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紀ノ国屋宿太郎のマ行の憂鬱


 わからない言葉は辞書で引かなければいけないという強迫観念に襲われて、日々半死半生なことで有名な辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎が、彼の代わりに辞書を引くという役割だけを担う助手を募集していたということは巷にもよく知られている。だが、雇ったその助手が失読症であって、文章を読むことが出来なかったということは知られていない。
 助手の応募要項にはしっかりと辞書を引くという仕事内容が書いてあったのだが、又聞きだけで助手の仕事に応募してきた彼女には、そもそもその応募要項が読めなかったのだという。皮肉な話だ。
 これが、辞書引き探偵紀ノ国屋が、折角助手を雇ったというのに、彼女には何もさせず、今日もせっせと殺人現場で辞書を引いている謎の真相である。助手の彼女は、紀ノ国屋の事件解決の際にささやかな拍手をしてくれるが、だがそれだけだ。ちなみに、彼女の拍手のやり方は、とても可愛らしい。

 紀ノ国屋とその新しい助手の相性がいかに悪いかは、紀ノ国屋が彼女の名前を見た瞬間に発作を起こしたことからも明らかである。彼女の名前に使われている漢字が読めなかった紀ノ国屋は唐突に泡を吹いて床に倒れた。そこで、慌てふためく彼女に向かって、本棚から漢和辞典を持ってくるという最初の仕事を命じたのである。しかし、彼女は背表紙の文字が読めず、床でのたうちまわる紀ノ国屋に英和辞書を取ってきてしまった。このことによって紀ノ国屋が危篤に陥ったことは、お互いにとって鮮烈な記憶となったに違いない。
 結局彼女は本棚の辞書を一列ずつ持ってくることで最初の困難を克服した。震える手で紀ノ国屋が辞書を引いている間、彼女は粛々とその様子を見守っていた。その様は、助手に極めて相応しいものだったという。
「シャクナゲって読むんだ」
 ともあれ、漢和辞典と新明解国語辞典と花言葉辞典を駆使してようやく紀ノ国屋は彼女の名前の読みを理解した。
「はい。石で殴った楠の花で、石楠花です」
「それだと石殴楠花ちゃんになるけど」
 紀ノ国屋と石楠花女史はうふふと綺麗な笑い声を上げて、お互いにお互いの顔色を窺った。紀ノ国屋は考える。いくら原因が石楠花女史本人の名前だったからといって、彼女は紀ノ国屋の本日の命の恩人である。ここから先面接を続けることも、よもや不採用と言うのも難しい。それに、石楠花女史は、姫カットのよく似合うチャーミングな二十五歳なのだ。追い返すのは更に難しい。
「文字が読めないの?」
「文字は読めますが、文章が読めないんです。文字が二つ以上繋がっていると、もう駄目です」
「なるほど、それなら文章どころか熟語もアウトだね」
「失読症……ディスクレシアともいいます。ああ、でもスピルバーグ監督もトム・クルーズも、果てはアインシュタインもこの症状に悩まされていたようですから、お気になさらず」
「私が気にしているのは失読症がメジャーか否かという点ではないんだけどね」
 失読症であった人々のビッグネームっぷりに驚きつつも、紀ノ国屋はそう答えた。いつも推理を披露する時の声とはまるで違う、弱気な声だ。紀ノ国屋は名探偵なので、他人のペースに巻き込まれるのに慣れていないのだ。
「応募要項読まなかった? 私の助手は辞書を引くのが仕事なんだけれど」
「あら嫌ですね、紀ノ国屋さん。あの応募要項が何文字だったか、覚えていらっしゃらないんですか?」
 石楠花女史は名前の由来である花のようにたおやかな笑顔で笑った。何も紀ノ国屋だってあの応募要項が一文字以上かどうかが判別出来なかったわけではないのだが、そんなことを言われてしまえば、もう笑うことしか出来ないのだった。
「それでは、採用であれば一週間以内に連絡しますから」
 紀ノ国屋は何かしらの奇跡が起こることを願った。漠然とした願いだ。奇跡の内容も思いつかず、結局石楠花女史がここに来てその台詞を言われてから、丁度一週間後に、紀ノ国屋は彼女に採用の連絡をすることになった。こうして、石楠花女史は紀ノ国屋宿太郎の助手になったわけである。

 石楠花女史の患う失読症には色々なバリエーションがあるのだが、彼女は知的能力及び一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文章の読解のみに著しい困難を抱えるという症状を見せた。彼女はウィットに富んだジョークも言えるし、一度聞いたことはすんなり理解したり覚えることが出来たが、文章というものだけはさっぱり読めなかった。つまり、紀ノ国屋が探偵業務をすることに関するどんな仕事でもそつなくこなせる石楠花女史に出来ないことは、辞書を引くことだけであったのだ。それが、どれだけ紀ノ国屋宿太郎にとって絶望的な事態であったかは想像に難くない。
 それでも今日も、石楠花女史は紀ノ国屋の助手である。
 背表紙に書いてある文字は読めずとも、彼女は紀ノ国屋に教えられたその辞書の判別を、色とデザインの違いで行った。新マイスター独和辞典と発達心理学用語辞典の判別は容易だし、二冊あるビジュアル園芸・植物用語事典のどちらが増補改訂版なのかすら見分けることが出来るようになった。記憶力のいい石楠花女史には向いている作業だった。
 そんなわけで、今日も彼女は辞書を詰めたキャリーケースをごろごろ引きながら紀ノ国屋の後を着いて行き、殺人現場に馳せ参じる。紀ノ国屋がわからない言葉を見つけたら、指定された辞書をキャリーケースから引っ張り出し、瀕死の紀ノ国屋に向かって投げるのだ。紀ノ国屋は瀕死だから、たまに石楠花女史の投げた辞書をこめかみで受けてしまうことがあるけれど、石楠花女史に悪気はないので、紀ノ国屋が彼女を責めたことは一度も無い。
「犯人はそこの角に住んでいるベルンハルト・シュリンクの文庫本を読んでる女の子ですよ」
 紀ノ国屋は『Der Vorleser』の意味と『狐死首丘』の意味が分からず、今日も元気に吐血を繰り返し、石楠花女史に片っ端から辞書を投げられていたが、事件は華麗に解決して見せるからだ。文章が読めないというハンデがあっても、石楠花女史と紀ノ国屋のコンビネーションはそこそこ上手くいっているのである。元々助手を欲しがっていた理由は全く報われていないが、順調なお話ではある。
「石楠花女史、良い時間だし帰りに何か食べて帰ろうか」
「あ、私はあれがいいです。フォーとか」
 石楠花女史は食べ歩きが趣味らしく、よく食べ物に頓着しない紀ノ国屋にはわからないような料理名を発し、その度に紀ノ国屋の発作を誘発した。フォーの名前を最初に聞いた時、紀ノ国屋は電信柱に頭を打ちつけた。しかし、その分紀ノ国屋は石楠花女史が来てから美味しいものを知ったものだ。今ではちょっとした食通と言ってもいい。
「残念、この通りには不味いベトナム料理店か美味しい味噌ラーメン屋さんしか無い」
 石楠花女史の残念そうな顔を無視して、紀ノ国屋はずんずんと可愛らしい女の子には似合わないような粗野な通りに歩みを進めていく。それでいて紀ノ国屋は彼女に車線側を歩かせないのだから、燃え尽きる寸前の紳士精神くらいは残っているのかもしれない。
 通りで石楠花女史に絡む酔っぱらいを千切っては投げ千切っては投げで捌いた後、紀ノ国屋は石楠花女史をいつものラーメン屋さんに連れて来た。さっきまでふくれていた石楠花女史も、ここの味噌ラーメンの美味しさを知っているので、頬を緩めざるをえなくなってしまう。
「味噌ラーメン二つ」
「私はバターもトッピンクして欲しいんですが」
「ふん、いやしんぼめ」
「私は三つもバターを所望しているわけではありません」
 紀ノ国屋はバターをトッピングした味噌ラーメンと、普通の味噌ラーメンを一つずつ頼む。ラーメンが来るのを待っている間、石楠花女史がなんだかそわそわしながら紀ノ国屋の方を見ているけれど、目を合わせたらはにかまれてしまうことがわかっているので、紀ノ国屋は頑なに視線を寄越さない。
