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売られる戦場買う人でなし1


開口一番、
「あー、貴方ね。貴方はね、赤血球が足りない上に、なんだか血も過剰にサラサラしているので、えー、つまり、貴方は献血が出来ません」
 と言われた。
 すなわち、貴方の血液は要りませんと宣告されたわけだ。
 臓器だったら喜んで引き取ってくれる癖に血液は駄目だなんてずるい、と思って献血ルームでうっかり取り乱す。同居人がもしここにいたなら、残念ながらここは献血ルームなんだよ、と優しく適切に教えてくれたに違いない。
 結局僕は自分の中にあったはずの煩悶を何一つ綺麗な言葉に出来なくて献血ルームのテーブルをひっくり返した。夜勤の影響をダイレクトに受けて憔悴している看護婦が僕を銀色のボウルで殴りつけたのを客観視していたから、あの時僕は神様だったのかもしれない。
 僕の血液はおよそゴミクズだけれど、そのゴミを生み出しているのは極めて有用な心臓や肺や脾臓さんなのだ。看護婦さんは軽蔑の視線を僕に向けることについて躊躇いを持っていないので、僕は少しだけ楽しくなる。看護婦さんというものは、何をしていようがとにかく善い。取り返しのつかないことなんて多分何もないのだから、今すぐ昔の夢と駆け落ちすればいいのにと思った。こういうことって他人事だと思えば思う程悲しい。

「今日はオニオンスライスを作ってみましたー」
 包丁だけで作れるものを料理と呼んでいいのは新妻とシェフだけであるというのに、同居人は誇らしげにそう言った。新玉葱の季節じゃないから、それも同居人の作ったものだから、きっと辛いに違いないと思った。「ちょっと待っててね。今ご飯作るから」と、怒られ過ぎてあんまり回らない舌で言おうとしたら、同居人はいそいそと白米をよそっていた。SMプレイみたいな食卓を強いられそうになっているのに、僕は呆気なく席に着いた。白米のよそわれたお椀が二つと山盛りのオニオンスライスという、およそ色に対して反抗を企てたかのような晩餐だった。
「玉葱は血液をサラサラにするんだよ」
 そう言い放つ同居人は山盛りのオニオンスライスには箸をつける気配すらない。つい一週間程前にご飯をしっかり噛むと甘くなるということに気が付いた同居人はおかずが無くても白米を頂けるようになっていた。同居人の身体から生成されるアミラーゼはきっと素晴らしく上等なのだろう。何か言おうとして言えなかった。涙がぼろぼろ溢れて来たからだった。
 社会のクズでいるつもりならばせめて血液ぐらいこの世界に差し上げてはどうか。それこそ葡萄酒なんて洒落た言葉を使う神様みたいに。そう言ったのは同居人だ。だから僕は、石ころをポケットに詰めて献血ルームに行ったのである。血よりも大切なものと引き換えに青痣を引き取って帰ってきた僕に、同居人は何も言わなかった。ただ玉葱を切っていた。包丁一つで物事を語ってもいいのは連続殺人鬼と三ツ星シェフだけである。
 僕の異変に、素晴らしいアミラーゼの付属品でしかない同居人がようやく気が付いた。その顔はいつもの通り面倒臭そうで、僕はちょっとだけ安心する。
「どうして泣いてるの? 具合でも悪いの?」
「お前玉葱水に晒してすらないだろ」
 僕は泣きながらそう指摘した。同居人は困ったように笑っている。玉葱切ってる時、私も泣いたよ、という告白を仕掛けてきた同居人は、どう足掻いても僕を許すつもりのようだった。


 同居人が仕事に行ってしまうと、僕は部屋ですることが無い。同居人は僕を養う為と自分が人間的な生活を送る為にちゃんと社会で働いている。僕は近所の何を作っているのかもわからない工場のアルバイトにまた落ちたので、現在は無職だ。そんな怪しい工場にすら不合格を言い渡されるような人間なわけだ。こうなってくると、もう何で働けばいいかわからない。
 そんなわけで僕は同居人の稼ぎに寄生して生きている。世間並みのつまらない呼称を使うなら僕は単なるヒモだ。同居人の食事を作るのも家事もやっているけれど、気が向かない時には一切しない。気ままな身分である。
 けれど僕はこの状態を半ば当然の権利であると考えているし、それは同居人もそうだと思う。どういうわけだかよくわかんないけれど、同居人の実家はお金持ちらしいから、僕一人くらい養っても大丈夫だろうし。
 信じてもらえないかもしれないが、以前の僕はこんな、身体の中に入っている臓器くらいしか有用性の無い人間なんかじゃなかったのだ。
 素晴らしいとはいえないかもしれないけれど、もう少しマシな人間であったことは確かだ。臓器が僕を生かす為の付属品であった時代と言い換えてもいいだろう。そんな僕と臓器の立ち位置を綺麗に入れ替えたのが、他ならぬ同居人だった。

