アクセスカウンター
ビューティアイズ銀座ブランド買取カラコン友禅市場

売られる戦場買う人でなし2


 同居人と喧嘩をした。

  同居人と喧嘩をすることも時折ある。僕らのような停滞した間柄でもそういうことが起こるのだ。とはいっても、主に僕らの喧嘩とは一方的な僕の爆発で起こることが多い。言ってしまえば、完全なる八つ当たりだ。自分勝手な主張とも言える。同居人は絶対に僕を怒らないし、僕を赦すことだけがその存在意義みたいになっているから、目立った衝突や対立や罵り合いが起こることはない。ただ、些細なきっかけですれ違いが生じ、僕だけが我慢出来なくなり、僕だけが家を飛び出すだけだ。今日のように。
 同居人には申し訳ないことをしていると思っている。こんなお金も定職も甲斐性も無い奴にこうして手を噛まれるのだから、この歯の全てを抜かれても仕方がないと思っている。けれど、全ては理屈じゃないのだ。どんなに申し訳なかろうと、僕は同居人と真っ向の対峙をすることを避けて、小奇麗なアパートを飛び出す。
 我ながら酷い言葉を投げつけてしまったものだと思う。発した言葉の半分は放送禁止用語という最低加減だ。人でなしだとか、死んでくれだとか、絶対に赦さない、だとか。社会に全く貢献していない僕が言うには片腹痛いような言葉も沢山言ってしまった。
 同居人は僕に何も言い返さなかった。同居人はよく口も頭も回る女の子だから、普段は僕に言われっぱなしでいることは少ない。けれど、今回ばかりは違った。僕の言葉が純然たる八つ当たりで、どこまでも理不尽だと思ったからだろう。めちゃくちゃな理屈で傷つけられることに、彼女は特に寛容だ。何故なら、それが自分の罪を洗い流してくれると信じているから。
 同居人が僕と暮らす第一の理由は、言うまでもなく罪の意識に苛まれているからである。僕を社会から爪弾きにし、立ち直れなくさせた張本人だと彼女が自負しているからだ。彼女の考えは少なからず間違っちゃいない。……そう考えている僕は、その同居人の罪悪感に甘えて、のうのうと暮らしている。
 けれどそれは、無条件に奴を見過ごしてやるという意味じゃない。
 同居人が全てを諦めてしまっているのが不快だった。同居人の目が申し訳なさそうな色に染まりながら僕の罵声を受けるのも、それに何かの感慨と安心を覚えているのも、たまらなく嫌いだった。
 そんなに贖いたいならお前の方からどうにかすればいいじゃないか。
 そんなに自分が可哀想だと思うのなら、僕なんか放り出してまともな日々を始めればいいじゃないか。
 そんなに僕が可哀想だと思うのなら、どうにかして僕を救ってくれたらいいじゃないか。
 漠然とした要求はエスカレートしていく。お互いに何をどうしたら状況が打開出来るのか、どうすれば全てのわだかまりを消してしまえるのかを毎日必死で考えているから、全く何もしていないというわけでもないというのに。
 売られた喧嘩は土下座をして買うようなスタンスだ。それでいて、買った瞬間に慈愛で包んでゴミ箱に捨てられてしまうのだから、たまらない。
 真冬でなくてよかった、と思った。夜が寒くないというのはいい。昔、真冬に身一つで放り出された時は、心から先に折れてしまいそうだった。
 僕がもし喫煙者だったなら、こういう時に煙草が夜の心許なさを埋めていてくれていただろう。しかし、喫煙は随分前に、もっと正確に言うならば同居人と暮らし始めてからやめてしまった。同居人は喘息持ちで、煙草の煙が苦手なのだと聞いたからだった。
 そのことを言ってしまった時、同居人は心の底から不覚だ、と言わんばかりの顔をしていた。慌てて、同居人が大袈裟なジェスチャーと共に言う。
「別に気にしなくていいんだけどね」
「流石に、それは気にするとか気にしないとかの問題じゃないだろ」