 やがて味噌ラーメンが届いて、石楠花女史が割り箸を割る音を小気味良く響かせた辺りで、ようやく紀ノ国屋は彼女の方をちらりと見た。彼女の目はもうこちらではなく、味噌ラーメンに向いている。紀ノ国屋はどうしてだか少しつまらなくなる。けれど、味噌ラーメンに浸かったバターが溶けることよりも自分の方がエンターテインメント性に富んでいるという自信はないから、黙り込むだけだ。
「美味しい!」
 石楠花女史は本当に美味しそうに物を食べる。黙って立っているとやや無表情が目立つ石楠花女史だが、美味しい食べ物を目の前にすると、髪の毛の先がスープに浸るのも構わずに、一心不乱に舌を喜ばせることに集中してしまうのだ。
「世界が全てこの味噌ラーメンのようだったら、私は文章を読めなくたって困らないのに」
「今だって困っていないだろう。仕事だってあるし」
「それでも、私は紀ノ国屋宿太郎の助手にはふさわしくありませんよ」
 石楠花女史はレンゲにスープと麺を綺麗に収めながらそう呟いた。
 石楠花女史は周りの誹謗中傷などには流されない叡智と気概に溢れた女性だけれど、それでも少しは気にしてしまう。それが、彼女自身ではなく、辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎に関するものならば尚更だ。紀ノ国屋宿太郎は、失読症の助手を雇ってしまった可哀想な名探偵にするには惜しい人材なのだ。
 紀ノ国屋は、思いがけない切り返しに黙り込んでしまう。彼は小説家ではなく名探偵だから、こういう時に石楠花女史の役に立てないのだ。
「私はこんな体質だけれど、これのお陰で多少なりとも何かを知らないという無知への痛みと新しいことを知ることの喜びはしっかりと味わえていると思うよ」
 言葉は魔法だ。何とでも言える。
「でも、超常的な力でその体質が治せるってなったら治しますよね?」
「それはそうだね!」
「ですよね!」
 石楠花女史だって失読症を自分の個性だと思いつつ、治せるものなら治したいと思っているだろうし、辞書引き探偵としてのアイデンティティーを失うとしても、作家になりたいはずの紀ノ国屋は辞書を持ち歩かなくても生きて行けるようになりたいとおもっているだろう。
 しかし、そもそも紀ノ国屋が探偵としての才能を開花させたのは、体質によって無知と未知に対する痛みを身を以て体感したことで色々な物事を推察する能力を磨いた所為だ。そうでなければ紀ノ国屋は、元々の夢であった小説家を目指していただろう。こんな体質の所為で、彼は一度も小説を書き通せた試しがない。
 そうなってくると、石楠花女史だってそもそも紀ノ国屋の助手になることも無かっただろうし、すると当然のように二人がここで味噌ラーメンを啜っていることも無かっただろうから、自分達のやっかいな事情を無条件に非難することは、二人には難しい。
「……私は紀ノ国屋宿太郎が辞書引き探偵であってよかったですよ」
 考えてみれば、紀ノ国屋が辞書引き探偵でなければ、助手すら募集しなかったかもしれないのだ。そうなると、この出会いは、疎ましい事情が引きあわせたものなのかもしれない、そう石楠花女史は思う。
「そうか。私は君の失読症に感謝したことなんて一回も無いがね!」
 紀ノ国屋は最後の一本まで麺を啜り終わると、躊躇いも無くそう答えた。紀ノ国屋は元来嘘が苦手だし、空気も女心も読めない体質なのだ。
 そうまで言われて黙っている人間でもない石楠花女史は、サッと日越小辞典を取り出すと、その重たい辞書の平面で思い切り紀ノ国屋の後頭部を打った。紀ノ国屋は店主自慢の秘伝のミソスープにしたたかに顔を突っ込みながら、それでも自分の悪かったところは何処なのかよくわかっていない。

 石楠花女史は働き者だったので、手の空いた時はよく掃除などをしていた。紀ノ国屋は辞書を平気でそこらにほっぽり出すような、掃除とはやや縁遠い性質の独身男性だったから、言われる前に石楠花女史は進んでやっていたのだった。
 石楠花女史が来てから、事務所は随分綺麗になった。それによって紀ノ国屋への依頼も増え、依頼人にお茶を出す石楠花女史の涼やかな笑顔は評判になった。あまりにも石楠花女史が有能な助手だったから、誰も石楠花女史が失読症であったことに気が付かない程だった。
「本日のご用件は何でしょう」
 そう紀ノ国屋が尋ねても、石楠花女史に気を取られた依頼人が何にも話せなくなってしまうなんてことも多々あった。そういう時、紀ノ国屋はどういう反応をしていいか迷ったものだ。彼は、美人の扱い方に慣れていない。
 そんな有能な石楠花女史がなんだか悪戯してやりたくさせたのかもしれない。全てをそつなくこなす女の子には、誰だってちょっかいを出してやりたくものじゃないか。ぱたぱたと事務所内を動き回りながら掃除をしている時に、暇な紀ノ国屋は彼女に悪戯を仕掛けた。戯れに始まったような雇用関係だったから、悪戯が二人にはよく似合っていた。
「石楠花女史、これを」
「なんでしょう」
 紀ノ国屋は、石楠花女史が読めないのを知って、こうして手書きのメモを手渡した。石楠花女史はそれが重要なものか、それともいつもの紀ノ国屋の戯れなのかを判断出来ずに、形の良い眉根を寄せる。それを見た紀ノ国屋は、にんまりと笑うのだ。趣味が悪い男だ。石楠花女史は賢いのに、どうしてだか、石楠花女史の失読症を知っている紀ノ国屋が、本当に大切な用事を手書きのメモなんかで渡すはずがないということに気付かない。
「これ、何て書いてあるんですか」
 石楠花女史が悔しそうにそう尋ねると、紀ノ国屋は更に笑みを深めてにんまりと笑った。紀ノ国屋は石楠花女史をたまにどうしても困らせてやりたくなるのだ。その気持ちは石楠花女史が依頼人に告白されたり、ちやほやされたり、はたまたお茶のお礼を懇々と言われていたりするのを見た時にふつふつと湧き上がってくるのだが、明確な因果関係はわからないとされている。
「『私にもお茶を淹れてくれないか』だよ、石楠花女史」
 こんな悪戯をしていると、名探偵の沽券にも関わりそうだが、紀ノ国屋は気にしない。石楠花女史の冷たい視線だって、気にしてあげたりしないのだ。
 しかし、石楠花女史は泣きごとや不平など、生産性の無いことを言うつもりはない。その代わり彼女は冷静な口調で「紀ノ国屋さん、常鱗凡介の意味はわかりますか」と、反撃を試みるのだった。
 それによって、紀ノ国屋は「え、じょ? じょ、何? え、石楠花女史もう一回言って!」と言いながら手に持ったティーカップの中身をおでこにぶちまけ、しばらくホラー映画に出てきそうな様相で過ごす羽目になってしまった。
 石楠花女史は、素敵な助手だったのである。紀ノ国屋との相性はけして良くなかったけれど、彼女は彼女なりに、唯一無二の助手だったのである。
 過去形なのは、彼女がとある事件に巻き込まれて紀ノ国屋の元から去ってしまったからだ。紀ノ国屋宿太郎は、もうしばらく彼女と一緒に食事を摂っていない。
 彼女がどうして紀ノ国屋の前から去らなくてはいけなかったのか、どうして名探偵であるはずの紀ノ国屋がそれを防げなかったのかを語るには、一つ知らなくてはいけない話がある。重要な話だ。紀ノ国屋と石楠花女史を揺るがしたもの、他ならぬ死を呼ぶ美しき語り手の話だ。
 こんな聞くだけで恥ずかしくなるような名前でも、週刊誌に載るとなると素面でアナウンサーが読み上げる公式名称になるのだから困る。
 死を呼ぶ美しき語り手というのは、所謂連続殺人犯だ。
 その犯罪者が狙うのは主に小さい子供達だけで、死を呼ぶ美しき語り手は、公園のベンチに座り、本の読み聞かせをすることで、子供の注意を引き、そのまま一気にその本で何度も何度も子供達の喉笛を狙って殴打し、殺害してしまうのだという。
 数少ない目撃者の証言によると、死を呼ぶ美しき語り手は長い髪の美しい女性のようで、子供達はその優しそうな風貌に、子供達は警戒心を取っ払ってしまうのだという。
 彼女の出現で、この界隈では『知らない大人の読み聞かせを聞かないこと』という、字面だけ見れば奇妙な御触れが出るようになってはいたのだが、被害者は減らない。子供達はその御触れも死を呼ぶ美しき語り手のことも知りながら、何処かで自分は被害者にならないし、目の前のお姉さんは殺人犯じゃない、と一途に思い込むものなのだ。貴方はそれを聞いて、何て愚かなんだと子供達を哀れむかもしれない。けれど、考えてもみて欲しい。この世にいる、大多数の大人たちだってそうだろ?
