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有能探偵ハイムリック北崎 最後の事件


 有能探偵ハイムリック北崎は、証拠品を偽造することによってものの三十分で事件を解決した。全く、この上なく鮮やかな手腕である。犯人は泣きながら過去の怨恨を語り、容疑者だった人間たちは厳かな顔でそれを見守る。まるで雨上がりの昼下がりみたいだ。一つの物語の終焉に、いたくカタルシスを覚えてしまっているのだろう。素晴らしい。策間は一人そう思う。これは、殺人事件に慣れていない人間の感受性だ。
「今回の事件は、人間の行き過ぎた感情のもたらした悲劇だったのです」
 ハイムリック北崎がそう言って事件の総括をする。この間も使った台詞だったので、イマイチ説得力に欠けた文言だった。そもそも、殺人の原因が『人間の行き過ぎた感情』でないケースなんてあるんだろうか? 極端な妄執が、あるいは信仰に似た偏執が、物語をミステリーに抱き込んでしまう。十数回事件現場に同行したお陰で、策間はそのことを痛切に理解している。
「策間」
 そんなことに思いを馳せている内に、全ての収拾がついたらしい。高級スーツに鹿撃ち帽を被った麗しの名探偵が、策間の目の前で微笑んでいる。所作の一つから笑顔の細部に至るまで、ハイムリック北崎は探偵らしい探偵だった。
 捏造や虚言とはとことん遠い場所にいそうな彼のことを、誰も疑わない。崖の上の花と、汚泥の底を誰も結び付けたりしない。それを抜きにしたって彼は有能で、やり方に難はあれどもちゃんと事件を解決している。この世の中は適度に合理主義で、真実とか正当性とか正義とか、そういうものは意外と無視されがちなのだ。
「終わったし帰ろう。私、今日はちょっと疲れちゃったよ」
「今日も鮮やかな推理でした。まさか館が変形して東棟と北棟がくっついて、最終的にあの部屋とあの部屋が十秒で行き来できるようになるとは」
「あはは、本当にね。私もびっくりしちゃったよ。ほんっとこの世界ってわけわかんねー……気が狂うよこんなこと続けてたら……」
 今日の北崎は、館が変形した時にうっかり出てきてしまったネジをとっかかりに犯人を追い詰め、自白にまで持ち込んだ。勿論、そんなネジなど存在しない。北崎はこういう時の為に何種類かそういう『それっぽい』証拠を持ち歩いているのである。そして、もっともらしくそれを取り出して、でっち上げの推理を聞かせる。殆ど詐欺のようなものだ。それなのに、哀れで可愛い犯人どもはまんまと北崎に騙される。完全犯罪なんて所詮お伽噺だと思っているからこそ自分の過失を疑ってしまう! 人はもう少し自信家になるべきなのだ。殺人を犯した後なんかは特に。
 けれど、こうして導き出される北崎の結論は、いつだって概ね正しい。北崎が犯人だと指摘した相手は、大抵真犯人と一致する。だから、策間は一概に彼のことを悪だと言い切れないままでいる。それに、有能探偵ハイムリック北崎は、名探偵であるが故に金払いがとてもいいのだ。いくら北崎が捏造クソ野郎だとしても、他に彼以上に好条件で雇ってくれる人間がいるとも思えない。普通免許しか持っていない策間を喜んで助手に迎えてくれるのは、偏にハイムリック北崎だけだ。
「あ、私帰りにラーメン食べたいな。何処か寄ってよ」
 シートベルトをきちんと締めて、北崎が楽しそうにそう笑う。呆れるほど屈託のない笑顔だ。
「味噌ですか? 豚骨ですか?」
「え、塩がいいんだけど……」
「よし、間取って中華そばにしましょう」
 策間はそう言って、法定速度ギリギリの速度でシボレーを走らせる。実を言うと、この事件終わりのラーメンも嫌いじゃない。色々なところに目を瞑れば、北崎の助手はとっても条件の良いお仕事だった。
 策間がハイムリック北崎と出会ったのは、当たり前だけれど殺人現場だった。彼が所属していたサークルの合宿で、殺人事件が起こったのだ。
 彼が巻き込まれたのは、部長が密室で殺されるというオーソドックスな殺人事件だった。確かに施錠された部屋の中に、胸を一突きされた死体が転がっているというのは衝撃的で、策間は普通に恐怖した。人が死ぬのは怖い。普通じゃない状況なら尚更怖い。普通に生きてきた策間にとって、人間は須らく病院のベッドの中で幸福に死ぬものだった。それなのに、どうして胸にナイフを突き立てられなければいけないんだろう?
 合宿に来ていたのは、部長を除けば六人の部員だけだ。犯人はこの中にいる。そのシンプルな事実の恐ろしさといったら! 消去法を駆使して疑心暗鬼に陥った彼らは、殆ど恐慌状態だった。
 そこに現れたのが、有能探偵ハイムリック北崎だった。
「私が来たからにはもう大丈夫です。全てからっと解決させてもらいますよ」
 鹿撃ち帽に高級スーツというミスマッチなコーディネートで、北崎は優雅に立っていた。
「探偵ですか……? 本当に……?」
「勿論。この有能探偵ハイムリック北崎におまかせあれ! ……なーんてね」
 探偵がどうしてこんな場所に現れたのか? 探偵はどうやって事件を察知したのか? そんなことは考えちゃいけない。何せ探偵はそういうものだ。加えて、ハイムリック北崎は今一番有能な名探偵である。名探偵であるならば、更なる理不尽が赦される。誰も糾弾出来るはずがないのだ。
 そうしてハイムリック北崎が現れてから、なんと一時間で事件は解決に向かった。犯人は副部長で、動機は痴情の縺れで、とスピーディーに背景が解き明かされていく。
「そ、そんな! 俺じゃない! でたらめだ!」
「もう言い逃れは出来ないよ。それどころか、このまま容疑を否認し続けるのは、君にとってもよくないんじゃないかな? 心証がどんどん悪くなる」
「嘘だ……証拠は何処にも……」
「君の袖口には被害者の血液が付着しているね。折り返して誤魔化しているようだけど、そんなのは調べればすぐにわかることだよ。自分の血液って言い張っても無駄だからね。それは確実に被害者の血だ。それはそうと、私は先程からクーラーをガンガンにかけているのに、君は頑なに腕まくりをやめないね。早く袖口を見せてみなよ」
「…………そんな、でたらめが」
「密室に突入した時に睡眠薬で深く眠らせておいた部長を刺し殺したとかそういうのでしょ? ははは。そういう時はちゃんと血がつかないようにしなくちゃいけないよ。全く、呆れた馬鹿だ」
「そんな、つくはずが無いんだ。俺はあの時も、ちゃんと腕まくりを、血も、つかないように」
「でもついてるんだろ。はい、犯人確定だ。残念だったね。次はもう少しうまくやるといい」
 北崎がそう言い放つと、副部長はがっくりと膝をついた。完ッ璧な敗北宣言だった。美しい。隠された副部長の袖口には、確かに血飛沫が散っていた。腕まくりをしていたはずなのに。血が付かないように工夫したはずなのに。副部長が後の祭りの愚痴を繰り返す。
 はてさて、事件が終結した後、策間はそっと北崎のところに向かった。事件を起こしてしまった副部長が慰められたり糾弾されている隙に、こっそり自分の目的を果たしに行ったわけである。
 解決を終えた北崎は、特に楽しそうな様子でもなく、部屋の隅で息をついていた。さっき華麗に推理を披露していた人間と同一人物には見えなかった。プライベートとお仕事は、きっちり分けるタイプなのだろうか? その時はそう思った。
「ハイムリック北崎さん」
「うん? 君は……」
「策間です」
「ああ、容疑者達の一人か」
 その呼び名には適度に人権がない。だからこそむしろ好ましかった。ハイムリック北崎にとっては、容疑者達なんて間引いていく存在でしかない。
 澄ました顔は辛うじて微笑んでいるけれど、そこに個人的な親愛は無かった。要望に応じてサインくらいはしてくれるかもしれない。けれど、三時のお茶会は無理だろう。策間は密かにぞくぞくした。自分のとっておきが、その顔をどれだけ歪ませられるのだろうと密やかに思う。
「俺、探偵とか初めて見ました。本当にいるんですね。俺の中では宇宙人とか幽霊とか、そういうレベルの存在でした」
「私は宇宙人のことは信じてるけどね」
 ハイムリック北崎がすかさずそう言ってくる。宇宙人に何がしかのこだわりがあるのだろうか。探偵の癖に。それとも、宇宙人が絡むような殺人事件に出くわしたことがあるのだろうか? 名探偵は常識では測り知れない。
「ところで、そんな希少生物に何か用かな?」
 ハイムリック北崎が緩やかに首を傾げる。有り体にいって恐ろしい仕草だった。射程範囲に踏み入ってしまったことを自覚しながら、策間は敢えてもう一歩踏み込んでみせた。正直な体が逃げ出す前に口を開く。
「俺、見たんですよね」
「…………」
「注射器、袖口、あの時、北崎さんが――」
 それだけキーワードを並べれば十分だろう。相手は高名な探偵だ。察するに余りあるに違いない。
 さて、どう出るか。否定するか肯定するか。北崎が口にしたのはそのどちらでも無かった。
「策間って本名?」
「え、はい。そうですけど……策間一利」
「へえー『策』に『間』だと何だか犯人っぽいね。昔の私ならそれだけで黒幕扱いしてたね」
 最悪の感想だった。洒落にならない話だ。けたけたと楽しそうに笑う彼は、誰もが認める名探偵だ。彼の言葉一つで真相がひっくり返ってしまいかねない。
 現に、策間はさっき目撃してしまった。
 手練れのマジシャンのような手つきで、北崎が被害者の血液を擦り付けるところを。彼の手で、事件が暴力的に書き換えられる様を。
 一見して密室トリックの方は暴いたのだろう。糸口はくしゃくしゃになったシャツの袖だろうか? そうして副部長が犯人だとアタリをつけたのかもしれない。でも、そこには血飛沫なんて付いていなかったはずだ。
 ハイムリック北崎がつけたのだ。
 使われたものは小さな注射器だった。被害者の血を冒涜的に拝借し、副部長の背後からそっと袖口に噴射しているのを、策間はしっかりと目撃してしまった。本当は目撃したくないところだった。時間にして数秒の犯行なんか見たくもなかった。本当は探偵の提供するエンターテインメントに溺れていたかった!
