなった図書館は、どうにも居心地が悪かった。
 同居人はなかなか帰ってこなかった。
 珍しく本心を言ってしまって恥ずかしがっているのかもしれないな、と適当に思う。同居人はいつも奔放に振る舞っているようでいて、その奔放さに愛想を尽かされないかいつでもびくびくと怯えている。
 僕は同居人のことをちゃんと好きなのだと、どう伝えればいいのかわからなかった。だって、真っ直ぐに言葉にすることはとても気恥ずかしい。あの頃は僕にはそれなりにくだらないプライドがあって、それを守るのに必死だったわけだ。今の僕なら、自分に何の価値も無いことを逆手にとって、同居人に好きなだけ思うがままにそういうことを伝えてあげられるだろう。肝心の気持ちが入っていないから駄目だろうけれど。
 何かのタイミングがあれば伝えよう、だなんてそんなことを考えていたのだ。本当に。何かのタイミングさえあれば。
 ここまできて、同居人の帰りがやけに遅いことが気になりはじめた。いくら念入りに隠したとはいっても構内だろうし、少し遅すぎるじゃないかと。
 でも、動けなかった。万一入れ違いになってしまったら、携帯電話が無いと合流が難しいからだ。同居人は焦って僕を探しに外に出るかもしれない。僕はひたすら同居人の訪れを待っていた。それはもう長い間。そんなことをしている内に、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
 不意に、背後に人の気配を感じた。つっぷしていた所為でよく機能しない目を擦り背後を見る。
 同居人が立っていた。僕も慌てて立ち上がる。声をかけてくれよ、という自分の声がかすれていた。
 同居人の顔は蒼白で、手には僕の携帯電話が握られていた。
「あ、携帯……」
「……うん」
 同居人が震えた声で返す。
 僕は反射的に、陳腐な愛の言葉を、「好きだ」とか「不安にさせてごめん」とか、そういった言葉を言おうとした。携帯電話を差し出す同居人に向かって、取り繕うかのようにその言葉をあげるつもりでいた。
 同居人は、そんなもの少しも欲しくなかったというのに。
 同居人の口から意味のわからない呻きが聞こえた。切実な呻き声だ。同居人は僕の携帯電話を手に持って、とても真っ直ぐにそれを差し出す。
 流石の僕にも、同居人の様子がいつもと違い過ぎることには気が付いていたし、その原因が単なる色恋の話ではないんだろうということもちゃんと察せられた。同居人の手に持たれた携帯電話はいつもと変わらないはずなのに妙に不吉で、受け取るのを躊躇うくらいだった。
 携帯電話を受け取り、おもむろに画面を開く。そうして、全てのことに合点がいった。あまりにするりと謎が解けたので、少し笑いそうになったくらいだった。
 同居人はタイミングが悪かった。
 その一言に尽きた。
 僕の携帯電話は僕の心配性を反映して、ちゃんとセキュリティロックが掛けられている。パスワードを入れなければ、中身が見られることは一応無い。けれど、何という仕様だろう。最近の携帯電話は、メールの件名と本文の一部が画面に表示されてしまうのである。
 同居人がこの他愛のない悪戯をいい加減にやめようと携帯電話を取りだした時には、最悪な文字が画面いっぱいに広がっていたというわけだ。一度に表示されていたのは三通。内容はさながらグラデーションのようだった。
『件名 至急連絡ください・お母さんが事故に遭いました お兄ちゃん今どこ、お母さんは』
『件名 お兄ちゃん・はやく連絡ください お母さんが危ない まにあわなくなっち』
『件名 No title・お母さんがお兄ちゃんの名前よんでる わたしどうしたらいい』
 同居人が茫然として画面に出てきた切実なメッセージの欠片たちを見ていた瞬間、また新たにメッセージが加わった。どうやら回線が込み合っていたらしい。三通目と同じく、件名は無し。そして、本文は画面に表示される分だけで終わってしまうくらい簡潔なものだった。
『件名 No title・お母さん死んじゃった』