 そういうわけで、死を呼ぶ美しき語り手はターゲットに困ることなく、今まで犯行を謳歌していたというわけだ。被害者の子供の数は、七人にのぼっている。
 紀ノ国屋も一応探偵なので、この事件についてのことは概ね知っていた。けれど、何の手出しも出来ない事件ではあった。何せ、これには隠された真相というものが無い。犯人だってどこの誰かは知らないが、まあ何処かにはいるのである。紀ノ国屋は地道な浮気調査などで生計を立てるようなタイプの探偵ではないから、彼女を探そうという気も起らなかった。つまり、本来ならばこの事件は紀ノ国屋が関わる余地なんか、無かったという訳である。
 しかし、そうも言っていられない事態になった。紀ノ国屋はこの事件に用なんかなかったが、この事件の方は、紀ノ国屋を気に入っていたのである。そこで、紀ノ国屋は半ば強引に、この事件に巻き込まれることになった。
 よりにもよって、死を呼ぶ美しき語り手の正体として、石楠花女史が疑われてしまったのである。

「石楠花女史、ロイヤルミルクティーが飲みたい」
「あら、さっき私がミルクを使い切ってしまいましたよ」
「何故私にはくれなかったんだ」
「言わなかったから」
「…………」
「何か飲みますか? 水しかありませんが」
「いや、いい」
 そんないつもの会話をしている時に、無遠慮なノックの音がした。紀ノ国屋はその音が嫌いだ。少し目線をずらせばインターホンがちゃんとあるというのに、わざわざドアをノックしてくるのは、大体が余裕が無い依頼人か、無粋な人間だからである。
「インターホンを鳴らすまで入れなくてもいい」
「そんなのはいけませんよ」
 紀ノ国屋の底意地の悪い言葉に反して、人間がちゃんと出来ている石楠花女史はドアの方へ向かった。この時ばかりは、その行動はよろしくなかったのである。
 石楠花女史がゆっくりドアを五センチ程開けた瞬間、ドアが叩きつけられるように大きく開いた。うっかり指を挟んでしまいそうになった石楠花女史の短い悲鳴が聞こえる。紀ノ国屋が何事か、と振り返る頃には、驚かされた子ウサギのように部屋に転がり戻ってくる石楠花女史の姿と、それを追いかける警官の無粋な影だった。
「連続児童殺人の容疑で、連行します」
 転んでしまった石楠花女史の細い手首を乱暴に掴み上げながら、一番偉そうな警官が言った。
「連続児童殺人? 何の話だ?」
「所謂、死を呼ぶ語り手事件のことですよ」
「ふん、それが石楠花女史と何の関係がある」
 紀ノ国屋は敵意剥き出しの目で石楠花女史の手首を掴む男を見る。石楠花女史は可哀想に、明らかに委縮してしまっていた。たまに悪戯することはあっても、紀ノ国屋は石楠花女史が脅かされているところを見るのは好まない。相手が警官じゃなければ、紀ノ国屋は近くの植木鉢で執拗に男の鼻骨を殴っていただろう。
「だから、彼女が死を呼ぶ語り手なんですよ。連続児童殺人鬼」
 さっきまでは疑いだと言っていたのに、随分早い心変わりである。それはまあ当たり前なのかもしれない。確信のような何かしらが無ければ、こんなことをしない嫌らしい慎重さを知っている。けれども紀ノ国屋は、一応苦し紛れに尋ねた。
「証拠はあるのか。行っておくがな、石楠花女史は公園にいる鳩に餌をやるという傍迷惑な趣味を持っているから、公園によく出入りしていたって事実は証拠にはならないぞ」
「あるさ」
 後ろにぞろぞろと着いてきていた警官の一人が、何やらビニール袋に入ったものを掲げた。反射してよく見えないが、どうやら本のようだった。
「最新の被害者である白浜束崎(しらはまたばさき)ちゃんの殺害現場である公園に落ちていた本だ。死を呼ぶ美しき語り手が、今回白浜束崎ちゃんの気を惹く為に朗読していた本だと見られる」
「ほほう、それで?」
「これに、石楠花容疑者の指紋がべったりと付着していた」
「嘘だろう」
「残念ながら、本当だ」
 紀ノ国屋は石楠花女史の方を見た。すると、さっきまで項垂れていた石楠花女史が弾かれたように起き上がる。目が合った。
「公園に本が落ちていたので、拾っただけです!」
 石楠花女史がそう叫ぶ。しかし、警官の反応はつれなかった。
「しかし、貴女の指紋以外は見つからなかったんですよ」
「それは、死を呼ぶ美しき語り手が手袋をしながら読み聞かせをしていただけでしょう」
 紀ノ国屋も、どうにかして石楠花女史を援護しようと必死だった。石楠花女史の手首に手錠を掛けるタイミングを見計らいながら後ろについている若い警官がいるのだ。そんなことを、させたくない。
「しかし、手袋説よりも石楠花容疑者が読み聞かせをしていたと考えた方が自然だとは思いませんかね」
「これだから雑魚は、ミスリードにほいほい引っかかる為だけに生きているような生き物たちだな本当に」
「雑魚かどうかは置いておいて、それに、本の外側にだけ彼女の指紋が付着していたなら、私達だって言い訳を聞く余裕も生まれますがね、本の内側にもページにも、石楠花さんの指紋は付着しているんですよ。彼女が本を開いたのは間違いがない。ねえ、どう思いますか。紀ノ国屋さん」
「本当なのか、石楠花女史」
 石楠花女史は一気に青ざめ、また項垂れてしまった。石楠花女史にとって一番知られたくなかった事実だったらしい。文章を読めないはずの石楠花女史が、何故か本を開いた。紀ノ国屋は石楠花女史を疑うつもりなんて欠片も無い。けれど、それ以外に、石楠花女史が殺人犯であるということ以外に、彼女が本を開くどんな理由がある?
