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売られる戦場買う人でなし3


 そういえば、長らく僕は同居人の仕事を知らなかった。同居人が就職活動をしているのを見る前に僕は大学を辞めてしまったし、同居人に関することで僕にとって大事なことは、同居人が家賃を払うに足る収入を得ているかどうかだけだったので、聞かなかった。僕が無職だからとかいうことでは断じて無い。単に興味がなかった。ふわふわとした関係でいいと思いながら、むしろそうじゃなくちゃいけないと思いながら、ただただ同居生活を送っていた。
 こういった関係は対外的には奇妙なものに思えるようで、しばしば社会からは勝手なレッテルを貼られる場合がある。例えば、こういったことがあった。

「はい」
 思わず手に取った電話は重かった。同居人が同居人になって三ヶ月ほど、元気に毎日を怠惰怠惰で過ごしていた時期の話である。生活ペースは完全に社会生活不適合者のそれなのに、いかんせん鳴り続ける電話を無視できるほど僕は俗世間から離れられていなかったのだ。
 三ヶ月という微妙な案配の時期も悪かったかもしれない。魔のマジックナンバースリー。同居人と暮らし始めてから一月の間は息すらするのが辛かった。二月目は苦しんでいたのが嘘のように慣れて、少しだけ安らいだ。三ヶ月目は退屈だった。何もする気が起きなくて、何もしなくても許されてしまう時期。
 それはまあ、電話くらい取るよなぁ、と。
 電話の向こうの声ははきはきとした声で同居人の名前を呼んだ。沈黙する僕に耐えかねたのか、同居人ですか? と二度聞き返す。社会にちゃんと適応している人間の声だった。聞きやすいし堂々としている。対する僕の声は、いきなり野に放たれた猫の子のような可哀想な声だった。小さく震える声で返す。
「え、あの、い、違います。人違いです」
「え、あの、どなたですか?」
「え、いや、どなたですか?」
 思わず同じ言葉を返してしまった。相手が一気に訝しげになる。まずい雰囲気だった。目当ての同居人の代わりに出てきた男がこんな様子じゃ、怪しいにも程がある。取り繕うように僕は言葉を続けた。
「ぼ、僕は彼女の同居人で・・・・・・」
「同居人!? 旦那さんいたんだ・・・・・・いや、彼氏、ですかね?」
 相手の声が一気に興味と好色に満ちたものになる。あ、まずい、と思った。慌てて方向を修正する。
「あの、違うんです。僕と彼女は何の関係もなくて、えっと、本当は、あ、でも同居、同居してるんですけど」
「・・・・・・はあ、それは」
「違うんです! あっ、あう、あ、の人と僕は無関係で! 無関係で! 同居はしてて! あっ」
「・・・・・・あの、失礼ですけど貴方本当に彼女のーー」
 ガチャンと派手な音を立てて、子機を本体に向かって投げつける。ちゃんと切れたかは怪しいけれど、子機がツーツー可哀想な音を立てているので、とりあえず通話は終了出来たのだろう。ほっとしながらも、体の震えが止まらなかった。
 そのまま僕は布団に籠もり、震えてる間に気持ちよくなってきて寝た。同居人がスーパーの総菜を買って帰ってくるまで、僕はそのままずっと寝こけていた。
 夕御飯の席で、同居人は電話機を背に笑って言った。
「出なくてよかったのに。留守番契約してるよ?」
「出たくて出たわけじゃない。電話が鳴ってると、気になるだろ」
 僕は何の気無しにそう言ったのだが、同居人は顔を強ばらせて、「うん、そうだよね。そうだね。ごめん」と、やたら申し訳なさそうな顔をして頷いた。同居を始めて三ヶ月しか経っていなかった。「連絡」「電話」というキーワードで無闇やたらに反応してしまったのだろう。それを見て、僕の方もどうしていいのかわからなくなった。ここに来ることになった経緯を思い出して、少し義務的に顔を歪ませてやる。同居人は更に萎縮して、もう一度「ごめんね」と呟いた。心の内でこっそり呟く。何の儀式だよ。
「というか、電話大丈夫だったの? 妙な風に思われたとか、僕からの怪しい電話の所為で仕事クビになりそうとかないの?」
「あはは、君を元気に養って行くた為にもクビになるわけにはいかないしね」
 それはもう本当に。切実な話だった。今の僕には収入がない。行く場所もない。電話を受けたことをもう一度改めて後悔する。
「大丈夫だよ。そこまで変なことにならなかった。寝ぼけてたんだって言い切ったら大抵のことは何とかなるもんなんだよね」
「僕のことはどう説明した? 同居人?」
 僕は必死に同居人の同居人であることを主張し続けたけど、信じてもらえたかは怪しい。下手したら通報されていたかもしれない。
「何で?」
「いや、知らない男が君の部屋にいて、電話にまで出たらおかしいだろ。不審に思うだろ。どうやら君は随分慕われてるみたいだし・・・・・・」
「別に不審に思われてないよ」
「思うに決まってるだろ! 僕は恋人じゃないって異常に過剰な反応返しちゃったんだぞ!」
「いやそれも大丈夫」
「どうしたんだよ!」
 まさか、トチ狂って恋人だなんて紹介されてないだろうな。と、僕は背筋が薄ら寒くなる。もう一生社会復帰出出来る気がしないからどうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど、・・・・・・なんだろう、ぞっとしない。
 けれど、同居人はあっさりと言った。
「弟だって紹介しておいた」
「弟」
「自然でしょ。寝ぼけた弟がお姉ちゃんの仕事の電話に出たの」
「・・・・・・勝手に血を繋げるなよ」
「いいじゃん、自然なんだし。本当はそういう関係じゃないといけないんだよね」
 同居人の指摘はごもっともだった。
「人はね、名前の付けられない関係のことを見落としがちなんだよ」
 同居人は何でも知った風に笑った。三ヶ月目の余裕だった。もしくは、諦め?