 僕の人生であんなにも鮮やかなことはなかった。だからきっと走馬灯でも大きく取り上げられるだろう。あれは事件だ。その末に、同居人は僕を完膚なきまでにぶち壊した。そうして比喩でもなんでもなく僕は再起不能になってしまったのだ。
 事件直後の僕はどうにかゼロに戻れるようにもがいたけれど、諦めが足を取り、安穏が手を取って、依然としてこんなような状態だ。正直、僕以上に同居人が僕のことを再起不能だと思っていることだろう。それでいて、彼女は僕を赦しやがるのだ。それが、自分に出来る最良のことだと、殊勝に思い込んでいるのだから。
 僕はそんな同居人の声や視線に耐えられなくて今日もバイトを探しては、現実に打ちひしがれている。きっと、僕が同居人にあんなことをされなければ、きっと僕はアルバイトどころか企業に就職していただろ。カーテンを開けることすら躊躇ったりするような生活を送ってはいなかったはずだ。同居人が同居人であることもなかったはずだし、この間取りにも名前にもセンスが感じられない場所に住んでいることもなかったはずだ。
 それでも、僕は同居人を恨んではいない。ただ、かつて僕が手にするはずだったもの達を思って、密やかに残念だなあと、他人事のように思うだけだ。それが、同居人にとって一番つらくてきついことだとは、意識していないが故の行動である。
 というわけで、僕は洗濯も炊事も掃除もほっぽり出して、この部屋の中でどうにか暇を潰せる方法を探し始めた。
 テレビには最新型のゲーム機が備え付けられているけれど、ゲームを趣味としているのは同居人だけで、僕はゲームを嗜まない。引きこもりになる為に必要な重要な才能の一つに室内でテレビゲームに興じることが出来る才能があると思うのだけれど、どうだろう。そういうところをとってみても、僕は社会生活不適合者にも不適合だった。笑えない話だ。
 部屋の隅に目をやった。置かれた本棚には同居人の大好きな本がいっぱい並んでいる。「エレンディラ」「フラニーとゾーイー」「水没ピアノ」「世界は密室で出来ている。」「砂の女」「白痴」「智恵子抄」「夢小説」「ずっとお城で暮らしてる」「2666」「重力と恩寵」「新本格魔法少女りすか」・・・・・・などなど。みっしりと詰まった本棚の中に聖書は無い。変わり映えのないラインナップに舌打ちをする。それらは退屈から、全て読んでしまった本だった。月に一冊のペースで増える同居人の蔵書を読んでいる所為で、少しだけ嗜好が似通ってしまったことを自覚している。そして、同居人が買ってくる新参者を待ちかねてしまう。
 けれど、今回の新参者は、今までとは毛色の違う代物だった。
 小説に混じって置かれていたのは、今年一年の運勢を占ったファンシーで禍々しい女性誌だ。同居人も一丁前に女の子だなぁと思う。それと同時に、ミステリー要素もサスペンス要素も無さそうなそれにがっかりした。仕方なく、ページを開く。十二個という狭い区分で分けられた運勢。
 そういえば同居人の星座を覚えていなかった。別に一緒に暮らす人間の星座を知らないからといって一緒に暮らせないということではない。だから知らないだけだ。昔は聞いたような気がする。でも、もう覚えてない。
 仕方ないので、今年一番運勢が悪いという星座に勝手に設定しておいた。獅子座だ。同居人は何だかいつでも輝いているし、どこにいても主人公のような顔をしているから似合うだろう。獅子。サーカスの中でも花形だ。概ね彼らは檻の中で死んでいくのだけど。親愛なる同居人へ。今年はとても運勢が悪いそうですよ。死なないように気を付けて。
 ちなみに僕の星座はいいことも悪いことも何もかもが起こらない、ということを長々と書いていた。他の星座と同じように二ページきちんと使われているのが申し訳ないくらいだった。やっぱり何かミステリー小説でも買ってくるべきだったのにな、と思いながら、匙よりは重いその雑誌を放り投げた。
 とうとう本格的にすることがなくなってしまったので、僕はその後、仕方がなく洗濯カゴの中身を洗濯機に放り込む。このペースで行くと、僕はきっと夕飯の支度までやってしまうに違いない。
 同居人は料理が出来ない癖に、冷蔵庫の中には食材をふんだんに入れておく。僕があまり外に出られないからだ。同居人はこういう外堀から埋めておくような真似が得意だった。数ある同居人の気に食わないところの内の一つだった。

「もしかして、暇なの?」
 この日の夕飯の時、同居人は不遜にもそう尋ねてきた。
 その判断材料は、きっと目の前に差し出されたクリームシチューの所為だろう。いや、別にクリームシチューがそんなに大仕事というわけじゃない。同居人はクリームシチューのルーだって棚の中に常備しておいてくれてる。