「だって、喫煙者の人ってニコチンが切れると駄目なんでしょう? それこそ、煙草をやめようって時には自分の身体を縄で縛ってどこかに閉じ込めなくちゃいけないんでしょう? 私、君を縛れる自信ないよ」
「全国の喫煙者に謝れよ」
 そして、僕は結局簡単に煙草を捨ててしまったのだった。ニコチンの依存性にはもう少し期待していたのに、同居人がわざわざ換気扇の前のスペースに作った喫煙スペースは一度も使われずに終わってしまった。
 セブンスターは七つも星を冠しているというのに、たった一人の同居人に負けた。あれ以来、セブンスターを吸う人間を見ると、無意識に同居人より弱いのだな、と思ってしまう。とんでもない言いがかりだ。
 煙草を吸うことも、音楽を聴くことも出来ない夜というのは退屈だ。誰かのところに行くにしても、僕は同居人以外の知り合いがいない。妹が一人いるけれど、長らく会っていないし、次に会う時は彼女に殺される時だろうと覚悟しているから、当てになんか出来なかった。

 溜息を吐く。星を見るのは二秒で飽きた。道路には人も猫もあまりいない。エンターテインメント性に欠けた夜だった。もう僕は箸が転がっても楽しめるような年齢じゃないのだ。
 腕に巻きっぱなしだった腕時計を確認する。……まだ午前零時を少し過ぎたあたりだった。シンデレラはお家に帰らなくちゃいけない時間だけれど、僕はまだ帰れない。こうして家を飛び出してきた時は、いつだって同居人が寝てからこっそり家に帰るのがセオリーだ。僕のちっぽけな、持つべきではないプライドが、同居人の「おかえり」を聞くことを赦さない。
 一時間くらいしたら帰ろうと思った。何しろすることがない。僕が持っているのは腕時計一つ。これでどうやって暇を潰せばいいというのか。完全に自分が悪いというのにどうしたって苛立たしくて、道端にあった石を蹴った。そこで気が付く。
 鍵を忘れてきた。
 一生の不覚だ、と思った。しれっと帰ってやろうと思っていたのに、これじゃあドアを開けられない。同居人はあれでいてなかなか几帳面だから戸締りをせずに眠るなんて考えられない。
 明日は何曜日だろう。というか、今日は何曜日なんだろう。もし明日が平日なら、同居人はいつも通り仕事に行くだろう。その時に上手く部屋に入れば、鍵が無くても家に帰れる。いや、でもそれは結局気まずいまま同居人と鉢合わせなくちゃいけなくなるわけだから、僕に何のメリットも無い。仕事に行ってしまったら、再びあの扉は閉じられてしまうだろうし。アパートメントの癖に、流石同居人の家というべきか、あそこはセキュリティがとてもしっかりしているのだ。生半可なピッキングじゃ痛くも痒くもないだろう。
 帰れない、と思うと無性に帰りたくなるこの現象になんて名前をつけてやろう。天邪鬼だよぉ! と脳内の同居人が適当なネーミングを披露する。確かにそうかもしれないけど。
 途方に暮れた。まさか、こんなことになってしまうだなんて。
 腹立たしいことに僕のちっぽけなプライドはまだ機能していて、同居人の「おかえり」を聞く勇気が持てない。
 とりあえずとぼとぼと歩き出した。夜明けまではまだ遠い。歩いていなければ夜に潰されそうだった。

 通りを歩いていくと、並ぶタクシーの列が見えた。
 僕の苦手なものの一つだ。歓楽街が近いからこんなことになっているのだろうけれど、誰を待っているのだろうと思って不安になってしまう。「終電を逃してしまった人達を掬い上げて、朝には皆綺麗に消えてしまうんだよ」とかつて同居人が教えてくれたけれど、これだけ沢山のタクシーがあると、どれか一台は誰にも選ばれないんじゃないかと怖くなってしまう。選ばれないものというのは怖い。
 昔、同居人が泥酔して、タクシーを拾わなくちゃならなかったことがある。同居人がまだ何の罪も背負っていなくて、あのアパートにも住んでいなかった時の話だ。