 そう出来なかったのはパフォーマー側のミスである。ハイムリック北崎のミスだ。
 結果的に副部長の彼が犯人で、自供までやらかしたからいい。でも、あれが冤罪だとしたら? 鹿撃ち帽の采配だけでコーディネートされた恣意的なものだったとしたら? 本当に恐ろしい話だ。今まで探偵に特別な感情を抱いたことは無い策間だったけれど、今日からは違う。
「気付いてたよ。君が気付いてたのには。……これ、微妙な言い回しかな?」
「あの、俺……探偵に疎いんですけど、さっきのってやっぱりまずいんです……よね?」
 例えば、探偵であるならある程度の証拠品の偽造はオーケーだとか、全部丸く収めたらそれまでの道程は不問にしてもらえるとか、そういうスペシャルルールが探偵の世界にはあるんだろうか? と、そんな風に思ったのである。
「うん、まずいな」
 しかし、麗しのハイムリック北崎は、そう言ってあっさりと笑ってみせた。改めて思い直す。やっぱり駄目なんじゃないか! そりゃあそうだ。だってそんなの正義も節度も無い!
「策間ってさあ、確か大学四年生だよね? 今年卒業?」
「そうですね」
「内定出てる?」
「あの、何で窮地に陥るなり人格攻撃に入ってくるんですか」
「就活やら内定やらに人格なんか関係ないよ。私の周りも結構苦労してたし。どうなの? 就活浪人する?」
「え、いや……まあ……そうですけど……」
「大丈夫大丈夫。私もそういう就活事情には詳しいんだ」
 浮世離れした名探偵が口にするには、『就活』は酷く俗っぽいように聞こえた。それに、さっきのセンセーショナルな話は何処に行ってしまったのか。答えはすぐに明らかにされた。彼の中ではずっと地続きの話だったのだ。
「月二十五万でどうかな。結構いい額だと思うんだけど」
「え? ……はい?」
「業務は簡単。普段は事務所で自由に過ごしてくれていて構わないよ。私が事件現場に行く際に、同行さえしてくれればいい。後は事件解決まで付き合ってもらうことになるが、私はスピード解決が売りだからね、そう手間は取らせないよ」
「どういうことですか?」
「そういうことだよ。野暮なことを言わなくてもわかるだろ?」
 策間は察しが良い。野暮に聞き返すことはしなかった。多分、それは酷く無様だ。この洗練された男の前で、それは避けたい。
 策間はどうやら北崎の助手として雇って貰えることになったらしい。就職活動が上手くいかなかった彼にとっては、渡りに舟の申し出である。
 でも、何となく察していた。これは口止めの一種だ。助手として雇う代わりに、策間は共犯者にならなくちゃいけない。誰もが讃える至高の探偵の、一番いけないところに触れることを求められる。口の固さを尋ねられなかったのが一層恐ろしかった。個人の資質なんて関係が無いのだ。
「…………俺でいいんですか」
「勿論。私にもそろそろ助手が必要だと思っていたんだ。探偵にとっての助手は鹿撃ち帽並の必需品だよ」
「そういうものですか……。それなら、そうですね。よろしくお願いします」
 策間は就活に失敗していた。就職出来るならどこだって構わないと思っていた。二十五万円の月給は魅力的だし、福利厚生は求めただけしっかりしたものになりそうな気配である。
「何か質問はある?」
 その一言で完全に陥落した。ややあって、策間は遠慮がちに尋ねた。
「ハイムリック北崎って本名ですか?」
「本名なわけないだろ。何人だよ」
 ハイムリック北崎はそう言って笑ったけれど、ハイムリックはそもそも人名である。ちなみに、ハイムリック法の由来となったヘンリー・ハイムリック医師はアメリカ人だ。意外とわかりやすい名前なのだ。
 才能は時におぞましい。
 人間は適度にモラリストなので、持つべきものが義務を果たしている場合には寛容な姿勢を取ってくれるのである。さながらノブレス・オブリージュ、名探偵? 大いに結構! 有象無象の殺人鬼どもが適切に処理されるのなら、好きに現場を荒らしまわって構わない。骨の髄までご奉仕してくれれば、代わりに愛してやってもいいのだ。
 ハイムリック北崎は、その名を世に広く知らしめている名探偵である。まず仕事にあぶれることはないし、事件現場にずかずか踏み入っても赦されるし、トリック検証の為に不謹慎なことをしても見逃される。
 探偵業界に入った頃の策間は、その傍若無人さに驚いた。モラルを気にしていたら事件解決なんか出来ないし、殺人が起きた現場を歩き回れない。死体調べまくることも無理だろうし、誰かの罪を代わりに断罪することなんて、出来るはずがない。そのことは理解しているけれど、納得には時間がかかる。
 北崎がそれを赦されるのは偏に名探偵だからであり、最終的にちゃんと解決するからこそだ。名探偵である彼は警察からの信頼も厚く、いくらでも現場に入って良いし、捜査情報もちゃんと教えてもらえる。けれど、彼が無能であれば、あっという間に掌を返されてしまうだろう。
 この業界は酷い実力至上主義だ。どんな仕事であろうとそういうものなのかもしれないけれど、それにしたってこの業界はそれが露骨だった。
 加えて、ハイムリック北崎はとにかくセルフプロデュースが上手かった。世間の求める理想の探偵像を忠実に再現し、エンターテインメントすら提供してやった。「さて」から始める解決編も、勿体ぶった口上も、求められれば全てこなした。
 観客は誰も彼も非日常に飢えていて、地味な解決よりも装飾過多な物語を求めがちなのだ。北崎はそれらに上手に答えてくれる。
 例え根幹のところに赦しがたい捏造があっても、彼は探偵に必要なものを全て知っているし、実力がある。
 それに気が付いた後は、深く考えるのをやめた。策間のやるべきことは、助手として現場に同行し、適度に驚いたり悩んだりして、その場を盛り上げることだけだった。
 ボーっとしていても文句を言われることはなかった。北崎のめくるめくパフォーマンスを、一番近くで堪能しているだけでいい。コストパフォーマンスだけで見るなら最高の仕事だった。明らかにヤバそうな村や奇祭に同行させられるのは正直勘弁願いたかったものの、聡明な策間はすぐに気が付いた。ハイムリック北崎の傍にいれば、差し当たって死ぬことはない。
 あまりに順風満帆だと、それはそれで居心地が悪いのが人間だ。徹底的に楽な仕事の最中、策間は北崎に尋ねてみたことがある。
「小説とか漫画とかだと読者の目線に立つキャラクターが必要だってことで助手が要請されるじゃないですか」
「策間ってさ、一々そういうこと気にしながら本読んでんの? 人生つまんなそう」
「だったら、現実での助手の役割って何なんでしょうか? ……これって、本当は要らない役割なんじゃないですか? ていうか、助手が探偵のステータスの一つって言ってた割に、俺の空気っぷりがヤバいような」
「それは君のキャラが立ってないからじゃないの?」
「やめてください」
 痛い所を突かれた策間が、わかりやすく顔を顰めると、北崎はなだめるような声を出した。
「そんなことないよ。秘書みたいなもんだよ。君は全国の秘書に喧嘩を売ってるつもりか?」
「そんなことないですよ。それに、秘書って何か……その……エロい……感じの癒しをもたらしてくれるっていうか……」
「君の中の秘書はAVの中にしかいないの?」
 それから二人はしばし秘書についての卑俗なイメージを曝け出しあった。黒ストッキング、いけない残業、祝福の寿退社! 北崎は名探偵だけど、結構オーソドックスな趣味をしているらしい。
 そんな趣味の北崎が、エロくも何ともない助手を雇っているというのは、ある種の不文律のような気がしてならなかった。策間は枕営業に向かないタイプの助手である。
「そもそも、北崎さんってどうして探偵をやってるんですか? 可愛い助手と楽しく過ごす為じゃないんですか?」
「さっきから偏見が凄いな」