「ねえ、聞いてる」
「うん、クリームシチューの玉葱は今度からちゃんと溶かしてあげるから」
「暇なんだよね」
 同居人は言いづらいであろうことをさっさと切り出してきやがった。ええ、その通り。大の男が部屋にこもりっきりでいると、どうしたって暇なのである。図書館は顔を覚えられるのが早いから、一週間に一回しか行きたくない。その時に借りた大量の本も、三日で読み終わってしまうくらいなのだから救えない。
「だからこの前献血になんか行っちゃったわけだね。人間はあまりにやることが無いと血を抜くという行為にすらエンターテインメント性を見出すわけなのか。私覚えた」
「あれは社会奉仕してみたくなっただけだ。出来なかったけど」
「それだけ暇なら、ちょっと明日お出かけしようよ」
「嫌だ」
「曜日感覚無くなってるかもしれないけど、明日日曜日なんだよ。私、仕事が休みなの。お出かけしよう」
「絶対嫌だ」
 退屈は嫌だけれど、お出かけなんてもっとぞっとしなかった。同居人と外を出歩くなんて、何よりおぞましいことである。昔はよくもまああんなに出歩いていたものだと思う。あの時なら多分まだまともに献血が出来たんじゃないだろうかとか思ってしまうのも嫌だ。
 それに、僕はこんな状態になってから人混みが苦手だ。この世の楽しい場所は大抵混んでいる。そこを避けた同居人とのお出かけが楽しいわけがないような気がした。献血ルームはその点優秀で、僕が悠々と入れる程度には空いていた。外では血液提供のお願いを青年が必死に叫んでいた。いつも思うんだけれど、あれってボランティアなんだろうか。それともバイト?
「大丈夫。人混みにはいかないから。それでいて、楽しめる場所にするから」
 同居人はなかなか優秀な人間だと思っている。同居人がそう言うなら、きっとうってつけの場所なのだろう。けれど、気は乗らなかった。僕の為に、ということだけを考えられた同居人の案は基本的に嫌いだった。
 僕如きに媚びるような存在は基本的に嫌いなのである。
「お願いだよ。明日は休日なんだ。別に君の為ってわけでもないんだよ。いいから私の休日を少しばかりキュートに変える手伝いをしてくれよ」
「キュートとかファンタスティックとかそういう形容詞がつく休日を求めてるのなら尚更僕はミスチョイスだと思うぞ」
「残念、他に友達がいないんだよ、とか私に言わせないでよ」
「君はさ」
「借りに上乗せしておいて。いつか纏めて返すから」
 同居人は強引にそう言った。真摯な瞳が僕を刺す。
 その言葉は諸刃の剣だ。同居人もそのことをちゃんと知っていただろうと思う。僕が不自然に口を引き結んだからだ。言葉にしなくても通じるものがあると信じて、僕は同居人の顔を見る。同居人は澄ました顔もいいところだ。吐いてしまった言葉は取り返しがつかないことを知っているのだろう。
 その言葉を使った瞬間、僕達の間の何かが軋む。それでも、その言葉は僕に対して酷く効果的だ。
「わかった」
「やった、ありがとう」
「貸しを作ることになるけど」
「だから、今のお礼は未来の私への感謝なの」
 僕はこれのこういうところが嫌いだ。

 同居人は運転免許を持っている。大方の裕福な大学生がそうであるように、就活が終わってから、四年生になってから取ったものなんだそうだ。僕は同居人が四年生になった頃にはもう既に大学をやめてしまっていた。だから、何の脈絡もなくふいっと取り出された車のキーと、月極めで契約しているという駐車場を見せられた時、少しだけ驚いた。同居人はこれで何処にでも行けるというのに、こんなところで僕とこんなところで暮らしているのである。
 車の種類は詳しくないのでよくわからない。同居人の鮮やかさに似合う赤色だった。これだけ綺麗な赤色をしていると悪目立ちをしてしまいそうだけれど、同居人は世間様に顔向けできないような人間じゃない。
「車の運転も久し振りなんだけどね」
「車で通勤してるのかと思ってた」
「いや、電車だよ。電車で行った方が早いんだ」
「へえ。持ち腐れだな」
「車が生鮮食品じゃなくてよかったよ」
 同居人は僕の言葉なんか気にも留めずに軽くそう返した。同居人の格好はモノクロでシックにきめられたワンピースで、色彩は地味なはずなのに今日もやっぱり鮮やかだった。ハンドルを握る姿もとても様になっていて、本当に電車通勤をしているのかと疑った。そんなところで嘘を吐く程気の利いた人間ではないと知っていながら、そう思った。
「それで、何処に行くの? 秘密って言われたらシートベルトで首を吊る」
「シートベルトで死なれたら困るなぁ。上手い具合に車のメーカーの責任に出来たりしないかな」