「……石楠花女史は本が読めない、失読症なんだ。死を呼ぶ語り手であるはずがない」
「死を呼ぶ『美しき』語り手ですよ、紀ノ国屋さん。それに、彼女らしき人影を見たという証言もあってですね」
 不幸にも、石楠花女史は姫カットの奇跡的に似合う美人だ。死を呼ぶ美しき語り手が噂通り美女なら、公園にいた美女である石楠花女史と間違えても仕方がない。しかし、一体どれだけ美人という特徴が曖昧で広範囲なことだろうか。駄目だ、馬鹿すぎる。石楠花女史は馬鹿なことに巻き込まれている。
「まあ、失読症なんて自己申告して読めない振りしてればまかり通っちゃうところもありますからねえ」
 紀ノ国屋をもっとも激昂させたのは、その言葉だった。石楠花女史がどれだけ大変な苦労をしてきたか、それがありながらもどれだけ軽やかに生きて来たか。それを知ろうとしないでそんなことを言うなんて、生爪を剥いでやったって足りないくらいの狼藉だ。
 しかし、紀ノ国屋はここで石楠花女史に彼女の失読症を証明させる方法が思いつかない。石楠花女史の失読症は、ある意味紀ノ国屋の石楠花女史への信頼によって成り立っているのだった。皮肉なことに!
「ほら、とりあえず立って、来て」
 とうとう石楠花女史の手に手錠が掛けられた。石楠花女史の細くて綺麗な手首にあると、それは変わったアクセサリーのようにも見える。石楠花女史が絶望的な表情じゃなく、笑顔で身に着けていてくれたなら、もっとそんな幻想を信じていられただろう。
 石楠花女史が立ち上がり、何か言いたげに唇を動かしながらも、何も言わずに横を向いた。その肩を、また別の警官がやってきて掴む。気安く触ってんじゃねえよ、と思ったけれど、石楠花女史は何も言えない。
「石楠花女史!」
「紀ノ国屋さん」
「なあ、石楠花女史! どうして本を開いたのか、それだけ教えてくれないか」
 紀ノ国屋は初めて謎の前に降参した。だって、判断材料が少なすぎる。もっと言うべき言葉が、「信じているよ」とか「大丈夫」とか、そういう言葉があったような気がするのに、紀ノ国屋は結局そう尋ねてしまった。
「挿絵が……」
 石楠花女史は怒られた子供のように呟く。挿絵に釣られただなんて、子供が美しい包装紙の爆弾に向かっていくのと変わりない。聡明なはずの石楠花女史にはまったくもってふさわしくない行為だ。しかし、その次に続いた言葉で、紀ノ国屋は息を飲んだ。
「紀ノ国屋さんの格好にそっくりだったので……」
 紀ノ国屋は由緒正しき名探偵なので、ハンチングにインバネスコートという探偵の代名詞のような恰好をしている。それでいて顔などは純日本人なのだから少々の噛み合わなさは見受けられるが、それでも名探偵とは一目でわかってしまう格好だ。
 別に推理でもなんでもないけれど、石楠花女史がうっかり開いてしまったその本は、どうせミステリーかクイズブックか、コナン・ドイルの研究本であるだろうと紀ノ国屋は思う。石楠花女史が興味を持って、開いてしまったという本。
「あの本には、紀ノ国屋さんのことが書いてあったんでしょうか」
 石楠花女史が手錠を掛けられながら紀ノ国屋に尋ねる。これではいよいよ犯人じゃないか、とか、石楠花女史が逃げるはずなど無いのだから、そんなものは無意味だ、とか、石楠花女史よりも警察に対して言いたいことが沢山あったのに、紀ノ国屋は石楠花女史にしか言葉を返せない。
「私に似合うのは辞書だけだよ、石楠花女史」
 石楠花女史は何故だか頷いた。
「そろそろ耳を閉じていた方がいいですよ」
 石楠花女史は最後にそれだけ言った。泣き声を聞かれたくないから、とか言われてしまうのかと身構えたら、右斜め前方から聞き慣れない警察用語が聞こえてきて、紀ノ国屋は過呼吸になる。紀ノ国屋の急変に驚いた警官たちを気にする余裕もないまま、紀ノ国屋が膝から崩れ落ちた。こんなことをしている場合じゃないのに。石楠花女史が今にも連れて行かれてしまうのに。勘弁してくれよ。吐きそうだ。
「少しだけ待ってください、変なことはしませんから」
 その様子を見て、ずっと大人しくしていた石楠花女史が静かに警官たちにそう告げた。そして、承諾を得ないまま本棚の方へ駈け出し、紫色の表紙をした厚い本を取り出して、紀ノ国屋の横の方へ投げた。警察用語集だ。
「……犯人確保」
 紀ノ国屋は込み上げる吐き気を我慢しながらページを捲り、先程聞こえていた警察用語を見つけ出す。意味を飲み込んだ瞬間、身体がスーッと楽になった。嘔吐感が消えた頃には、石楠花女史も消えていた。愚鈍そうな警官達が、億劫そうに帰り支度を始めている。紀ノ国屋には何の興味もないようだ。今こいつらを殴りつけても、公務執行妨害になるのだろうか。と、紀ノ国屋は思った。いいえ、そもそも傷害罪ですよ、という石楠花女史ボイスの幻聴が聞こえる。
 世の中というものはギャップが大好きだから、絵に描いたような凶悪な殺人犯顔の人間よりも、石楠花女史のような可憐な女性が殺人犯であることの方を歓迎するのだ。何故なら、面白いから。石楠花女史は雑誌の写真にも良く映えたから、まだ有罪すら確定していないのに、下衆な雑誌に写真を載せられていた程だ。これには紀ノ国屋も憤慨し、出版元に抗議の電話をしたものだが、そんなものが何の効力を為しただろうか。
 ともあれ紀ノ国屋は石楠花女史に似合いそうな服を片っ端から購入して、差し入れにすることにした。石楠花女史のいつも身に着けている服のブランドは、得意の観察眼でちゃんと把握しているが、彼女の好みまでは分からない。石楠花女史に似合いそうだな、と思うものはとりあえずレジに運んだ。しかしまあ、大きな黒いリボンのついたカーディガンは紀ノ国屋の趣味である。
 差し入れ出来るもののリストを作って端から端まで購入し、刑務官に賄賂を渡して便宜を図ってもらいながら、紀ノ国屋は石楠花女史の面会へ行った。「時間は十分間です」という無粋なことを言った刑務官は、なんだかとても分厚い封筒を貰ったから、多分何も言わないだろう。
 少し間が空いて、石楠花女史が灰色の扉から姿を現した。
「石楠花女史!」
 目の前に相手がいるというのにわざわざ叫ぶなんて行為は、紀ノ国屋の美学に反するものだった。けれど、構っていられない。石楠花女史は、少し顔色が悪かった。けれど、凛とした佇まいは変わらない。
「ああ、紀ノ国屋さん。来てくださったんですか。留置所というものはなかなか色気に乏しいところですね。私はその内拘置所に移されるかもしれませんが……」
「馬鹿なことを言うな」
「ふふ、馬鹿じゃないんですねぇ、これが」
「差し入れを持ってきた。あと、ほら、必要なことは全部私が用意しよう。心配は要らない。君はすぐに出られるさ」
 石楠花女史が一瞬目を見開く。紀ノ国屋の当たり障りの無い慰めが気に障ったわけではないようで、そのまま彼女が口を開く。
「何でですか。紀ノ国屋さんに余計な出費はさせられません」
「私を誰だと思ってるんだ。千客万来辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎だぞ。お金のことなんか心配しなくていい。それに、君が無罪放免で出てきて、私の助手を再開したら、返してくれればいいだけの話だ」
 紀ノ国屋は要するに、石楠花女史を解雇するつもりなど更々無いということを表明したのだ。
「不便は無いか、石楠花女史。まあ、私の荒れ放題だった事務所よりは留置場の方が幾分マシかもわからないけれど」
「紀ノ国屋さんは出したら仕舞うっていう習慣が無いから部屋が荒れちゃうんですよ。大丈夫です。逼迫しているような不便はありません。利用規約などが読めなかったりで、たまに不便ですけど」