 最初のメールから最後のメールまでの時間は二時間三十二分。着信は十八回入っていた。妹ちゃんの方も大分動転していただろうから、僕にぱちぱちとメールを打ってやる余裕が、その二時間三十二分の間に三回しかなかったということだろう。四回目のメールは死んだ後に書かれたものだから、ノーカウントとする。
 四回目のメールは、丁度レポートが書き終わったあたりに送信されていた。
 メールの受け取りを知らせるメロディはカノンだ。特にその曲が好きだったという訳でもないのに、初期アラームの中に入っていたからそれにした。好きではないけれど、綺麗な曲だとは思っていた。あの綺麗な曲に誰一人として気付かない状況があるのだ、と知った。
 母親が死んだことを知らせるメールを受け取ってから、同居人が図書館で待つ僕に携帯電話を届けるまでにゆうに三十分のタイムラグがあったことについて、僕は責めるつもりはない。どうせ、僕が携帯電話を受け取る時には母親は死んでいたのだし、同居人はこの爆弾を抱えた携帯電話を届けるまでに、何度死にたくなったことだろう。あの時の同居人の顔と言ったら。僕は絶対に忘れない。
 揺り起こしてくる手がいつもよりもずっと優しくて、僕は起き抜けに同居人の名前を呼んだ。幸せそうに響いてしまったのかもしれない。同居人は泣きそうな顔をしていた。それでも泣かずに、同居人は僕の手に携帯電話を押し付けた。そこには、寝ぼけた眼でもしっかり認識できるような悲劇のグラデーションが並んでいた。
 甘くてなおかつ胸糞の悪い話で申し訳ないのだけれど、この時僕が設定していたパスワードは同居人の生年月日だった。今にも自殺を選びそうな同居人の前で、僕は同居人の生年月日を正確に入力し、そして、母親が事故にあってから死ぬまでを実況したメールを一通ずつ開封し始めた。
 同居人は一言も何も言わなかった。

 母親が死んでからのこのこと病院にやって来た僕を、妹ちゃんも医者も看護婦も信じられないような顔で見つめていた。僕を薄情者だと目線で罵らなかったのは母親本人くらいのものだ。
 今日は普通に大学にいると言っておいていた。講義は午前中で終わって、午後は図書館にいるとも。どう考えても三時間一切の連絡がつかない状況ではなかった。そこにいる全員がそう言っているような気がした。
 妹ちゃんには死ぬほど怒られたし、携帯電話を持っていること自体を詰られた。肝心な時に連絡がつかないのなら、最初から持たない方が良かったのだ、と言われた。
「お兄ちゃんがそんなもの持ってなければ、私は送信ボタンを押すたびに、コールボタンを押す度に、絶望的な気分にならなくても済んだのに」
 妹ちゃんにはその際、右手の薬指と中指を折られた。今となってはもう何で殴られたのかも覚えていない。頭はまずいよな、と思って手でガードをしてみたら、あっさり折れた。妹ちゃんは謝らなかった。僕は、母親が死んだ病院の整形外科にかかって、ギプスを巻いて貰った。こういう時に病院というのはいい。
 僕が気にしていたのは同居人のことだった。同居人は、母親の葬儀の時に、僕を罵り続ける妹ちゃんをダイレクトに見てしまったのである。
 僕は一切の事情を妹ちゃんに伝えることはなかったけれど、同居人は僕が妹ちゃんに責められるのを聞く度、蒼白な顔で手の爪を噛んでいた。余談だけれど、同居人は手をとても大事にしていた。実生活では不便そうなくらい爪を綺麗に伸ばして、いつでも艶々に磨いていたものだ。それが、葬式の時には見る影も無かった。血が滲んでボロボロで、汚かった。
 母親の葬儀の時が、僕が同居人に能動的に会った最後だと思う。母親と同居人は不本意ながら交流があった。母親は息子に美人の恋人が出来た時のテンプレートな気恥ずかしさをもって同居人に接していたし、同居人は同居人で誰からも好かれる性格をしていたから、二人は仲が良かったのだ。葬儀には出てもらうのが礼儀だと思った。僕と同居人の間に何があろうと、母親と同居人の間には何の関係も無い。それが正しい判断なのかは未だにわからないままだ。
 携帯電話のパスワードを変えた。ついでに同居人を含む全てのアドレスと番号を消した。妹ちゃんからの罵声で生活がままならなくなるのは恐ろしいので、妹ちゃんの電話番号は申し訳ないけれど着信拒否にした。
 妹ちゃんと同じ種類の絶望を同居人は味わったのかもしれない。