「今までの二十三年余りを探偵とも秘書とも無縁で生きてきた弊害です」
「私が名探偵になったのは、うどんが超好きだからうどん屋さんになったようなものだよ。小説書くのが超好きな人は小説家になるでしょ? アイドルが好きな人はアイドルになるでしょ? 犯罪が超好きな人は犯罪者になるでしょ? それと同じだよ」
「アイドルが好きな人はファンだろうが!!!」
「ちょっ、いきなりキレないでくれ!」
「すいません、ちょっと俺の美意識的な部分が、看過しちゃいけない部分だって言ってまして……」
「別にいいけど……策間ってアイドルとか好きなんだね……意外だ……」
 北崎と策間は若干気まずくなりながら、お互いに微笑み合った。誰にも譲れない部分はある。迂闊に触れれば死に繋がる逆鱗もあるのだと、殺人現場を渡り歩いていた二人は身をもって知っているのだ。
「あ、強いて言うなら理由はもう一つあるかもしれない」
 強張った顔を晒す策間に耐えられなくなったのか、北崎は思いついたかのようにそう言った。思わぬ方向に転がった話は、彼の興味を十分に引くには十分だった。
「私ね、親友にもう一度会いたいんだよね」
「親友? ……え、親友ですか?」
「うん。大学時代の親友なんだけど、色々なことがあってね。もう二度と会えないかもしれないんだ。私も心の何処かではもう会えないんだろうな、もう駄目かもしれないなって思ってるんだけど……一つだけ、たった一つだけ方法を思いついたんだ」
「それが探偵になることですか?」
「そう。無能であることをやめて、どんな手を使ってでも名探偵になること。それだけが私に出来ること、彼に出来る唯一の贖罪だ」
 いきなりシリアスになった空気を前に、何と言っていいかわかららなかった。えーっと、と前置きをしてから、策間はどうにか答える。
「その親友って……こう……ハイムリック北崎であることで再会の可能性があるお相手なんですか?」
「そうなるね」
「……へえー、なんか、探偵と犯人の関係みたいですね」
「はははは」
 北崎は優雅に笑った。ホーリーシット! その笑顔を見て確信する。その親友は、絶ッ対に犯罪者だろう。きっと、ハイムリック北崎は、その親友を追って探偵をやっているのだ。それはちょっと、お膳立てされ過ぎているんじゃないだろうか。
 あまり現実を見くびらないで頂きたい。ハイムリック北崎がシャーロック・ホームズであるならば、その親友とやらはジェームズ・モリアーティ気取りなのだろうか。楽しそうな構造だし、魅力的な物語でもある。ただ、久々に策間は眩暈を覚えた。
 どうかこれが単なる想像でありますように。悪趣味なジョークでありますように! しかし、悲しいことに北崎の目はある種の切実さで満たされていた。会えなくなってしまった親友は実在するし、北崎はその誰かに再会する為に探偵をやっている。
 この探偵に、人生を懸けた殺人を暴かれた人間が数多くいるのだ。誰かの物語のついでに救われてしまった人間たちが群れを為している。
 それはそれでおぞましい話だ。才能は時におぞましい。こういう時なんかには特に。
 それから数日後、カフェにいた人間が突然毒殺されるという物騒な事件が起こった。爽やかな朝に相応しくない話だ。
 被害者は店内に入ってから珈琲しか口にしていなかった。毒は案の定コーヒーカップからしか検出されず、疑いの目は可哀想なウエイトレスへと注がれた。当然と言えば当然の話である。毒入りカップに触れたのは被害者とウエイトレスだけだ。素直な人間なら、誰でも彼女を疑うだろう。
 そこへ颯爽と現れたハイムリック北崎は、モーニングを頼むより先に、この事件を解決することを決めた。ボックスシートでメニューを睨む策間を置いて、ふらつきながら死体の方へ歩いていく。
 そうしてブルーシートを掛けられた被害者をくまなく調べ、被害者の爪に酷い噛み癖があるのを発見すると、「胃の中に爪の破片が無いかな。解剖すればどうにか発見されると思うんだけど」と、ぼんやりした声で言った。北崎は結構朝に弱いのだ。
「爪の先の方にほんの少しだけ毒を塗っておいて、あとはこの人が爪を噛むのを待ってたんだよ。噛み跡がぎざぎざしているから、八重歯か前歯で噛み千切るスタイルだろうし、毒を塗っていた爪が胃の中に吸い込まれていけば証拠は残らない」
 爪に毒を仕込めるのは奥さんくらいのものだろうし、きっと奥さんが犯人でそこのチャーミングなお嬢さんは無実だよ。と続けると、その場は歓喜に包まれた。絞首台から救われたウエイトレスが感激の余り泣き出して、店内が拍手に包まれる。
 低血圧の北崎は、狂騒の中心で何とも言えない表情をしていたが、ややあってようやく席に戻って来た。一仕事終えた北崎はわかりやすく疲れていて、何だか途方に暮れているようだった。有り体に言えば泣きそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をするのだろう。
「大丈夫ですよ、北崎さん」
 気付けば策間は、反射的にそう口にしていた。踊り終えたバレリーナを抱きしめるような感覚で、帰ってきたばかりの名探偵を讃え上げる。
 さっきも拍手を受けてきた北崎だ。策間一人の喝采なんて何の意味も無いかもしれないが、策間は雇われ助手なのだ。役割を果たす義務がある。
「大丈夫って何?」
 唐突な言葉に対し、北崎は不服そうに唇を尖らせる。間違ってなかったと思うんだけどな、と策間は心の中だけで呟く。少なくとも、北崎が今求めていた言葉はそれだったはずだ。それに、北崎の顔色はさっきよりずっとマシになっているように見える。透き通る朝の最適解。
「いいんです。それより俺腹減ったんですけど、注文いいですか?」
「あそこの店員さんにスクランブルエッグとマフィンのセット二つって注文してきちゃった」
「ちょっ、何してくれてんですか。俺メキシカンピラフにしようと思ってたのに」
「どうして君は朝からそんなアッパーなもの食べたがるんだよ」
「朝から殺人事件を解決した人に言われたくないんですけど」
「私だってこんなこと朝からしたくなかったよ。解決しなくちゃいけないんだ。解決しなくちゃ……」
「どうしてそこまでするんですか。証拠の捏造まで……」
「捏造だって好きでやってるわけじゃない。でも、仕方がないんだ」
 北崎は困ったようにそう言った。このまま追及してやろうとした瞬間、スクランブルエッグが運ばれてくる。このタイミングすら仕組まれたものに思えて、策間は更に嫌な気分になった。食べ物で口を噤まされるのはずるい。
「さて、食べようか。私も今日はやることが出来たからね」
「何ですかそれ。なんかあるんですか」
「原点回帰だよ。原点回帰」
 そして事務所に戻った北崎は、何やら段ボール箱のようなものを取り出してきた。そして、中に入っていたノートを、ざばざばとデスクの上に広げる。雑多に積まれていくそれが何冊あるのかもよくわからない。とにかく膨大な量であることは違いなかった。
「というわけで、私はちょっと勉強に集中するから。依頼人が来ても適当に追い払ってくれる?」
 北崎がそんなことを言うのは初めてだった。カフェでの一件で、何か思うところがあったのだろうか。わからないまま、策間はとりあえず頷く。それを見た北崎は、満足そうに頷くと手元のノートを読み始めた。何の変哲も無い、普通のキャンパスノートだ。
 読書の邪魔をしたらいけないんだろうな、という至極まっとうな気持ちと好奇心がせめぎ合い、結局策間は口を開いた。だって、そんなことをされたら誰だって気になる。
「北崎さん、それ何ですか」
「あー、これね、探偵の勉強ノート」
「探偵の? 勉強ノート?」
「そう。私も昔から有能探偵ハイムリック北崎だったわけじゃないからね。だから勉強したんだ。千里の道も一歩からって言うだろ? 