 同居人の細くて白い指が何かのリズムを刻むようにハンドルを叩く。何のリズムかはわからなかった。同居人の音楽のセンスは抜群だから、きっと素晴らしい楽曲に違いなかった。同居人だけが理解出来る音楽の中で、同居人は歌うように告げる。
「ラブホテルですよ」
 シートベルトは首を絞めるには向かないらしい。
 そんなことすら、試してみるまでなかなか実感できないのだ。実戦経験って本当に大事。自転車等に比べて自動車が優れている点は、これが密閉されているからだろう。そうじゃなきゃ、僕は外に飛び出していた。

 正直な話、本当にラブホテルに連れてこられるとは思ってもみなかった。
 僕だってそういうことに耐性の無い処女じゃないわけだし、それに対してどぎまぎするような人間じゃないけれど、それでも。同居人にとっては貴重な休日を消化する場所にそんな場所を指定されたらどきどきしてしまう。ときめきじゃなく、嫌な汗をかく、という意味で。
「……期待してた?」
「してない」
「それはそれで残念」
 古びた駐車場に車を停めながら、同居人は軽やかにそう言った。どこまでが本気で、どこまでが狂気の沙汰なのかが判断しづらくて困る。
「このラブホ、何年物?」
「さあね。私がここを知った時には、ここは廃墟としての地位を確立してたからなぁ」
 同居人は確かに僕をラブホテルに連れて来た。ただし、このホテルは何年も、下手したら十何年も前に廃業しているらしい。安っぽいネオンは壊れてからの方が価値あるものに見えるから不思議だ。
 ホテルの一階部分は完全に外と地続きになってしまっていて、怪しげな雰囲気のロビーと、一階にあった客室、上へ続く階段などが陽光に照らされてきらきらとしていた。部屋の中だと考えると荒れ果てているけれど、ここは外なのだと割り切ってしまうと、照らされたその場所は、聖域のように綺麗なところに見えた。例え、何の為に回るのか未だにわからない回転ベッドに、部屋の中心を奪われていても。
「ここね、取り壊されるんですってよ」
 同居人はカウンターの亀裂から生えた雑草を慈しむような目で眺めながらそう言った。慈しまれるのが不適切なくらい強い植物だ。
「壊される前に来れてよかったね」
「ごめん、何がよかったのか全然わかんないんですけど」
「こういう場所ドキドキするでしょ? 廃墟だよ。廃墟」
「やだよー……僕はこういう呪われそうなところ苦手なんだって言ってるじゃん……」
「私が嫌だって言ってるのにスプラッタホラーとか見てるじゃん」
「スプラッタホラーと心霊の怖さは質が違う」
「そもそも幽霊怖がる人間じゃないでしょう。君が気にしてるのは呪いだけ。大丈夫だよ。ラブホテルでの呪いは全部ここでセックスをした二人の間だけで完結するものだろうから」
 同居人はいつから廃墟好きになったのだろうか。長崎での修学旅行で頑なに軍艦島に行きたがる側の人間だったんだろうか。僕だって軍艦島とかそういうものの価値に無理解なわけじゃないけれど、なんというかここは生々しいし、近すぎる。
「私、ここ見つけた時ドキドキしたんだ。知ってる? ここ、廃墟とかを特集してるウェブサイトで紹介されたりもしてるんだよ。車で来られる場所にこんなところがあるなんて得した気分にならない? なるでしょ?」
「……正直そうでもないけど」
「いいから、奥に行ってみようよ。我儘が全部借りに上乗せされるなら、とことんまで行使したいの」
 同居人はさっさと歩いて僕を手招きした。赤くて綺麗なハイヒールなのに、よくもまあそんなに跳ねるような動きが出来るもんだ、と少し感動すら覚える。奴の背中には羽根が生えているのかもしれない。

 部屋は殆どそのまま残されていた。所々派手に壁に穴が開いている所以外は、完全にラブホテルの一室だ。年代物のウォーターベッドを見て、同居人が興奮していた。
「見て、ウォーターベッドだよ。私、これ小さい頃に観た映画の中でしか見たことなかったのに」
「へえ」
「その映画も、お父さんがね、旅行に乗り気じゃない息子を無理矢理旅行に連れ出すんだよ」
「可哀想に」
「でも、その物語は万雷の拍手に迎えられるハッピーエンドなんだ」
 ハッピーエンド、ねえ。と、僕は思う。ハッピーエンドなんてものが無邪気に信じられてしまうのか。だって、その映画だって描かれてないだけで、父親が突如アル中になってしまったり、息子が反抗期拗らせて父親を刺し殺してしまったりするかもしれない。
 ラブラブなカップルが次の瞬間には被害者と加害者の関係になってしまうかもしれない。世の中なんてわからないものだ。ハッピーエンドなんてどこにも無い。
「これ、寝っ転がっちゃったら駄目かなぁ」
「色々と気にならないんだったらいいんじゃない? 埃とか泥とか」
 同居人は暢気にウォーターベッドを見てあれこれ考えを巡らせている。ハッピーエンドが一生迎えられなさそうな絵面だった。