 実家に住んでいた同居人はお育ちのいいシンデレラで、十二時になるまでに家に帰りつかないといけなかった。
 それなのに奴は酒を煽りに煽り、僕の姿が可愛い子犬に見えるまでぐでんぐでんに酔っぱらった。止めればよかったのかもしれないけれど、顔色を少しも変えずに泥酔する器用な彼女に、僕はすっかり騙されてしまったのである。
 同居人は華奢だったので、背負う分には何の問題もなかった。長い髪が僕の肩の前の辺りにかかり、まるで同居人と自分が癒着してしまったかのような感覚に、どうしてだか不吉な予感を覚えた。
 流石に同居人を家まで背負っていくわけにもいかなかったので、僕は大人しくタクシーを拾うことにした。タクシーはいつでも待っていてくれる。あの日も並ぶタクシーの列は途切れることなく並んでいた。まだ苦手意識の無かった頃の僕は、適当に、一番前にいたタクシーを拾おうとした。
 しかしその時、死んだように眠っていたはずの同居人が存外強い力で僕を叩いて止めた。予想外の出来事に苛立つ僕に、同居人が低い声で囁く。
「ごめん、待って」
「何? 車に乗ったら吐きそうとかそういうのやめてよ」
「違うの。向こうの……奥から二番目のやつに乗りたい」
「何で? 遠いんだけど。もう少し長く僕の背中にいたいっていう理由とかだったら、盛大に手を離すぞ」
「そうしたら私は腕の力だけでしがみついてやるから。共倒れしてやろう」
 同居人の声が本気だった。そう考えると誰かを背負うというのはなかなかリスキーな行為なのかもしれない。言葉の響きがそもそも重いし。
 首の骨を折られたくはなかったので、僕は大人しく同居人の言葉に従った。今まで背負ってきたのだから、同居人が指定するタクシーのところまで歩いていくのはさほど辛くない。
 川のように一直線に流れるタクシーの列の麓の方までやってきて、同居人の指定したタクシーの前に着く。何の変哲もない普通のタクシーだった。
「これでいいの?」
「うん……いいの……」
 同居人は殆ど眠っているような状態で、僕の言葉なんて半分も聞いていなかったと思う。やっぱり酔っぱらいの戯言だったのか、と思いながら、僕は中の運転手に向けて話しかけた。
「すいません……乗ってもいいですか。背中の奴泥酔してますけど、多分吐いたりはしないと思うので」
 運転手さんの返事は少し遅れた。明らかに慌てているような様子だった。その様子をみた僕も慌てた。運転手さんが今まさに何を持って何をしようとしていたのかがわかってしまったからだった。
 運転手さんの左手には細身のナイフが握られていた。一体何処で入手したのだろう。ここは歓楽街が近いというから、狂乱の中でこっそり誰かから買い上げたのだろうか。柄の部分に彫られているのは何だろう、と思って目をこらすと、どうやら兎のようだった。兎ってあんなに流麗にくデザインできるものなんだなぁ、と僕は場違いに驚嘆する。
 この運転手さんはどうやら左利きらしい。ナイフを持った方と反対の手、すなわち右手首には、言ってしまえばよくある、リストカットの跡が七本あった。薄く血が滲んでいる。
 僕が同居人を背負いながら運転手さんに話しかけた時、運転手さんはまさに、ナイフを振り上げていたところだった。そのまま振り下ろされていたらどうなっていたかわからない。ややあって、運転手さんが言う。
「大丈夫ですよ」
「え、いや、その」
「大丈夫ですから。吐いても大丈夫ですから。乗ってください」
 僕の言葉で完全に調子が狂った運転手さんは、血塗れの手首を隠すようにナイフを持った方の手で抑え付け、裏返った声でそう答えた。タクシーの扉が開く。とうとうこれで、断って前のタクシーに乗ることも出来なくなってしまった。引き攣りながら、僕はタクシーに同居人を押し込み、自分も続けて乗った。
