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夏のキラキラサーキュレーション


「センセイ、センセイ。私を導いてくれませんか」
「はあ。でも俺は可愛いメスゼミとか知らないよ。ごめんね。そもそも、蝉の可愛さもよく判別出来ないし。あ、やっぱ蝉の中にも米倉涼子似の蝉とかいるの?」
「残念、私にとっても蝉の顔はどれも同じに見えるんですよね」
 灘嶺くんが人間の言葉を話す蝉に会ったのは、お誂え向きの暑い夏の日だった。七年近くも土にいるらしいのに、何故だか彼らの大半は少しも迷うことなく夏に姿を現す。季節どころか自分さえ見失っているような人間達を相手取る灘嶺くんにしてみたら、それは少しだけ評価に値する才能だった。
 言葉を商売道具にしている灘嶺くんは、言葉の通じないものが苦手である。例えば被害者意識の強いモンスターペアレントや、オーバードーズで幻覚や女子高生や、虫などが苦手だった。特に蝉は好きじゃない。サイレンよろしくミンミンビービー鳴いている声には、物語性が全く見いだされなくて怖い。
 そのけたたましい鳴き声の正体は「セックスしてください!」という素直で切実なお誘いらしい。灘嶺くんはその事実を知って一層恐怖した。人間が偉そうに叫んでいる言葉と蝉のサイレン染みた謎の声は内容の面で大差がないことが、とても恐ろしかったのだ。
 そういうわけで、灘嶺くんは蝉が嫌いだった。出食わしたらげんなりするし、鳴き声のする木は密かに呪っていた。その癖、道ばたに転がっている蝉の死骸を見ると、なんだか酷く悲しくなるのだから困る。
「それで、生殖第一セックス大好きな蝉さんが、人間である俺に導いて欲しいことってなんだろう。言っておくけど、蝉が大好き! っていう女の子も多分俺は紹介できないよ。女の子の友達は少ないし、」
「これには、色々と超常的な理由があるのですよ。そう、それも含めて、私はセンセイに助けをお求めさせて頂いているのです。こういうことにかけて、センセイほど適切な方はいらっしゃらないでしょう?」
「・・・・・・そうかなぁ」
「ね、そうでしょう? アルカディアの灘嶺センセイ」
 蝉は、適当なチョイスで灘嶺くんを選んだ訳ではなさそうだった。溜息を吐いて、目の前の蝉をまじまじと見る。なるほど、本当にこれは、俺くらいしか適切な人材がいない案件なのかもしれない。
「私は生前、人間でした。名前を御船といいます。貴方の講演を聞いたのは蝉になってからですが、蝉ながら立派な信者です」
「なるほどね」
 灘嶺くんはようやく納得する。

 灘嶺くんは新興宗教の教祖を生業として暮らしている。教団の名前はアルカディア。牧人の楽園という意味を持つその教団は、灘嶺くんの博愛主義という名のお人好しと、色々な事情が積み重なって出来た冗談みたいに理想的な宗教である。
 人間は救いを求める生き物だけど、その救いがドラマチックであればあるほど満足度が高いらしい。即ち、神様絡みの救済が一番好き。だって、神様ほど物語において素晴らしい素材なんてないでしょう?
 そういうわけで、お人好しの灘嶺くんは人を慰める為だけに神様の存在を都合よく持ち出し、公園などで演説をし、段々と信者を集めていった。宗教団体ってどうやって出来ていくのかなぁと思っていたはずの灘嶺くんは、いつの間にか宗教団体アルカディアを結成させてしまった。
 ははぁ、と灘嶺くんは思う。この蝉は、灘嶺くんの有難いお話を聴いていたに違いない。ついこの間、灘嶺くんはここの公園の隅にある公民館で講演会をしたばかりなのだ。
 発足一年足らずで推定信者一万人弱達成というアルカディアの教祖、灘嶺くんともあろう人がそんなところで、と思われるかもしれないけれど、こういう地道な布教活動が、ウン千万円の寄付金に結びつくのですよ、と灘嶺くんの第一の側近である松永が宣うのだから仕方がない。実際、アルカディアの人気な理由はそういう気安さにあるのだろうし。
 それに、灘嶺くんはそういう行為を全く厭わなかった。自分の話を聞いてほっこりしたり、ふわふわしたり、とにかく幸せになれる人間がいるのなら、灘嶺くんは話をすることを厭わなかった。灘嶺くんはそういう人間だったのだ。
「御船さんはあの時の講演を聞いてたわけだ」
「ええ。あの公民館で催された、アレです。流石というべきか、公民館の中は人で埋め尽くされていたじゃないですか。だから、壁に貼りついて聞かせて頂きました。へへ、蝉っていうのもこういう時にはいいですね」
「そうかな。俺はそういう類のメリットを聞いても蝉になりたいとは思わないけど……」
「ともあれ、私は七年土に籠って、ようやく土から出てきた時にはもうすっかり蝉な気分になりかけていたんですが……センセイの素晴らしい御言葉を聞いて、ハッと気づいたんです。このままでいいのか、と。私は御船明という人間だったはずじゃないか。センセイはあんなに熱心に人間の使命と神からの御言葉を説いていらっしゃるというのに、私のこの体たらくは何だ、と思ったのですよ」
「……へえ」
 出来れば、俺の言葉なんて聞かずに蝉として一生を終えて欲しかったなぁと灘嶺くんは不謹慎にも思う。無機質なはずの蝉の目がキラキラしているように見えてげんなりした。
 人間は素晴らしいとか、神様はいつも見守ってくれているとか、そういうのは確かに灘嶺くんがいつも言っていることだけど、それってそこまでキラキラする言葉かなぁ? とも密かに思っているのだ。死後の幸せとか、現世利益とか、神から与えられた個人個人の役割とか、そういうものを聞く度に目をキラキラさせている人を見ると、そのキラキラを求めてやまなくなるくらい絶望させたものは何なんだろう、というところまで頭がいってしまう。
 灘嶺くんの悪い癖だ。大きなお世話とも言う。
「それで、センセイのお話の中に、死後の世界の話が出て来たじゃないですか」
「あー。『アルカディア』ね。死後の牧人の楽園」
「そうです。善良な人間は全て迎え入れられる、死後の楽園です。そこには苦しみも悲しみもなくって、毎日遊園地に住んでいるような気分を味わえる楽園だって、センセイおっしゃってましたよね」
「うん。言った」
「それなら、一体どうして私はアルカディアに行けなかったのでしょう?」
「ああ……はぁ……なるほど」
 ここでようやく灘嶺くんは更なる疑問に対する答えにも思い至った。要するに、灘嶺くんは天国に対する責任を負わされようとしているのだ。
 灘嶺くんが語った牧人の楽園、アルカディアに対する責任だ。目の前の蝉のいう事が本当なら、人間は死んだら牧人の楽園に行くのではなく、蝉とかになる羽目になるわけである。アルカディアの教えを根本から揺るがす、あまり認めたくない事実だ。
 幸運なことに、御船と名乗るこの蝉は、灘嶺くんを嘘吐きだと責めるつもりはないらしい。灘嶺くんの意見に異議を唱えるつもりはあまりなく、自分だけがイレギュラーだと思っているのだ。
 それは、灘嶺くんにとって大分好都合なことだった。嘘吐きだとクレームを入れられるよりは、信じて貰った方がどれだけ気分がいいか。
「それで、私がアルカディアに迎え入れられず、こうして蝉に生まれ変わったのには、何か理由があるんじゃないかな、と思ったのですよ」
「はあ、理由」
「そうです。センセイなら、神のお言葉が聞けるはず。私がこんな状態になった理由も、貴方様ならおわかりになるはずなんです」
 灘嶺くんは、曖昧に微笑む。正直知ったこっちゃなかった。けれど、優しい灘嶺くんは「それ、御船さんが善良な人間じゃなかったんじゃないの?」とバッサリ切り捨てることも出来ない。だって、蝉に生まれ変わるってどれだけ悪人だったんだよ? 蝉には悪いけど、灘嶺くんは蝉に生まれ変わるくらいだったら地獄に堕ちた方が数百倍良い。
 齢二十六歳の灘嶺くんは当然のことながら死んだことがない灘嶺くんは、死後の世界のことなんか全く知らないし、皆が求める牧人の楽園アルカディアがあるかどうかもわからない。あったらいいな、とは思っているけれど。
「神様の言葉って結構不定期なんだよね。俺が好き勝手に聞けるわけじゃなくて、神様の意志で来てるの。今のところ、御船さんがどうして蝉に生まれ変わらせられたとか、どうして人間の言葉を喋れるようにしちゃったのかっていうことについての情報は入ってきてないかな」