だから勉強したんだ。……まあ、自分でもこんなことして何になるんだって思わなくもなかったけど……結果的にハイムリック北崎をやるにあたって、多少なり役に立ってる部分もあるから……何とも言い難いな」
 珍しく歯切れの悪い言い方だった。北崎ときたら、まるで生涯最大の汚点を語る時のような顔をしている。策間くんは、何故だか密やかに戦慄した。何の変哲も無いノートが、何だか酷くおぞましいものに見える。理由なんか少しもわからないのに。
「努力は正しいことだと思うんだけどさ、なんていうか……努力するのが不適切な分野があると思うんだ。例えばIQテストなんかもそうだと思うんだけどさ。そういうのって勉強でどうにかするものじゃないでしょ? それなのに、必死に真面目にそれをやってしまうことの気持ち悪さってさ……」
 言葉を選ぶように、北崎がそう口にする。しまったな、と策間は珍しく反省した。北崎は、何だか異国の童話を語る時のような、そんな雰囲気を漂わせている。その物語の中に策間が入る余地はない。
「……なんていうか、探偵とかやってる割に、北崎さんって真面目なんですね」
 それが何だか不服で、わざと刺々しい声を出した。恋する乙女の駆け引きみたいで、言った直後に後悔した。冗談じゃない。
「真面目かは怪しいな。そんなに優等生ってわけでもなかったし。探偵力をつける為には必要なことだったんだよ。ていうか、探偵になろうって人間は真面目だよ」
「何ですかそのパワーワードは」
「策間も助手力を高めるといいよ。事件が起こったらまず電話線を確認したり、一目散に吊り橋に走って行っては落ちていることを確認するんだ」
「嫌過ぎる……」
 策間が露骨に嫌な顔をする。けれど、北崎の言葉は真理である。彼の言葉は、探偵助手として必要な役割をぎゅっと詰めた適切な一言だった。探偵助手は名探偵になるよりもずうと簡単だし、才能だってそう特別なものは必要無い。
 助手に大事なことはただ一つ、探偵を肯定する才能だけなのだ。そして、そういうキチガイ沙汰に、策間はかなり向いている。
 ノートを読み返した北崎は、その後普通に探偵をこなした。迷うことも躊躇うことも無く、捏造と解決を繰り返し、名探偵を続行する。
 季節は巡る。来年度のカレンダーに『ハイムリック北崎と犬』をテーマにしたものが出るらしいと聞き、策間はその撮影に同行することになった。殆どアイドルみたいな所業だけど、実のところ探偵なんてほぼほぼアイドルなのだ。間違ってはいない宿業だった。
 マルチーズを抱えながら微笑むハイムリック北崎は、誰もが認める完璧なキュートさを誇っていた。抱えているマルチーズは、以前北崎が助けてあげた犬だ。血統書付きの可愛い犬は、人間並の身代金を引き出すことの出来る逸材なのである。
「完璧な人間なんてそうそう存在しないのに、人間は完璧な犬を求める」
 マルチーズ誘拐事件は、確かそんな台詞で締め括られたはずだ。北崎が言ったこの台詞を、策間は何故か今も覚えている。
 代わる代わる違う犬と撮影に臨む北崎は、とても可愛い。
 六時間以上かかった撮影の中、北崎は完璧だった。前日、凄惨なバラバラ殺人に携わっていたとは思えない。殆ど眠っていないはずだ。疲れ知らずは長所だけれど、出どころが不明のそれは、何だかとても空恐ろしかった。
 控室に戻った北崎は、流石に疲れているのかしばらく一言も口を利かなかった。「帰ろう」と言い出さない北崎を横目で見ながら、策間の方も黙々とソシャゲに勤しむ。ややあって、北崎が言う。
「アイドルっぽいことしちゃった……」
「そうですね」
「これは名探偵の範疇かな」
「まあ、セーフですよセーフ。きっとそれなりに売れますよ」
「はあ……いい感じに硬派な事件が起こってくれるといいな。このままアイドルに寄るのはまずいし、バランス取らないと」
「不謹慎ですよ、北崎さん」
「冗談だって」
 北崎はそう言い添えてくれたけれど、信じる気にはなれなかった。疲れた顔に張り付いた目が、笑っていないことを知っている。
 どうしてそこまでするんですか、という言葉が口から出てきそうだった。探偵ってそんなに楽しいですか? そんなになりたかった探偵になれて、北崎さんは幸せですか? カウンセリング染みた質問が出てきそうになるから困る。不幸だなんて言われたら尚更困る。そんなに別れた誰かに会いたいのか、それとも別の理由なのか。
「でもちょっと疲れたからさ、一時間くらい寝るね。一時間経ったら起こして……」
「はいはい」
「本当にさ、本気で言ってるんだからな、私は……」
「任せてくださいって」
「本当……もう……駄目だったらどうしよう……」
 それきり声は途絶えた。よっぽど眠かったらしい。
 策間はそれから三時間ほど北崎を放置した。寝かせてやろうと思ったわけじゃない。ソシャゲのイベントに夢中になっていたからだ。
目を覚ました北崎は、策間を責めなかった。小さな舌打ちが聞こえたけれど、上司の舌打ちなんて珍しくもない。策間は体よく無視をしてやった。そのままにしておいた方がいいこともある。
 「人はどうして探偵になるのか」を知りたかった策間は、文明の利器に即頼った。検索窓に『探偵 何で 理由』というふわふわのワードを打ち込んで解答を待つ。すると、そこに一つ興味深い言説があった。
『人は何故探偵になるのか? 私には一つ仮説がある。探偵は全員傲慢なサディストで、社会的病理を抱えている。本来司法や神が担うべき役割を、一手に担うことで興奮を得ているのだ。探偵というものは、自らのサディズムに向き合う必要がある』
 そうだろうか?
 ネットに投げられた無造作で適当な分析を見て、策間は密かに首を捻った。自称精神科医という書き込み主は怪しいことこの上なかったが、何となく一理あるような気もする。
 ハイムリック北崎を突き動かしているものが、彼のサディズムであるという説も腑に落ちた。親友に会う為という名目はあれども、時折見せる北崎の、あの何とも言えない雰囲気……。人は何故探偵になるのか、その答えが純粋な性癖だったら、……なんか少し嫌だけど、納得がいく。
 それじゃあ探偵に憧れる人間は全員マゾヒストなのか? 助手である自分もマゾなのか? その謎を解明すべく、策間はその日初めて五反田のSMクラブに赴いた。
 蠱惑的な受付嬢に「こういうの初めてですか?」と尋ねられ、見栄を張る必要も無いかと素直に肯定する。そうして、初心者用に設定されたコースでいきなり鞭を食らって泣いた。プレイに使われた鞭は音だけが派手なバラ鞭だったので、実際の痛みはそう大したものではない。それなのにわんわん泣いた。罪を突き付けられた犯人のようにびゃあびゃあ泣いた。
 土下座の姿勢で鞭打たれながら、策間は今までの人生を回想していた。かなりオーソドックスな現実逃避である。最初に巻き込まれた殺人事件のこと、名探偵のこと、助手であるということ……。風を切るような軽快な音に導かれて映し出されるそれらは、半生と呼ぶには小さすぎるスケールだった。策間が自我を芽生えさせたのは二十三年前なのに、初めて砂場で遊んだ時の記憶や、ゴーカートに乗った時の思い出が引き出されない。女王様の怒声が聞こえる。策間は反芻する。
「ほらっ! 何か言ってみるんだよ。お前まさか、こうしているだけでいじめてもらえると思わないだろうね? お前の怠慢が滲み出てるよ。そうやって黙っているだけで赦されると思っているんだろう。今までずっとそうして生きてきたの? 傲慢だね」
 女王様が鞭を振るい、策間のことを詰る。プレイを始めて数十分も経っていないだろうに、女王様は鞭打ちながら策間の人格を規定していく。その感覚には覚えがあった。それは、犯人を断罪する探偵の口調に似ていた。求められるものが似ているのかもしれない。それなら、そこにいるのは誰なのだろう。策間は急に、鞭を持つ手の方に痛切な憐憫を抱いた。それは一体何なのか。
「俺がやりました!」
 一際大きなバラ鞭の音が響いた後、策間は絞り出すような声でそう叫んだ。瞬間、ハイヒールの踵が後頭部を蹴り上げ、策間の身体がごろごろと床に転がされる。「他愛ないね」と女王様が呟き、そのまま蔑む視線を向けられた。
 SMプレイにはセーフワードというものが設けられている。プレイを施されている方が、本当に耐えきれないと思った時、自然な空気のままプレイ中断の意思を伝える為に用いられるものだ。それは、個人個人が思うままに設定出来るものであり、策間は『俺がやりました』というものに設定したいと打ち合わせの段階で伝えていた。
 女王様がプレイをやめてもなお、策間は小さな声で「俺がやりました」と繰り返した。事件現場で幾度となく耳にした言葉だ。幕引きに最も相応しい言葉だと思ったからこそ、セーフワードをそれにした。そうこうしている内に、プレイの時間が終わり、無機質なタイマーの音が鳴り響く。女王様が「お疲れ様」と言って、策間はようやく現実に引き戻された。
「思うんですが、策間さんはこういったプレイにはあまり向いていらっしゃらないかもしれません」
 帰り支度を済ませた女王様は、淡々とそう告げた。それはまるで何かの診断士のようでもあった。静謐な雰囲気の中、策間は性癖を診断されている。
「そういうのってわかっちゃうんでしょうか」
「職業柄……。策間さんはこういったプレイは初めてですよね?」
 策間は受付での時と同じく、素直に頷いた。
「でしたら、多分策間さんが求められているような世界はここには無いと思います。勿論、二・三度回数を重ねることで開花していくこともあるんですが、策間さんにそれだけの熱意があるかどうか……」
 聞けば、初撃で抵抗の姿勢を見せる人間には往々にしてMの適性が無いのだという。特殊な文脈で振るわれる暴力に即座に順応出来る人間がいることすら策間には想像出来なかったが、女王様の話ではそういうことは珍しい話でもないらしい。
 自分の性癖が至って普通なことを自覚しながら、策間はお礼を言って一万八千円を支払った。初回料金は三十パーセントオフなのだという。初心者にとっても優しい料金設定だ。
これからは撲殺された被害者に一層同情することになるだろうな、と、策間はぼんやり考える。特に、鞭で打ち殺された人間なんかには。これも助手力の一つなのかもしれない、なんて馬鹿げたことまで考えた!