 それから更に九ヶ月が経ち、加えて更に少し経って冬が深まり、僕と同居人は未だに人に説明しづらい生活を送っている。名前のない関係は見落とされがちで、今日も日々の隙間に挟み込まれている。僕は未だに無職のままだ。

 そうして迎えた何でも無い日の休日。
「お腹が空いたんだよね」
 同居人がエンターテインメント性に欠けた呟きをした。生憎、つまらない発言に付き合ってやる程度には暇だった。
「そうか。僕もだよ。ご飯は炊けてる?」
「炊けてる」
「そうか。それを食べよう」
「もういい加減文明的な食事をしたいんだよ」
 それなら外食をしろ、と言いたかったけれど、黙っていた。同居人は僕と食事をすることに対して心底抵抗があるらしい。理由は簡単、僕は同居人と一緒じゃないとろくに食事を摂らないからだ。
「何か買ってくれば?」
「外に出るには化粧したりとか、髪セットしたりとか色々あるからね。私は凄くお腹が空いてるから、そんな体力が無いんだよ」
「困ったことになったね」
 同居人の言外の主張はわかっている。お腹が空いて、なおかつ白米だけでは我慢が出来ない。でも外に何かを買いに行く気にもなれない。だから、早く台所に立って、何かを作れ。同居人はそう言っているのだ。言葉を介さないコミュニケーションを身につけてしまったことが少し悲しい。これだけ長く一緒にいるのだから仕方がないのかもしれないけれど。その時間の長さすら悲しい。
「……作らないよ」
「えっ」
「意外そうな顔をするなよ。なんか作る気になれないんだ。確かにお腹は空いてるけど、僕は家政夫ってわけじゃないんだ。気が向いた時に料理するけど、気が向かない時には絶対にしない、単なる無職」
「やだやだお腹すいたよ」
「それじゃあ、今日は君が作るといいよ」
 僕はなるべく優しげな口調でそう言った。突き放した口調で言ってしまえば、昼食は更に遠くなってしまうだろうからだ。まるで子供に実験を促すように。大事なのは強制させるような口調にならないようにすることだ。
 同居人は大きな目をくるくるぱちぱちとさせて、僕の言葉の裏を探ってやろうとしていた。裏も何も。面倒臭いという気持ちの純度は高い。
「だって、私は包丁で全てを終わらせるような存在だよ」
「達人っていうのは一つの物事だけで全てを語る存在だっていうよ」
「玉葱を水に晒すことすら知らなかったのに?」
「それはこの間覚えたじゃないか」
 同居人は自分の壊滅的なまでの料理の才能をちゃんと自覚している。自分の能力を見誤る僕のような存在とは違うのだ。素晴らしい。人間、少しは自省的にならないと。
「大体お腹がすいたら僕に頼むだなんて、いつか僕がいなくなったらどうするんですか、お嬢さん」
 至極真っ当な僕の言葉に、同居人の目が丸くなった。先日の真夜中の話を思い出す。今日の同居人はエアガンを持ってない。
「いなくなるの? いつ?」
「いや、今すぐって話じゃなくて、仮定の話。だから、この前みたいなことはしなくてもいいんだよ。うん、そう、仮定の話。僕がいなくなって、料理が出来る人がいなくなって、君が化粧とかして外に買い物に出ることが死ぬほど億劫になっちゃったらどうするのかなって。死んじゃうよ」
「でも……」
「大丈夫。見ててあげるから」
 僕の言葉があまりに優しいことに同居人は心底驚いたらしい。
 僕なんかに見られていたからといって何の御加護も期待できないというのに、同居人は何故だか嬉しそうに頬を緩め、「それじゃあやってみようかな」と行った。同居人のスイッチはよくわからない。
 そういうわけで、化粧や髪のセットが億劫になる程度には空腹だったはずなのに、同居人はまんまと僕の提案に乗った。
「何か食べられないものある? 思えば私ってあんまり君の食べ物の好き嫌いについて知らないからさ。好きなものって言われても、ココアくらいしか思いつかないくらい」
「言っとくけどそれはお前の好物だ」
「そうか……。やっぱり何にも知らないんだよね。いけないよね。ねえ、君は三人のパンケーキ職人の話を知ってる?」
「聞いたことないね」
「ある王国に三人のパンケーキ職人がいたんだ。一人目のパンケーキ職人は、王様に生クリームの載ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。二人目のパンケーキ職人は、考えた末チョコレートをふんだんに使ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。三人目のパンケーキ職人は青ざめながら必死で考えてさ、結局何もトッピングを施さないまんまのパンケーキを王様に献上したんだ。でも、彼もまた、首を刎ねられてしまった。そう、王様は実はパンケーキ自体が大っ嫌いなのでした! そういう話」
 同居人はジェスチャーを交えながら表情豊かに世界理不尽残酷物語を語った。現代文の成績は悪くなかったはずなのに、言っていることがさっぱりわからない。作者の気持ちを答えさせたいなら、選択肢を作って欲しい。
 僕は大人しく同居人に尋ねた。
「つまり、その話の教訓は?」
「相手への理解というものは心底大切。ちなみに、三人のアップルパイ職人の話っていうのもあるんだけど、聞きたい?」
「いや、いい。何となく予想がつく」
「残念だな。こっちは裏切りと愛に満ちたスペクタクル巨編なのに」
 その言葉に少しだけ後悔をそそられつつも、僕は黙った。同居人が名残惜しそうに僕のことを二、三回見て、台所に向かう。冷蔵庫の中から取り出される食材からは、一体何を作ろうとしているのか全く見当がつかなかった。トマトに、大根に、セロリに、人参。まあ、煮込めばきっと食べられるもの達だ。
 同居人の後ろ姿はとても可愛らしい。華奢なのに、すっと背筋が綺麗に伸びているから実際よりも背が高く見えるのもいいと思う。何処から取り出してきたのかわからないエプロンも、ばっちり似合っていた。
 こういう同居人の姿を見て、心の動かされる人もいるかもしれない。理想の相手だと夢見る人間もいるかもしれない。だって、後ろ姿だけなら本当に完璧だった。例え同居人が切ったトマトを丸ごと床に落とし、驚いた拍子にそれを無慈悲に踏みつけてしまうくらいの手際の悪さを誇っていたとしても。
 どうしてそこまで台所で右往左往してしまうのかがさっぱりわからなかった。そもそも、『切ったトマト』なんてお世辞めいた言い方をしたけれど、同居人の手によってカットされたトマトは皮一枚で繋がっていた。切れてない。同居人の素足に、赤い汁が滴る。同居人は途方に暮れた顔をして、結局そのままにした。どうしてそのままにしてしまうんだ?
 同居人の綺麗な手が、何を思ったか残ったトマトを鍋に入れた。トマトは生でも食べられるのに、と言う前に、鍋が火にかけられる。水分量の多いトマトがはぜる音がした。同居人が焦って、何かを切る。鍋に入れる。油を足す。このタイミングで肉を入れる。その間に踏み潰された食材は数知れずだ。
 控えめに言っても、地獄絵図だった。
 絶望的な調理風景を見ながら、少し心配になってしまう。同居人はこのままでまともにお嫁に行けたり、まともな誰かとまともな生活を送ることは出来るんだろうか。見た目も社会的地位もハイスペックなら、案外大丈夫なのかもしれない。世の中の価値基準はとても複雑な物差しで出来ている。
 でもまあ、それにしても限度がある。僕はもう鍋の中を見られない。だって、怖くて。
「ねえ、何だか黒くなっていくよ」
 同居人の途方に暮れた声がする。
「何が? 未来が?」
「全部だよ、全部」
「がんばれー」
「心が籠ってないよ!」
 いつかの同居人の結婚式には真っ白なスーツで行ってやろうかなぁと思っている。
 別にウエディングドレスを着た美しい同居人を名作映画よろしく攫ってやろうと思っているわけじゃない。ただ、それを見た瞬間の同居人の反応を面白がってやりたい。だって、同居人の結婚式に招待される、なんて最高に悪趣味なジョークだ。
 こんな展望を語った後では尚更悪い冗談に思われるかもしれないけれど、実を言ってしまえば僕と同居人は昔恋人だったことがある。何の事情も知らない人間から見れば、同居人と僕は今でも恋人に見えるのかもしれない。何せ、年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしているのだし。加えて同居人は僕がねだれば性欲処理くらいなら余裕でしてくれちゃうような女の子なのだ。
 けれど、今はもうそういう間柄じゃない。
 少なくとも、僕と同居人は恋愛という関係で括れる間柄じゃない。
 エプロン姿で跳ねる同居人は、僕と付き合っていた頃と変わらないようにも見えた。