「でも、もうウォーターベッドに巡り合わないかもしれないよね。ここで寝ておかないと」
「別にここが無くなったからっていって世界からウォーターベッドが無くなるわけじゃないだろ」
「そうかもしれないけど、もしウォーターベッドを体験しに行こうって言っても、きっと一緒には来てくれないでしょ?」
「それは行かないだろうね」
「だから意味ないんだよ」
 そもそもここに来たのだって、同居人が貸しがどうとかあまり楽しくない話を持ち出してまで僕を連れ出そうとしたからなのだ。同居人がウォーターベッドを目標に据えてあの華麗な車を走らせようとしたって、僕は絶対に行こうとしなかっただろう。同居人が自分からあの時のことを匂わせるのは珍しかった。僕は献血に失敗し、バイトも落ちた。だから、例外的にここにやってきたのだ。
 ウォーターベッドを目指す楽しい旅行なんて、絶対に僕は認めない。
 僕の怪訝そうな顔に気が付いたのか、同居人が不意に首を傾げた。何かを探っているのだろうか。隙間から、よろしくない好奇心が見え隠れしている。同居人が口を開いた。
「昔の君だったら、ウォーターベッド巡礼の旅に付いてきてくれたと思う?」
「……知るかよ。今回みたいに無理矢理拉致される場合だってあるだろ。わかんない」
「そうか、わからない。わからないね」
 同居人が目を細めた。未だに、ウォーターベッドに寝っ転がる勇気は持てないままらしい。仕方ない。同居人のお気に入りである紺色のスカートは、白っぽい汚れにとても弱いのだ。
 同居人は言うべき言葉を言い尽くした、とでも言わんばかりの顔をして頷くと、またウォーターベッドに向き直った。
「……あ、見て。この中金魚入ってるよ。一、二、三……皆死んじゃってるけど」
 同居人の声が弾んでいる。死んだ金魚を眺めている癖に。
 視線に気が付いたのか、同居人は振り返って、真面目くさった顔で言った。
「……いいんだよ? する?」
「何を?」
「ここのホテルが現役だった頃に、カップルたちがウォーターベッドの上でしていたようなことを」
「冗談言うとウォーターベッドの中にもう一体死体が増えることになるけど」
「どうやっていれるつもりなのさ」
 同居人が可愛らしく頬を膨らませた。さっきの発言のグロテスクさと相まって、何だかとても素敵に悪趣味。
「君はここに来て楽しいわけ?」
「基本的に私、廃墟とか好きだからね。軍艦島もいつか行ってみたいと思ってるし。それに、取り壊されるって聞くと、来なくちゃいけないような気がしたんだ。そういうのって、あるでしょ?」
「そうでもない」
 同居人が廃墟好きだというのも、初めて知った。同居人があまり自分のことを話さないからだ。
「僕以外と来ればもう少し楽しかったと思うよ」
「そうやって卑屈になるところは君の悪いところだよ」
「僕の欠点なんて今更な話だろ」
 本音が半分と、同居人を困らせてやりたいのが半分だった。
「僕の欠点は魔法のビスケットみたいに叩く度に増えていって取り返しがつかなくなるんだ」
「でも、そうやって天文学的に増えていってポケットから溢れ出す欠点を見た節穴の誰かは、それを満点の星空が溢れ出してるって勘違いして愛してくれるかもしれないでしょ。ねえ、そうでしょ?」
 それは誰のことを言っているのだろうか。
 同居人がそこに自分のことをキャスティングしているとしたらとんだ喜劇だと思う。同居人の目は節穴なんかじゃない。片方くり抜いてやりたいくらいの慧眼だ。そんな場所には入れない。
「そんなに屁理屈をこねるのが得意なら弁護士か小説家になればよかったのに」
「これは純然たる思い込みだから。屁理屈なんかじゃないよ」
 同居人が笑う。上手いことを言えたつもりなのだろうか。僕を喜ばせることが出来たと無邪気に信じているのだろうか。
 僕は同居人の寛容さと優しさ、もしかすると愛情みたいに見えるものの正体を知っている。
 裏側にあるものを知ってしまっての手品は楽しめない側の人間だ。同居人なら拍手をしてくれるかもしれない。けれど、箱の底に穴が開いている癖に、僕はそれを脱出マジックだなんて呼びたくないのである。もしかすると子供染みた考えかもしれないけれど、それなら子供で構わないくらいの気分だった。何せ、凄く、気に食わない。
「金魚、腐らないんだね」
 同居人は古びたウォーターベッドに浮いている金魚の死骸を軽く指でつついた。死骸はいつか溶けるのだろうか。そもそも、ウォーターベッドに入っている水って本当に純粋な水なんだろうか。もし、ベッドとしての性能を優先して考えられた水が入っていたのなら、金魚を入れたばかり段階でもう既に金魚は半分死にかけているんじゃないだろうか?