 石楠花女史は嘘が下手だ。だから、嘘を吐く時は真実を少しばかり混ぜ込んでくる。きっと、文章の読めない石楠花女史は、不便極まりないに違いない。何もかもわからない場所に投げ込まれ、何もかもわからない文章を見せられ、理解も出来ないままルールに縛られる。それがどれだけ不安なことか、想像力の無い紀ノ国屋だってわかる。石楠花女史を動物に例えるのも気が引けたが、これは丸っきり自然の中から檻の中へ唐突に移された美しい孔雀のシチュエーションだった。
「私の所為で、紀ノ国屋さんのお仕事にも支障が出てるんじゃないですか?」
 石楠花女史が心配そうに尋ねる。
 出ないはずがない。まだ有罪も確定していないのに、殺人犯の助手を雇っていた探偵事務所として吊し上げられる毎日だ。毎日依頼も無いような人間達が、何故か紀ノ国屋を責めに事務所に現れて、石やゴミやもっと凶悪なものや、カラーボールなんかを投げつけに来るのだから堪らない。そして、それにもまして、その際に浴びせかけられる罵詈雑言が紀ノ国屋にとって思わぬ敵となった。残り物のピザを紀ノ国屋探偵事務所の窓に投げつけられながら「estupido!」という叫び声を聞いた時なんか、紀ノ国屋は石楠花女史の使っていたデスクの角に頭を打ちつけてしまった。『estupido』は、スペイン語で『馬鹿』という意味なんだそうだ。
「ああ、その点についてはそうでもない。石楠花女史が気にする程ではない」
「嘘ですよ。だって、死を呼ぶ美しき語り手なんですよ? 話題にならない方がおかしいじゃないですか。本当のことを言ってください。平気ですから」
「別に事実を言っているだけだ。君を気遣ってのことじゃない」
 紀ノ国屋が言っていることは本当だ。恐らく石楠花女史が思っているよりずっと被害は少ない。紀ノ国屋は元々意地も性格もパフォーマンス性も悪い、極めて実務的な名探偵だったので、タレント的な人気は薄いのだ。つまり、失うものが少ないと言える。よって、紀ノ国屋は事務所の前でやんややんやと騒ぎ立てる人達に向かって容赦なく辞書を投げつけて反撃した。まさに辞書引き探偵の名前に恥じない反撃方法である。
 辞書は重い。それが、鼻やこめかみにぶつかったらどうなるかなんて、言わずともわかるし、そもそも紀ノ国屋は何回か身を以て経験している。その反撃が功を奏して、今は最初の頃より随分悪戯をしにくる猛者が減った。変人探偵紀ノ国屋の評判は地面を這い回っているだろうが、紀ノ国屋はそんなことを気にする男でもない。
 それよりも、石楠花女史のことを悪く言われたり、書きたてられることの方が耐えられなかった。石楠花女史をちやほやしていた連中がどこに消えたのかと、草の根を掻き分けてでも探してやりたくなるような気持ちだった。あまりに腹立たしいので、紀ノ国屋は探偵を辞めてやろうと思ったくらいだ。けれど、多分それも、石楠花女史の所為にされる。石楠花女史の所為であることに違いないけれど、この感情を正確に汲み取って記事を書くような、見上げた雑誌記者がいるとは思えない。
「そんなことよりも、君は君のことを心配するといい。今檻の中にいるのは私じゃなくて君なんだ。どっちの方が大変かなんか、文章が読めなくったってわかるだろう」
 珍しく正論を言った紀ノ国屋に、石楠花女史は何も返せない。この面会において正しいことは、恐らく紀ノ国屋が言った言葉だけだった。
「大丈夫だ。少しの辛抱だ。よりによって君をあんな馬鹿げた名前の殺人鬼にされてたまるか。君は紀ノ国屋宿太郎の助手だろう。胸を張りたまえ。真実はいつも一つだ」
 有名な台詞を引用しながら、紀ノ国屋は石楠花女史の手にガラス越しに自分の手を重ねた。実を言うと、ここまで近づいたのは初めてである。
「そうですね。真実はいつも一つです」
 石楠花女史が可憐に笑う。彼女は名探偵の助手だ。真実は一つであっても、虚実は無数にあり、多くの人間はそこらに蔓延る虚実と真実を見分けることに対し、さしたる注意を払わない。それを職業とする名探偵が持て囃されるのは、その仕事が貴いからではなく、彼らの声が大きいからである。エンターテインメント性の奴隷。
 紀ノ国屋はゆっくり留置場を後にした。差し入れが無事届くかだけが気がかりだったが、次の日また面会に行くと、石楠花女史は紀ノ国屋の差し入れた黒いリボンのついたカーディガンを着ていた。

 結局、石楠花女史は起訴されることになってしまった。
 死を呼ぶ美しき語り手は、石楠花女史が捕まってから、すっかり犯行を行わなくなってしまい、それが石楠花女史への疑いに拍車を掛けた。石楠花女史が死を呼ぶ美しき語り手ならば、なるほど石楠花女史が捕まっているから犯行が起こらないということなのである。すっぱりしている理論だけれど、気に食わないにも程がある。
 石楠花女史が裁判を間近に控えて、紀ノ国屋と会えなくなってしまった時、紀ノ国屋はランドセルを背負った男と出会った。昔、洒落なのか本気なのかわからない濃度で発売されていた大人用ランドセルなんかではなく、正真正銘の小児用のランドセルだ。色は赤で、横の名前欄には、男には似合わない女の子の名前が書いてある。
 紀ノ国屋が実力行使で事務所に来る人間達を捌きだしてから、とんと見かけなくなった来客だった。まだいたのか、と思いながら紀ノ国屋は溜息を吐く。この男が好きでランドセルを背負っているランドセルフェチだとは思えない。ということはこの男は、ランドセルを背負うことで何かを主張していて、汲み取って貰いたがっているのだろう。甘ったれじゃねえか、と紀ノ国屋は思う。言葉を使う職業の紀ノ国屋は、そういうことにとても厳しい。
「死を呼ぶ美しき語り手こと石楠花さんに殺された、高田紫央奈の父です」
 紀ノ国屋が徹底的に口を開かないでいると、根負けしたランドセル男が口を開いた。案外堪え性が無い。この睨みあいを始めてからまだ三時間しか経っていないというのに。名乗った名前はランドセルの物と一致している。これで、別の名前だったら面白かったのに、と紀ノ国屋は身勝手に思った。
「あれは冤罪だ。すぐに証明される。裁判で証拠を検分していけば、無能な警察も検察も石楠花女史の無実を知るだろう。その時は見ておけよ。彼女は私の助手なんだ」
 紀ノ国屋は眉一つ動かさずそう告げた。ランドセル男を黙らせるには、こちらの確固たる態度を見せつけておく必要があると思ったのだ。もっとも、ランドセル男が飛びかかって来たって、紀ノ国屋は東洋の神秘の武術であるバリツで撃退出来るという自信があった。けれど、紀ノ国屋はもう石楠花女史のことを他人に語られたくなんかなかったのだった。
「無理だよ」
 しかし、ランドセルを背負った男はすっぱりと言う。
「どうしてだ。私は命を懸けて石楠花女史の無実を信じているぞ」
「だから、真実かどうかなんてどうでもいいんだって。わからないかなあ。名探偵さんだから、わからないのかなあ」
「ああ、わからん。説明してみろ」
 紀ノ国屋はその言葉に眉を顰める。どうでもいいなんてことはない。紀ノ国屋にとっては、真実は重要なものだ。とりわけ、石楠花女史が関わっていることなら特に。けれど、ランドセル男は追い立てるような言葉で続ける。