 変わってしまったのは関係だけなのだ。

 大学生の頃、同居人はとても面倒な女の子で、可愛らしい女の子だった。自分の面倒さを可愛らしさで包み、誰からも愛される女の子だった。僕の視界を自分で満たさなくちゃ、我慢のならない子だった。
 思い出す同居人は本を読んでいる僕の頬を突き、いつだって悪戯っぽく笑っている。
「そういうのやめろ、正直面倒」
「景ちゃんが構ってくれないからじゃないですか」
「それなら何で僕と付き合ってるの? 僕は元よりそこまで社交的な人間じゃないし」
「景ちゃんの顔が良いからですかね……」
 同居人は目を細めながらそう言った。茶化しているような雰囲気を醸し出しているけれど、本気であることは何となく察せられた。同居人はこういうところで嘘を吐くのが苦手なのである。正直者が最上の美徳であろうというお伽噺譲りの擦り込みにやられちゃっている。
「だって、格好いい人ってあんまりいないんだよ? 世の中を見てみなよ。皆何処か欠けてるんだよ。完璧に理想の相手なんて殆どいないの。だから、私は恋人選びの時には何処か譲れないところを一つ決めて、残りの部分は出来るだけ妥協と許容をすべきだと思ってるの。私が譲れないのは外見だったから、それ以外のところは全然許容出来ちゃうの。全く以てオールオッケーってわけ」
 同居人は僕の顔がどんどん苦々しくなっていっていることにようやく気がついたらしい。
「それでも私が君と一緒に居ることに、実をいうと妥協なんてちっともないんだ。景ちゃんは素晴らしいと思うよ。真面目だし、堅実だし、実直だし」
「それは殆ど同じだと思う」
「いいんだよ。私は景ちゃんが好きなんだからさ」
 同居人が甘えた声を出して僕に擦り寄る。
 僕は同居人を十分に赦せていたのだと思う。何様だと思われるかもしれないけれど、本当に的確で素直に答えるなら、僕は確かに同居人を赦せていたのだ。僕の人間関係というのはとにかく許容から始まっていた。同居人は恋人として僕の傍にいても許容できるような女の子だった。それどころか、僕にはあの時点での僕でさえ、同居人には釣り合わないくらい、素敵な子だったと思う。
 同居人は悪戯をするのが好きだった。今はもう絶対にそんなことをしないだろうけれど、課題に集中して同居人をほったらかす僕の靴紐を解くとか、いきなりクラッカーを鳴らしてみせるとか、そういう悪戯をしては僕の気を引こうとした。
 多分、世間一般からすれば可愛らしい茶目っ気に分類されるであろう悪戯の数々。僕はそれを受け止め、たまに苛立ち、極稀に愛しいと思った。
 あとは、例えば、物を隠した。
 ペンケースの中の青ペンだとか、講義のノートだったりとか、もしくは辞書だったりとか。そういうものを同居人はこっそり隠して、あとで気が付いた僕の前でふふんと何故か得意げに笑ってみせるのだった。僕は溜息を吐いて、同居人と一緒に隠し場所までわざわざ隠されたものを取りに行った。これが、『物を隠す』悪戯のおおまかな流れだ。
 何回も何回も物を隠され、何回も何回も探しに行った。……とんだ茶番! 大概の場合僕が気が付くのは隠されてから随分後になってからで、悪戯のことをうっかり忘れていた同居人が慌てて僕の『失くし物』に顔を青くすることもあった。チャーミングなエピソードである。
 だから、いつものことだった。茶番とはいえども、台本のちゃんと用意された代物なのだから、何のイレギュラーも介入しないはずだった。同居人は僕に構って欲しかった。それだけの話。でも、悪いことというのは本人の意志とは無関係の場所で起こる。
 ある日、同居人はいつものように僕に悪戯を仕掛けた。僕はもう半ば慣れきってしまっていて、同居人の動向に全く気を配らず、その日の夜中が締切であるレポートに取り組んでいた。図書館に来るといつもそうだった。同居人は活字にさほど興味がなかった。
 僕はある程度まで真面目だったから、目の前の課題に必死だった。そういうわけで、同居人がこっそり僕の鞄から持ち物を抜き取って、はるばる遠くの棟の無料ロッカーに隠しにいったことなんか気が付かなかった。
 ささやかなサプライズを仕掛けた同居人は妙にご機嫌で、僕の横で落書きをしたり、持ち込んだ漫画を読んだりしていた。あとで儀式的な茶番が行われることがわかっていれば、同居人はどれだけ僕にほったらかされても、全然平気なのだった。
「……お前はレポートないの?」
「私は景ちゃんと違って要領いいですから」
「要領がいいとか悪いとか何だか不公平に感じるの何でだろうな。お前にもいつかしっぺ返しがくればいいのにって思ってるよ」
「喋ってる暇があるならさくさく書きなよ。私暇なんだよー?」
 同居人は可愛らしく頬を膨らませてそう言った。口の端に隠し切れない笑み。妙に殊勝で静かな同居人。きっとまた何か隠されたのだろうな、と思いながらレポートに戻った。レポートが書き終わるまでの三時間半の間で、同居人と僕がした会話はそのくらいだった。

「……携帯がない」
 レポートを書き終わって数分後、今回の失くし物はすぐにわかった。現代生活に追われる人間なら、何か一段落したら確認せずにはいられない代物、携帯電話だった。僕は隣でいつの間にか眠ってしまっていた同居人を文字通り叩き起こす。同居人が魚のように跳ねて、恨みがましそうな目で僕を見た。
「いったー……何するの!」
「また人の物勝手に隠しただろ」
「あ、わかった? 私が隠したもの」
「携帯だろ。どこにあるんだ」
 正解、と言いながら同居人が笑った。きっと、これから同居人は僕の手を引いて一緒に探しに行こうとのたまうのだろう。僕は溜息を吐いてそれに従うのだ。いつもの茶番。同居人をほったらかした僕へのささやかなる仕返し。
 でも、今回は少し様子が違った。
「ねえ景ちゃん。私、たまに不安になるの」
「何が」
「……上手くいえないんだけどさ、予想以上に景ちゃんのこと好きで困ってるのかも。でも景ちゃんはなかなか本心が見えにくいっていうか、私ほどわかりやすくないから」
 しおらしい言い方だった。
 でも、ありがちな言葉ではあった。女の子ならこういう風に悩むこともあるんだろうな、と理解出来なくはない凡庸な悩み。
「……不安にさせたならごめん」
 白々しく聞こえてしまったかもしれない。こういうことを言うのに慣れていなかった。
「私、ちょっと一人で携帯取って来るね」
 同居人はそう言って一人で行ってしまった。僕が同居人を追いかけなかったのも、単なるタイミングの問題だった。追えばいいのか待てばいいのか、瞬時に判断が付けられなかったのだ。
 ぬるい言い方をさせて貰えるのなら、僕は同居人が嫌いなわけじゃなかった。世間一般の恋人基準には十分適う程度には同居人のことが好きだったはずだ。
 けれど、同居人にとってはそうじゃなかったのかもしれない、と思う。この大学構内だけでも沢山のカップルがいるだろうし、その中の大半は自分の人生やらを懸けてまで、その相手と一緒にいなくちゃ駄目だと考えている人間じゃないと思っている。学生時代の男女交際なんてそんなものだ。同居人と僕は今の所別れるなんてことを考えたことはなかったけれど、一緒に居る為に『何か』を懸けなくてはいけない場面も確かにあって、それはまさに今なんじゃないか、と思ったのである。
 人が少なくなった図書館内で僕は大きく伸びをする。電源を切ったノートパソコンを寄せて、さっきの同居人がやっていたようにテーブルの上に突っ伏した。眠りのポーズ。同居人がいなくなった図書館は、どうにも居心地が悪かった。
 同居人はなかなか帰ってこなかった。
 珍しく本心を言ってしまって恥ずかしがっているのかもしれないな、と適当に思う。同居人はいつも奔放に振る舞っているようでいて、その奔放さに愛想を尽かされないかいつでもびくびくと怯えている。
 僕は同居人のことをちゃんと好きなのだと、どう伝えればいいのかわからなかった。だって、真っ直ぐに言葉にすることはとても気恥ずかしい。あの頃は僕にはそれなりにくだらないプライドがあって、それを守るのに必死だったわけだ。今の僕なら、自分に何の価値も無いことを逆手にとって、同居人に好きなだけ思うがままにそういうことを伝えてあげられるだろう。肝心の気持ちが入っていないから駄目だろうけれど。
 何かのタイミングがあれば伝えよう、だなんてそんなことを考えていたのだ。本当に。何かのタイミングさえあれば。
 ここまできて、同居人の帰りがやけに遅いことが気になりはじめた。いくら念入りに隠したとはいっても構内だろうし、少し遅すぎるじゃないかと。