 灘嶺くんはお決まりの台詞を返した。大抵の物事は神様の所為にすればいいわけで、神様というのは大抵の場合とかく気まぐれなのである。
「そうですか……いいえ、そうですよね。神様が一々私の存在理由について教えてくれるはずがありません。私は、私で自分が蝉になってしまった理由を探るしかないんですよね」
「うん。そうだよ。それが神様の試練なんだ」
「ああでも、センセイ。どうか、ヒントだけでも与えてくださらないでしょうか。センセイは、私がどうして蝉になってしまったのか、おわかりになりませんか?」
「うーん……そうだなぁ。アルカディアが気に入らなかったとか?」
「まさか! センセイの話を聞く限り私が迎え入れられるのであれば、今すぐにでも入れて頂きたい、素晴らしい場所です。あそこは」
 うっとりしたような声で御船はそう呟いた。苦笑が止まらない。灘嶺くんのファンタジックに幸せなでっちあげのお伽噺が、人をこんな風に取り込んでしまうのはいつ見ても慣れない。いつか、とんでもないしっぺがえしが来るんじゃないかと怖くなってしまうのだ。
「それじゃあ、あれだよ。よくあるやつ」
「よくあるやつ? とは?」
「小説とか漫画とか映画とかによくあるやつだよ。即ち、何かこの地上にやり残したことがあるから、御船さんは蝉としてこの世に舞い戻ってきた……多分」
「ほほう、流石はセンセイ。私の考えの及ばないところを思いつきになる」
 こんな定石染みたものを思いつかないだなんて、もしかしたら御船さんはあまり映画はや小説に慣れ親しんでいなかったのかなぁ、と灘嶺くんは思う。いつだって人間は後悔し続けていて、やり直せる機会を伺っているのだ。
 恐らく、それは灘嶺くんにも当てはまるのだろう。
「それは蝉じゃなくちゃ出来ないことなんでしょうか?」
「そうなのかもしれない。人生、何が起こるか本当わかんないからね」
 灘嶺くんは適当に、それでも笑顔を忘れずに答える。蝉の進退なんてどうでもよかったが、頼ってきた者を邪険に扱う訳にもいかない。灘嶺くんは皆のセンセイなのだ。
「ああー……どうしてでしょう! 折角センセイにお言葉を頂いたのに! 七年間も土の中にいた所為でしょうけど! 思い出せない! 思いつかない! 私、何をやり残したんでしょう! ああ!」
「何だろうねー。そういうのを探す為に人は生きていくんだろうねー」
「センセイ、ちょっぴり投げやりになってきてませんか?」
「なってないない」
 でも、蝉の脳内を灘嶺くんが覗けるわけもない。
「俺、これから行くところあったんだけどさ、よくよく考えてみたらそこ、御船さんの悩みにも役に立つかもしれないんだ。だって、御船さんはどうして自分が現世に蝉になって戻ってきたのか知りたいわけでしょう?」
「はい、その通りです」
「それならまず、御船さんが前世どんな人だったかを思いだした方がいいんじゃない? 御船さんがどんなことを無念に思って死んだのか、それを思い出した方がいいんじゃない?」
 御船は何かを思うようにしばらく振り子のように行ったり来たりを繰り返していたが、不意に灘嶺くんの目の前で止まると、大きく一度身体を前に傾けた。頷いたつもりらしかった。
「・・・・・・なるほど。流石はセンセイ。その通りかもしれません」
「でしょ? 何事もまずはそこからだよ。幸い、俺が今から行くところは、多分どうにかして人間の記憶を蘇らせたりしてくれちゃう素敵な施設のはずなんだ」
「そんな場所、あるんですか? ディストピアですね」
「ああ、やだなぁ。そんなにおどろおどろしいところ想像しないでよ。言うならばあそこはドラクエでいう教会だから。素敵な場所だよ」
 言いながら、灘嶺くんは自分の抱える愛しの信者たちに思いを馳せざるを得なかった。今から自分が行こうとしている場所と、自分が作り上げた場所が、あまりにも似ている所為だ。辛くなった時に駆け込む場所は皆同じ。それなら、もう皆アルカディアなんかじゃなくて灘嶺くんと同じ場所へ向かうべきだと思う。だってそっちは、アルカディアと違ってちゃんと認められているのだし。
「それで、センセイは結局どちらへいらっしゃるのですか?」
 灘嶺くんは爽やかな笑顔で告げる。
「カムカムハッピー総合病院精神科」

 カムカムハッピー総合病院はこの街で一番大きな総合病院である。というより、この小さな街は、大体この総合病院を中心に回っていると言っても過言ではない。この街に住む人間の何割かはカムカムハッピーというご機嫌な名前の病院で生まれてこの病院で死ぬ。もしかしたら、御船さんもそうだったのかもなぁ、と灘嶺くんは適当な想像をした。
 けれど、その想像に反して、カムカムハッピーに着いた途端に御船がぺらぺらと前世の記憶を語り出すようなことはなかった。ただひたすら、うるさい蝉の羽音が聞き咎められないか心配している。
「だって、蝉なんですもん。蝉なんか、いたら潰しちゃうでしょ?」
「うーん、俺は蝉がいても積極的に潰そうとは思わないけどね。だって気持ち悪いじゃん。ぐちゅって何か色々見たくないものが見えちゃいそうじゃん」
「そうでしょうか・・・・・・躊躇いなく潰す人は潰しますよ。ああどうしよう、私が蝉になった理由がそうやって前世で蝉を潰し回った所為だったらどうしよう・・・・・・」
「とりあえず、見つかるのが怖いなら俺の背中のあたりに隠れてなよ。あ、ちょっと背中にくっつくのは勘弁して欲しいけど・・・・・・」
「ええはい、弁えております」
 そう言いながら御船は灘嶺くんの影に隠れた。精神科へ向かう廊下はやたら人が少ない。たまにすれ違う人間も皆が皆自分のことに必死だった。だから、灘嶺くんと御船は誰にも咎められることなく待合室まで辿り着いた。精神衛生にいいんだか悪いんだかわからない、黄緑色に塗られた待合室だ。夏を感じる。
 程なくして、不健全さや不健康さとは縁がなさそうな軽やかな看護婦さんが灘嶺くんの名前を呼んだ。御船も灘嶺くんを追って診察室へ入る。

「眠れないんですか、灘嶺さん」
「灘嶺くんって呼んでくださいよ。言うのは三回目だけど、そっちの方がずっといい」
「眠れないんですね、灘嶺くん」
「もうずっと眠れないです。そうじゃなきゃこんなところ来ませんよ」
 灘嶺くんの担当である初老の医師はまるで死にかけの金魚を見るような時の目をしていた。可哀想だけれど、あまり直視もしていたくないと正直に訴えかけてくるようなその目。でも、悲しいことに灘嶺くんの相手は正真正銘彼のビジネスだ。支払だって滞りのない善良な患者の灘嶺くんを追い返す術は医師には無い。溜息を吐きながら、医師はカルテを捲った。昔ながらの手書きのものだ。
「食欲はありますか?」
「あんまりありません。でも、好きなものだったら食べられるんです。うどんとか」
「眠れないのは夢を見るから?」
「うん。それも、凄い悪夢を。何回も何回も」
「お薬ちゃんと飲んでます?」
「飲んでますよ。ちゃんとお薬カレンダーとオブラートを使って、毎日頑張ってるんだ。あ、そうそう。毎回言ってるけど、お薬は粉末じゃない方がいいんだけどな」
 医師は灘嶺くんの話を真摯に聞いて、カルテにすらすらとそれを書き留めていった。灘嶺くんはそれを適当に盗み見る。字の綺麗な医者のカルテは盗み見が容易だから困るのだ。でも、結局書いてあることは先週と殆ど変わらなかった。灘嶺くんの状態がそこから進化していないのだから当たり前と言えば当たり前の話だった。
「ねえ先生、俺が新たに言葉を喋る蝉の幻覚を見始めたって言ったら、お薬増えちゃう?」
 医師は、少しだけ首を傾げて灘嶺くんのことを見た。すかさず、ノック式ボールペンがカチリと鳴る。
「見えるんですか?」
「いや、何ていうか、例え話ですよ」
 灘嶺くんが診察を受けている間、御船は空気に吸い付いてでもいるかのように静かに大人しくしていた。背中にくっつくなという灘嶺くんの無体なお願いも素直に受け入れて、灘嶺くんが座るイスの裏に黙って貼りついている。
 灘嶺くんはほんの一瞬だけ、言葉を喋る蝉が自分の妄想なんじゃないかという恐怖に襲われた。言葉を喋る蝉が自分の脳内から生み出されたものだとして、そこからどんなメッセージを受け取ればいいのかが、わからな過ぎて怖かった。
「君の例え話は難解なんですよね」
「そうですかね。こういう話が往々にして好まれるものなんですけど」
「僕は君の信者じゃないですからね。うん、難解ですよ。あんまり好きにもなれないし」