 躊躇い傷だけとはいえ、右手首からの出血はなかなか盛大で、ハンドルも窓も肝心のナイフもてかてかと黒っぽい血で濡れていた。
「ど、何処へ行きましょうか」
「そうですね……あっ」
 運転手さんが慌ててシートベルトを付けた時に、手のナイフはつるんと滑って後部座席の足元に落ちた。僕が先に驚きの声をあげた所為で、運転手さんは何も言えずに固まっている。近くで見れば見る程素敵なナイフだった。気のいい殺し屋さんが可哀想な幼女を悪から救う時に使いそうなナイフだ。血に濡れたそれに、手を伸ばす。
「そのままにしておいてください」
 ナイフを拾い上げる直前に、運転手さんは震えた声で言った。
「そのままにしておいてください」
 運転手さんは念を押すように繰り返す。血に濡れたナイフなんて進んで触りたいものじゃなかったから、その言葉には大人しく同意した。この状況を生み出した張本人は僕の隣で暢気に寝息を立てている。シートベルトを掛けるついでに揺り起こして、耳元で囁いた。
「どうするの、これ。どういう顛末をつけるつもりなの」
「……顛末?」
「収拾って言ってもいいけどね。お前がこんなタクシーを選ぶからこんなことになった」
「全部終わったでしょ」
「いつ自棄を起こすかわかんないじゃないか。それに僕とお前が巻き込まれることになるかもしれないんだぞ」
「大丈夫だよ」
 同居人はそこだけやたらはっきりと言った。酔っているとは思えないようなしっかりした口調だった。
「この人は、もう大丈夫。そういうタイミングがあるんだよ」
 そう言い残して、再び同居人が眠りにつく。少しえづくような素振りをみせていたのにも血の気が引いた。それ以外にも血の気が引いた。
 世の中にはタイミングというものがあって、同居人は何故かあの日、それを確かに察したのである。同居人に選ばれなかったら、この運転手さんは死んでいただろう。そして新聞を読む習慣のない僕達は、そんな些末な事件を知らずに暢気に暮らしていたに違いない。
 同居人は選んでしまった。
 それは、運転手さんの命を救った。
 血塗れの運転手さんに向かって、同居人の住む家の住所を告げる。運転手さんの声はもう震えていなくて、ただ一言「あそこらへんに住んでいる人って、何だか皆さん立派な犬を飼ってらっしゃるんですよねえ」と言った。
「この泥酔女の家でも犬、飼ってましたよ確か。庭で」
「はあ、いいですねえ。私は犬が大好きなんですよ」
「でも、こいつは犬アレルギーだから、一回も飼い犬に触れたことが無いんです」
「はあ」
 運転手さんはそれきり話さずに、ただ黙々と同居人と僕を彼女の家まで運んだ。同居人は一度も目を覚まさずに、何回か寝ている間にえづいた。それを見た僕は、いざとなったら車外に首を突きだそうと、終始同居人の首根っこを掴んでいた。

 この件から、僕は選ばれることを知った。タクシーの列が苦手になったのもあの時からだ。もしかすると、同じようにタクシーの中で自殺しようとしている運転手さんがあの列の中にいたかもしれない。けれど、同居人に選ばれたのはあの運転手さんだけだった。選ばれるものは限られている。
 同居人はこうして見事な勘の良さで運転手さんの命を救ったわけだけれど、これは同居人が特別素晴らしいシックスセンスを持ち合わせているということの証明にはならなかった。人間には、そういうものに敏感になるタイミングが、少なからずあるのである。
 同居人はその後、同じようなシチュエーションに巡り合い、そして、取り返しのつかないことをしてしまった。僕がぶち壊れるきっかけになり、同居人が僕という不良債権を抱え込むに至ったきっかけだ。
 同居人は選ばなかった。いや、選べなかったのである。
 同居人に見過ごされたとある出来事は、ナイフの形をとって僕達の関係性を切り裂き、死に至らしめてしまった。運転手さんを救った時の勘の良さは、僕らの時は全く発揮されなかった。恐ろしいことだ。