 金魚の死骸の上でセックスするカップルを想像した。ギシギシと揺れるベッドのお陰で、ウォーターベッドの中の金魚の死骸も上下する。それを横目で見た女が、楽しそうに「金魚が泳いでいるよ」と男に告げる。金魚は溶けずに晒し者になっている……。
 想像しただけで、何だか気持ちが悪い。やっぱりここはろくなところじゃないんじゃないか、と思う。同居人のセンスなんて、所詮僕とは相いれないのだ。
「もう帰りたいんですけど」
「ええー、来たばっかりじゃん」
「そもそも、こんな何も無いところで何を楽しめって言うんだよ」
「箸が転がっても楽しいくらいにならないと、社会では生きていけないんだよ」
「箸が転がっても悲しいから僕は社会に出られないのか……そうか」
 僕と同居人のくだらなくて不毛なやり取りを終わらせたのは、甲高い声だった。腐ってもラブホテルなのだから防音設備には自信があっていて欲しかったというのに、筒抜けの声が僕達の耳を刺す。
 壁の向こう側から、四、五人くらいの子供が出てきた。はしゃぎまわって、転げまわって、まるでラブホテルから産まれ出たみたいに新鮮で鮮やかな子供達だ。声から察するに、どうやら鬼ごっこをしているらしい。五人の影の後に、ぜえぜえ言いながらついていく男の子が一人。言わずもがな、この子が鬼だろう。
 僕はその鬼の子の影を追って外に出た。子供達が跳ねまわっているのが、より一層よく見えた。
「君の発想はあそこらにいるガキ共と同レベルってわけですけど」
「……いいじゃないね、私達だってまだ若いんだし……」
 それにしたって程があると思う。童心を忘れないでいることで生まれるメリットなんて殆ど無いことにはもう気が付いているでしょうに。アイドルとかも、処女より先に童心捨ててなくちゃ出来ないものなのだよ。
 僕は何か言うのを諦めて、大人しく近くにあった古びた長椅子に腰掛けた。ラブホテルに置かれていたはずの長椅子なのに、その長椅子の座り心地は病院の待合室で味わったことがあった。同居人は少しばかり抵抗がありそうな様子で長椅子を見ていたので、手を引いて強引に座らせた。さっきまで半分野晒し状態だったウォーターベッドに載ろうとしていた癖に、わけがわからない。
 同居人が座ったことで、廃墟は一層単なる公園らしくなった。
 子供達はどうやら鬼ごっこに興じているようだった。そんなことをしていては体力の消耗に繋がるだろうに、わざわざぎゃあぎゃあと喚き散らしながら走り回っている。走って跳ねて、たった一人の鬼から逃げ回る。
 鬼をやっているのは終始同じ少年だった。体が小さく、恐らく健康もさほど優良児ではなかっただろう少年。彼はどうにも運動神経が悪いようで、さっきから誰も捕まえられないでいる。彼を弄ぶかのように寄って来た男の子にどうにかタッチしてみても、長い間鬼をやらされ続けて体力を消耗した少年はすぐに捕まって鬼に逆戻りになってしまった。
「鬼ごっこは慈愛のゲームだよ」
 僕は呟く。同居人が子供達から目線を僕にやった。同居人の過去を僕はよく知らないけれど、きっと人気者だったのだろうなぁと思う。
「鬼ごっこって遊びは子供がやればやる程、その身体的な能力の差が顕著に出る遊びなんだ。本当の子供には戦略とかそういうものがないからね。だから、運動神経が悪い奴はいつも捕まって鬼になり、走り回って体力を消耗し、延々と鬼をやらされる羽目になる。周りの子供達に慈愛というものがあれば、鬼は十回連続ではやらせないとか、そういう取り決めも出来るんだけどさ。そうじゃないと、鬼はいつまでも友達の姿を追い求めてふらふら彷徨う羽目になる」
「考えすぎじゃないの?」
「そういうことを考えすぎることが出来ないとああいうことになるんだ」
 さながら鬼の少年はいかつい称号に反して囚われた雀だった。籠の中でくるくる踊るのを、面白がって見物される。それを一緒に遊んでいるとみなすのは確かに平和かもしれないけれど、単純に胸糞が悪かった。何の疑問にも慈愛にも、下手したら悪意というものにも無自覚な子供の遊びだとわかっているからこそ、酷く胸糞悪かった。