 初老の医師はボールペンをもう一度カチリと鳴らして、テーブルに置いた。もうカルテに書き込むつもりはないみたいだった。例え話は病状じゃないから仕方がない。
「その蝉は君を責めるんです? 例え話でもいいですけど」
「責めませんよ。責めませんけど、救いを求めたりはしてきます」
「あーそれ、結構スタンダードにノイローゼなんじゃないでしょうか。ノイローゼ。君の信者からの求められ具合が君に喋る蝉を見せているんです。ほら、ミンミンうるさいでしょう。灘嶺くんもね、心の奥底では信者のこと『うっせーな、カウンセリングでも行っとけよ』って思ってるんでしょう。そういうことですよ、きっと。ははーん」
「先生、それはちょっと乱暴すぎる解釈なんじゃないでしょうか。フロイト先生もびっくりですよ」
「まあ、例え話に対する態度なんてこんなもんですよ」
「その蝉はね、前世は人間だったって言いだして、前世の記憶を取り戻したいって俺に言ってくるんですよ。これってどういうことなんでしょう」
「あの、灘嶺くんその蝉は自分のメタファーとかじゃないんですよね」
 灘嶺くんは今までにないくらい強くはっきりと首を振った。
「それで、先生。昔の記憶を思い出すいい方法とかありませんかね? やっぱり、脳に電極を刺してビリビリするしかないの?」
「それは悪趣味なカルトムービーの世界ですよ、灘嶺くん。そうですねえ、それも気長にやっていくしかありませんよ。思い出す為の手掛かりになりそうなワードを拾って、糸を手繰り寄せるように思い出したいことの名残を探るんです。思い出すきっかけになるのは匂いかもしれない、音楽かもしれない、人かもしれない、あるいは場所かもしれない。何にせよ気長にやることですよ」
 気長に、というところを医師は繰り返し強調した。気長にとはいっても、蝉の寿命は多分そこまで長くないから、そういう話には限度がある。蝉は七日間しか生きられないというのは迷信らしいけれど。
「これは経験則ですけれど、忘れてしまった記憶を思い出すことって、そこまでいいことでもないかもしれませんよ。そういう記憶は忘れるべくして忘れたんです。思い出したくないから思い出さないんです。そういうものを引っ張ってきた時、八割はろくでもない事態になってしまいます。大惨事です」
「そういうもんですかね? あ、そういえば、先生の名前何て言うんでしたっけ」
「担当医の名前すら怪しいんですか?」
「思い出せないことは思い出さない方がいいんじゃなかったでしたっけ」
「お薬、錠剤で出しておきますねー。お大事に」

「結局錠剤と粉薬二パターンで処方されてるんですけど……」
 灘嶺くんはお薬袋の中を覗き込みながら苦々しく呟く。やけにカラフルな錠剤と、その合間を縫うように粉末。嫌がらせをするような人じゃないと信じているから、きっとこれは間違えちゃったか忘れちゃったかのどちらかだろう。人間の記憶も蝉の記憶も当てにならない。
 カムカムハッピー内の薬局で薬を受け取ってから、そこを出る時には、御船は何も気にすることもなく、灘嶺くんの周りをふわふわ飛び回っていた。夏の暑い日に蝉が飛び回っているのは不自然なことじゃない。その蝉が人間の言葉を喋っていることはもしかするととても不自然なことかもしれないけれど、何せ夏だから。夏はどんな突拍子のないことにも概ね優しい。
「眠れないんですか」
 医師と同じことも御船は聞いた。クリスマスの朝の靴下みたいに睡眠薬を詰め込んだ袋を携えながら、灘嶺くんはなるべく気を抜いた声で応える。
「うん。眠れないよ」
「どうしてでしょう」
「ストレスだって先生は言ってる。結構揉め事も多いしさ、あんまり見たくないような結末を見せつけられるようなことも往々にしてあるんだよね。俺が力不足だから」
「そんなことありませんよ! センセイは素敵なお方です!」
 そうやって言い切る姿勢が、灘嶺くんにとって、こうなんだか・・・・・・居心地の悪いような気分にさせられるようなものの一つなんだけれど……結局何も言えなかった。御船がそんなことを言うのは偏に灘嶺くんの為だとわかっているからだ。
 百パーセントの信頼はどうしてこんなにも怖いのだろう。信頼されるのは嬉しいことなのに、どうして不安になってしまうんだろう。ちなみにこの問題の答えは、人間は百パーセントの信頼は一瞬で百パーセントの憎悪と失望に変わる恐れがあると、心の何処かではわかっているからだ。けれど、灘嶺くんがこのことに気が付くのは、残念ながらもう少し後の話だ。
「だから、俺はそろそろヨガでも始めちゃおうかなって――あ」
「どうしたんですか?」
「十枝先生だ」
 灘嶺くんは珍しく目を輝かせる。目の先には、四十代前半くらいの医師がいた。遠目からでもわかるくらい姿勢がいい、凛とした男だ。灘嶺くんはとても楽しそうに「十枝せんせーい!」と駆け寄る。その瞬間、十枝は眉間にいきなり蝋燭を垂らされたかのような、不機嫌そうな顔をした。
「ああ、十枝先生これからご出勤なんですね。頑張ってください」
「もう来るなって言っただろ。何しに来たんだ」
「どうして? 俺は患者だよ。患者が病院に行くのに、何の不思議があるの?」
「ここはお前みたいな人間を救える場所じゃないんだよ」
「ねえ、どうして十枝先生は俺を嫌うの? 俺はこんなに善良なのに」
「お前のその善良さが、傲慢が、一体どれだけの人を地獄に落としてるんだろうな」
「地獄じゃない。天国に連れて行ってるんだ」
 正確には牧人の楽園だ。皆が憧れるアルカディア。御船は迎え入れられなかったアルカディア。
「お前の宗教では人が死んだ」
 十枝は淡々と言った。
「仕方ないことだったんだ。俺の所為じゃない」
「死んだのは事実だ」
「ああそうだよ、死んじゃった。でも、止められなかったんだ。ねえ十枝先生。俺、悪夢を見るくらい悩んでるんだよ」
「それで、もしかして赦されると思ってるのか?」
「少しは」
 灘嶺くんの言葉を聞いて、十枝は一瞬とても不愉快そうな顔をした。起こられるかもな、と灘嶺くんは少しだけ身構える。
 けれど、不愉快な相手にこれ以上構っていられないと判断したのだろう。灘嶺くんに出会うよりもずっと早いスピードで去っていく。しゃんと伸びていた背が丸まっていた。それが灘嶺くんには、とても残念だった。
 灘嶺くんはその背中を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
「なんなんですか……あの人」
 御船が嫌悪感丸出しの声を出した。御船は自分の好きな人が嫌いな人は滴、という典型的な考えを持つ側の人間らしい。
「あの人はね、カムカムハッピーで一番のお医者さん。俺の主治医に、一回だけなった人。それ以後は、主治医になりそこねた人」
「治療拒否ですか?」
「十枝先生っていうのは優秀なお医者さんでね、心理学的に有名な学者さんでもある。テレビによく出てるんだよ。主に新興宗教にだだ嵌りしちゃった女の人が、ニュースで取り上げられる時なんかは」
 そこまで聞いて、蝉である御船にもおおよその察しがついたようだった。素性が割れるや否や診察室から追い出された灘嶺くんは、そのあまりにストレートな対応に面食らって傷つきもしたけれど、同時に好ましくも思った。宗教というものがどうしても受け入れられない人間だって一定数はいるものなのだ。宗教の部分を政治や、贔屓のアイドルに置き換えてもいい。そういうものに一々傷ついてはいられない。
「御船さん、生き辛いなぁ」
「蝉の私には計りかねますけど、そうでしょうね」
「生き辛いでしょうよ、蝉だってさ。蝉なら尚更さぁ」
 蝉はビービー悲痛に泣き叫んでいた。本当は悲痛でもないのかもしれないけれど、そう思い込んでも構わない程度には煩く泣き喚いている。生き辛いよ、と灘嶺くんはもう一度繰り返す。
「どうなの? 御船さん。嫌なところも見ちゃったけど、それでも蝉になった御船さんは、アルカディアのことが好き?」
「私、あの人の言葉を聞いたら、なんだかこう、胸が苦しくなりました」
「十枝先生のこと? まあ、耳に痛いこと言ってるよね」
「でも、センセイのことやアルカディアのことを思うと心がキラキラするんです」
「俺のこと? ・・・・・・キラキラ? キラキラって、結構ふわふわな言葉だよね」
「私、センセイを見ると、こんな状況でも生きてやろうって思うんですよ。蝉になってでも、七年間を土で過ごす憂き目を味わっても、アルカディアに迎え入れられなくても、・・・・・・このキラキラを求めて、生きてやろうと思うんです」