 タクシーの件と僕らの件で、僕は選ばれることと選ばれないこと。そして、どうしようもならないタイミングの悪さを知った。
 だから、そういうものを連想させるものは全て嫌いになった。つまり、現実世界のものは大体嫌いだ。

 タクシーの列を見て気を滅入らせた。けれど、その不快感も結局一過性のものに過ぎないのだと思い知る。時計の針はやけに進みが遅くて、頭を抱えた。いい歳をした男がまるで鍵を失くした小学生のように彷徨うだなんて、どうしたって悪趣味な喜劇だ。公園でブランコでも漕いでいようと思ったけれど、カップルが公園でセックスをしているのを発見して逃げた。少子化に歯止めを掛けている立派な男女には敵わない。嘘。子供達が遊ぶ為のブランコの揺れを利用してピストンしている人間なんて死んだ方がいい。客観的に見れば、僕の方が死んだ方がいいのかもしれないけれど。
 このまま僕が死んだら、同居人はきっと幸せになれるのだろうなぁ、と思った。あそこまで凄惨な暴言で満ちたあの諍いのきっかけなんてもう既によく覚えていない。
 僕がバイトにまた落ちたからだろうか。いや、そもそもバイトの面接に行ったことを同居人に伝えたかも怪しい。同居人はいつだって蚊帳の外にいて、僕を赦すだけなのだから。知る必要なんてない。
 同居人を縛っているのは同居人が僕に対して感じている罪悪感に他ならない。それだって、同居人がふと、自分の感じている罪悪感と、僕がこうして鬱々と社会に適合できないでいることとの間に相関関係なんて何一つないことに気がついてしまえば解決してしまうような問題だ。同居人は素直で明るくて善人だから、気付いていないだけである。
 それなら、いっそのこと僕が死んでしまえばいい。僕は多分これからも同居人に癒着して生きていくことをやめられない。心のどこかではそれを当然の権利なんじゃないかとまで思ってしまっている。今夜だって、鍵さえ忘れていなければ、季節外れのサンタ・クロースよろしく同居人の眠るあの部屋にこっそり帰っていただろう。ご存じでしょうか。馬鹿は死なないと治らない!

 死ぬことにした。
 行動的だと評されてもいいような場面で短絡的だとか衝動的だとか言われてきた僕が、公園から離れる。一刻も早くこの素晴らしい考えを実行に移さなければ。こんなに気持ちが高ぶったのは久しぶりだった。
 まるで水を得た魚。ドライアイ気味だと同居人に指摘された目がぐるりと回って何処か高い建物を探す。電車はもう動いていないし、車に飛び込むのは運転手さんが可哀想だ。飛び降りられるマンションの住人はたまったもんじゃないかもしれないけれど、イギリスでは人の死んだ建物は高く売れるらしい。幽霊も素敵な調度品になるのだという。考え方次第なのだ。問題ない。
 そして僕は、同居人と暮らすアパートと同じくらい小奇麗なマンションを見つけた。高さは多分十階建てくらい。もやしっ子と散々言われてきた僕だから、きっとそのくらいの高さでも死ねるだろう。夜なのに煌々と明かりの灯るマンションのロビーへと歩みを進めた。
「ちょっとお兄さん、困りますよ」
 高そうな観葉植物の前で、不機嫌そうな警備員が僕を止めた。年の頃は三十代くらい。色々と不機嫌な御年頃なのだろう。僕はなるべく無害そうな笑みを浮かべながら口を開く。
「僕、ここの住人なんですけど、鍵……そう、鍵、忘れちゃって」
「ここの住人の顔だったらわかるはずなんですけど」
「僕、少しばかり影が薄いんです。甲斐性が無いからですかね」
「それじゃあ、部屋の番号教えて貰っていいですかね」
「九〇二号室です」
「残念、この建物八階建てなんですよ」
 八階建てときたか。目測では十階建てくらいだと予想したから、敢えて九階の住人を装ったというのに。警備員は完全に僕を訝しげな目で見ている。