 けれど忘れてはならない。成長は時に呪わしい。
 足が長くなれば歩幅も変わる。足並みが揃わなくなれば二人で歩くことは難しいのだ。
 策間がSMプレイに興じた一週間後の話だった。
 北崎と策間はとある屋敷にやって来ていた。さる資産家の催したパーティーで殺人事件が起きたのだ。
「こういうパーティーで事件が起こるとさ、出てくる料理が美味しいからお得感があるよね」
「メキシカンピラフありますかね」
「うわ、それまだ引きずってるのか」
 フォーマルな服装に身を包んで、楽しそうに会場内を歩き回る北崎は、やっぱりどこか不謹慎で、キュートで、……不適切だった。殺人現場という殺人現場を渡り歩く北崎は、もう既に感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。事件を解決出来ればそれでいいと割り切っているのかもしれない。純度の高いサディストで、誰かを断罪したり謎を解いたりするのに興奮しているのかもしれない。
 わからないことだらけだ。とりあえず、策間がマゾヒストではないことは確かだけれど。
「まあ、私にかかれば解決はすぐだよ。このハイムリック北崎におまかせあれ、だ」
「その決め台詞そんなに格好良くないのでやめましょうって言ったじゃないですか」
「ちょっ、私は礼服で殴り合いとかしたくないんだ。そういう喧嘩になりそうなこと言わないでくれ」
 今回殺されたのはわかりやすいことに、この家の当主だった。動機は遺産! この家の誰もがそれを狙っている! ただ金持ちだったというだけで、人生が長い長いデスゲームだった老人のことを思うと、策間は心底可哀想に思った。持ち物は簡単に呪いになってしまう。
 ご丁寧に事件現場には脅迫状が残されていた。装飾過多な事件である。それによれば、これから当主に続いて一族郎党が皆殺しになるらしい。景気の良い話だ。
「早く事件解決して解決パーティーしましょうよ」
「にしても、死体が見つかった小屋にはパーティー中誰も近づいてないっていうし、アリバイ成立ってやつだからな。私の方も今の段階ではどうしようもない」
「えー、折角ローストビーフとか用意されてるのに、このままって嫌過ぎますよ。早く解決してくださいよ。死体弄ってなんか見つけてください」
「即物的過ぎるよ……」
 うんざりしたような顔をする北崎を後目に、策間は勝手に死体を調べ始めた。何ていったって彼は名探偵の助手である。見咎める人間なんているはずもない。そもそも普段のハイムリック北崎の方がずっと好き放題してるのだし。
「策間、今のところは待機しようよ。ていうか、こっそり食べるならローストビーフもバレないと思うし」
「ローストビーフはシェフの手で切り分けられてなくちゃ嫌なんです」
「我儘過ぎる……」
 首を絞められた当主の死体を調べている時も、策間の心はそこまで動かなかった。死体を見て驚いていた頃とは違う、何か別の人間に変質しているのかもしれない、と彼は思う。その変化の先に何があるのかすらわからない。とりあえず、策間の気持ちは完ッ全にパーティーの方に向いていた。さっさと解決して、ローストビーフとメキシカンピラフを食べなければならない。
「なんかこの死体、若干美味しそうな匂いがしますね」
「あー、君の倫理観もそこまできたか」
「あ、違います。これ袖口に何かついてるんですね……。なんか、これ、芳醇なスパイスの風味と上品な溜まり醤油の香りが……あっ、これ用意されてたローストビーフのソースですよ!」
「いきなり特殊能力系探偵としての覚醒の兆し見せるのやめてくれない?」
「どうして袖口にソースが……いや、むしろソースが付いた時間が……問題なんじゃないですか……これ……」
 死亡時刻から照らし合わせれば、ローストビーフが調理され始めた時間には当主は小屋にいなくちゃいけないはずだ。それなのに、袖口にソースが付いている。それが指し示すことは一つ。
 当主は小屋で殺されたのではなく、本宅で殺されたのだ。そして、どうにかして小屋に放り込んだのだろう。
 そのことに気付けたのは大きな前進だった。本宅にいた人間でも犯行が可能なら、可能性がぐっと広がる。アリバイがどうとかいう話じゃなくなる! ファッキンなアリバイ崩しに奔走しなくてもよくなってしまう!
 まさか当主の袖口に注射器でソースを噴射するタイプの気狂いがいるとも思えない。いたらもう降参だ。はちゃめちゃな世界に大人しく感服してやろう。
 ともあれ、これで状況は変わったはずだった。
「北崎さん!」
 策間は嬉しそうな声を上げた。
 ハイムリック北崎は名探偵で、助手の策間よりずっと賢い。そのことを知っている策間は、すぐさま北崎に期待の目を向ける。今回は証拠を捏造する必要も無いかもしれない。とても軽くてチープなミステリーだ。快刀乱麻の推理でもって物語を断罪し、適当にシャンパンでも頂いて帰路につけるのだ!
 しかし、当のハイムリック北崎はたおやかに微笑んだだけだった。
 期待の視線に気付いていないはずがない。そもそも、真相に気が付いていないはずがない。
 求められているものはわかっているはずだ。春蘭豪華なパーティーに、完璧に決めたファッションの名探偵。あとは、皆を集めて『さて』から始める解答編をやればいい。
 窓際に佇む北崎は、しらっとした顔をしたまま動かなかった。ややあって、耐えきれなくなった策間の方が口を開く。
「あの、やらないんですか」
「うん? 何を? 捜査? パーティー? カタルシス? どれでもいいから主語をつけてくれないかな」
「解決編ですよ。だって、北崎さんもう犯人わかってます…………よね?」
 万が一のことがあってはいけないので、恐る恐るそう尋ねた。まさか天下のハイムリック北崎が真相に辿り着いていないなんてこともあるまいが、人間には波がある。お腹が痛かったり頭が痛かったり、なんだかやる気が出なかったりで、自慢の頭脳が機能しない場合もあるだろう。
「失礼だな。当然犯人くらいわかってるよ。当然じゃないか」
 プライドを傷つけられたのか、北崎は少しムッとしながらそう言った。
「それならさっさと解決しましょうよ。いつもみたいに犯人はお前だって言って、犯人に独白させて、何だかいい感じの雰囲気を形作って、それで適当に大はしゃぎして帰りましょう」
「せっかちだね。策間ってモテないでしょ」
「そういう流れ関係なく使える罵倒で攻撃してくるのずるいですよ。ていうか、何で解決しないんですか? え、疲れちゃったんですか?」
「……えー……だってさ、早いよ」
「何がですか?」
「ちょっとくらい頭を使ってくれ。ヒントは脅迫状だ」
 成長は時に呪わしい。
 一見クソみたいなヒントだったけれど、何故か策間の頭の中には一つの解答が過った。探偵助手というイカれた職業に従事している内に、何となく探偵力の方が育ってしまったのかもしれない。探偵助手の癖に、真相に辿りつけてしまうくらい経験値が溜まってしまったのだ。実地研修の恐ろしさだ。
「北崎さん」
「何でしょう」
「…………〝死体待ち〟ですか?」
 北崎は微笑みを崩さない。繕いなく行われた無言の肯定に震えた。
 探偵業界には『事件待ち』という言葉がある。事件の起こりそうな館や村などに張り込んで、事件が起こるのを待つことを指す言葉だ。これは業界の中でもタブーとされていることで、これをやるような不謹慎でおぞましい探偵は忌み嫌われるのが常である。
 北崎がやろうとしているのは、それより最悪な行為だった。脅迫状が出ている。遺産を相続する可能性の高い、直結の血族が狙われている。犯人は今も、犯行の機会を伺っている。このまま放置していれば、第二、第三の殺人が行われる可能性は高かった。この館は今、とても殺人に対する期待値が高いのだ。
「今解決したら、単なる殺人事件だよ。出来れば、これは連続殺人に発展して欲しい。事件が起こる前に解決した方が有能なのかもしれないけど、実際問題死体は多い方が派手でいいんだ。そっちの方がずっと話題になる」
 なるほど、一理ある言葉だった。探偵としての自分を大切にし、セルフプロデュースを怠らないハイムリック北崎らしい言葉と言える。捏造によるスピード解決とは、また違った合理。
 ただ、今まで見過ごしていた罪とは、根本的に質が違った。探偵が更なる殺人を待っている。勿論、自らの頭脳を試す為に、事件を心待ちにしている探偵も少なくはない。けれど、それとこれとはまた話が違う。北崎が待っているのは、本物の凄惨だった。
「……あ、その顔は、私のことを酷い人間だと思ってるんだろう」
「それも推理ですか?」
「じゃあこうしよう。私はまだ真相に気が付いていなくて、次なる殺人に戦きながら目下捜査中ってことで」
「そんなのが通用すると思ってるんですか」
「今私を見ているのは策間だけだからね」
 策間は、その言葉で思わず周りを見渡してしまった。確かに、ここには策間と北崎しかいなかった。作戦会議をする時はいつもそうだ。それなのに、今日に限ってはそれが恐ろしかった。観客がいない場所で何をやっても、誰にもバレない。
「本当に死体待ちするつもりですか」
「大丈夫、三人くらいにしておくよ。どうせ犯人だってそのつもりみたいだし」
「そんなのが赦されると思ってるんですか? それなら、それなら、俺が……」
「どうするつもりなんだ?」
「……俺が真相を看破します! これ以上犠牲者を増やしてどうするんですか! 今からでも遅くないんですから、俺が解決編をします! 大丈夫です。ぶっちゃけ俺も探偵に憧れてたんですよ。だって、一回くらいみんなやりたいだろうし……」
「ちょっ、そういうのやめてくれないかな。まったく、人間基本的に探偵大好きだよね。探偵体験が出来る風俗とか出来たら絶対流行るよ」
「いや、必ずしも風俗じゃなくてもいいんじゃないでしょうか」
「というか駄目に決まってるだろ! 君は助手だし、私はハイムリック北崎なんだ! 君が推理を披露したら色々おかしなことになる!」
「それなら北崎さんがやってくださいよ! 俺はそれでもいいんですってば! 次の犠牲者が出る前に事件を解決してくれさえすれば――」
 言い終わるより先に、視界の端に重そうな花瓶が映った。策間は、反射的に身を縮める。結果的にそれが更なる隙を生んだ。まさかいきなり暴力に晒されるだなんて。その相手が他ならぬ北崎だなんて! 想像すら出来なかったから避けられなかった。
 そのまま、容赦ない頭部への一撃が策間を襲う。わけもわからないまま、身体が浮遊感を取り込んで地面へと転がった。ズキズキと痛む頭は、むしろ思考をはっきりさせてくれて好ましい。自分を殴ったのはハイムリック北崎で、殴られた理由は、助手としてふさわしくないことをしたからだ。このシンプルな論理!