 それはまるで向日葵のように真っ直ぐな気持ちだった。土に潜っている蝉が間違えずに夏に出てこれる蝉にふさわしい気持ちだ。
「だから、私はアルカディアを好ましく思います。十枝先生がどう思おうと、アルカディアのことをキラキラっと見ますよ」
「キラキラかぁ。なんか良い言葉だよね」
「ですね」
 そもそも蝉の目にちゃんとした色覚とか、その得体の知れないキラキラを感じられる心とかがあるのかなぁ、と灘嶺くんは思う。御船は何かに追い立てられるかのように灘嶺くんの元にやって来て、スピーディーに成果を上げられもしないこの状況に文句も言わない。何というか、それが酷く不気味だった。御船に迷いはない。ここにいることが、本当に神様の思し召しだったかのようだ。
「私、アルカディアの信者だった気がするんです」
 不意に御船はそう言った。そろそろアルカディアの宿舎の方に戻らないといけない、とそれとなく別離を仄めかした灘嶺くんに対しての、牽制みたいな言葉だった。
「だって、そうじゃありませんか? 私、こんなにアルカディアに心惹かれているんですよ」
「……心惹かれる、かぁ」
「あの先生――あ、睡眠薬をくださった先生の方ですよ。あの先生もおっしゃっていたじゃありませんか。記憶を呼び戻すには、自分が心惹かれるものに素直になった方がいいって」
 キラキラの源泉。御船の心に引っかかる、蝉と人間を繋ぐ何か。他人の心なんてわからないから、ましてや蝉の心なんて絶対にわからないから、灘嶺くんは黙るしかなかった。御船の人生だ。御船の好きにしたらいい。御船は人じゃないけれど。蝉だけど。
「でも、俺、『御船明』って名前の信者さんに会った覚えがないんだ」
「あんなに沢山信者がいるなら、センセイが覚えてなかったとしても不思議じゃないんでは?」
「御船さん、この仕事を続けるコツを、一つだけ教えてあげる。それは、人の顔と名前を忘れないこと。自分の名前も憶えてくれない人間を、人は信用したりしないよ」
 それは確かに灘嶺くんの才能の一つに数えられるものだった。誰かの前で話をするのが上手いこと、とにかく誰かを安心させようとして常に努められること、人の顔と名前をしっかりと覚えていられること。ともすればエリートセールスマンに必要とされるようなその資質たちが、教祖としての灘嶺くんのことを支えてきたのだ。
「それじゃあ、どうして私は、アルカディアにキラキラを感じるんでしょう……?」
 御船の声が途端に小さくなる。あっ、しまった、と灘嶺くんは心の中で舌打ちをした。例え灘嶺くんの記憶力に自信があったとして、御船明なんて名前の信者がいなかったとして、そのことを御船に断固として言い渡すことが正しいとは思えなかった。真実とか正論とか、そういうものって大体あんまり美味しくない。それはさっき十枝が証明したばかりのはずだった。
「……そうだよね。いくら俺が記憶力に自信があったとして、忘れてるかもしれないよね。ヒューマンエラーっていうのはどうしたって起こりうるものだし。ね、御船さん。とりあえず、アルカディアの合同生活施設に来てみる?」
「合同生活施設?」
「そのままの意味で、信者達が一緒に暮らしてる大きなシェアハウスみたいなところなんだけど。老若男女かいる老人ホームのイメージでもいいし、合宿所みたいなところをイメージしてもらってもいい」
「ほほう」
「そこに、御船さんの前世を巡る何かがあるかもしれない」
「本当に、私が行ってもいいんでしょうか?」
「そこで御船さんが何かを掴めるかもしれないからね」
 灘嶺くんはまっすぐにそう言った。元より、灘嶺くんは病院が終わったら真っ直ぐにそこに帰るつもりだったので、行きずりで話しかけられてしまった蝉に付き合って当てもない度に出るよりは、アルカディアに戻った方がいい。
「ありがとうございます! センセイ、ありがとうございます!」
 御船は大きく飛び上がって、嬉しそうに空中で一回転をした。なかなかメルヘンチックな光景だった。連想されるのは皆から愛される耳の大きなゾウさんである。
「御船さん御船さん。もし御船さんが死んだ原因が――俺とかだったらさ、御船さんは俺のこと憎むかなぁ?」
「そんなこと、怒りませんよ。死んでしまったものは仕方がないし、忘れてしまったものは仕方がないんですから。私がセンセイを恨むことなんて絶対ありませんよ。この世のある程度の物事は水に流せばそれで済むんですし、水に流せば済むようなことなんか、一度死んだ私に流せないはずあるわけないじゃないですか。だって、こっちは血まで流してるんですもん」
「はは、上手いこと言ったね」
「上手いこと言ったんでしょうか? これ」
 御船という名前の奇妙な蝉は、滔々と灘嶺くんの跡をついてくる。灘嶺くんはなるべく御船のことを意識しないようにしながら、アルカディアへの道を進む。血を流す、とかいう物騒な表現が耳に残った。御船さんは、血を流したんだろうか?
 灘嶺くんは血が嫌いだった。流れるところを想像するのも好きじゃない。単純に怖いからだ。流血沙汰は嫌い。好きなものは甘いものだ。
 真夏の太陽が遠目に見える景色を華麗に歪めてみせる時みたいな、力技の嫌な予感がした。

 アルカディアに着くなり、御船はその宿泊施設の端正さと、美しさと、システマチックな感じに驚いていた。この施設の建設費や運営費は主に寄付金で成り立っているんだよー、と灘嶺くんが言うと、御船は更に素直に驚いていた。それが灘嶺くんには嬉しかった。世の中の人はどうしたって汚いお金や裏のカラクリが無いと我慢できないものなのである。クリーンな状態なんてお呼びじゃないのだ。彼らの大半は泥にまみれたお話が好き。そうじゃないと、傷がついた脛を隠せないからだ。
「凄いですね。これが信者の皆さんの善意なんですね。喜捨なんですね」
 御船は素直にそう感嘆した。もしかするとそれは彼が蝉であって、傷つく脛を持たないからかもしれなかった。
 灘嶺くんは御船の言葉に答えないで、黙って奥へと進んで行く。数人の信者が灘嶺くんとすれ違って手を振ってくれた。誰も彼も、正気の沙汰じゃないくらい幸せそうな顔だった。
「あー、またこんなにお薬を貰ってきましたね。駄目だって言ったじゃないですか。ぷんぷん」
 応接室に着くなり、示し合わせたかのように一人の女性が部屋に入ってきた。ショートボブの黒髪に、少し吊り気味の目がシャム猫みたいで可愛い佐藤さんだった。有能な秘書兼お目付け役の彼女の言葉に、灘嶺くんは咄嗟に手に持っていた薬の袋を隠す。もう既に見咎められたものを隠したって意味がないのにそうしてしまうのは、彼が佐藤さんに怒られ慣れている所為だ。
「あんまりこういうものに頼っちゃいけませんよ、って私言いましたよね? 信者も含めて皆、センセイがこんなだと不安になるじゃありませんか。何の為に私はおやすみ前にホットミルクを淹れさせられているんです? ぷんぷん」
「だって……。というか佐藤さん、『ぷんぷん』っていう語尾はもしかすると俺を必要以上に怖がらせない為の処置なのかもしれないけど、無表情でやられても逆効果だよ……」
「ぷんぷん」
 佐藤さんはそのまま、長く長く溜息を吐いた。ホットミルクを淹れるのも、語尾に『ぷんぷん』と付けるのもさしたる手間じゃないから、佐藤さんは純粋に、灘嶺くんのことを心配しているのだと思う。優しい灘嶺くんは佐藤さんに少しでも心配をかけること自体が耐えられないのだけれど、如何せん、睡魔だけはどうしようもなかった。
 大抵のことには耐えられるつもりだったけど、眠れない夜の、あの段々とカーテンの向こうが青々としていく感じや、時計の秒針が擦り切れる音さえ聞こえてきそうなあの感じ、大好きなはずのタオルケットがどうしても身体に馴染まない感じ、『感じ』塗れで感覚器官だけがどんどん滲み出してような感じは、どうしても無理だった。あのフィリップ・マーロウだって、眠れない夜には手前勝手にギムレットを煽ったはずだ。そうであってくれ、と灘嶺くんは半ば祈りながら、タオルケットの中で丸くなる。
「……薬は治すものなんですよ。貴方、治す気はあるんですか」
「俺はマゾヒストじゃないんだよ。治るならとっくにどうにかしてる」
「自分では正確なところがわからないのが、ブラジャーのカップ数と性癖なんですよ。前者は下着売り場で、後者は五反田でしかわからない」
 果たして、佐藤さんは五反田に行ったことがあるのだろうか?