 でも、動けなかった。万一入れ違いになってしまったら、携帯電話が無いと合流が難しいからだ。同居人は焦って僕を探しに外に出るかもしれない。僕はひたすら同居人の訪れを待っていた。それはもう長い間。そんなことをしている内に、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
 不意に、背後に人の気配を感じた。つっぷしていた所為でよく機能しない目を擦り背後を見る。
 同居人が立っていた。僕も慌てて立ち上がる。声をかけてくれよ、という自分の声がかすれていた。
 同居人の顔は蒼白で、手には僕の携帯電話が握られていた。
「あ、携帯……」
「……うん」
 同居人が震えた声で返す。
 僕は反射的に、陳腐な愛の言葉を、「好きだ」とか「不安にさせてごめん」とか、そういった言葉を言おうとした。携帯電話を差し出す同居人に向かって、取り繕うかのようにその言葉をあげるつもりでいた。
 同居人は、そんなもの少しも欲しくなかったというのに。
 同居人の口から意味のわからない呻きが聞こえた。切実な呻き声だ。同居人は僕の携帯電話を手に持って、とても真っ直ぐにそれを差し出す。
 流石の僕にも、同居人の様子がいつもと違い過ぎることには気が付いていたし、その原因が単なる色恋の話ではないんだろうということもちゃんと察せられた。同居人の手に持たれた携帯電話はいつもと変わらないはずなのに妙に不吉で、受け取るのを躊躇うくらいだった。
 携帯電話を受け取り、おもむろに画面を開く。そうして、全てのことに合点がいった。あまりにするりと謎が解けたので、少し笑いそうになったくらいだった。
 同居人はタイミングが悪かった。
 その一言に尽きた。
 僕の携帯電話は僕の心配性を反映して、ちゃんとセキュリティロックが掛けられている。パスワードを入れなければ、中身が見られることは一応無い。けれど、何という仕様だろう。最近の携帯電話は、メールの件名と本文の一部が画面に表示されてしまうのである。
 同居人がこの他愛のない悪戯をいい加減にやめようと携帯電話を取りだした時には、最悪な文字が画面いっぱいに広がっていたというわけだ。一度に表示されていたのは三通。内容はさながらグラデーションのようだった。
『件名 至急連絡ください・お母さんが事故に遭いました お兄ちゃん今どこ、お母さんは』
『件名 お兄ちゃん・はやく連絡ください お母さんが危ない まにあわなくなっち』
『件名 No title・お母さんがお兄ちゃんの名前よんでる わたしどうしたらいい』
 同居人が茫然として画面に出てきた切実なメッセージの欠片たちを見ていた瞬間、また新たにメッセージが加わった。どうやら回線が込み合っていたらしい。三通目と同じく、件名は無し。そして、本文は画面に表示される分だけで終わってしまうくらい簡潔なものだった。
『件名 No title・お母さん死んじゃった』
 最初のメールから最後のメールまでの時間は二時間三十二分。着信は十八回入っていた。妹ちゃんの方も大分動転していただろうから、僕にぱちぱちとメールを打ってやる余裕が、その二時間三十二分の間に三回しかなかったということだろう。四回目のメールは死んだ後に書かれたものだから、ノーカウントとする。
 四回目のメールは、丁度レポートが書き終わったあたりに送信されていた。
 メールの受け取りを知らせるメロディはカノンだ。特にその曲が好きだったという訳でもないのに、初期アラームの中に入っていたからそれにした。好きではないけれど、綺麗な曲だとは思っていた。あの綺麗な曲に誰一人として気付かない状況があるのだ、と知った。
 母親が死んだことを知らせるメールを受け取ってから、同居人が図書館で待つ僕に携帯電話を届けるまでにゆうに三十分のタイムラグがあったことについて、僕は責めるつもりはない。どうせ、僕が携帯電話を受け取る時には母親は死んでいたのだし、同居人はこの爆弾を抱えた携帯電話を届けるまでに、何度死にたくなったことだろう。あの時の同居人の顔と言ったら。僕は絶対に忘れない。
 揺り起こしてくる手がいつもよりもずっと優しくて、僕は起き抜けに同居人の名前を呼んだ。幸せそうに響いてしまったのかもしれない。同居人は泣きそうな顔をしていた。それでも泣かずに、同居人は僕の手に携帯電話を押し付けた。そこには、寝ぼけた眼でもしっかり認識できるような悲劇のグラデーションが並んでいた。
 甘くてなおかつ胸糞の悪い話で申し訳ないのだけれど、この時僕が設定していたパスワードは同居人の生年月日だった。今にも自殺を選びそうな同居人の前で、僕は同居人の生年月日を正確に入力し、そして、母親が事故にあってから死ぬまでを実況したメールを一通ずつ開封し始めた。
 同居人は一言も何も言わなかった。

 母親が死んでからのこのこと病院にやって来た僕を、妹ちゃんも医者も看護婦も信じられないような顔で見つめていた。僕を薄情者だと目線で罵らなかったのは母親本人くらいのものだ。
 今日は普通に大学にいると言っておいていた。講義は午前中で終わって、午後は図書館にいるとも。どう考えても三時間一切の連絡がつかない状況ではなかった。そこにいる全員がそう言っているような気がした。
 妹ちゃんには死ぬほど怒られたし、携帯電話を持っていること自体を詰られた。肝心な時に連絡がつかないのなら、最初から持たない方が良かったのだ、と言われた。
「お兄ちゃんがそんなもの持ってなければ、私は送信ボタンを押すたびに、コールボタンを押す度に、絶望的な気分にならなくても済んだのに」
 妹ちゃんにはその際、右手の薬指と中指を折られた。今となってはもう何で殴られたのかも覚えていない。頭はまずいよな、と思って手でガードをしてみたら、あっさり折れた。妹ちゃんは謝らなかった。僕は、母親が死んだ病院の整形外科にかかって、ギプスを巻いて貰った。こういう時に病院というのはいい。
 僕が気にしていたのは同居人のことだった。同居人は、母親の葬儀の時に、僕を罵り続ける妹ちゃんをダイレクトに見てしまったのである。
 僕は一切の事情を妹ちゃんに伝えることはなかったけれど、同居人は僕が妹ちゃんに責められるのを聞く度、蒼白な顔で手の爪を噛んでいた。余談だけれど、同居人は手をとても大事にしていた。実生活では不便そうなくらい爪を綺麗に伸ばして、いつでも艶々に磨いていたものだ。それが、葬式の時には見る影も無かった。血が滲んでボロボロで、汚かった。
 母親の葬儀の時が、僕が同居人に能動的に会った最後だと思う。母親と同居人は不本意ながら交流があった。母親は息子に美人の恋人が出来た時のテンプレートな気恥ずかしさをもって同居人に接していたし、同居人は同居人で誰からも好かれる性格をしていたから、二人は仲が良かったのだ。葬儀には出てもらうのが礼儀だと思った。僕と同居人の間に何があろうと、母親と同居人の間には何の関係も無い。それが正しい判断なのかは未だにわからないままだ。
 携帯電話のパスワードを変えた。ついでに同居人を含む全てのアドレスと番号を消した。妹ちゃんからの罵声で生活がままならなくなるのは恐ろしいので、妹ちゃんの電話番号は申し訳ないけれど着信拒否にした。
 妹ちゃんと同じ種類の絶望を同居人は味わったのかもしれない。
 どんなに焦っても、どんなに悲しくても、どんなに怒っても、相手がそれを知る由も無いという絶望。
 それのターニングポイントとなっていたのはどちらの場合も僕だった。それがどうした、と言ってしまえばそれまでの話だ。
 同居人と音信不通に意図的になってから四日くらい経ってから、僕は同居人と遭遇した。同居人は僕に会うなり地面に額を擦りつけて土下座をした。
 よりにもよって、同居人が謝罪の場所に選んだのは大学のメインストリートだ。きっと、僕が会うのを避けていた所為だろう。僕はまだ真面目な学生で、母親が死んでから一週間ばかりだというのに講義に出席していたのである。そこを、同居人は待ち伏せていたのだ。
 同居人は綺麗な格好をしていた。素晴らしい水色の、爽やかなスカート。綺麗だった。よくよく思い返してみれば、その服は僕が前に一度デートの時に褒めたコーディネートだった。同居人も、気合いを入れたお洒落だと嬉しそうに語っていた服である。媚びだとか、そういう穿った見方も出来なくはなかったけれど、直感した。彼女はどこまで自分を貶められるかを試しているのだった。大事なスカートは泥で汚れて、白いブラウスの袖にも汚い茶色が滲んだ。生憎のことに、その日はさっきまで雨が降っていたのである。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「……なんかこれ、僕がそういう趣味のある男みたいじゃない?」