 暴力の理由が利己的でストレートなので、策間はむしろ安心した。北崎は自分を殺したりなんかしないだろう。ただ、北崎は自分をこの場から降ろすだけなのだ。
「あ、気を失わないのか。まあそうか。そうだよね。そんな上手い話ないよね」
 北崎の呑気な声が聞こえる。穏やかな声だ。この声が結構好きだった。有能探偵ハイムリック北崎が人気者なのは、この声が理由でもある。推理に伴う長台詞は、出来れば麗しいテノールで聞きたい。そういうことだ。
 北崎は手早く策間を縛り付けると、そのままふわふわのカーペットの上を引きずっていった。手近にあった扉を開けて、策間のことを放り込む。「おやすみ」と、声がして、電気が消された。
 それから策間は、意識すら失えないまま四時間半近くクローゼットに閉じ込められた。狭いし暗いし暇だし、控えめに言っても最悪な四時間半だった。頭の中で出来る暇潰しを粗方やり終わったあたりで、ようやく策間は解放された。クローゼットから物のように引き出され、縄を解いてもらう。
「ごめん、元気だった? 寒くない?」
「…………北崎さんはパーティーを楽しまれたようで何よりです」
「メキシカンピラフは無かったよ。ろくなパーティーじゃなかった」
「ちゃっかり解決パーティーでの大はしゃぎまでやってんじゃねえよ」
 策間が閉じ込められている間に、犠牲者は三人に増えたようだった。四時間半で二人増えた。一人あたり二時間ちょっとのハイペース。北崎が手心を加えた可能性は十二分にあった。むしろ、彼は確実にやった。
 早めの死体を求めたのは、きっと策間の為だろう。そういう優しさなら、持ち合わせられる男なのだ。
「…………新たに殺された二人は、俺達が殺したようなもんですよ」
「はあ、北極の氷が溶けたのは俺の所為です、みたいな戯言を言いよる」
「だって、あそこで解決してたら、死ななくて済んだのに……」
「策間、君は何か勘違いしてないかな」
 普段通りのテノールで、普段通りのスマイルで、北崎が淡々とそう言った。
「私は正義の味方じゃないんだよ? 単なる名探偵だ。私は確かにいけないことをしているかもしれないけど、その分ちゃんと物語に収拾を付けているだろう?」
「それでも、犠牲者が増えるのはよくないと思います……だって、人が死んでるんですよ?」
「私が来なかったらどうせ死んでいた人間だ」
 それはその通りかもしれない。その事実に気付いて息を呑む。それどころか、北崎が来なければ犯人すら捕まらなかったかもしれないのだ。
「それでも北崎さんが手を引いたら、他の名探偵が代わりに事件を解決していたかもしれないじゃないですか」
「もしもの話だ。呼ばれたのは私だった」
「北崎さん」
「策間」
 有無を言わせない口調だった。彼は今、この状況が致命的であることを自覚している。凶器を持った犯人と対峙する時のように、北崎は策間との間合いを取っていた。不意に策間は、ついこの間体験したSMプレイのことを思い出した。求められている役割。探偵の持ちうるサディズム。要請されたサディズム。そこに北崎の意思はあるのだろうか?
「君はハイムリック北崎の助手でいたくないの?」
「………………食い扶持ですからね」
「私は有能探偵ハイムリック北崎でいたいよ。道徳が無くても、才能が無くてもね」
 それを聞いた瞬間、策間の覚悟は決まった。立ち上がって、そのまま無言で走り出す。北崎が小さく「えー」と言うのが聞こえた。えー、じゃねえんだよ。
 もう決めた。今決めた。
 策間は、ハイムリック北崎を殺すことにした。勿論、ミステリー的な意味じゃない。社会的に殺すのだ。有能探偵として持て囃される彼を殺し、探偵でいられなくしてやるつもりだ。策間はあの日の注射器を覚えている。捏造の証拠を、あまりに合理化された探偵を知っている。
 ハイムリック北崎の人間性を取り戻さなければいけない。合理性もサディズムも神聖も切り離して、一人の人間に戻す! 彼を人間に降ろす! それを考えると、策間は否応無く興奮した。そこで気付く。策間はハイムリック北崎の本名すら知らない!
 あの館での殺人を、ハイムリック北崎の最後の事件にするのだ。それが出来るのは、助手である策間だけだった。道路を駆けながら、策間は自然と笑い出していた。高く響く笑い声をバラ鞭の打撃音に重ね合わせるのは、チープであるけれど魅惑的だった。早く、ハイムリック北崎を殺さなければ。
 ハイムリック北崎にとっての一番の弱みは、前述の通りの証拠品の捏造にあった。スピード解決の要であり、策間だけが知っている菩提樹の葉でもある。
 ただ、北崎を殺すには、それこそ疑う余地のない証拠が要求された。ハイムリック北崎の人気は盤石で、世間の名声は限りない。あれを殺す為には、それだけ致命的な何かが必要だ。
 しかし、北崎は全てを完璧にやってのけていた。直接的な捏造の痕跡は見つからない可能性の方が高い。
 ハイムリック北崎の唯一の失態が、策間による目撃だったのだ。しかし、あの絶体絶命の窮地で、北崎はアクロバティックな離れ業を演じてみせた。致命傷であるところの策間を弄して、強引に解決した。
 そんな生温いことをしている場合じゃなかったのだ。策間はあそこで、ちゃんと拒絶するべきだった。そうしたら、まだ傷は浅かったはずだ。身体に食い込んだ返し針のように、北崎と過ごした日々はじわじわと策間の懐に入り込んでいる。正直に言おう、名探偵の助手は楽しかった! 何といったって味わえる非日常の濃度が違う。大手商社の営業職とハイムリック北崎の助手職は、策間の中で殆ど同じくらいの重さを持っていた。狂ったことに、後者の方が若干比重が重いくらいである。
 もうどれだけお高い月給を積まれても離れられる気がしなかった。親との食卓や煌びやかな合コンでおいそれと口に出来ない職であろうとも、探偵助手というものの悦楽を知ってしまった!
 事務所の扉を開ける時でさえ、策間の手は震えていた。ここに通う日々は楽しかった。北崎が失墜した後はこの事務所すら無くなってしまうのだろうか? それを思うと泣きそうになった。それでも、感傷に浸っている暇は無い。北崎が追ってくる前に、事務所の中で何かしらの証拠を掴まなければ。
 背水を敷くかのように、策間は派手に荒らしまわった。発狂した馬よりも酷い暴れっぷりだ。好きだった部分から念入りに破壊し、棚という棚をひっくり返してやった。そこで気付いたのだけれど、この事務所には案外物が無かった。北崎は半分ここに住んでいるようなものなのに、生活感がまるでない。
 彼にプライベートはあるんだろうか? と間抜けな疑問が浮かぶ。四六時中彼は探偵をやっているんだろうか? 個性で売っている探偵が、実はおぞましいほど無個性な可能性は?