「あの子が死を呼ぶ美しき語り手なら僕はもうそれでいいんだ。もう疲れたんだよ。紫央奈を殺した顔の見えない相手を憎むのは疲れた。でも、とうとう彼女が現れた。偶像崇拝はよくないって言われているけれど、僕達には祈る相手の顔も憎む相手の顔も見えた方がいいんだ。彼女が死を呼ぶ美しき語り手なら、もうそれでいい。冤罪だっていい。僕は彼女の顔を忘れないで、ちゃんと憎み続ける。真実がどうかっていうので、もう偶像を奪わないで欲しいよ。僕は彼女でいいんだ。紫央奈を殺したのはあの子でいいんだ」
 めちゃくちゃな理論だった。しかし、柔軟な考え方を身に着けている紀ノ国屋は、ランドセル男が言っていることも楽に理解出来た。人間は感情的な生き物だし、疲れっぽいし、飽きっぽくて面倒くさがりだから、いい具合のところでもう皆終わりにしたいのだと思う。死を呼ぶ美しき語り手は、もう十分殺したし、高田紫央奈の死は、いい具合に発酵してしまった。
「大体、失読症なんて本気で信じてるの? 紫央奈だって文章が読めたのに。嘘だよ。アンタ騙されてるんだよ」
 調子に乗ったのか、ランドセル男が急に饒舌に話し出した。高田紫央奈の名前が出る度に、この男は少しずつ元気になる。もしかすると、高田紫央奈の幽霊でも憑いているんじゃないか、と紀ノ国屋は非科学的に思う。
「馬鹿なことを言うな。私は彼女の失読症を間近で見続けてきた」
「演技だよ。死を呼ぶ美しき語り手の殺人は、彼女が助手を始める前から行われてたんだから、カモフラージュに決まってる。大体、あの子は賢すぎる。文章が読めないなんて信じられない」
「それは、石楠花女史の努力の成果だ」
 紀ノ国屋は知っている。石楠花女史が自身のハンディキャップを取り返す為に、沢山の人の話を聞いて覚えて飲み込んで理解していたことを知っている。それなのに、この体たらくは何だ。辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎は、自身の助手すら守れないのだろうか。名探偵とは誰かを守る存在ではないのだろうか、と彼は自問した。答えはイエス。名探偵についてのことは辞書には載っていないけれど、紀ノ国屋にでもわかる。だって彼は、石楠花女史の知る、真の名探偵だからだ。
「待っていろ、絶対に私は石楠花女史を諦めないぞ」
「もう無理だよ。まあ、アンタの勝手だけど」
「ああ、私の勝手だ。勝手ついでに少し失礼するぞ」
 そう言いながら、紀ノ国屋はランドセル男のランドセルを素早く開くと、懐に忍ばせていた辞書を二冊入れ、閉めた上で思いっ切り蹴り上げた。『一ねん三くみ たかだしおな』と、名前の書かれたランドセルが跳ね上がり、男は重くなったランドセルに引き摺られてバランスを崩し、そのままごろごろと転がった。ざまあみろだ。

 石楠花女史の無実を証明するのに一番手っ取り早い方法は、真犯人を捕まえることだ。本物の死を呼ぶ美しき語り手はまだ確実にどこかにいる。
 しかし、紀ノ国屋はあくまで名探偵であって、警察ではない。密室などの物理的に区切られた場所や、容疑者がある程度定まっている一族内の殺人などの犯人を指摘するのは容易いが、死を呼ぶ美しき語り手のような、通り魔的犯行を繰り返す人間の正体を、この国に住む一億人越えの人間の中から言い当てることは不可能に近い。プロファイリングが出来ないことも無いが、そんなものは警察がとうにやっていて、その結果石楠花女史が捕まってしまったのだし――ああ、やっぱり現実の中のプロファイリングはクソだ。
 今まで捕まらなかった用心深い殺人鬼は、石楠花女史の有罪が確定するまで絶対に尻尾を出さないだろう。殺人だって絶対に犯さない。
「ああくそ、現実はクソだ。探偵も警察もクソだ」
 紀ノ国屋は小説よりも辞書が好きだ。小説は嘘だが、辞書はどこまででも本当だ。涙が出そうだった。真実は真実でなくていいし、アイドルは男と付き合ったことが無いと言っておけばいいし、肉まんの中身は最悪ダンボールで構わない。全ては信頼と惰性で成立する。
 紀ノ国屋は懐から一冊の辞書を取り出した。石楠花女史がキャリーバックを引いて横にいてくれなくなったから、自分で持ち歩いているのである。
 紀ノ国屋は本当の塊であるはずの辞書を抱きしめて、それを掲げた。傍から見たら、狂っているように見えたかもしれない。
 構うものか。辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎は、もうとっくの昔にぶち壊れているのだ。
 そうしてようやく紀ノ国屋は、石楠花女史の本当を本当にする方法を思いついたような気がした。上手くいくかはわからなかった。いつもなら絶対に乗らないようないけない賭けだ。ただ、紀ノ国屋は石楠花女史を助けられるかもしれない、という一筋の可能性に酔っていた。結局のところ、辞書がいつでも正しいのは、辞書が皆に信じられているからで、そのセルフプロデュースがどこまでも成功しているからである。紀ノ国屋は、辞書を引き続けて遂に今日、それに思い至ったのだった。

 とあるホームセンターの店長もまた、昔小説家を目指していた。しかし、蟹をモチーフにしたボーイズラブ小説や同情屋という妙な職業を生業としている奇妙な男の小説などは、あまり受けなかったのだ。それで、諦めてホームセンターの守り人になったという訳だった。しかし、夢を諦めた後でも彼は小説、とりわけミステリーなんかが大好きだった。
 そんな店長は、鬼気迫った顔でホームセンターに入ってきた紀ノ国屋を見て、顔を青ざめさせた。紀ノ国屋が、金槌や大きなカッターなどを思いつめたような顔で選んでいたからである。
 彼は小説の中で、とりわけ「ショーシャンクの空に」が好きだった。何だかんだをして受刑者が脱獄する話である。彼は「完全脱獄」も好きだった。色々やって受刑者が脱獄する話である。両方の話に、金槌が出てきたような気がする。彼は、適当な記憶だけで紀ノ国屋に、嫌な感じの妄想を覆い被せた。「スリーデイズ」や、「フィリップ、君を愛してる!」や、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」のような、何だかんだで監獄から出てくる話の色をした妄想だ。
「いけません!」
「うわっ! なんだ君は!」
 店長は結局一番大きなカッターを手に取った紀ノ国屋に向かって、殆どタックルをかますような形で飛びついた。職業柄紀ノ国屋が身体を鍛えていなければ、ホームセンターの床に転がっていただろうというような重い攻撃だ。紀ノ国屋だって、少し声が上擦ってしまう。
「恋人ですか、兄弟ですか、妹さんですか、でも、駄目です。早まってはいけません!」
 大の男がホームセンターで抱き合っている姿なんて、平凡な日常の中では結構な大事件だ。周りの買い物客も、何事なんだと二人を見ている。
 紀ノ国屋は全く理由がわからなかったが、とりあえず質問には答えてあげることにした。それが極めてシンプルな質問だったからである。
「恋人でも兄弟でも妹でも犬でもない、助手だ」
「助手さんですか。助手なら他に探せばいいじゃないですか。そのカッターを戻してください」
「何で私がカッターを戻さなくちゃいけないんだ。君は店長だろう。カッターを買わせたくない理由を言え」
「貴方は切るんですか」
 店長は真摯に紀ノ国屋に向き合い、改めて彼の意思を聞いた。彼は小説が好きなのだ。背景や行間を無視することは死ぬほど苦手なので、紀ノ国屋から目が離せない。緊迫した空気が流れた。カッターの値札が、千九百二十円という事実が、二人の間でぶらぶらと揺れる。
「ああ、切るさ」
 店長はもう何も言わなかった。無言で頷く。そして、紀ノ国屋の手のカッターを無言で受け取ると、懐の赤ペンを取りだして、値段を千三百八十円に書き換えてくれた。応援されているのだ。見ず知らずの人に。