 同居人は僕の冗談っぽい呟きに対しても土下座を貫き通していた。真剣な時に茶化す癖をやめろと怒っていた同居人がなかなか懐かしくもある。
 それ以上何も言わない僕に業を煮やしたのか、同居人は地面を這うような声で言った。
「どうして怒らないの。どうして、責めないの」
「怒って欲しいの?」
「そういうわけじゃない。でも、変だよ。全部私の所為なのに。どうして罵ってくれないの。憎んでるでしょ? 怒ってるでしょ? 妹さんみたいに、私の言殴ってくれたって構わないくらい酷いことしてもいいんだよ。私、許して貰えるなら何でもする」
 ……どうして、ねえ。
 僕は首を傾げる。どうしてと言われても、実のところよくわからないのだった。今となってもわからないのだから、あの時の僕にわかるはずがない。『憎しみよりもお前への愛が勝ったから、僕はお前のことをこれっぽっちも憎めなかった』と、そう言ってあげれば、同居人の罪悪感はきっと薄れただろう。罪悪感がスパイスになって、体よく愛情を深められたかもしれない。
 でも、僕はそれを言ってやれなかった。同居人は一度も顔を上げない。同居人は震えていた。メインストリートでは、立ち止まって見ている生徒もちらほら見受けられた。きっと、明日から僕は腐れサディストとして名を馳せるのだろう。
 僕は同居人の名前を呼んだ。同居人の背中が一際大きく跳ねる。けれど、顔は上がらなかった。仕方なく、僕は恭しくもうんざりした気分で顔を上げて、と言った。同居人が顔を上げた。涙やら泥やらでぐっちゃぐちゃになっていたけれど、その顔はとても可愛い。
 土下座も折れた二本の指も妹ちゃんの激昂も携帯電話もなんだかとてもどうでもよかった。何の感慨も覚えなかった。覚えていたとしても、それに対してどう接していいかもわからなかった。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。僕と同居人の間柄はこの時を境に永遠に道を違えてしまったのだ。
 単なる水ですら元の盆には戻せないのだから、飛び散った関係なんて言うまでもない。
 僕は同居人の目を真っ直ぐ見つめて、口を開く。
「別に、いいよ。僕はお前を責めたりしない。……僕は自分でも自分の状態が今よくわかってないから、言外にお前が何を感じるかどうかっていうのも、わかんないんだけどさ。僕の妹ちゃんみたいなストレートな罵倒やら制裁やらを求めてるんなら、多分期待には応えられないと思う」
 僕はひらひらと手を振ってみせようとした。けれど、いつもの癖で振った右手はそういえば綺麗に華麗に骨が折れていて、振れば普通に痛かった。ままならない。この指も、巡り巡って同居人の所為になるんだろうか?
「あと、もう恋人ではいられない」
 僕ははっきりとそう言った。同居人の顔が一層絶望的な色に染まったのはこの時だ。失ったものをやたらめったら美化するなんて悪趣味だと思っていたのだけれど、あの時ばかりは例外だった。案外愛されてたんじゃないか、と思うと、彼女の想いはやっぱり尊い。
「……本当にごめん」
「どうして景一郎が謝るの……? それって、私を、」
 同居人はその先が続けられなかった。何となく言いたい言葉はわかっていたけれど、それを言ってしまえば、色々とおしまいになってしまうことは察していたのだろう。同居人は聡い。そこそこ頭のいい大学通ってるだから当たり前だけど。
「別れようっていうのは僕のエゴだから。僕はそこそこ重い人間だからさ、一人の女の子の青春を頂いた挙句、勝手な事情で別れを告げるなんて人間として最低だと思ってる。だから、そこは謝らせてもらった。……悪いね、こんな男で」
「景ちゃん……、ねえ、」
「あと、僕、大学辞めようと思うんだ」
 同居人の顔がまた驚きと絶望に染まった。同居人は贔屓目に見ても、僕さえ関わらなければこれからも十分に素敵な女の子だった。
「だから、さよならだ。今までありがとう」
 同居人が返す言葉はわかっていた。僕から出された言葉に、同居人がNOと言えるはずがないのだった。そもそも、何一つ言えるはずがないのだった。
 こうして、僕は大学をやめた。同居人はそのまま残り二年の大学生活を粛々と送り、卒業して、そして、真っ当に就職した。

 そして、そこからまた色々があって、僕は同居人と同居を始めて、今もこの部屋で震えている。人生なんてわからないものだ。元恋人がうっかり同居人になってしまうだなんて、恐ろしいこともあるものだ。これだから僕は社会に上手く順応できないのだと思う。こんな滅茶苦茶なことが起こるのなら、死んだ母親にうっかりエンカウントとかしちゃいそうで怖いし。

 どうしてこうなってしまったのか、同居人の軽い悪戯の所為で母親の死に目に会ってやれなかったことが僕に一体どんな変化を施してしまったのかは、正直なところよくわからない。そもそも、母親の死に目に同居人の所為で合ってやれなかったことが、どうして僕が社会生活の中で上手くやっていけないことに繋がるのかも、自分ではよくわからなかった。トラウマの化学反応はいつでも鮮やかで脈絡がない。医者は『疲れているんですよ』と笑っているが、カルテに鬱とかなんとか失調だとかの文字があることを僕は見逃さない。
 そして同居人は、そんな僕を甘やかすことだけに全神経を注いで日々を送っている。罪悪感を見せないようにするのが苦手な彼女が出来るのは、僕を果てしなく赦し続けるだけなのだ。与え続けていれば、同じものが返って来るとでも思っているのかもしれない。僕はそれを黙って見ている。
 不幸な偶然だった。同居人だって、あの日母親の事故の知らせが飛び込んでくると知っていたなら、僕の携帯を隠したりなんかしないだろう。同居人はあのメールの列を見るまで、それが靴や上着や定期入れと同じ類のものだと思ってしまっていた。
 それでも、同居人は確かに僕と母親から最期の時間を根こそぎ奪ってしまった。僕はマナーの悪い大学生なので、あの日も携帯電話をマナーモードにするのを忘れていた。最初のメールが来た時に――否、最初に妹ちゃんがしてきたのは電話だった――何にせよ僕は気付いただろう。母親の病院は大学から車で二十分くらいだった。財布の中にはそこまでタクシーで行けるだけのお金があった。
 要するに、同居人があんなことをしなければ、何の問題も起こりはしなかったのである。
 僕と母親との仲も悪くはなかった。むしろ同年代の息子と母親に比べたら大分仲がいい方だったんじゃないかとすら言える。普通の母親だった。何の問題も起こさず、ユーモアを交えてよくもまあ僕と妹ちゃんを女手一つで育ててきてくれたものだと思う。
 薄々察しているかもしれないけれど、僕には父親がいない。理由なんか重要じゃないだろうからここでは割愛してしまうけれど、要するにここで重要なことは、妹ちゃんは本当に、たった一人で母親を看取らなくてはならなかったということだけだ。
 夢見が悪くなりそうな話だけど、妹ちゃんからのメールによると、母親は臨終の瞬間まで僕の名前を呼んでいたらしい。……会いたかったんだろうなぁ、と他人事みたいな気分で思う。一歩退いていないと、耐えられなさそうな想像だった。
 僕はお昼時にはふさわしくない想像をやめて、これまたお昼時にはあまり見たくないような現実に目を向けた。確か、同居人はお昼ご飯を作っていたはずである。それが今は、一体何に対して戦争を仕掛けようとしているのだろう。
「君さあ、それ先に火、止めた方がいいよ。そもそも、もう何作ってるのかわかんないんだけど」
 とりあえず、最も危なさそうなものから指摘してみた。最善が選び取れない時は大人しく最悪を回避しておいた方がいい。
「私、小さい時からこうなの。図画工作とかで何か一箇所失敗すると、その失敗を隠そうとしてどんどん失敗を重ねて、どんどん負の連鎖を生みだしちゃうの」
「馬鹿みたいな話だな。取り返しのつかないってことは確かにあるんだ」
 僕の言葉に、同居人は少しの間だけ火と共に手を止めて、何やら考え込んでいた。
 同居人が不意にこちらを向く。包丁を持ったままの同居人の立ち姿に何の危機感も覚えられなかった。手が震えている。料理が苦手な人間というのは、冗談かと思うくらい刃物を怖がるのだ。
「どこから失敗だったんだろう」
「差し当たっては、僕がお前に料理をさせたことだ」
 僕は心底面倒臭がりながら立ち上がり、同居人に近寄る。そして、どうにかさりげなく、同居人の手から包丁を抜き取った。人参の皮がべっとりとついている。人参って何でこんなに綺麗な色をしてるんだろうね?