 そんな中で、北崎の私物と呼べるものは、一つしかなかった。
 いつぞやの時に触れた『勉強ノート』だ。
 そもそも、探偵の勉強とは何なんだろうか? あそこでちゃんと突っ込んでおかなかった自分に驚いていた。だって、探偵ってそもそも勉強してなるものじゃないのに! 北崎が北崎でいる為の秘密のノート。それこそ、彼が行った捏造と合理の証拠なんじゃないだろうか?
 物置の扉を開けて、無造作に置かれた段ボール箱に飛びついた。心臓が狂ったように高鳴っている。ノートは移動されることもなく、そのまま中に残っていた。
 手に取って開く。目を通して五秒、自然と声が漏れた。
「………………は、え、何これ」
 最初は小説か何かかと思った。鍵括弧で括られた文章がずらりと連なり、ノートをびっしりと埋めていたからだ。上から下まで、無駄の無いノートの使い方がされている。几帳面というよりは、偏執的な使い方だった。
北崎さんは小説家志望だったんだろうか? というふんわりとした思い込みは、数行読んであっさり消えた。小説にあるべきエンターテインメント性なんかそこには無かった。書かれていたのは単なる記録だ。
 ハイムリック北崎の記録だった。
 普段策間が接している『ハイムリック北崎』の全てがそこにあった。何を元に書き起こしたのかは知らないが、彼が言ったこと、彼の言いそうなこと、その全てが鍵括弧に閉じ込められていた。
 乱れた筆跡は焦りだろうか。A4サイズに切り取られた悲鳴。零れ落ちる何かを掬い上げるように、判読出来るギリギリの文字が並んでいる。一秒でも早く、ノートの主はこれらのことを書き留めておきたかったのだろう。
 忘れない内に。色褪せない内に。
 自然と手が震えた。生死の境で、自然の摂理に抗っているような、そういう気持ち悪さが這い寄ってくる。ノートはいくらでもあった。『探偵』になる為に、必要とした冊数は途方も無い量だった。
「あ、それ見たのか?」
 反射的に振り返る。咎めだてする様子は無い。手に持ったノートを落とすようなことはしなかった。北崎の前でそんな風にノートを扱えるはずがないのだ。
「北崎さん………………」
「どうしたんだ? 幽霊でも見たような顔をして。私は宇宙人くらいしか信じていないんだけど」
「貴方、誰なんですか」
 北崎本人は、『北崎』のことについて仔細に記録したりしないだろう。このノートは、北崎じゃない誰かが、北崎について書き連ねたものに違いなかった。それでいて、この筆跡には覚えがある。この筆跡は、鹿撃ち帽がトレードマークの、有能探偵ハイムリック北崎のものだった。――目の前の男のものだ。
 それってどういうことだろう? 策間は自問する。そして、答えはすぐに出た。
「ハイムリック北崎が本名なわけないだろって、私はちゃんと言ったよな?」
 果たして、ハイムリック北崎はそう言った。もう隠すつもりもないのだろう。むしろ、隠しているつもりなんて欠片もなかったに違いない。最初から、彼はそういうスタンスなのだ。
「言ってました、言ってましたけど……」
 酷いミスリードだと思う。あの日、北崎は策間のことを華麗に裏切ってみせた。賢くて美しくて、善性よりも事件の解決を善しとする彼の名探偵が、ヘンリー・ハイムリックの名前を知らないと思わせやがったのだ。
 そうして、北崎は体よく策間のことを完璧な助手に仕立て上げたわけだ。オーケイ、適度に人間を舐めていらっしゃる。道徳も倫理観も良識も無い。労働基準法だけはきっちり守ってくれたけど、その他は落第もいいところだ。
「嘘でしょ、本物じゃないなんて……だって、ハイムリック北崎は……有名で……有能で……名探偵で……」
「ハイムリック北崎にだって不遇の時代はあったんだぞ? そもそも、私が有名になったのはここ二年のことだ。長い下積みをしたんだよ。私がいくら有能であれども、最初の二年はまるで相手にされなかった。節穴だと思わないかな? 私はこんなに名探偵としての矜持に満ちているのに」
「下積みとかそういう話じゃないと思うんですけど……」
「でもまあ、一度有名になってしまえばこっちのものだ。私は今や有能探偵ハイムリック北崎なんだ」
「あの、どこからどこまでが嘘なんですか」
「ハイムリック北崎が私の本当だよ」
「親友に会いたくて探偵やってるっていうのは? 大豆と枝豆が同じものだっていうのは? 下北沢では食用のキリンを出してくれる居酒屋があるっていうのは?」
「ごめん、食用のキリンは嘘」
 ということは、それ以外は本当だということだ。探偵をやる動機も、枝豆と大豆も。真実のステージに上げられたものの可笑しさに笑った。勘弁してくれ。
「策間。人間が人間に与えられる最上のものって一体何だと思う?」
「…………わかんないですけど、愛とかですかね」
「優等生な答えだな」
 優等生どころのお話じゃない。モラリストがあふれるこの世界において、策間はこれが模範解答だと思っている。斜に構えたニヒリストなら、あるいはお金と答えるだろうか? でもまあ、きっとその二択で済むはずだ。
 恐ろしいのは、目の前の男が全く別の解答を用意していそうなところだった。右でも左でも無い第三の選択肢が、吊り上がった口の端から見えている。
「私が探偵を始めたのは、まあ結局のところ才能があったからなんだけどさ」
 傲慢な言葉だった。けれど、それは事実だ。北崎は洞察力に優れ、推理力もあった。大胆さも弁舌も、思い切りの良さも何でもあった。求められる役割を引き受けるだけの才覚があった。
「でも、そんな中で、才能が無いまま探偵になろうとした奴がいた。それが、オリジナルのハイムリック北崎」
「オリジナルのハイムリック北崎って……そんな、世襲制じゃあるまいし……」
「似たようなもんだよ。俺には探偵に必要な正義感とか倫理とか道徳とか善性とか欠片も無かったから、結構大変だったよ。才能が無くても、探偵に相応しいのはオリジナルのハイムリック北崎の方だったよ。お前が好きそうな探偵だった」
 策間は、北崎と見做していた男の口調が変わっていることに気が付いた。隙を見せているのではなく、意図的にそうしているのだろう。そのくらいの器用さが、目の前の彼にはあった。もしかすると、『オリジナル』の方に敬意を払っているのかもしれない。
「そっちのハイムリック北崎さんはどうなったんですか?」
「才能が無さすぎる上に空気が読めなかったからさ、方々の殺人現場に赴いてはヘイトを溜めて帰ってきてたよ。ついた綽名は無能探偵。大学在学中には何の成果も出せなくて、結局、結構いいとこの一般企業に就職したんだけど、あいつは諦めなかった。就職した後も、週末探偵ハイムリック北崎として細々と暮らしていたわけ」
 さながら兼業探偵でも呼ぶべきか。なかなか悪くないライフスタイルだと思う。よっぽど探偵が好きだったんだろうか。策間はその執着そのものを苦しく感じた。
「そしてその日がやってきた。とある資産家一族の館で起きた殺人事件に、ハイムリック北崎は巻き込まれた。あいつは館の近くで事件待ちをしていて、あの日も名探偵連中からは失笑を買っていた。でも、土日の話だったから北崎には都合が良くて、うっかりやっちゃったんだよな、多分」
「……オチが読めましたけど」
「北崎はね、その連続殺人事件の被害者の一人になった。別に一族の因縁とか募る憎しみとか何の関係も無いのに、ただただ巻き込まれて殺された。二番目だったかな」
 最終的にその事件では六人が殺され、通りすがりの名探偵が犯行を暴いたことにより、犯人まで自決したのだという。一連の悲劇は新聞に載った上で忘却のラインに乗せられた。全部終わった話だ。
「ハイムリック北崎が解決した事件の中にはもっと酷い惨状のものが沢山あったよ。村一個が奇祭の為に焼き払われたりとか、デスゲームを催す為だけに五十人単位で人間が集められて、残ったのは数人とかさ。探偵が生きてる世界っていうのはそのくらいのキチガイ沙汰があって然るべきなのに、北崎一人が死んだくらいで、笑っちゃうくらい悲しかった」
「それが普通ですよ」
「探偵助手がいっちょ前に人間っぽいこと言うなよ」
 北崎が笑う。
「北崎の葬儀は至って普通に執り行われたよ。誰もそれが偉大な名探偵の死だなんて思わなかった。まあそうだよな。実際別に偉大な探偵ってわけじゃなかったし。北崎は友達がいなかったから、俺が弔辞とかやったんだけど、いやー、あれ無理だね。何も言えんわ」
 葬儀や弔辞や感傷などの言葉を北崎が口にする度、策間に得も言われぬ居心地の悪さが過る。一度だけ、関わった殺人事件の被害者の葬儀に呼ばれたことがあるのだが、あの時のことは二人の中で何となくタブーとなっていた。
「あの事件がハイムリック北崎の最後の事件だって知ってるのは俺だけだった。だから、延滞したんだ」
「延滞?」
「俺はまだハイムリック北崎の物語が観たかった」
 そして、彼は勉強して学んで、一から下積んで、ハイムリック北崎になった。ノートは努力の証だ。優等生ではなかったという彼が、必死で行った勉強だ。