「金槌の方は大丈夫なんですか?」
「よくよく考えたら使わないな、と思ったんだ」
「使わないんですか!? 『ショーシャンクの空に』の例があるというのに!」
「どうして映画が出てくるんだ? それに私は、『刑務所の中のリタ・ヘイワース』という題名の方が好きなんだ」
 聡明な紀ノ国屋はここで、なんだか自分と店長の間には重大な誤解があるような気がしていたが、そんなことは気にしていられなかった。大事なのは、石楠花女史を助けることであり、手の中のカッターが値引きされたことだけである。店長は、少し涙ぐんでいた。
「貴方の助手さんは幸せですね」
 紀ノ国屋は別のコーナーに向かいながら、そう言った店長を思い出す。果たして、そうなんだろうか? 石楠花女史がもし紀ノ国屋の助手でなければ、石楠花女史はそもそも逮捕されていないだろうし、石楠花女史は失読症に一番そぐわない職場を選んでしまった訳だし、幸せかどうかはわからない。それに、今から自分がやることを知ったら、きっと石楠花女史はとっても怒るだろう。
 しかし、紀ノ国屋の足取りに迷いは無かった。結局のところ、やるしかないのだ。これ以外に方法が無いのなら、紀ノ国屋のやることは一つしかない。紀ノ国屋は、どうして自分に諦めるという選択肢が無いのかを不思議に思わない。何故なら、彼は石楠花女史がいないと困るからである。彼は一人で美味しいものを食べようと思い立つことが無かったから、すっかり食通から食べられれば何でも良い、という考えに舞い戻ってしまった。石楠花女史がいなくては、酷く困る。
 紀ノ国屋の行動理念なんて、そのただ一点だけだった。

 石楠花女史の裁判には、沢山の記者が集まっていた。傍聴席に入る為に、朝から何人ものの記者が列をなし、裁判所の周りに突如現れたホットドッグやアメリカンドッグ、たこ焼きなどの屋台を代わる代わる利用している。お祭りと間違えているんじゃないか、なんて指摘はお門違いだ。人が集まれば、その中心がどんなものであれそれはお祭りなのである。
 そこに紀ノ国屋の姿は見えなかった。記者達は石楠花女史の衝撃的な事実と同じくらい、紀ノ国屋の姿も探していた。名探偵で、辞書引き症候群の紀ノ国屋は、美しい石楠花女史と同じくらい話題性のある人物なのだ。しかし、いくらアンテナを張ろうと、紀ノ国屋の姿は一向に見当たらない。
 記者達は貪欲だから、紀ノ国屋の不在すら記事のネタにするだろう。いないということに意味を持たせるのなんて簡単だ。辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎は、殺人事件を起こした助手を見限った。それを極めて俗っぽく、嫌らしいゴシック体で書くだけでいい。記者達は、紀ノ国屋の極めて一般的な反応に、納得していた。逃げてしまえば良いのだ。石楠花女史は、もういない。
 実のところ、石楠花女史だってそれを望んでいたのかもしれない。生真面目な彼女が、紀ノ国屋まで晒し者になってしまうことをみすみす見逃せるはずがないのだ。彼女が必要としているのはヒーローのような紀ノ国屋ではなく、これから酷い目に遭うだろう石楠花女史を救ってくれるような、名探偵の思い出なのである。彼女は記憶力が良いから、それで十分事足りたのだ。
 しかし、開廷から五分ほど経ち、石楠花女史についてのプロフィールがあらかた白日の下に晒された頃、恐らく石楠花女史が一番怖れていたことが起こった。彼女は、紀ノ国屋のいない傍聴席を見て、安心していたというのに。
 ヒーローは遅れてやって来るのが様式美だが、名探偵までそういうやり方をしてくるとは思わなかったのだろう。そもそも、大事な助手の裁判に遅れてくる人間というものも想像できなかったのかもしれない。
 紀ノ国屋は誰かの止める声も聞かず、つかつかと傍聴席の一番前まで歩いていく。前に座っていた何人かがサーッと左右に場所を開けた。ここにいるべきなのは紀ノ国屋だと、認めてしまったのだろう。
 紀ノ国屋はなんの躊躇いも無くそこに入り込み、なおかつ、大きな声を出した。
「石楠花女史!」
 さっきから慌てふためいていた石楠花女史が、とうとう呆気に取られていた。いくら石楠花女史だって、紀ノ国屋がここまでやるような人間だとは思っていなかったのだろう。平時の彼女だったなら、頭を抱えていたに違いない。
「紀ノ国屋さん!」
 ちゃんと応じた石楠花女史の呼びかけに、紀ノ国屋は答えない。それどころか、紀ノ国屋は彼女の方すら見てはいない。紀ノ国屋は手元の何かに集中していた。石楠花女史は、その何かにすら嫉妬する。そういえば、紀ノ国屋が華麗な推理を披露している時はいつだってこんな気持ちだ。
 紀ノ国屋の手が止まった時、石楠花女史は一瞬だけ何かを期待した。何を期待したかなんてわからない。しかし、彼女の期待は漠然と裏切られた。何せ、紀ノ国屋はそのまま、石楠花女史の視界から彼を隠すように横断幕を広げたからである。そこには一つのメッセージがあった。横断幕に書かれた文字が読めない石楠花女史にとっては、紀ノ国屋に拒絶されたようなものだった。
 横断幕を広げ終った時、もう一度、紀ノ国屋が裏から現れた。紀ノ国屋は、まだ彼女の方を見ず、どれだけ横断幕が彼女と、裁判官の目に入るかだけを考えているようだ。
 横断幕の出現で、法廷は勢いよくざわめいた。中には真っ赤になって目を逸らしてしまう人もいた。無理もない。紀ノ国屋自身だって、今までで一番の勇気を振り絞ってそれを広げているのである。不器用を才能に転化した得意のポーカーフェイスが無ければ、彼だって真っ赤になっていたはずだ。どよめく傍聴人や裁判官達の中で、横断幕に書かれている言葉が読めない石楠花女史だけが不安そうに紀ノ国屋の目を見つめている。とうとう、紀ノ国屋が石楠花女史と目を合わせた。
 石楠花女史と紀ノ国屋がこうして見つめ合うのは久しぶりだった。
 紀ノ国屋はようやく、口を開く。
「石楠花女史、君は今日を以てクビだ。リストラってやつだ」
 石楠花女史の顔が凍りついた。
 いつもの石楠花女史ならここで『何を馬鹿なことを言っているんですか』という叱責を返したり、『契約期間内の不当な解雇は許しませんよ』と契約についての条項を突いたりしてくるところだが、何せ彼女は不安でたまらないのである。そしてなおかつ、自分を救ってくれるのはまさに紀ノ国屋だけだろうと思っていたのだ。
「……紀ノ国屋さん」
 そんな彼女がこれしか返せなかったのは無理もない。彼女の瞳が一気に絶望の色に染まったような気がした。そのお蔭で、石楠花女史の瞳に一層紀ノ国屋がよく映る。紀ノ国屋は、石楠花女史の瞳の中の自分に告げるように、はっきりとした発音でこう続けた。
「大体失読症の助手とか本当に洒落にならないと思うんだよ。ネタにはなるだろうし実際なってたけど、そんなことは私が名探偵であることに何の影響も及ぼさないし。君の食通の所為でこっちは呪文みたいな料理名聞かされて何回も発作起こしちゃうし、何だよ、モンゴル料理とかベトナム料理とかフィリピン料理とかそういうものをわざわざチョイスして食べようとするその姿勢はセンスの良い自分アピールっぽくて疎ましいんだよ。それで私が発作起こしたら綺麗にこめかみやら眉間やらに辞書をぶち当ててくれやがってこの野郎。絶対わざとだろ。私はカルシウムをちゃんと摂取している人間だから、まだ最悪の事態には陥ってないけれど、骨とか折れててもおかしくなかったからね? そんな暴力的な女だから、殺人犯だって疑われたりしちゃうんだよ。自業自得じゃねえか! このおたんちんが! 名探偵の助手が連続殺人鬼だなんて、なおかつ妙な名前のやつだなんて笑えねえんだよ! 要するに、君は紀ノ国屋宿太郎の助手としては殆ど最低に近い人間だったって訳だ。わかる? 石楠花女史」