「佐藤さん、佐藤さんって五反田行ったこと――」
「センセイ、田辺新美さんは、勝手に死んだんですよ。アルカディアに魅せられ過ぎて、自分で死を選ぶことも全く恐ろしくなかったんでしょうね」
 灘嶺くんの存外真剣な質問は、あっけなく無視された。それと入れ替わりに、聞きたくもない言葉が耳に入ってくる。
「天国は死ぬ為の場所じゃないのに」
「田辺新美さんにとってはそうではなかったんでしょうね」
 淡々と佐藤さんはそう告げる。
「私が言いたいことは主に二つです」
「はい」
「あんまり人の死に気を揉まないこと。お薬は用法要領を正しく守って、なるべくなら飲まないこと」
 佐藤さんはびしりと指を二本天井に向けて突きだした。あまりに堂々とし過ぎていて、灘嶺くんはそれが純然たるピースサインであることを一瞬忘れかけた。平和からかけ離れたような表情をしている佐藤さんがやると、まるで目潰しのジェスチャーに見えて少し怖い。
「……肝に銘じておきます、脳味噌がそれに従ってくれるかはわかんないけど」
「んふふん」
 佐藤さんは灘嶺くんの返答に満足したのか、楽しそうな声を上げた。それでも、彼女の表情は殆ど変わらない。彼女の中の神様は、ポーカーフェイスをお好みなのだろうか? と灘嶺くんは本気で思う。何でもかんでも神様に絡めたくなるのも、一種の職業病なのかもしれない。
「俺からも二つ、聞いてもいいかな?」
 佐藤さんの真似をして、灘嶺くんもピースサインを向ける。贔屓目かもしれないけれど、特に物騒な要素は見られない。ピースサインの威圧感は、人によりけり。
「どうぞ」
「アルカディアに、『御船明』っていう名前の信者はいたかな? 俺には正直覚えがないんだけど」
「いません。私が覚えている限りでは」
 やっぱりな、と思う。自分の記憶力に自惚れているわけじゃないけれど、少しいい気分にはなった。灘嶺くんは信者のことを絶対に忘れたりなんかしない。しないからこそ、こんなに苦しんでいるのだから。さながらスティグマだ。灘嶺くんが少しでも自分の抱え込んだ宗教という代物に疑念を抱いた瞬間、そのスティグマは赤く鈍く痛むのだ。
 十枝のような態度を取る人間を見てもそうだ。『理解されないものである』ということを意識した瞬間、灘嶺くんはそれと戦わなくてはいけない状況に追い込まれる。
「それで、あと一つは?」
「うん?」
「あと一つの質問ですよ」
「ああ、そうだ」
 灘嶺くんは辺りを見回す。御船の姿が見えなかった。室内に佐藤さんの存在を認めた瞬間、サッと隠れたのかもしれない。
「佐藤さん、蝉は好き?」
「好きですよ」
 サラリと答えられてしまった。女性は須らく虫が嫌いなものである、という信仰が崩れた瞬間だった。
「私、秩父出身なので、よく見かけたんです。捕まえたりもしました」
「へえ、なんていうかその、意外」
「別に蝉の造形や生き方や鳴き声やくりくり黒目が好きだったわけじゃないですよ。そんなのは全然評価対象になりません。ただ、蝉は簡単に捕まりますから。鳴くのに必死過ぎるのか、生きるのに必死過ぎるのか、凄く簡単に捕まるんですよ。それこそ素手でも」
「素手かぁ……あんまり触りたくないけどな」
「簡単なものっていいですよ。簡単に捕まるもの。簡単に手にはいるものは、簡単に愛せるんです。そうして、すっかり好きにさせられました」
 その瞬間、佐藤さんがこらえきれなかったかのように、ふふっと小さな笑い声を漏らした。口元が小さく逆アーチの形を作る。夏の熾烈な日光の下では幻聴と間違えても差し支えないくらい、唐突で素敵な笑顔だった。
 もしやアルカディアも佐藤さんにとっては蝉と同じ? と聞こうとして踏みとどまった。久しぶりに理性的な判断だった。
 不意に、応接室にノックの音が響いた。規則正しい間の後に、一人の男性が部屋に入ってくる。所場博文。ちゃんと名前を思い出せたことに安堵した。所場は、佐藤さんに何やらを耳打ちすると、また慌ただしく出て行ってしまった。佐藤さんの顔が露骨に不機嫌そうになる。さっきまでの笑顔なんて欠片も無かった。
「センセイ、お手数ですが、正門の方には行かれない方がよろしいかと」
「何で?」
 佐藤さんは溜息を吐きながら、事の顛末を話してくれた。思わず、灘嶺くんも顔を曇らせる。あまりいい話じゃなかった。夏になってからは、いい話の方が少ないような気さえする。
「尚更、俺が行った方がいいんじゃないの?」
「貴方の御言葉は届きませんよ。ああいうのは、動物か何かだと思った方がいいんです」
 でも、俺の言葉は蝉にも届いているようだよ? 灘嶺くんは薬の袋を手近にあったテーブルに放り投げながら思う。
「まあ、気が向いたら見に行くよ。……大丈夫、別に。俺が見ておきたいだけだし」
「センセイがそうおっしゃるのなら、止めませんけど」
「うん」
 灘嶺くんはただ頷く。


「御船さん? 御船さーん」
「はい」
「うわっそこにいたの」
 応接室から廊下に出て、一声呼んだ時にはもう御船は背後にいた。鳴かない蝉の静かなことを思い知る。ビジュアルだけで煩い存在だから、そんな単純なことにすらなかなか気付けなかった。
「センセイがお入りになる部屋の中に女の方が見えたものですから、部屋に入るのが躊躇われましてですね」
「あー、別に入っても良かったのに。佐藤さんは蝉が好きなんだって。きっと殺されたりしなかったよ? ああでも、捕まえるのが好きって言ってたからそれはそれで危なかったかな……」
「私、死ぬのが怖いんですよ」
 ポツリと御船がそう言った。
「廊下で一人で考えていると、何だか怖くなってきたんです。蝉に生まれ変わったところまではよしとしましょう。でもそこからは? 死んだら、どうなるんでしょう。御船明としての意識はどうなるんでしょう。私、本当にアルカディアに迎え入れられるんでしょうか」
「迎え入れられるよ。だって、御船さんは本当に善良な人だったんでしょ? 大丈夫だよ。怖がることなんて何もない。人は皆、幸せになれるんだ。最終的には皆お誂え向きのハッピーエンドが待ってるはずなんだ」
「私は蝉です」
 言い切る言葉に迷いが無くて、内心ギョッとする。
 動揺する灘嶺くんを余所に、御船は窓の外に見える中庭の子供達にご執心のようだった。何がおかしいのかもわからない子供達の嬌声が聞こえる。今の子供はもう虫捕りなんかはしないのだろうか。
「……私もここに入っていれば良かったのに。そう思います。信者は皆幸せそうじゃありませんか。そうですよ、シンプルな教え。規則正しく楽しい共同生活。死後の幸せの確約。信者達からの善意の寄付で成り立つ運営。非の打ちどころがありません。ああ、そうだ。ここに入信していなかったからだ、そうです。私がアルカディアの信者じゃなかったから……こんな、蝉なんかに生まれ変わっちゃったんです……」
 御船の言葉にはジリジリという奇妙なノイズが混じっていた。それはさながら、蝉の羽音のようだ。寒気がする。御船の言葉が熱を持てば持つほど、灘嶺くんの心の内は冷えていくみたいだった。どうしてだろう。アルカディアを讃えてくれる嬉しい言葉なのに、凄く怖い。
「御船さん、あの、ちょっと落ち着いてもらえるかな」
「ねえ、そうじゃありませんか? 私がやり残したことっていうのはこれですよ。アルカディアの信者にならなかった前世の私の代わりに、今の私がセンセイの御言葉を受けなくちゃいけないんです。ああほら、センセイを見ているとキラキラが、キラキラが溢れてくる」
「御船さん、わかったから。ねえ、とりあえず落ち着いたらいいよ。ね? もうじき夜になるよ。だから、一旦外に出てくれないかな? あの、明日にはさ、御船さんの部屋を用意させるから。ね?」
「ああ、大丈夫です。センセイの言う事なら何でも聞きます。部屋も要りませんよ、蝉ですから。とりあえず、外に出た方がいいんですかね?」
「うん。でも、あんまり人に見られるとまずいから、そっちの窓から出て。それで、来る時にくぐった正門の方には絶対に行かないで」
 灘嶺くんは懇願するような口調でそう言った。もし御船に掴むだけの肩があれば、掴んで縋っているかもしれない。そのくらい必死だった。
 灘嶺くんの気色ばんだ表情を見て、御船はそのまま一礼をして(蝉が一礼だなんて! 灘嶺くんは密かに頭を抱える)御船の、出会った時よりずっと耳障りになった羽音が聞こえなくなるまで待って、灘嶺くんは正門の方へ向かった。
 正門前で、一人の中年女性が泣いていた。佐藤さんの報告通りの光景だった。一見するとアルカディアに救いを求めに来た人間のようにも見えるけれど、叫んでいる内容があからさまに違う。眉を顰めた。
「息子を返してください! お願いします! 何でもしますから! お金も払います! 息子を抜けさせてください! 何でもしますから!」
 黙って見ている灘嶺くんの元に、佐藤さんとはタイプの違う美人が走ってきた。信者の一人、高田さんだ。駆け寄って来たくせに、彼女は何も言えずに黙り込む。言うべき言葉が見つからない。灘嶺くんにあんなものを見せてしまったことに、彼女はあっさりと絶望している。ああ確かに、と灘嶺くんは納得する。こんな程度で絶望しているようじゃ、確かにアルカディアの外では生きて行けやしないだろう。
「あの人の息子さん、返してあげなよ」
 灘嶺くんは淡々と言った。子供を産んで手塩にかけて育てて愛を捧げてきた子供なのだろう。彼女は親なのだ。親なのに、あんなに地面に這いつくばって泣いて喚いて、アルカディアに懇願している。アルカディアに懇願する人間は多いけれど、あれは種類が違った。高田さんは悲しそうに首を横に振る。
「駄目ですよ、センセイ。私達はあの方の息子をアルカディアの施設から退所させようとしたんですが、彼は頑なに拒否しましてね。自分を追い出すなら死んでやると言って、今朝がた酔い止めを百六十三錠も飲んで自殺をはかりました。幸い命に別状はありませんでしたが、今は眠っています」
 素晴らしい袋小路だ、と灘嶺くんは舌打ちを返す。誰かの幸福と誰かの幸福は同じ形や色をそているとは限らないのだ。牧人の楽園アルカディア。個々が望むその場所にあるものは、同じとは限らないのである。
「彼はここでしか生きられないんだそうです。バナナフィッシュを思い出しませんか、センセイ」
 高田紫央奈はなかなかいい文学趣味をしているらしい。灘嶺くんは誰であってもサリンジャーを読んでいれば相手をなかなかいい趣味の人間だと思うのだ。そういうささやかな価値観でさえも違うのだから、況や幸せをや? ……そんなことじゃ駄目なのだ。アルカディアは皆を幸せにする為に生まれたのだから、誰かが不幸になってはいけないのである。皆の幸せの形は一つでなければ。
 灘嶺くんはこれを御船に見られるのを恐れた。今も怯えている。何故だろう、とても嫌な予感がした。そろそろ、あの中年女性を引き剥がしに警備員が駆けてくる。彼女がまるで変質者みたいに追い出されるのを見て、灘嶺くんは何もしない。
 さて、一体誰が信じるものが幸せだと呼ばれるのだろうか?