 どんなに焦っても、どんなに悲しくても、どんなに怒っても、相手がそれを知る由も無いという絶望。
 それのターニングポイントとなっていたのはどちらの場合も僕だった。それがどうした、と言ってしまえばそれまでの話だ。
 同居人と音信不通に意図的になってから四日くらい経ってから、僕は同居人と遭遇した。同居人は僕に会うなり地面に額を擦りつけて土下座をした。
 よりにもよって、同居人が謝罪の場所に選んだのは大学のメインストリートだ。きっと、僕が会うのを避けていた所為だろう。僕はまだ真面目な学生で、母親が死んでから一週間ばかりだというのに講義に出席していたのである。そこを、同居人は待ち伏せていたのだ。
 同居人は綺麗な格好をしていた。素晴らしい水色の、爽やかなスカート。綺麗だった。よくよく思い返してみれば、その服は僕が前に一度デートの時に褒めたコーディネートだった。同居人も、気合いを入れたお洒落だと嬉しそうに語っていた服である。媚びだとか、そういう穿った見方も出来なくはなかったけれど、直感した。彼女はどこまで自分を貶められるかを試しているのだった。大事なスカートは泥で汚れて、白いブラウスの袖にも汚い茶色が滲んだ。生憎のことに、その日はさっきまで雨が降っていたのである。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「……なんかこれ、僕がそういう趣味のある男みたいじゃない?」
 同居人は僕の冗談っぽい呟きに対しても土下座を貫き通していた。真剣な時に茶化す癖をやめろと怒っていた同居人がなかなか懐かしくもある。
 それ以上何も言わない僕に業を煮やしたのか、同居人は地面を這うような声で言った。
「どうして怒らないの。どうして、責めないの」
「怒って欲しいの?」
「そういうわけじゃない。でも、変だよ。全部私の所為なのに。どうして罵ってくれないの。憎んでるでしょ? 怒ってるでしょ? 妹さんみたいに、私の言殴ってくれたって構わないくらい酷いことしてもいいんだよ。私、許して貰えるなら何でもする」
 ……どうして、ねえ。
 僕は首を傾げる。どうしてと言われても、実のところよくわからないのだった。今となってもわからないのだから、あの時の僕にわかるはずがない。『憎しみよりもお前への愛が勝ったから、僕はお前のことをこれっぽっちも憎めなかった』と、そう言ってあげれば、同居人の罪悪感はきっと薄れただろう。罪悪感がスパイスになって、体よく愛情を深められたかもしれない。
 でも、僕はそれを言ってやれなかった。同居人は一度も顔を上げない。同居人は震えていた。メインストリートでは、立ち止まって見ている生徒もちらほら見受けられた。きっと、明日から僕は腐れサディストとして名を馳せるのだろう。
 僕は同居人の名前を呼んだ。同居人の背中が一際大きく跳ねる。けれど、顔は上がらなかった。仕方なく、僕は恭しくもうんざりした気分で顔を上げて、と言った。同居人が顔を上げた。涙やら泥やらでぐっちゃぐちゃになっていたけれど、その顔はとても可愛い。
 土下座も折れた二本の指も妹ちゃんの激昂も携帯電話もなんだかとてもどうでもよかった。何の感慨も覚えなかった。覚えていたとしても、それに対してどう接していいかもわからなかった。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。僕と同居人の間柄はこの時を境に永遠に道を違えてしまったのだ。
 単なる水ですら元の盆には戻せないのだから、飛び散った関係なんて言うまでもない。
 僕は同居人の目を真っ直ぐ見つめて、口を開く。
「別に、いいよ。僕はお前を責めたりしない。……僕は自分でも自分の状態が今よくわかってないから、言外にお前が何を感じるかどうかっていうのも、わかんないんだけどさ。僕の妹ちゃんみたいなストレートな罵倒やら制裁やらを求めてるんなら、多分期待には応えられないと思う」
 僕はひらひらと手を振ってみせようとした。けれど、いつもの癖で振った右手はそういえば綺麗に華麗に骨が折れていて、振れば普通に痛かった。ままならない。この指も、巡り巡って同居人の所為になるんだろうか?