 同居人はきょとんとした顔で僕を見ている。僕にこのまま刺し殺されることなんて一切想定していない顔だ。それは信頼と呼ぶにはあまりにお粗末だから、どう崩してやろうか迷う。
「……包丁」
「何?」
「いや……」
 同居人が困っている。包丁を取られてしまったら何も出来ないと思っているのだ。切ることだけが料理じゃないのに、同居人の料理の括りはあまりに狭い。
「渡さないよ、これは」
「ええ……」
「当面は没収だ。今日はもういいでしょ?」
 別に刺すとか刺されるとかそういう昼ドラめいた展開を予想したわけじゃない。同居人は料理に関しては奇跡の人なので、うっかり転んで僕に包丁をぶっ刺してしまう可能性を考えたのである。
 悪意が無くても悲劇は起こる。
 そういう風に出来ている。
「とりあえず、ここからは僕がやるから。ここから君がどうやろうと、絶対に食べ物は生まれないよ」
「でも、トマトとかは生でも食べられるんだし」
「それを知っていながらどうして悲劇を食い止められなかったんだよ」
「包丁一つでは語り尽くせないことが世の中には沢山あるってことに遅ればせながら気が付いたんだよ」
 同居人は今でも素敵な人間だ。でも、あの頃のような輝きはもう無い。同居人と僕の間にあった感情も多分もう無い。僕達を繋ぎとめているのは偏にあの罪だけなのだ。タイミングが悪かった。それだけの話だ。
「あと、このゴミの山は捨てるぞ」
「捨てちゃうの? 勿体ない」
「いいじゃん。お金ならあるんだろ」
 何しろこんな不良債権を抱えても悠々と暮らしてしまえるくらいには。同居人が黙る。否定しないその余裕が疎ましい。困窮してしまえば良いのに。料理が壊滅的に下手な癖に家政婦すら雇わずにのうのうと僕を抱えて暮らしているしっぺ返しを、いつかどこかで受ければいいのに。躊躇いなく僕は生ゴミ入れに野菜を放り込む。すぐにいっぱいになってしまった。
「残ったもので何作れる?」
「よくわかんないけど全部切ってコンソメで煮込めばいけそうだろ。そもそも、これ何作ろうと思ってたんだよ」
「……何だろう。何でもいいから作ろうと必死だったんだよ」
「楽にいこうじゃないか。必死になったからって上手くいく訳じゃない」
 社会復帰然り。関係修復然り。
 僕は残った食材を見渡す。よく使っていた大きい鍋はどうしたことか完全に焦げ付いてしまっているから、小鍋を使うしかない。下手な好奇心と義侠心は猫じゃなくて鍋を殺した。……困ったことだ。
 やる気になった僕を見る、同居人の目が輝いている。いっそのこと、これすらも今から全部ぶち壊してやろうか、と一瞬だけ思った。けれど、何にせよ僕は腹が減っているのである。空腹は全てのメタファーよりも優先される。面倒な暗示なんてすべて無視して、僕は新しい人参に包丁を入れた。ざくり、と赤い音が響く。
 最高に平和なお昼時だった。

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夏のキラキラサーキュレーション


「センセイ、センセイ。私を導いてくれませんか」
「はあ。でも俺は可愛いメスゼミとか知らないよ。ごめんね。そもそも、蝉の可愛さもよく判別出来ないし。あ、やっぱ蝉の中にも米倉涼子似の蝉とかいるの?」
「残念、私にとっても蝉の顔はどれも同じに見えるんですよね」
 灘嶺くんが人間の言葉を話す蝉に会ったのは、お誂え向きの暑い夏の日だった。七年近くも土にいるらしいのに、何故だか彼らの大半は少しも迷うことなく夏に姿を現す。季節どころか自分さえ見失っているような人間達を相手取る灘嶺くんにしてみたら、それは少しだけ評価に値する才能だった。
 言葉を商売道具にしている灘嶺くんは、言葉の通じないものが苦手である。例えば被害者意識の強いモンスターペアレントや、オーバードーズで幻覚や女子高生や、虫などが苦手だった。特に蝉は好きじゃない。サイレンよろしくミンミンビービー鳴いている声には、物語性が全く見いだされなくて怖い。
 そのけたたましい鳴き声の正体は「セックスしてください!」という素直で切実なお誘いらしい。灘嶺くんはその事実を知って一層恐怖した。人間が偉そうに叫んでいる言葉と蝉のサイレン染みた謎の声は内容の面で大差がないことが、とても恐ろしかったのだ。
 そういうわけで、灘嶺くんは蝉が嫌いだった。出食わしたらげんなりするし、鳴き声のする木は密かに呪っていた。その癖、道ばたに転がっている蝉の死骸を見ると、なんだか酷く悲しくなるのだから困る。
「それで、生殖第一セックス大好きな蝉さんが、人間である俺に導いて欲しいことってなんだろう。言っておくけど、蝉が大好き! っていう女の子も多分俺は紹介できないよ。女の子の友達は少ないし、」
「これには、色々と超常的な理由があるのですよ。そう、それも含めて、私はセンセイに助けをお求めさせて頂いているのです。こういうことにかけて、センセイほど適切な方はいらっしゃらないでしょう?」
「・・・・・・そうかなぁ」
「ね、そうでしょう? アルカディアの灘嶺センセイ」
 蝉は、適当なチョイスで灘嶺くんを選んだ訳ではなさそうだった。溜息を吐いて、目の前の蝉をまじまじと見る。なるほど、本当にこれは、俺くらいしか適切な人材がいない案件なのかもしれない。
「私は生前、人間でした。名前を御船といいます。貴方の講演を聞いたのは蝉になってからですが、蝉ながら立派な信者です」
「なるほどね」
 灘嶺くんはようやく納得する。

 灘嶺くんは新興宗教の教祖を生業として暮らしている。教団の名前はアルカディア。牧人の楽園という意味を持つその教団は、灘嶺くんの博愛主義という名のお人好しと、色々な事情が積み重なって出来た冗談みたいに理想的な宗教である。
 人間は救いを求める生き物だけど、その救いがドラマチックであればあるほど満足度が高いらしい。即ち、神様絡みの救済が一番好き。だって、神様ほど物語において素晴らしい素材なんてないでしょう?