 アルカディアに入らなかったことを後悔して、蝉になってまでこの世に戻ってきたという話を、御船はそれから三日間の間真摯に信じ込んでいた。灘嶺くんの宿舎に泊まり(実際にはそれは、留まると言った方が正しいけれど)、灘嶺くんは神様の話やどうして人は生まれて来たのかみたいな話をするのを、ただ熱の籠ったキラキラとした目で見るだけで、彼は無邪気に満足しているようだった。
 灘嶺くんは、気が滅入っていた。佐藤さんに約束させられてしまったから、オーバードーズなんて絶対にしない。それでも、心底気が滅入っていた。
 そもそもアルカディアという存在が人によって幸せそのものにも害悪そのものにもなることを知ってしまった灘嶺くんは、多分御船の無邪気な盲信を怖れていたのだと思う。一向に昔の記憶を取り戻さず、ここに幸せを見出す御船のことを、どうしてこうも不吉に思うのか。灘嶺くんは本当は蝉が嫌いなんじゃないかと本気で悩んだ。思春期の虫取り少年が陥りそうな煩悶だった。
 蝉の寿命が七日間であるという話を、灘嶺くんはそこまで信じていない。だって、そんなのは美し過ぎるからだ。神様が世界を作った日数と、たかだか蝉の寿命を合わせる必要が一体どこにあっただろう? 気に食わない。
 ともあれ、その俗説で言えば、御船はそろそろ死ぬはずだった。蝉にしては長生きをしたとしても、二・三日の違いだろう。御船は蝉だけれどアルカディアの信者だから、きっと、あそこの部屋で死ぬ。人一人が優に暮らせるあの部屋で、蝉だけがコロンと転がって死んでいるのを想像すると、無理矢理蝉を食わされたような気分になった。
 灘嶺くんは、もうアルカディアで人が死ぬのを見たくはなかった。
 御船は蝉だけれど蝉じゃない。人の言葉を話している時点で、灘嶺くんの中で御船は蝉じゃなくて人間だった。七日間しか生きていなくても、人間だ。
 どうすればいいかわからなかったし、今更御船を追い出すほど冷酷になれないから困る。袋小路もいいところだった。
 袋小路に追い詰められた人間は大抵の場合そこで死ぬ。袋小路に追い詰められた人間には羽が無い。

 袋小路状態の転機はやっぱり羽のある生き物の方からもたらされた。三日目のある日、御船は急にいなくなってしまったのである。
 御船の部屋を尋ねるのは灘嶺くんの一応の日課となっていた。会いに行くというよりは生死の確認をしているのに近い、何だか歪んだ訪問だった。
「御船さーん。御船さん?」
 いつもなら蝉にしては礼儀正し過ぎる挨拶が返ってくるのだけれど、その日は何の物音も返ってこなかった。灘嶺くんは半狂乱で部屋に飛び込み、御船の姿を探した。正確には死体を探したのだ。とうとう御船が死んでしまったのだと、灘嶺くんは叫びだしそうな焦燥に襲われた。けれど、そういうわけでもないらしい。御船は、自分の意志でここを飛び立ったのだ。灘嶺くんにはわかる。
 何しろ、御船の部屋の机がじっとりと濡れていたからだ。真夏だというのに、その湿りけは拭いさられていない。直感的に、あるいは思い込みに似た一途さで、灘嶺くんはそれが涙だと悟った。きっと、舐めたら塩辛い味がする。蝉に涙腺があるとは思えないけれど、御船はまだ人間なのだ。涙くらい流せるだろう。
 この夏の苛烈さにも関わらず机が湿っているということは、御船はさっきまでこの部屋にいたのだ。この部屋で涙を流して、そうして飛び立ったのだ。じっとりと湿った気持ちの悪い表面を撫でながら、灘嶺くんは決意した。御船を探さなくちゃいけない。蝉はそんなに長く遠くへは飛べない。ここに来るのだって、ちゃんとタクシーにひっついてきたのである。ということは、まだ灘嶺くんの探せる範囲にいるに違いない。
 蝉を探すのなんて初めてだった。入ってくるのと同じくらい勢いよく外へ飛び出しながら、灘嶺くんは思う。長らくインドア派を貫いていた灘嶺くんは虫捕りに行ったことがない。でも、大体蝉のいそうな場所はわかった。小説や漫画やドラマや映画のお陰である。何事もイメージが大事。
 アルカディアには信者の情操の為に綺麗な森が設置されている。何から何まで人の手が加わった人工的な場所だけど、無いよりはいいと思った。そもそも、絶対に本物がいいとは限らない。
 蝉はそこまで体力がないらしい。御船は森の入り口で見つかった。一年前に植えられたばかりの真新しい木に、黙ってしがみ付いている。蝉の区別なんかつかないけれど、灘嶺くんにはそれが御船であることが何となくわかった。
 彼はただ黙っているのではなく、何かに反抗するかのように沈黙していた。
「御船さん、どうしたの」
 灘嶺くんは、恐る恐る尋ねる。
「どうしたの、とは」
 御船が声を返してくれたことで、灘嶺くんは少しほっとした。
「だって、急にいなくなっちゃうんだもん。……あの部屋に入った時、凄く怖かった。俺、ああいう部屋の感じ、前にも経験したことがあるんだ。……あの、何とも言えない、嫌な感じ」
 灘嶺くんは苦虫を噛み潰した時のような顔をして、軽く左右に首を振る。けれど、悪夢は出て行かない。神様の加護を説いているはずの灘嶺くんは、今夜も睡眠薬無しでは眠れない。悪夢の糸を辿り、原因を掬い取る。灘嶺くんは、そこに蝉の影を見ていた。その気になれば、鳴き声の幻聴だって思いのままだろう。
「でも、そのお蔭で、御船さん。あんたの正体がわかりました」
「……はい」
 まるで名探偵か何かのように灘嶺くんはそう告げる。こんな物言いをするのはこれっきりだ。灘嶺くんは教祖であって名探偵じゃない。真実を究明するより、真実を隠蔽してでも誰かに幸せになってもらいたい。
「とはいっても、消去法なんですけど」
「消去法はどんな局面でも使える魔法の戦術ですよ。試しにセンター試験で消去法禁止令を出してみてでもごらんなさい。平均点は大きく下がりますよ」
「ありがとうございます、御船さん。っていうか、御船さんって呼んだ方がいいんですかね?」
 軽く首を傾げて、灘嶺くんは微笑みかける。御船以外の蝉は、まるで灘嶺くんの言葉に対して激しいブーイングを投げかけるかのように鳴いている。どいつもこいつも自分のことしか考えていない癖にうるせえよ、と灘嶺くんは思った。灘嶺くんだって今、自分のことしか考えていないのに。
「どういう意味でしょう」
「貴方、御船明さんじゃないんですよ。……多分、貴方の本当の名前は田辺新美さんだ」
「……素敵な名前ですね」
「御船さんはね、多分どっかで、御船さんの名前を見たんだよ。田辺さんが死んでから数日の内に、『御船明』っていう名前の男が死んだんじゃないかな? それを見て、田辺さんは自分を御船明だと思い込んでしまった。何故なら、田辺さんは、……自殺までしたんだから、もう田辺新美さんでいたくなかったんじゃないのかな?」
 自分の推理を滔々と語るのはなんだか恥ずかしいような、いたたまれないような、そんな気分だった。証拠なんて何一つ無い。ただ、何となく、そう思っただけだ。アルカディアに縁のある死者なんて、田辺新美くらいしかいなかった。数日前に正門の前で騒いでいた女性の息子は、今だってちゃんと生きている。
「田辺さんは田辺さんって名前に聞き覚えはないかな? 引っかかるところは? 丁度、半年前くらいのことだ。田辺さんがあの宿泊施設の一室で、首を吊って死んでいた。遺書も無かった。前触れも多分無かった。……田辺新美さんがどうして死んだのか、俺にはわからない。でも、俺はあの日から、俺の作った宗教の何がいけなかったんだろうって、ずっと眠れないでいる」
 佐藤さんや幹部の松永さんやその他いっぱいの人が、灘嶺くんにそれを見せまいと必死になっていたのを思い出す。灘嶺くんの教団なのに、灘嶺くんが起こっていることを知らないなんて妙だ。だから灘嶺くんは、制止を振り切って田辺新美の部屋に入った。あの時、得体の知れない嫌なものを感じた。今朝御船の部屋に入った時と同じだ。
 田辺新美の死体の印象は虫に似ていた。人間の形をしているのに、それはもう人間じゃなかった。
 灘嶺くんは言葉が通じないものが苦手だ。
「間違ってたら、ごめん。怒る?」
「怒りませんよ、そんなことじゃ」
 御船は、とても穏やかな声をしていた。灘嶺くんの周りを飛び回るんじゃなく、蝉らしくちゃんと木に留っているからかもしれない。黒くて丸い、ビーズみたいな目は本当に灘嶺くんのことを見えているのだろうか、と思う。
 一拍置いて、また話し出す。
「それで、よかったら、教えて欲しい。……田辺さんは、どうして死んだのかな? 田辺さんは、それを伝える為に、蝉になって戻ってきたんじゃないかな」
 生まれ変わりなんて信じていなかったけれど、もしそういうものがあるのなら、多分この為にあるはずだ。伝えられなかった思いを伝える為に、御船が言っていた『キラキラ』の正体を、伝えて欲しい。
 そして、なるべくなら彼は、田辺新美にとってアルカディアが安息の地であったと言って欲しい。そうじゃなくちゃ、これからも灘嶺くんは眠れないからだ。
「……私は、センセイの期待に沿えませんよ」
 御船の声が響く。蝉の鳴き声とは程遠い。でも、うら若き女の子とも違う声だ。
「わからないんです。田辺新美がどうして死んだのか」
「それは、思い出せないってこと? それとも、俺の話は全然見当違いで、御船さんは田辺新美さんと何の関係もないってこと? ねえ、御船さん」
「見当違いじゃありませんよ。私は、全部全部思い出しました」
「え、本当?」
「でも、彼女が死んだ理由なんて、わからないままです」
 どういう意味? と灘嶺くんが聞くより先に、御船が木から離れた。空に放たれる時の羽音が、如何にも蝉です、と言わんばかりの濁音で、灘嶺くんは少し驚く。
 御船のことが握りこぶし大の点に見える程度の距離をとって、今度こそ御船と灘嶺くんは向かい合った。息を飲む。
「ねえ、センセイ。御存じですか。蝉はね、暑さが苦手なんですよ。蝉の寿命が七日間しかないのは、暑さが苦手なのに、夏に土から出てくるからなんですよ。季節外れの蝉なんかは寿命が長くて、一ヶ月ほど生きるんです。なんででしょうねえ。それなら秋に出てくればいいじゃないですか。どうしてそんなこともわからないんでしょう」
 蝉が蝉について語るのは、なんだか気味が悪かった。これは他の生き物にも当てはまることかもしれない。猫が猫について語るのも。クジラがクジラについて語るのも。人間が人間について語るのも。それなら、人間が神様について語るのは? セーフだろうか? アウトだろうか? アウトじゃなくても、気持ち悪くない?