「あと、もう恋人ではいられない」
 僕ははっきりとそう言った。同居人の顔が一層絶望的な色に染まったのはこの時だ。失ったものをやたらめったら美化するなんて悪趣味だと思っていたのだけれど、あの時ばかりは例外だった。案外愛されてたんじゃないか、と思うと、彼女の想いはやっぱり尊い。
「……本当にごめん」
「どうして景一郎が謝るの……? それって、私を、」
 同居人はその先が続けられなかった。何となく言いたい言葉はわかっていたけれど、それを言ってしまえば、色々とおしまいになってしまうことは察していたのだろう。同居人は聡い。そこそこ頭のいい大学通ってるだから当たり前だけど。
「別れようっていうのは僕のエゴだから。僕はそこそこ重い人間だからさ、一人の女の子の青春を頂いた挙句、勝手な事情で別れを告げるなんて人間として最低だと思ってる。だから、そこは謝らせてもらった。……悪いね、こんな男で」
「景ちゃん……、ねえ、」
「あと、僕、大学辞めようと思うんだ」
 同居人の顔がまた驚きと絶望に染まった。同居人は贔屓目に見ても、僕さえ関わらなければこれからも十分に素敵な女の子だった。
「だから、さよならだ。今までありがとう」
 同居人が返す言葉はわかっていた。僕から出された言葉に、同居人がNOと言えるはずがないのだった。そもそも、何一つ言えるはずがないのだった。
 こうして、僕は大学をやめた。同居人はそのまま残り二年の大学生活を粛々と送り、卒業して、そして、真っ当に就職した。

 そして、そこからまた色々があって、僕は同居人と同居を始めて、今もこの部屋で震えている。人生なんてわからないものだ。元恋人がうっかり同居人になってしまうだなんて、恐ろしいこともあるものだ。これだから僕は社会に上手く順応できないのだと思う。こんな滅茶苦茶なことが起こるのなら、死んだ母親にうっかりエンカウントとかしちゃいそうで怖いし。

 どうしてこうなってしまったのか、同居人の軽い悪戯の所為で母親の死に目に会ってやれなかったことが僕に一体どんな変化を施してしまったのかは、正直なところよくわからない。そもそも、母親の死に目に同居人の所為で合ってやれなかったことが、どうして僕が社会生活の中で上手くやっていけないことに繋がるのかも、自分ではよくわからなかった。トラウマの化学反応はいつでも鮮やかで脈絡がない。医者は『疲れているんですよ』と笑っているが、カルテに鬱とかなんとか失調だとかの文字があることを僕は見逃さない。
 そして同居人は、そんな僕を甘やかすことだけに全神経を注いで日々を送っている。罪悪感を見せないようにするのが苦手な彼女が出来るのは、僕を果てしなく赦し続けるだけなのだ。与え続けていれば、同じものが返って来るとでも思っているのかもしれない。僕はそれを黙って見ている。
 不幸な偶然だった。同居人だって、あの日母親の事故の知らせが飛び込んでくると知っていたなら、僕の携帯を隠したりなんかしないだろう。同居人はあのメールの列を見るまで、それが靴や上着や定期入れと同じ類のものだと思ってしまっていた。
 それでも、同居人は確かに僕と母親から最期の時間を根こそぎ奪ってしまった。僕はマナーの悪い大学生なので、あの日も携帯電話をマナーモードにするのを忘れていた。最初のメールが来た時に――否、最初に妹ちゃんがしてきたのは電話だった――何にせよ僕は気付いただろう。母親の病院は大学から車で二十分くらいだった。財布の中にはそこまでタクシーで行けるだけのお金があった。
 要するに、同居人があんなことをしなければ、何の問題も起こりはしなかったのである。
 僕と母親との仲も悪くはなかった。むしろ同年代の息子と母親に比べたら大分仲がいい方だったんじゃないかとすら言える。普通の母親だった。何の問題も起こさず、ユーモアを交えてよくもまあ僕と妹ちゃんを女手一つで育ててきてくれたものだと思う。
 薄々察しているかもしれないけれど、僕には父親がいない。理由なんか重要じゃないだろうからここでは割愛してしまうけれど、要するにここで重要なことは、妹ちゃんは本当に、たった一人で母親を看取らなくてはならなかったということだけだ。
 夢見が悪くなりそうな話だけど、妹ちゃんからのメールによると、母親は臨終の瞬間まで僕の名前を呼んでいたらしい。……会いたかったんだろうなぁ、と他人事みたいな気分で思う。一歩退いていないと、耐えられなさそうな想像だった。
 僕はお昼時にはふさわしくない想像をやめて、これまたお昼時にはあまり見たくないような現実に目を向けた。確か、同居人はお昼ご飯を作っていたはずである。それが今は、一体何に対して戦争を仕掛けようとしているのだろう。
「君さあ、それ先に火、止めた方がいいよ。そもそも、もう何作ってるのかわかんないんだけど」
 とりあえず、最も危なさそうなものから指摘してみた。最善が選び取れない時は大人しく最悪を回避しておいた方がいい。
「私、小さい時からこうなの。図画工作とかで何か一箇所失敗すると、その失敗を隠そうとしてどんどん失敗を重ねて、どんどん負の連鎖を生みだしちゃうの」
「馬鹿みたいな話だな。取り返しのつかないってことは確かにあるんだ」
 僕の言葉に、同居人は少しの間だけ火と共に手を止めて、何やら考え込んでいた。
 同居人が不意にこちらを向く。包丁を持ったままの同居人の立ち姿に何の危機感も覚えられなかった。手が震えている。料理が苦手な人間というのは、冗談かと思うくらい刃物を怖がるのだ。
「どこから失敗だったんだろう」
「差し当たっては、僕がお前に料理をさせたことだ」
 僕は心底面倒臭がりながら立ち上がり、同居人に近寄る。そして、どうにかさりげなく、同居人の手から包丁を抜き取った。人参の皮がべっとりとついている。人参って何でこんなに綺麗な色をしてるんだろうね?