「……そうだ、警備員さん。この先オートロックあるんですよね。ちょいと警備員権限で開けてくれませんか。僕はなかなか小心者なので、知らない人をインターホンで叩き起こすのには抵抗があるんです」
「そんなこと言われて開けられるはずないでしょう。さっさと帰って寝てくださいよ。もうすぐ夜が明けますよ」
「別に強盗しようってわけじゃないんです。清廉潔白ですよ。なんならボディーチェックだってしてくれて構わないです。こんなラフな格好で人の家に押し入ることなんて出来やしませんって。ね?」
「どうせここの八階から飛び降りて死んでやろうとか考えてるんでしょう。そういうの困るんですよ」
「困る? 慣れてるんですか?」
「昔僕が新人だった頃、そういう言葉に騙されて三回くらいオートロックを通したことがあるんですよ。そういう人達ってなんだか、凄く軽やかにここへやってくるもんですから。その内二人は死にました。飛び降り自殺です」
「ちなみに残りの一人は?」
「手ぶらで下着泥棒に来た男でした」
 警備員は遠い記憶を探るかのように目を細める。夜なのにこんなに明るい場所にいる気分って一体どんなものなんだろうなぁ、と思った。夜の良いところなんて、偏に暗いという点だけなのに。
「ここではもう二人も人が死んでるんですね。よく住人が逃げ出さなかったもんだ」
「二回とも、こっそり処理しました。白昼堂々やられでもしなければ、皆さんが起き出す前に処理することも簡単なんですよ。多分、どこのマンションでも同じじゃないですかね。正直、何処でだって人は死んでるんです。どんなマンションでも人が飛び降りてるんです。でも、何処だってそれは隠す。住人に逃げられたらたまったもんじゃない。イギリスでは人が死んだマンションの値は上がるらしいですけどね。幽霊が大好きだから。でも、生憎ここは日本です」
「幽霊を見たことは?」
「いいえ、一度も。ここは明るいですからね」
 幽霊は明るい場所には出てこないと知っているような口振りだった。幽霊になったからこそ、明るい場所に出て行きたい人間も少なからず存在するだろうし、むしろそういった人間の方が八階から飛び降りるんじゃないだろうかと僕は思う。僕がここから死んで幽霊になれたら、まず間違いなくここの警備員さんにお礼を言うだろう。
「それで、オートロックは開けてくれないんですか」
「開けられませんよ。死にたがっている人に対してなら特に」
「でも、今までの三人は見過ごしたじゃないですか。その内、死んだのは二人だけで、なおかつここの住人は誰もそのことを知らない。それなら、僕が死んだって構わない訳でしょう?」
「駄目です。だって、今度は隠し切れないかもしれないじゃないですか。もう、夜が明けますよ。一日が始まっちゃう。僕は夜が明けたら交替をしてタイムカードを切って、ファミレスでモーニングを食べて帰って眠るんです。誰かの自殺をなかったことにするなんて、疲れちゃいそうじゃないですか」
 警備員は観葉植物の葉をぶちぶちと千切りながらそう言った。手持無沙汰なのだろう。どうやら、ここでは死なせてもらえないらしい。警備員を説得するのには随分時間がかかりそうだし、愚図愚図していたら多分そのまま夜が明ける。夜が明けたら、自殺なんて物騒なことを、誰も赦しちゃくれないだろう。
「僕はですねえ。ここが掟の門だったなら、っていう想像をしながらいつもここを守ってるんですよ」
「掟の門? 何ですかそれ」
「今はこの門を通るべきじゃない。けれど、二秒後はどうかわからない。三日後はどうかわからない。夜が明けたらこの門は閉じられるかもしれない。転じて、死ぬ前に少しは本をお読みなさいって意味です。ミステリーなんてものを読むんじゃありませんよ。やっぱり、読むならカフカです」