「……御船さん、あの」
「でもね、ようやくわかりましたよ。彼らにも彼らで夏に出て来なくちゃいけない理由があるんですよね。蝉には蝉の理由があるんです。狂おしいほどの夏に出て来なくちゃいけない、キラキラの理由が」
 御船の周りに、得体の知れないキラキラが取り巻いている。
「新聞のコラムだったかなぁ、そういう話を読んだんですよ。私が新聞をあんなに真剣に読んだのは初めてだったかもしれないなぁ……。新美の名前が無いか、アルカディアの糾弾記事が無いか、目を皿にして探したんだ」
「……………………」
「御存じですか。今日、新美の誕生日。生きていたら、二十一歳でした。ああ、あの子、夏が似合う子でしょう。夏に生まれたからなんですよ。あの子ほど太陽が似合う子はいなかった」
「うん、新美ちゃんは、……夏が似合う子だった」
 田辺新美が死んだのは、寒さの厳しい冬の朝だった。
「新美の誕生日に、間に合わなくちゃいけなかったんだ」
 影みたいな御船の姿がぐらぐらと揺れていた。
「思い出したのは、昨夜、信者達のとある怪談話を聞いていたからでした。他愛の無いきっかけでしょ? 蝉が聞き耳を立てているとかいないとか、普通の人間は気にしないんですよ。夏に相応しいものは蝉と怪談話ですよ。ねえ、新美が使っていた部屋は悪魔の部屋って呼ばれているんでしょう? アルカディアの教義では道徳的に問題のあるものはいけないってされているんでしょう? 自殺なんていけないことですもんね。新美はアルカディアに迎え入れられず、地獄の山羊に食い殺されるんですって。何度も何度も何度も」
 灘嶺くんはそんなことを教えたつもりはない。自殺は確かにいけないことだけれど、そんな、地獄にいる山羊に食い殺されるとか、そんな怖いことは絶対に言わない。そんなことを聞いたら、灘嶺くんは怖くて死ぬに死ねなくなる。
「…………フラッシュバックとはこのことだと思いました……。ねえ、危うく忘れるところでした。あのキラキラ、アルカディアを、センセイを見た時のあのキラキラの正体がようやくわかりましたよ。憎悪ですよ憎悪。どうして気が付かなかったんでしょう。天才と馬鹿とは紙一重だっていいますけど、性質の違うものは紙一枚隔てたところに置かなくちゃいけないって、誰が決めたんでしょうね? 神様? あの綺麗なキラキラの正体がこんなものだなんて酷いや!」
 御船の声は段々と大きくなっていく。あの小さな身体の何処から声を絞り出しているのかまったくわからない。
「御船さん、あの、ちょっと、帰」
「そうです! 田辺新美は私の実の娘! 離婚して母親に引き取られてからは普通に会ったことはありません! でも幸せでいてくれていると思っていました。アルカディアなんてクソみたいな宗教に! 娘がハマって死ぬまでは! 母親が泣きながら報告してきました! 妙な宗教にハマってから娘をほったらかしていたらいつのまにか娘は原因不明の自殺をしちゃってたってさ!」
「帰りたい……」
 一刻も早くここから逃げ出したかった。さっきまでの名探偵っぷりは何処へやら。仕方がない。灘嶺くんは名探偵じゃなく単なる宗教家だ。
 灘嶺くんはどうして名探偵が真相を話そうとしている間犯人はうかうかとそれを聞いちゃったりしているのかなぁと常々思っていたものだけど、何となく理由がわかる。――逃げられないよ。こんなに怖い状況でさぁ。
「俺は新美の母親を責めた。どうして新興宗教になんかハマってるのに、助けようとしなかったんだって! そうしたら、ふふ、幸せそうだったからって。赦せんよなぁー、アルカディアは妙な壺を買わせたりしない、寄付を強要したりしない。馬鹿か! 騙されてるんだよ! 新興宗教なんてものはいつだってトラブルの種だろうが! 不幸の源泉だろうが! どうして新美を助けなかったんだ!」
「……御船さん、田辺さんが死んだのは、アルカディアの所為かな? 田辺新美さんは、特に遺書とか、ダイイングメッセージとか、そういうものを残していなかったはずなんだけど」
「わからないなら、こじつけるしかないだろうが」
 なるほど、それはとてもシンプルな方法だった。
 よくよく考えれば、灘嶺くんの手前勝手な悪夢やトラウマも、そうしたシンプルな方法に則ったものじゃなかっただろうか? 灘嶺くんは、田辺新美が死んだ理由がアルカディアであることが怖くて、そういうことになってしまっていたんじゃないの?
「俺は母親を刺し殺したよ。新美を助けられなかった罰だ。続いて俺は、自分の喉に刃物を突き立てたんだ。新美を助けられなかった罰だ」
 灘嶺くんは新聞を読まない。傷つきやすい灘嶺くんが楽しく見られるページが、恐ろしいほど少ないからである。田辺新美の自殺と違って、その件は大いに報道されただろう……。でも、確かあの時期は中学生が同級生を誘拐してどうこう、みたいなセンセーショナルな事件が起こっていた気がするから、ありきたりな心中事件なんて見過ごされていたかもしれない。
 そうして、御船明は蝉になる。
 気が付いたら、彼は蝉になっていた。時空も記憶も歪んで、七年間を土の中で過ごす。彼はただ、自分の信じるキラキラを信じて夏に這い出て、灘嶺くんの語る神様の話を聞く。
「そうだ、お前だ。お前が新美を殺したんだ。そうだ、だから俺は、俺はお前に、アルカディアに復讐を」
 キラキラが止まらない。蝉を迷わず夏に導く目的が滾る。彼らの多くはただ漫然と遺伝子のリレーを繰り返している。それが彼らの輝きだから。ああ、灘嶺くんが少し前まで絶望していたそれの、健全さといったら!
「御船さん。あんたはアルカディアに救われる側の人間だと思ってたんだけど」
「救われない。忘れない。七年土にいたって、忘れない。思い出したよ。センセイ。俺は、お前に、復讐する為に出会ったんだ。神様がその機会を与えてくれたんだ」
「ねえ、御船さん。御船さんは神様を、信じて――」
「それに今の俺は人間じゃない。ただの蝉だ」
 何を今更、と思う。御船が本当の蝉だったら、そんな悲しみも、そんな激情も憎しみも持ち得ないだろう。彼は灘嶺くんの周りにいる生き物の中で、今週はトップクラスに人間だった。アルカディアの信者の中には、一週間丸々アニメの再放送を惰性で見続けて潰す人間だっているというのに!
 それでも、灘嶺くんは少しだけ期待する。人間だった頃の御船がおよそ理解し得なかったアルカディアというものに、彼は蝉になって触れたはずだった。そして、あんなにキラキラしながらその素晴らしさを汲んでくれていたはずじゃないだろうか? ……あの時の言葉が、色々な誤解の賜物であったとは、あんまり考えたくない。
「それで、御船さんは・・・・・・その、どうするんですか。これから。し、進退とか?」
 蝉は表情が変わらないので、一縷の期待をこっそり掛けた。でも、そう上手くはいかないらしい。蝉の無機質でつやつやとした両目に、灘嶺くんのひきつった笑顔が映る。
「殺してやる」
 夏に似合わない重苦しい声がした。夏の風物詩失格だと思う。
「そういうの、やめようよ」
「来世では控えよう」
 今世で控えてくれる気は、どうやらなさそうだった。
 なんてこった、完全に失敗だった。何が名探偵だ。こんなにも殺意というものに鈍感だった癖に!