 紀ノ国屋はこの言葉を大体一息で言い切った。長い探偵としてのキャリアを存分に発揮した瞬間だった。錯乱した犯人や逆上してくる容疑者には、一息で証拠を突きつけてやらなくちゃいけないからである。法廷はざわめきの濃度を増していく。記者が何かを走り書いていた。そんな速さで書いては後で読めないに違いない。けれど、もう彼らには書くしかないのだった。
 そして、紀ノ国屋の言葉を受けた石楠花女史の方に全員の視線が動いた。
 紀ノ国屋も、石楠花女史のことを見つめている。
 石楠花女史は、言葉の意味がわからない、といったように首を傾げている。頭の回転が速い石楠花女史が、上手く内容を咀嚼できないのは、どこかで理解したくなんかないと思っているからだろうか。
 石楠花女史がようやくその意味を理解した瞬間、まず最初に流したのは涙で、まず最初に出たのは「酷い」という短い言葉だった。そして、カーディガンのリボンを握る石楠花女史は、続ける。
「それはちょっと、酷いんじゃないですか、紀ノ国屋さん」
 絞り出すような声だった。誰もが石楠花女史に同情してしまうような、悲痛な声だ。
「私は事実を述べただけだ。それで傷つくというのなら、君だって本当は諸々全てが分かっていたんじゃないのかな」
 しかし、紀ノ国屋はぴしゃりと言い放つ。いつも、紀ノ国屋が犯人に引導を渡す時の声だ。その声を聞いて、石楠花女史がすっかり項垂れた。よほど、ショックだったらしい。
 石楠花女史は、もう何も言わなかった。しかし、手だけはごそごそと動いている。元々彼女は、口よりも手が先に出るタイプなのだ。
 石楠花女史がごそごそと懐から取り出したのは、辞書だった。ちなみに、スタイリッシュなクラウン独和辞典である。裁判員たちがどよめいて、何処から出したのかを訝しがっているが、彼女は殺人犯の容疑をかけられていても、殺人犯である前に辞書引き探偵紀ノ国屋宿太郎の助手なのだ。辞書くらい懐に隠し持てなくてどうするというのだろう。
 石楠花女史がもう一度紀ノ国屋の方を見つめ直した。誰かが息を飲んだ。その音が石楠花女史に聞こえていたはずはないのだが、ともあれ石楠花女史はその音に綺麗にタイミングを合わせる形で、辞書を投げた。
 石楠花女史の手から離れた辞書は飛んで飛んで、傍聴席の方へ向かっていく。投げられたのは匙でも賽でもなくて、正真正銘の辞書である。そして辞書は、綺麗に紀ノ国屋の鼻に命中した。紀ノ国屋は名探偵だけど、鼻は鍛えていないし、普通に急所だから、勢いよく気を失う。石楠花女史が法廷の床に押さえつけられるのと、紀ノ国屋が気を失って、掲げていた横断幕を落とすのはほぼ同時だった。石楠花女史の右腕を押さえつけていた警備員に、紀ノ国屋が直筆で書いた横断幕がかかる。それを払いのけた際に、紀ノ国屋が石楠花女史にずっと伝えたくて、けれど世界で一番伝わって欲しくなかったメッセージがくしゃりと歪んだ。

『石殴楠花女史に今から言うことは全部嘘です。本当は第一印象からベタ惚れでした』


 裁判の結果、紀ノ国屋の鼻はぼっきりと折れ、全治四か月の重傷を負った。
 それは、石楠花女史の失読症と、それによる無罪が今のところ認められ、彼女が紀ノ国屋探偵事務所に戻って来るまでの期間より、何倍も何倍も長い期間だった。
 石楠花女史は想像よりもあっさりと解放された。やはり、紀ノ国屋の言葉が盛大な嘘だと見抜けずに、全力で彼に攻撃して見せたのがきいたのかもしれない。演技だったなら、多分鼻は許してあげるだろうし、と皆が皆思っていたのだ。やっぱり陪審員制度は最悪に近いし、全ての物事は信頼によって成り立っているのである。そして、セルフプロデュースが大切。
 鼻という場所の都合上、顔の大部分に包帯を巻くことになってしまった紀ノ国屋は、石楠花女史と一緒に事務所への道を歩いていた。これ以上依頼人が来なくなったら、少しだけまずいというのに、この顔では警戒されてしまうだろう。
「なあ、やっぱり鼻はまずくないか? 人体の急所だし、見るからに折れやすい場所だろう」
「再起不能にしてやろうと思いました」
 恐ろしいことを言う。もしかすると石楠花女史は、この世界の誰よりも殺人鬼に向いている女性なのかもしれない。紀ノ国屋は、彼女が助手をやってくれていることに感謝した。あのまま彼女が無職だったら、殺人鬼にジョブチェンジしていたかもしれない。鼻を折られるまでは石楠花女史が殺人などするはずないと思っていた紀ノ国屋は、ここにきて考えを改め始めている。
「まあいいじゃないですか。これに乗じて整形したら、誰にもバレませんよ、多分」
「盗人猛々しいとはこういうことなんだな。私の鼻以外にプライドも奪う気か」
「それにしても汚いですね。掃除してないんですか」
 石楠花女史は、都合が悪い時に話を変えるのがとても上手い。確かに事務所の荒れ具合は無視できないレベルだから、話を変えざるをえないのだ。
「君がいないとこうなってしまうんだ」
 本当は、紀ノ国屋探偵事務所にだって捜査の手が入り、引き出しという引き出しを、辞書という辞書を引っ張り出されてしまっただけである。けれど、紀ノ国屋はそんなことをわざわざ言ったりしない。何せ、これから片付けるのはどうせ石楠花女史なのである。紀ノ国屋は名探偵だけれど、人生がときめく片付けの魔法は使えない。
「そうなんですか。まったく、紀ノ国屋宿太郎は推理以外はてんで駄目駄目ちゃんですね」
「ああ、だがそれでいいんだ。私は名探偵だからな」
 彼は偉そうにそんなことを言ってみせた。紀ノ国屋宿太郎は名探偵であり、名探偵にはそういった態度がふさわしかったからである。
「名探偵、紀ノ国屋宿太郎ですか」
「ああ。だから、君は名探偵なんて知ろうとしなくていい。本だって手に取らなくったっていい。名探偵について知りたければ、私を見ていろ」
 紀ノ国屋はもう、石楠花女史が死を呼ぶ語り手なんかに間違えられて欲しくないのだ。
 そのことに気が付いた石楠花女史が、世にも可憐に笑った。見ているものに愛しさを覚えさせるような笑顔だ。
「そうですね、名探偵」
 石楠花女史は雑然と転がった辞書達の一つを手に取った。そして、ゆっくり棚に戻す。それは、偶然にも昔石楠花女史の名前を引いたあの広辞苑だったのだけれど、石楠花女史が気が付いていたかはわからない。
 片付けの最中、石楠花女史が働きまわる懐かしい光景を見ていた紀ノ国屋が、ふと手元のメモ用紙に何かを書きつけた。そして、「石楠花女史、これを」と言いながら、戯れに渡す。
「なんでしょう」
「これ……」
 紀ノ国屋が石楠花女史にいつもみたいな戯れ交じりで渡した紙に書いてあったのは、ずばりアイラブユーの和訳である。
 しかし、当然のことながら彼女にはそれが読めない。きっと、紀ノ国屋は答え合わせをはぐらかし続け、うっかり忘れてしまうだろう。そして、遠くない未来に紀ノ国屋の告白はシュレッダーにかけられてしまうに違いない。
 だが、この二人はこれで構わないのだ。これが、構わないのだ。


                                          (了)

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