 僕は神妙に頷いた。同居人がドンピシャで買ってこない限り、僕はカフカを読まないだろうけれど、人恋しい夜に話し相手になってくれただけでもありがたいのだから、アドバイスだけは神妙に受け取っておくべきだろう。警備員は千切った観葉植物の葉を床に放り投げる。爪が緑色に染まっていた。
「それではまた、お元気で。八、というのは末広がりなんですよ。いい数字でしょう」
 頷いて、ロビーを出た。ちなみに僕と同居人が暮らす部屋は、一〇八号室だ。開けてなんかまったくいない。煩悩に塗れた部屋だった。
 外に出ても、まだ辛うじて夜だった。喉が渇いていたけれど、鍵なんて重要なものを忘れてきたくらいだったから、当然財布も持っていなかった。虫が集りそうな明るさの自動販売機が眩しい。同居人がここにいたら、何も言わずにココアを買ってくれるんだろうな、と思う。同居人は僕に甘いものを買い与えるのが好きなのである。
 甘いものが好きなのは僕じゃなく同居人の方だ。自分がもらって嬉しいものを人に与えなさい、という教えを愚直に守る同居人の育ちはいい。同居人に関しては、本当に褒めるところしか見当たらないのだ。嘘でもお世辞でもなく、本当に。例えば、こうして僕に出会うタイミングだとか。

「いつも帰ってくるはずの時間からもう二時間四十八分くらい経ったよ」
 同居人はそう言った。感情の読み取りづらい声だった。
 僕の家出の範囲なんてとても狭い。同居人が書を捨てて外に出れば、すぐに見つかるくらいの場所にしか僕は行かない。どこまでも行けるだけの行動力さえあれば、僕はあんなところに住んでいないからだ。
 ここの自動販売機は、いつも同居人がココアやおしるこを購入する行きつけの自販機だ。
 我ながらわかりやすいところにいたと思うけれど、どうかそれが見つけて欲しいかったからだとは思わないで欲しい。
「二時間四十八分……」
「映画が一本終わって、感想まで語り合えそうな時間だ」
「正確に測り過ぎだろ、それ」
 同居人は笑わなかった。誰かの葬式に参列しているかのような沈鬱な表情で、僕の言葉を聞いている。
 同居人の手にはエアガンが握られていた。
 僕の視線がエアガンに一心に注がれていることに気が付いたのだろう。同居人がつまらなそうな声で「護身用だよ」と教えてくれた。護身用。僕は頷いてエアガンから目を逸らした。一体、何から身を守るつもりなのだろう。
「もう夜が明けるよ。どうして帰ってこないの?」
「……もしかして、今までもずっと起きてたの?」
 同居人は答えなかったけれど、無言は肯定とみなすという取り決めをあらかじめ交わしてあったので、意志の疎通はスムーズだった。
 同居人が眠ってから帰るのが定石だったはずだった。けれど蓋を開けてみればおぞましい。同居人はいつだって僕の帰りを待っていたのだ。それも、いつもとは少しばかり様子が違うと即座に気付く程度には注意を払って待っていた。
「そうなんだ、知らなかったよ」
「うん」
 ここで声を荒げるのはあまりにみじめだ。だから、馬鹿にしてるのか、とか哀れんでるのか、とか、そういうことは絶対に言わなかった。
「昔は夜があんなに長かったのに、今は凄く短く感じるよ。そういうことってあるだろ?」
「特に、君が私と喧嘩して、君がいなくなっちゃった夜なんかは」
「あれは喧嘩じゃないよ。八つ当たりっていうんだ。素人目には少し判断が難しいかもしれないけど」
「帰らないの?」
 同居人の目は真っ直ぐ僕を見ていた。どこまでも真剣で、躊躇いの無い目だ。
「帰ってきてよ。待ってるんだよ。私、何でもするから。お願い、戻ってきてよ」
 同居人の手が震えていた。それも、片手だけだ。エアガンを握っている方の手だけは全く震えていやしない。同居人の声は震わそうとして、逆に失敗しているみたいだった。同居人には、迷いや躊躇いが全く無いのだった。一体、どうしてそんなことを言うのだろう。