「……蝉に、人が殺せるんでしょうか」
「残念ながら」
 そう言うと、御船は急に歩道側へ飛んでいった。公園から一歩出れば、そこは人と車が行きかう何の変哲もない道である。一人の会社員がスーツに汗染みを作りながら、歩道を赤い自転車で走っていた。自転車で歩道を走るのは、あまりよくないことだ。でも、悪人と呼ぶほどじゃない。
 会社員は熱にあてられて、大きく旋回して近づいてくる御船にまだ気が付いていないようだった。大多数の人間は虫をそこまで警戒しない。だからまんまと、顔に突っ込まれてしまうのだ。
「うわっ!」
 御船に突っ込まれた会社員が、勢いよく車道側へバランスを崩す。いきなり顔に蝉が飛んできたら、大抵の人間は動揺する。それが人間の知能と悪意を持った蝉なら尚のことだ。御船は飛びついた会社員の眼球に足を掛けてから、また飛び立っていく。それと同時に、会社員の顔が地面に着いて、鈍くて嫌な音を立てた。
 会社員に向かって運送屋の軽トラックが突っ込んできたところで、灘嶺くんはたまらずに反対側へ駆けだした。背後で悲惨な音が聞こえた気がするけれど絶対に気にしない。灘嶺くんの大嫌いな、臓物を撫でさすられるような悲劇の予感がした。それは全て怒り狂った御船の行き場のない憎しみと無差別な暴力衝動の所為で、それらは全て灘嶺くんを苗床としているのである。
 どうしてこうなったんだろう。救いを求める者に手を差し伸べすぎたからだ。そもそも、蝉に手を差し伸べて俺はどうしようと思ってたんだ! ジーザス! 灘嶺くんは久しぶりにこんなに鮮烈な後悔をした。体が震える。蝉が怖い。
 真夏に走り回るなんて正気の沙汰じゃないけれど、逃げなくちゃ殺されるのが明白な状況で、逃げない人間はいない。インドア派の灘嶺くんはすぐに日光に足を取られた。殆ど吐きそうになりながら走る。御船は訳の分からない叫び声をあげていた。怖い怖い怖いよ! けれど、灘嶺くんの元に神様からの助けは来ない。
 アルカディアの建物内に入り、急いで扉を閉める。ぜえぜえという大袈裟な呼吸音は蝉の羽音よりもうるさい。
「ううぅ……ひいいいぃ……」
 なんて鮮やかな手の平返し。コペルニクスもびっくりの転回! 人間の価値観は気分次第でいくらでも変わる。そのことを灘嶺くんは深く思い知った。目の端に涙が浮かぶ。こんなはずじゃなかったのに……という弱々しい呟きが漏れた。
「そうとも。俺だってこんなはずじゃなかったよ」
 背筋が冷えた。オーソドックスなホラー展開は、実際に経験するとこんなにも怖い。
 灘嶺くんのすぐ真横に、御船がいた。一体何処から入って来たんだろう。何処からでも入って来れるさ、だって、蝉だから。
「逃げられると思うなよ、センセイ」
 灘嶺くんは転がるようにして、御船から距離を取った。もつれた足を懸命に走らせて、廊下の奥へ向かう。震えた手でドアノブを握った。バッと室内に入る。そこで、とうとう足が動かなくなった。膝を誰かに掴まれているかのようで、もう少しも逃げられない。
「室内に逃げたな! 室内に逃げたな! 逃げ場はどんどん無くなるぞ! お前の体内に入って内臓を食い散らかしてやる! 死ね! 死ね!」
「うわああああん! 助けてえええええ!」
 そんなことを言われているのだから口を閉じてしまえばいいのに、灘嶺くんは大声を上げて泣き叫んだ。これが今までやってきたことの報いなのかと思うと、やりきれない。灘嶺くんに悪意なんてこれっぽっちも無かったのだ。
「新美の仇だ」
 御船さんのハードボイルドな処刑宣告が響く。灘嶺くんは目を瞑った。万事休す。休んでいる場合じゃないのに。その時だった。パアンと銃声のようなものが響いた。驚いて灘嶺くんは目を開ける。平和主義者の集まりであるアルカディアで、響いてはいけない音だった。
 涙でぼんやりとする視界に、見慣れた顔が映る。蝉には見えなかった。
「大丈夫ですか、センセイ」
「佐藤さん、佐藤さんだ……」
「すいません。センセイのお部屋に勝手に入ってしまって。センセイが朝ごはんを食べにいらっしゃらないので、心配していたんです」
「いや、それはいいんだけど……心配かけてごめん……」
 灘嶺くんはようやく、佐藤さんの今の状況を把握した。彼女は仁王立ちで灘嶺くんの前に立っていた。右手には、丸めたクロスワード雑誌が握られている。灘嶺くんを待っている間、解いていたのだろう。
 その雑誌の表面に、何かがこびりついていた。いや、何かと呼ぶのも白々しい。そこにひっついているのは、紛れもなく蝉だった。
「どうかしましたか?」
「いやあの……佐藤さん……」
「はい」
「佐藤さんって、蝉、好きじゃなかったっけ……?」
 色々言いたいことはあったはずなのに、それだけが口を衝いて出た。夏の風物詩ですからね、と軽やかに言ってのけた彼女の笑顔を今でもまだ鮮明に思い出せる。ハードボイルドな彼女の笑顔は貴重で輝かしいのだ。それはもう、凄く。
「ああはい、好きですけど。でも、センセイったらまるで蝉に殺されるんじゃないかってくらい怯えていらっしゃったので。処分しました」
 事も無げに佐藤さんはそう言った。最早佐藤女史とか、そういう風に言った方がいいんじゃないだろうか? と思うような貫禄だった。聞いてしまえば単純な理由である。大事な大事な灘嶺くんが、蝉を怖がっていたので排除した。ええ、はい。素晴らしく明解な行動だったわけですね。
「センセイ、蝉がお嫌いだったんですね。少し前に蝉と一緒に歩いているところを見たばかりだった気がするのですが」
「佐藤さん。人間っていうのは一クール毎に嫁を取り替えたり、抱いていたシャチのぬいぐるみを明日には捨ててクジラに抱き替えたりする生き物なんだよ」
 灘嶺くんは丸めた雑誌に貼りつく御船の欠片と、床に散らばる御船の大部分を交互に見た。完膚なきまでに死んでいた。酷くて惨い死にざまなのに、蝉であるというだけでこんなにも精神的ダメージが少ない。なんて素晴らしい蝉補正。
「殺しちゃったね……」
「殺しちゃいましたけど。もしかしていけませんでしたか? アルカディアの教義に蝉を殺してはいけないとは載っていませんでしたけど。あと、人間以外の生き物の殺生も明文化されて禁止はされていませんよね。そうでしたらすいません。わかりませんでした」
 佐藤さんは軽く唇を尖らせる。不満なのだろう。何せ、彼女は灘嶺くんの為に蝉を――御船を殺したのだから。肩で息をしている顔面蒼白の灘嶺くんが、一言も自分を労ってくれないのが少しばかり気に食わないのである。彼女はハードボイルドで真面目でクールだけど、基本的に、愛しの教祖様のことが大好きなのだ。
 灘嶺くんはようやくそのことに気付く。そして、まだ少しぎこちない表情のままどうにか笑顔を作ると、佐藤さんに言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 佐藤さんはピクリとも表情筋を動かさずにそう返す。
「……俺の為に蝉が死んじゃったよ。本当、悪いことをした」
「あら、お優しいんですね。流石はセンセイです。私はセンセイのそういうところが、嫌いではありませんよ。むしろ大変大好きです」
「ねえ佐藤さん。これでよかったのかな」
 重々しく問いかける灘嶺くんに向かって、佐藤さんは軽く首を傾げる。心底不思議そうな顔だった。何せ、彼女は自分の中にちゃんと確固たる信念を抱えているのである。迷いなんか欠片も無い声で、彼女は答える。
「当然ですよ。だって、蝉なんかより人間の方が大事じゃないですか」
 況やセンセイをや。と彼女は締めくくると、しっかりと頷いた。
「そうだよねー。……そうなんだよねー……」
「そうですよ」
 喋らない蝉は、本当に単なる蝉だった。潰れた姿はゴミに似ていた。
 こうして、言葉を話す蝉と灘嶺くんの一夏の『キラキラ』は終わりを告げた。随分呆気ない終わりだけれど、仕方がない。蝉との物語なんて、潰れて死んだ虫との話なんて、この程度の幕切れが相応しいのである。灘嶺くんが学んだことは三つ。一つ、物事は人の見る目によって恐ろしいほど変わるということ。一つ、いくら言葉を喋り人間の知能を持った蝉がいても、潰してしまえば全く怖くないということ。一つ、憎しみや怒りや嘆きや殺意なんて感情でも、ひたむきであればそれはキラキラした生きる意味に変わるこということ。異常だ。
 結局、どうして御船明が蝉になってしまったのかだけは、わからないままだった。もしかしたら、人間は死ぬと須らく平等に蝉になってしまうのかもしれない。そして、生殖への飽くなき渇望と、人間だった頃のやるせなさや後悔や嘆きや痛みを全部載せて、夏の間執拗に鳴き続けるのかもしれない。
 そう思うと、灘嶺くんはつくづく、死にたくないなぁと思うのだった。

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