 同居人はきょとんとした顔で僕を見ている。僕にこのまま刺し殺されることなんて一切想定していない顔だ。それは信頼と呼ぶにはあまりにお粗末だから、どう崩してやろうか迷う。
「……包丁」
「何?」
「いや……」
 同居人が困っている。包丁を取られてしまったら何も出来ないと思っているのだ。切ることだけが料理じゃないのに、同居人の料理の括りはあまりに狭い。
「渡さないよ、これは」
「ええ……」
「当面は没収だ。今日はもういいでしょ?」
 別に刺すとか刺されるとかそういう昼ドラめいた展開を予想したわけじゃない。同居人は料理に関しては奇跡の人なので、うっかり転んで僕に包丁をぶっ刺してしまう可能性を考えたのである。
 悪意が無くても悲劇は起こる。
 そういう風に出来ている。
「とりあえず、ここからは僕がやるから。ここから君がどうやろうと、絶対に食べ物は生まれないよ」
「でも、トマトとかは生でも食べられるんだし」
「それを知っていながらどうして悲劇を食い止められなかったんだよ」
「包丁一つでは語り尽くせないことが世の中には沢山あるってことに遅ればせながら気が付いたんだよ」
 同居人は今でも素敵な人間だ。でも、あの頃のような輝きはもう無い。同居人と僕の間にあった感情も多分もう無い。僕達を繋ぎとめているのは偏にあの罪だけなのだ。タイミングが悪かった。それだけの話だ。
「あと、このゴミの山は捨てるぞ」
「捨てちゃうの? 勿体ない」
「いいじゃん。お金ならあるんだろ」
 何しろこんな不良債権を抱えても悠々と暮らしてしまえるくらいには。同居人が黙る。否定しないその余裕が疎ましい。困窮してしまえば良いのに。料理が壊滅的に下手な癖に家政婦すら雇わずにのうのうと僕を抱えて暮らしているしっぺ返しを、いつかどこかで受ければいいのに。躊躇いなく僕は生ゴミ入れに野菜を放り込む。すぐにいっぱいになってしまった。
「残ったもので何作れる?」
「よくわかんないけど全部切ってコンソメで煮込めばいけそうだろ。そもそも、これ何作ろうと思ってたんだよ」
「……何だろう。何でもいいから作ろうと必死だったんだよ」
「楽にいこうじゃないか。必死になったからって上手くいく訳じゃない」
 社会復帰然り。関係修復然り。
 僕は残った食材を見渡す。よく使っていた大きい鍋はどうしたことか完全に焦げ付いてしまっているから、小鍋を使うしかない。下手な好奇心と義侠心は猫じゃなくて鍋を殺した。……困ったことだ。
 やる気になった僕を見る、同居人の目が輝いている。いっそのこと、これすらも今から全部ぶち壊してやろうか、と一瞬だけ思った。けれど、何にせよ僕は腹が減っているのである。空腹は全てのメタファーよりも優先される。面倒な暗示なんてすべて無視して、僕は新しい人参に包丁を入れた。ざくり、と赤い音が響く。
 最高に平和なお昼時だった。

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COMMENT

- 蚊取り線香

とても、とても好きな作品です。これ以外どの作品も素敵で、夢中になって読みました。キネマ探偵も凄く面白かったです。高校生から作品の投稿を始められたと聞いて、信じられない思いでした。
売られる戦場買う人でなし4はあるのでしょうか?あったら嬉しいです。まとまりのない文章ですみません。素敵な時間をありがとうございました。

2017.07.17(Mon) 17:28 | URL

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