 僕は同居人に酷いことを言った。思い返すのも罪なんじゃないかと思うくらい酷いことをこれでもかと言ってやった。同居人は理不尽な僕の言葉に黙って耐えていた。それが贖罪になるのなら、と思いながらじっと耐えていた。馬鹿みたいだ。僕の言葉に八つ当たり以上の意味を見出そうとする方が傲慢なのに。
 同居人は僕がいない方が確実に幸せだろう。僕が死ぬ前の猫みたいに行方を眩ませて、自販機を物欲しげに見つめながら野垂れ死んでくれた方が、ハッピーに生きられるだろう。
 賢い大学を出たはずの同居人の行動も思考もまるで支離滅裂だった。
 前々から気が付いていたことだけど、やっぱり同居人は頭がおかしいのかもしれない。そうに違いない。だから、こんな真夜中に僕と押し問答を繰り返し、エアガンまで持ち出して僕を連れ戻そうとしているのだろう。そうでなくては許さない。
 どう足掻いたって僕の理解の範疇を越えている。一体何をしたら同居人が僕に愛想を尽かすのかが予測できないから、ふと見限られるきっかけになるものがわからない。加えて、僕は同居人の頭を元に戻してあげられる魔法の呪文を知っている。ただ一言。たった一言。僕が同居人を赦してあげるといってやればいいのだ。そうしたら素敵な同居人の頭のネジは綺麗に嵌り、きっとハッピーエンドが待っているだろう。
 でも、無職のままであのアパートを放り出されたら僕は完全に死ぬ。実家には戻れない。さっきまでは死んでやろうと思っていたけれど、同居人にこうして見つかってしまった以上、その決意だって完全に萎えてしまった。
 だから、今夜も僕は同居人と暮らす為に、彼女を絶対に赦さない。
「……何とか言ってよ」
 同居人は子供のように情けない声でそんなことを言った。悲しそうな顔は、恐ろしい程同居人に似合わなかった。
「……いや、帰ろうと思ってたよ。本当に」
「嘘だ。それなら、こんな時間になるはずないよ」
「違うんだよ。家の鍵、忘れちゃってさ」
「鍵?」
「寝てるのにインターホン鳴らすなんて非常識だろうから、朝を待ってたんだ」
「いつからそんなに気遣いさんになったの? 真夜中に大音量で『天使にラブソングを』なんかを観る人間だったじゃないか」
「あの映画は名曲の宝庫だからね。君にも聞かせてやろうと思ったんだよ」
 段々と空が紫色になっていく。明日の天気はあまりよくないのかもしれない。這い寄るように変わっていく空の様子は精彩に欠けていた。今日と明日との境界線が一緒に溶けて、新しい一日が始まる。
「帰るなら、もういいよ。今度はインターホン鳴らしてよ。起きようが何しようが、どうでもいいから」
「そもそも、今度は鍵を忘れたりしないよ」
「うん。それがいいよ。そうじゃなきゃ駄目だ」
 同居人の目の端が赤くなっていた。もしかしたら、同居人は僕がいなくなってから少し泣いたのかもしれない。それか、彼女はただ単純に眠いのだ。眠らずに迎えた明日は、きっとしんどいものとなるだろう。
「明日も出勤?」
「明日っていうか、今日だけどね。今日は水曜日だもん。私ねえ、人が死ぬのはいつだって水曜日な気がしてるんだ。だって、週の真ん中なんだよ。いつだって真ん中っていうのは魔の領域だから」
「それなら、僕も死ぬと思ってた?」
「そんなことないよ」
 同居人は嘘を吐くのが下手だ。
「もう朝だしさ、もう少し待ってファミレスでモーニングでも食べて帰ろうよ。パンケーキとかソーセージとか、そういうものをさ」
「そんなこと言って、まだあと開店まで二時間くらいはありそうだけど」
「でも、折角外に出たんだから。ほら、君の嫌いな星が消えていくよ」
 星が嫌いだと言った覚えはなかった。けれど、夜の隙間を埋めるように輝く星達が消えていくのは、なるほど確かに見ていて気持ちが良いものだった。


スポンサーサイト

COMMENT


TRACKBACK

↑