 そういうわけで、お人好しの灘嶺くんは人を慰める為だけに神様の存在を都合よく持ち出し、公園などで演説をし、段々と信者を集めていった。宗教団体ってどうやって出来ていくのかなぁと思っていたはずの灘嶺くんは、いつの間にか宗教団体アルカディアを結成させてしまった。
 ははぁ、と灘嶺くんは思う。この蝉は、灘嶺くんの有難いお話を聴いていたに違いない。ついこの間、灘嶺くんはここの公園の隅にある公民館で講演会をしたばかりなのだ。
 発足一年足らずで推定信者一万人弱達成というアルカディアの教祖、灘嶺くんともあろう人がそんなところで、と思われるかもしれないけれど、こういう地道な布教活動が、ウン千万円の寄付金に結びつくのですよ、と灘嶺くんの第一の側近である松永が宣うのだから仕方がない。実際、アルカディアの人気な理由はそういう気安さにあるのだろうし。
 それに、灘嶺くんはそういう行為を全く厭わなかった。自分の話を聞いてほっこりしたり、ふわふわしたり、とにかく幸せになれる人間がいるのなら、灘嶺くんは話をすることを厭わなかった。灘嶺くんはそういう人間だったのだ。
「御船さんはあの時の講演を聞いてたわけだ」
「ええ。あの公民館で催された、アレです。流石というべきか、公民館の中は人で埋め尽くされていたじゃないですか。だから、壁に貼りついて聞かせて頂きました。へへ、蝉っていうのもこういう時にはいいですね」
「そうかな。俺はそういう類のメリットを聞いても蝉になりたいとは思わないけど……」
「ともあれ、私は七年土に籠って、ようやく土から出てきた時にはもうすっかり蝉な気分になりかけていたんですが……センセイの素晴らしい御言葉を聞いて、ハッと気づいたんです。このままでいいのか、と。私は御船明という人間だったはずじゃないか。センセイはあんなに熱心に人間の使命と神からの御言葉を説いていらっしゃるというのに、私のこの体たらくは何だ、と思ったのですよ」
「……へえ」
 出来れば、俺の言葉なんて聞かずに蝉として一生を終えて欲しかったなぁと灘嶺くんは不謹慎にも思う。無機質なはずの蝉の目がキラキラしているように見えてげんなりした。
 人間は素晴らしいとか、神様はいつも見守ってくれているとか、そういうのは確かに灘嶺くんがいつも言っていることだけど、それってそこまでキラキラする言葉かなぁ? とも密かに思っているのだ。死後の幸せとか、現世利益とか、神から与えられた個人個人の役割とか、そういうものを聞く度に目をキラキラさせている人を見ると、そのキラキラを求めてやまなくなるくらい絶望させたものは何なんだろう、というところまで頭がいってしまう。
 灘嶺くんの悪い癖だ。大きなお世話とも言う。
「それで、センセイのお話の中に、死後の世界の話が出て来たじゃないですか」
「あー。『アルカディア』ね。死後の牧人の楽園」
「そうです。善良な人間は全て迎え入れられる、死後の楽園です。そこには苦しみも悲しみもなくって、毎日遊園地に住んでいるような気分を味わえる楽園だって、センセイおっしゃってましたよね」
「うん。言った」
「それなら、一体どうして私はアルカディアに行けなかったのでしょう?」
「ああ……はぁ……なるほど」
 ここでようやく灘嶺くんは更なる疑問に対する答えにも思い至った。要するに、灘嶺くんは天国に対する責任を負わされようとしているのだ。
 灘嶺くんが語った牧人の楽園、アルカディアに対する責任だ。目の前の蝉のいう事が本当なら、人間は死んだら牧人の楽園に行くのではなく、蝉とかになる羽目になるわけである。アルカディアの教えを根本から揺るがす、あまり認めたくない事実だ。
 幸運なことに、御船と名乗るこの蝉は、灘嶺くんを嘘吐きだと責めるつもりはないらしい。灘嶺くんの意見に異議を唱えるつもりはあまりなく、自分だけがイレギュラーだと思っているのだ。
 それは、灘嶺くんにとって大分好都合なことだった。嘘吐きだとクレームを入れられるよりは、信じて貰った方がどれだけ気分がいいか。
「それで、私がアルカディアに迎え入れられず、こうして蝉に生まれ変わったのには、何か理由があるんじゃないかな、と思ったのですよ」
「はあ、理由」
「そうです。センセイなら、神のお言葉が聞けるはず。私がこんな状態になった理由も、貴方様ならおわかりになるはずなんです」
 灘嶺くんは、曖昧に微笑む。正直知ったこっちゃなかった。けれど、優しい灘嶺くんは「それ、御船さんが善良な人間じゃなかったんじゃないの?」とバッサリ切り捨てることも出来ない。だって、蝉に生まれ変わるってどれだけ悪人だったんだよ? 蝉には悪いけど、灘嶺くんは蝉に生まれ変わるくらいだったら地獄に堕ちた方が数百倍良い。
 齢二十六歳の灘嶺くんは当然のことながら死んだことがない灘嶺くんは、死後の世界のことなんか全く知らないし、皆が求める牧人の楽園アルカディアがあるかどうかもわからない。あったらいいな、とは思っているけれど。
「神様の言葉って結構不定期なんだよね。俺が好き勝手に聞けるわけじゃなくて、神様の意志で来てるの。今のところ、御船さんがどうして蝉に生まれ変わらせられたとか、どうして人間の言葉を喋れるようにしちゃったのかっていうことについての情報は入ってきてないかな」
 灘嶺くんはお決まりの台詞を返した。大抵の物事は神様の所為にすればいいわけで、神様というのは大抵の場合とかく気まぐれなのである。
「そうですか……いいえ、そうですよね。神様が一々私の存在理由について教えてくれるはずがありません。私は、私で自分が蝉になってしまった理由を探るしかないんですよね」
「うん。そうだよ。それが神様の試練なんだ」
「ああでも、センセイ。どうか、ヒントだけでも与えてくださらないでしょうか。センセイは、私がどうして蝉になってしまったのか、おわかりになりませんか?」
「うーん……そうだなぁ。アルカディアが気に入らなかったとか?」
「まさか! センセイの話を聞く限り私が迎え入れられるのであれば、今すぐにでも入れて頂きたい、素晴らしい場所です。あそこは」
 うっとりしたような声で御船はそう呟いた。苦笑が止まらない。灘嶺くんのファンタジックに幸せなでっちあげのお伽噺が、人をこんな風に取り込んでしまうのはいつ見ても慣れない。いつか、とんでもないしっぺがえしが来るんじゃないかと怖くなってしまうのだ。
「それじゃあ、あれだよ。よくあるやつ」
「よくあるやつ? とは?」
「小説とか漫画とか映画とかによくあるやつだよ。即ち、何かこの地上にやり残したことがあるから、御船さんは蝉としてこの世に舞い戻ってきた……多分」
「ほほう、流石はセンセイ。私の考えの及ばないところを思いつきになる」
 こんな定石染みたものを思いつかないだなんて、もしかしたら御船さんはあまり映画はや小説に慣れ親しんでいなかったのかなぁ、と灘嶺くんは思う。いつだって人間は後悔し続けていて、やり直せる機会を伺っているのだ。
 恐らく、それは灘嶺くんにも当てはまるのだろう。
「それは蝉じゃなくちゃ出来ないことなんでしょうか?」
「そうなのかもしれない。人生、何が起こるか本当わかんないからね」
 灘嶺くんは適当に、それでも笑顔を忘れずに答える。蝉の進退なんてどうでもよかったが、頼ってきた者を邪険に扱う訳にもいかない。灘嶺くんは皆のセンセイなのだ。
「ああー……どうしてでしょう! 折角センセイにお言葉を頂いたのに! 七年間も土の中にいた所為でしょうけど! 思い出せない! 思いつかない! 私、何をやり残したんでしょう! ああ!」
「何だろうねー。そういうのを探す為に人は生きていくんだろうねー」
「センセイ、ちょっぴり投げやりになってきてませんか?」
「なってないない」
 でも、蝉の脳内を灘嶺くんが覗けるわけもない。
「俺、これから行くところあったんだけどさ、よくよく考えてみたらそこ、御船さんの悩みにも役に立つかもしれないんだ。だって、御船さんはどうして自分が現世に蝉になって戻ってきたのか知りたいわけでしょう?」