「少なくとも、僕は考え過ぎることが出来る人間だよ。僕は」
 同居人が何かを言おうとしていた。きっと、清く正しく美しいことだろう。
「ここで遊んでんじゃねーぞ!!」
 今まで長椅子で静観を決め込んでいた僕が急にそんな声を上げたことに驚いたのか、遊んでいた子供達の視線が一心に僕に注がれる。こんな注目を受けたのは久しぶりだった。僕に意識的に視線を向けるのなんて、悲しいことだけど同居人くらいのものだし。
 子供達は逃げ出すこともなく、僕の方を見つめている。素直でよろしいけれど、今の学校は不審者に出会ったらとりあえず逃げなさいって学校で教わったりしないんだろうか?
「ここ何処だかわかってんのか。廃墟とはいえラブホだぞ、ラブホ。お前らみたいな子供がいていい場所じゃないんだよ。そもそも誰の許可取ってここで遊んでるのか言ってみろよ」
「だって、ここ、おじさんの所有物じゃないでしょ?」
 なかなか子供染みていてなおかつ鋭いことを言ってくる。これだから子供は嫌いなのだ。所有物、なんて感じの多い言い方も気に食わない。小学生は小学生らしく『もちもの』と言うべきだ。
「二十代をおじさん呼ばわりしてんじゃねーぞ! 言っとくけどな、ここは僕の所有地なんだ」
「嘘だ!」
「嘘じゃねえよ! 殺すぞ!」
 いきなり飛び出した物騒な言葉に、一層子供達の顔が強張る。ここまできてもなお、子供達は逃げ出そうとしていなかった。ここでようやく気が付く。彼らには危険に対する耐性が殆どないのだ。漠然とした危ないものに邂逅する機会もなかったのだろう。だから、どう逃げていいのかもわからないのだ。
「け、警察に言うぞ」
「言えよ。でも、警察に通報出来るのはお前らが具体的にどうにかなった後だからな」
「ひ」
「お前らを襲った後、僕は逃げるぞ。すぐ逃げるね。お前らがどれだけこの廃墟の中で僕の特徴を羅列してこんな男に襲われたって言っても、僕は捕まらないぞ。僕みたいな特徴の男なんて掃いて捨てる程いるんだからな。僕が何しようと気にする奴なんかいないよ。ちょっとやそっとの事件じゃ、この世界じゃ露見したりしないんだよ」
「何言って……」
「例えばここで僕がお前の足をバッキバキに折ったとしても、多分バレないと思う」
 可愛くも無い子供の顔が泣きそうに歪んだ。いやはや、欲情しない相手のそういう顔を見ても全く興奮しない。大人げないし人間としてもアウトだろうけれど、僕は社会生活不適合者なのだ。一丁前に怖がってんじゃねーよ、と思いながら手を伸ばした。子供が座り込む。ああ、やっぱり駄目なんだな、こういうの。理不尽ということの恐怖を、この子達は知らない。
 暴力沙汰は苦手だけれど、子供相手なら暴力だって振るえるのかもしれない。そう思いながら肩を掴んだ。細い肩だった。
 その瞬間、
「犬だ!!!!」
 同居人の声がした。僕も、僕に掴まれている子供も、周りの子供も鬼をやらされていた子も、全員が全員が奴の方を向く。
 視線の先で、同居人が犬を掲げていた。犬種なんかわからない、茶色のうすぼけた、汚い子犬だ。廃墟になったラブホテルに住みつく小さな命。普段の僕なら気を滅入らせていただろう。僕は基本的に犬が好きなのだ。人間の子供より、百倍いい。
 犬はいつだって素晴らしい狂言回しで、最高のカリスマ性を持っている。犬が一匹いるだけで、その場の流れは一気に変わる。この場合もそうだった。今、腕が折られるかどうかの瀬戸際に立たされているというのに、間抜けに子供は犬を見ている。抱えられた子犬は暢気に舌を出している。アインシュタインじゃあるまいし。本当は、僕達のことを馬鹿にしていたのかもしれない。
 僕は何かを言おうとした。その前に、同居人が犬を掲げている腕を大きく振りかぶる。嫌な予感がした。けれど、同居人のモーションはもう止められない。一瞬だけ何だか眩しそうな顔をして、同居人が犬を投げた。