 どれだけの水準の『ハイムリック北崎』を彼が求めているのかはわからなかったが、まだまだ満足はしていないらしい。彼が求める『ハイムリック北崎』が完成した瞬間、彼は真に親友と再会するのだ。回りくどい蘇生法だけれど、宗教にも心霊にも科学にも拠らない独自のものである点は評価出来た。
「き……北崎、さん」
 どう呼び掛けていいのかわからなくて、仕込まれたその名前で呼んだ。役割を規定する言葉はSMプレイの文脈にあるものであった。あの日五反田で覚えたことを、北崎に伝えておくべきだったかもしれないと今更思う。
「本名、何て言うんですか」
「北崎喜咲くんだよ」
「そうじゃなくて、北崎さんが、北崎さんになる前の……」
「もう無い」
 決意の固さを示す、というよりは、何かしらの約束を守っているかのような響きだった。目の前の北崎は、北崎になる為にそれ以外を本当の意味で捨てたのであり、それ以後北崎であり続けたのだ。彼の本物は、言葉通りハイムリック北崎の中にしかない。
 抜け目のない彼の『本名』を示すものはこの世に存在しないだろう。勝手な予感だけれど、策間はそう思った。
「それに、知ってもつまんないぞ」
 つまらなそうに呟く彼に、ほんの一瞬だけ、策間は『北崎』の素を見たような気がした。人生を面白いつまらないの尺度で計ってんじゃねえよ。
「それで、どうするつもりなんですか」
「どうするって?」
「俺のこと」
 殺すんですか? なんて無粋なことは尋ねなかった。さっきまで策間は北崎のことを殺そうとしていたんだし、その逆をされても仕方がない。撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけなのだ。策間の拳銃からは弾すら発射されなかったけど。
「まあ、とりあえずクビかな」
「あ、ですよねー」
「申し訳ないけど就職先見つけてくれな。俺はもう知らない」
 拗ねたようにそう言う北崎は、最後の最後までそこそこ良い雇い主だった。良好な関係を築いていた、策間の大切な名探偵である。
「お前のこと結構気に入ってたんだけどな」
「俺も結構気に入ってました」
「もうこんな特別二度と味わえないぞ」
 そう言いながら、北崎がゆっくりと歩み寄ってくる。
 策間は一瞬、そのまま抱きすくめられるのかと思った。こうして脈絡の無いハグによって全てを有耶無耶にしてしまうつもりなのか、と。そういう大団円のパターンも今まで結構見てきたのだ。
 だから、首に冷たい感触を覚えた瞬間、策間はただただ安堵した。そんな出来合いの感傷で片付けられるのはごめんだった。彼が渡されたいのは引導だ。もう二度とここへ戻ってこられないような、もう二度とハイムリック北崎を殺そうとなんか思えないような、そういう楔だった。
「これは餞別だ」
 北崎が静かに呟く。一体いつから用意していたんだろうか。こんなもの。
「それは遠隔操作で爆破出来る爆弾なんだ。俺がそう指示したら、すぐさま爆発してお前の首を吹き飛ばす。『キングスマン』くらいなら観たことあるだろ? あのくらい派手な爆発が、お前の身体でも起こる」
「すいません、観たことないんですけど」
「お前がもしハイムリック北崎を殺そうとするなら、その時はこれを作動させてやるよ。でも、もしお前が十年黙っててくれるなら、絶対にそんなことしない。それは単なるお洒落なチョーカーってことになる。元々、それ以降は起爆装置が作動しないようにもなってるし」
「十一年後に俺が余計なことを言った場合は?」
「十年も経てば、ハイムリック北崎のことなんかどうでもよくなるよ」
 そんなことはないはずだ。だって、悪例が目の前にいる。目の前の偏執狂は、きっと十年経っても忘れない。
「というか成人男性がチョーカーってキツ過ぎるんですが」
「外してもいいよ。それ絆創膏代わりだし。爆弾は首筋に埋め込んどいた」
 そう言って、ハイムリック北崎は手の中にあった小さな注射器を、わざとらしく絨毯の上に落とした。演出過多な彼だから、その注射器はあの時と同じ種類のものだろう。
「それじゃあ、さよならだ策間」
「本当、何てことしてくれたんですか」
「怒る?」
「でも仮にここで怒って北崎さんを殺害しようとしたら、それはそれで爆破しますよね?」
「それはまあ、うーん」
「するんでしょうねえ……」
 とんでもないことをしてくれたものだ。人の身体に爆弾を埋め込んで平然としているなんて、正気の沙汰じゃない。普通に犯罪である。今まで暴いてきた殺人事件と同じくらい悪辣とした行為である。ただ、策間は骨の髄まで毒されている。キチガイに爆弾を埋め込まれたことよりも、目の前の男にクビを言い渡されたことの方が、ずっと悲しかった。
 さっきまで殺そうとしていた男に解雇されるのが、とても悲しかった。
「それじゃあ、今までありがとうございました」
「おいおい、泣くなよ」
「泣いてないです」
「泣いてるよ」
 泣けるくらいなら、こんな絶望的な気持ちにはなっていなかっただろう。それとも、稀代の名探偵は策間にはわからない涙すら見抜けてしまったというんだろうか? 有能探偵の言うことはいつだって正しい。人の感情まで捏造してんじゃねえよ。
 策間はハイムリック北崎の出した解答に反論しなかった。そのまま、慣れ親しんだ職場を出て行く。
 先んじて申し上げておくと、策間がハイムリック北崎探偵事務所の扉を叩くことは、これ以降二度と無かった。それは、彼がおぞましい殺人事件に巻き込まれることが無かったという幸運を裏付ける事実でもあり、彼が二度とハイムリック北崎に巡り合うことが無かったという不幸を裏付ける事実でもある。
 家に帰ってチョーカーを外すと、首筋に小さな赤い点が付いていた。数日もすればすっかり治ってしまいそうな、心許ない傷だった。この下に、ハイムリック北崎が埋め込んだ爆弾があるのか、と策間は一人思う。
 赤い傷の下にあるものを爪で掘り出そうとして、結局やめた。
 人生は続いていくし、策間は働かなければいけなかった。首に傷があるままでは、面接で不利になるかもしれない。彼はどこかの企業に、拾い上げて貰わなければならないのだ。
「あ、ハイムリック北崎って知ってますか? あの名探偵の」
「あー、聞いたことあるね。え、助手って何やってたの?」
「そりゃもうありとあらゆることですよ。死体のことも千切っては投げ千切っては投げ」
「どうしてやめてしまったのかな?」
「方向性の違いです」
「はあ、色々あるんだねえ探偵業界も」
 策間はにこやかに頷くと、面接官達のことをぐるりと見渡した。探偵業界は営業スマイルが殊更に重要な世界なのだ。面接官の一人や二人を篭絡出来ないようではお話にならない。
 方々の面接で『あのハイムリック北崎の助手をやってたんですよ』と言うと、面接官達は面白いくらい食いついてくれた。殺人や密室と縁遠い彼らは、適度に距離を取ってそれらを面白がれるのだろう。信じられないほどすんなりと内定が出て、白昼夢の最中にいる内に就職が決まった。どうしてこんなことが今まで出来なかったのだろう。傲慢にもそう思うくらいだった。
 策間はその中で一番当たり障りの無い企業に入社した。給料は北崎のところで貰っていた時より少しだけ安い。真夜中に事件現場に呼び出されることもなければ、明け方のラーメンに付き合わされることもない、至って普通の職場である。生活全てが助手業に組み込まれていたあの時に比べれば、なんてホワイトな仕事だろうか。清廉過ぎて涙も出ない。
 ハイムリック北崎は有名で有能な探偵なので、たまに噂を耳にする。方々に現れては事件を解決し、村の因習を解き明かしているらしい。彼の名声を脅かすものなんてどこにも無い。策間が何一つ語らないからだ。
 今日も生きている。爆発は起きない。ハイムリック北崎の秘密は守られ続けている。
 策間はたまに、思い出したように首筋を見る。もう傷跡なんかすっかり消えてしまった白い首に指を這わせ、ハイムリック北崎のことを考えた。十年にはまだ遠い日のことを考えた。
 果たして、この首に爆弾が埋め込まれているというのは本当なのだろうか? ハイムリック北崎に牙を剥いた瞬間、彼は正しくこの首を爆破してくれるのだろうか? それとも、全てはハッタリで、策間に施されたのは単なる脅しだったのだろうか?
 社会に上手く溶け込んだ策間は、もう北崎の秘密を明かそうとは思わない。彼を殺そうとは思わない。
 それでも、この実在するかもわからない爆弾のことを思うと、策間の中には奇妙な感情が渦巻いた。例えば、煮え立つ焦燥のような、あるいは、もうここにない安らぎのような。
 鏡の中の策間は、知らず知らず例の台詞を諳んじる。美しい一節を反芻する。――人間が人間に与えられる最上のものって何だと思う?
 その答えを、今ならはっきりと言えるだろう。

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