 綺麗な放物線だった。それが子犬であることを感じさせないようなそれだった。僕はとっさに飛びのいて、クソガキから距離を取る。取り残された子供は、投げられた子犬をぽかんとした顔で見つめている。周りの子供達は余裕のあるモラリストなようで、ちゃんと悲鳴をあげていた。子犬が、子供の顔面に当たった。勢いで、犬と子供の身体が両方とも倒れる。
 犬はその間、一言も鳴かなかった。
「逃げよう!」
 犬を投げたばかりの同居人が意気揚々とそう言った。僕は頷く。頷くよりも先に同居人は逃げ出していたような気がするけれど、きっと彼女だって必死だったのだろう。
 逃げる瞬間に、ずっと鬼をやらされていた子と目が合った。一瞬だけの意思の疎通。そして、……笑顔。やられたなぁ、と思う。あの子の笑顔はいけない喜びに満ちていた。きっとあの子はこの快感を忘れられない。僕みたいに、少しいけない人間になるだろう。もう彼は虐げられることはない。鬼ごっこはヒエラルキーのゲームだ。
 全ては入れ替わり、順位だって崩れ落ちる。
 言い訳めいて聞こえるかもしれないけれど、だから僕は別に良いことをするつもりなんか更々なかったのだ。目の前に広がる光景が不快だったからぶち壊してやろうとした。それだけ。同居人が好きだと言った場所であんなことが起こっているのが少しばかり不快だっただけ。それだけ。あの子達はもうこんな場所で遊ばないだろうし、鬼を延々とやらされる役は入れ替わる。それだけ。
 同居人は、履いているのがハイヒール型の新型スポーツシューズなんじゃないかと疑いたくなるような速さで走った。あまり外に出ていない僕の全速力と同じくらいの速さと言えば、その恐ろしさが分かっていただけるかもしれない。
「ろくな場所じゃなかったな、やっぱり」
「こんなはずじゃなかったんだけどな」
 同居人からその台詞を聞くのは何度目だろう。現実では勿論夢の中の同居人もいつだってその台詞を言いながら後悔してるから、なかなか馴染深い台詞だ。
 赤い車に乗り込む。同居人の動きには無駄が無かった。流れるようにキーを差しこみ、エンジンをかける。本気なのだと思った。本気で同居人は前科がつくのを恐れている。映画さながらの華麗な足捌きで、廃墟になったラブホテルから赤い車が走りだす。
「はーびっくりした」
「上手く逃げおおせたけれど、こんなに目立つ車なのだし、これ、後々通報されてもおかしくないよな」
「まさかこんなことになるとは思わなかったよ」
 同居人が溜息を吐きながらそう言う。
「犬、どこから見つけてきたの」
「見つけてきたんじゃないんだよ。いたの。あそこに。……一匹で寂しかったかなあ。少し同情しちゃったよ。だって、あのラブホテルはその内取り壊されちゃうんだから」
「でも投げた」
 同居人は何かスポーツをしていたんだろうか。そうじゃなくちゃ納得が出来ないくらい綺麗な投げ方だった。バスケットボールでもバレーボールでも納得が出来る綺麗な投げ方だった。一生僕がそれを尋ねることはないのだろうけれど。
「大丈夫だよ。犬は投げたくらいじゃ死なない」
「わからないだろ」
「私がわかるのは、あそこで犬を投げなかったら君はきっとあの子の腕を折っていただろうってことさ」
 同居人はそう言った。正解だ。
 同居人は僕が何をしようと赦すようになっている。取り決めみたいなものだ。同居人が僕に借りているものの代わりに、全てを受け止めてやると勝手に決めているのだ。馬鹿馬鹿しい話だと思う。そうして、受け止めるものの重さが増えないように、同居人は犬まで投げる。
 何だかとても虚しくなって、背もたれに深く寄りかかった。シートベルトはつけない。これが見咎められたとしても、被害を被るのは同居人だけなのだ。
「ちなみに、君って何座?」
「私?」
 何で今? という無言の疑問が聞こえるみたいだ。それでも同居人は、息を切らせながら、吐息の間に紛れ込ませるように答えた。
「獅子座」


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