「はい、その通りです」
「それならまず、御船さんが前世どんな人だったかを思いだした方がいいんじゃない? 御船さんがどんなことを無念に思って死んだのか、それを思い出した方がいいんじゃない?」
 御船は何かを思うようにしばらく振り子のように行ったり来たりを繰り返していたが、不意に灘嶺くんの目の前で止まると、大きく一度身体を前に傾けた。頷いたつもりらしかった。
「・・・・・・なるほど。流石はセンセイ。その通りかもしれません」
「でしょ? 何事もまずはそこからだよ。幸い、俺が今から行くところは、多分どうにかして人間の記憶を蘇らせたりしてくれちゃう素敵な施設のはずなんだ」
「そんな場所、あるんですか? ディストピアですね」
「ああ、やだなぁ。そんなにおどろおどろしいところ想像しないでよ。言うならばあそこはドラクエでいう教会だから。素敵な場所だよ」
 言いながら、灘嶺くんは自分の抱える愛しの信者たちに思いを馳せざるを得なかった。今から自分が行こうとしている場所と、自分が作り上げた場所が、あまりにも似ている所為だ。辛くなった時に駆け込む場所は皆同じ。それなら、もう皆アルカディアなんかじゃなくて灘嶺くんと同じ場所へ向かうべきだと思う。だってそっちは、アルカディアと違ってちゃんと認められているのだし。
「それで、センセイは結局どちらへいらっしゃるのですか?」
 灘嶺くんは爽やかな笑顔で告げる。
「カムカムハッピー総合病院精神科」

 カムカムハッピー総合病院はこの街で一番大きな総合病院である。というより、この小さな街は、大体この総合病院を中心に回っていると言っても過言ではない。この街に住む人間の何割かはカムカムハッピーというご機嫌な名前の病院で生まれてこの病院で死ぬ。もしかしたら、御船さんもそうだったのかもなぁ、と灘嶺くんは適当な想像をした。
 けれど、その想像に反して、カムカムハッピーに着いた途端に御船がぺらぺらと前世の記憶を語り出すようなことはなかった。ただひたすら、うるさい蝉の羽音が聞き咎められないか心配している。
「だって、蝉なんですもん。蝉なんか、いたら潰しちゃうでしょ?」
「うーん、俺は蝉がいても積極的に潰そうとは思わないけどね。だって気持ち悪いじゃん。ぐちゅって何か色々見たくないものが見えちゃいそうじゃん」
「そうでしょうか・・・・・・躊躇いなく潰す人は潰しますよ。ああどうしよう、私が蝉になった理由がそうやって前世で蝉を潰し回った所為だったらどうしよう・・・・・・」
「とりあえず、見つかるのが怖いなら俺の背中のあたりに隠れてなよ。あ、ちょっと背中にくっつくのは勘弁して欲しいけど・・・・・・」
「ええはい、弁えております」
 そう言いながら御船は灘嶺くんの影に隠れた。精神科へ向かう廊下はやたら人が少ない。たまにすれ違う人間も皆が皆自分のことに必死だった。だから、灘嶺くんと御船は誰にも咎められることなく待合室まで辿り着いた。精神衛生にいいんだか悪いんだかわからない、黄緑色に塗られた待合室だ。夏を感じる。
 程なくして、不健全さや不健康さとは縁がなさそうな軽やかな看護婦さんが灘嶺くんの名前を呼んだ。御船も灘嶺くんを追って診察室へ入る。

「眠れないんですか、灘嶺さん」
「灘嶺くんって呼んでくださいよ。言うのは三回目だけど、そっちの方がずっといい」
「眠れないんですね、灘嶺くん」
「もうずっと眠れないです。そうじゃなきゃこんなところ来ませんよ」
 灘嶺くんの担当である初老の医師はまるで死にかけの金魚を見るような時の目をしていた。可哀想だけれど、あまり直視もしていたくないと正直に訴えかけてくるようなその目。でも、悲しいことに灘嶺くんの相手は正真正銘彼のビジネスだ。支払だって滞りのない善良な患者の灘嶺くんを追い返す術は医師には無い。溜息を吐きながら、医師はカルテを捲った。昔ながらの手書きのものだ。
「食欲はありますか?」
「あんまりありません。でも、好きなものだったら食べられるんです。うどんとか」
「眠れないのは夢を見るから?」
「うん。それも、凄い悪夢を。何回も何回も」
「お薬ちゃんと飲んでます?」
「飲んでますよ。ちゃんとお薬カレンダーとオブラートを使って、毎日頑張ってるんだ。あ、そうそう。毎回言ってるけど、お薬は粉末じゃない方がいいんだけどな」
 医師は灘嶺くんの話を真摯に聞いて、カルテにすらすらとそれを書き留めていった。灘嶺くんはそれを適当に盗み見る。字の綺麗な医者のカルテは盗み見が容易だから困るのだ。でも、結局書いてあることは先週と殆ど変わらなかった。灘嶺くんの状態がそこから進化していないのだから当たり前と言えば当たり前の話だった。
「ねえ先生、俺が新たに言葉を喋る蝉の幻覚を見始めたって言ったら、お薬増えちゃう?」
 医師は、少しだけ首を傾げて灘嶺くんのことを見た。すかさず、ノック式ボールペンがカチリと鳴る。
「見えるんですか?」
「いや、何ていうか、例え話ですよ」
 灘嶺くんが診察を受けている間、御船は空気に吸い付いてでもいるかのように静かに大人しくしていた。背中にくっつくなという灘嶺くんの無体なお願いも素直に受け入れて、灘嶺くんが座るイスの裏に黙って貼りついている。
 灘嶺くんはほんの一瞬だけ、言葉を喋る蝉が自分の妄想なんじゃないかという恐怖に襲われた。言葉を喋る蝉が自分の脳内から生み出されたものだとして、そこからどんなメッセージを受け取ればいいのかが、わからな過ぎて怖かった。
「君の例え話は難解なんですよね」
「そうですかね。こういう話が往々にして好まれるものなんですけど」
「僕は君の信者じゃないですからね。うん、難解ですよ。あんまり好きにもなれないし」
 初老の医師はボールペンをもう一度カチリと鳴らして、テーブルに置いた。もうカルテに書き込むつもりはないみたいだった。例え話は病状じゃないから仕方がない。
「その蝉は君を責めるんです? 例え話でもいいですけど」
「責めませんよ。責めませんけど、救いを求めたりはしてきます」
「あーそれ、結構スタンダードにノイローゼなんじゃないでしょうか。ノイローゼ。君の信者からの求められ具合が君に喋る蝉を見せているんです。ほら、ミンミンうるさいでしょう。灘嶺くんもね、心の奥底では信者のこと『うっせーな、カウンセリングでも行っとけよ』って思ってるんでしょう。そういうことですよ、きっと。ははーん」
「先生、それはちょっと乱暴すぎる解釈なんじゃないでしょうか。フロイト先生もびっくりですよ」
「まあ、例え話に対する態度なんてこんなもんですよ」
「その蝉はね、前世は人間だったって言いだして、前世の記憶を取り戻したいって俺に言ってくるんですよ。これってどういうことなんでしょう」
「あの、灘嶺くんその蝉は自分のメタファーとかじゃないんですよね」
 灘嶺くんは今までにないくらい強くはっきりと首を振った。
「それで、先生。昔の記憶を思い出すいい方法とかありませんかね? やっぱり、脳に電極を刺してビリビリするしかないの?」
「それは悪趣味なカルトムービーの世界ですよ、灘嶺くん。そうですねえ、それも気長にやっていくしかありませんよ。思い出す為の手掛かりになりそうなワードを拾って、糸を手繰り寄せるように思い出したいことの名残を探るんです。思い出すきっかけになるのは匂いかもしれない、音楽かもしれない、人かもしれない、あるいは場所かもしれない。何にせよ気長にやることですよ」
 気長に、というところを医師は繰り返し強調した。気長にとはいっても、蝉の寿命は多分そこまで長くないから、そういう話には限度がある。蝉は七日間しか生きられないというのは迷信らしいけれど。
「これは経験則ですけれど、忘れてしまった記憶を思い出すことって、そこまでいいことでもないかもしれませんよ。そういう記憶は忘れるべくして忘れたんです。思い出したくないから思い出さないんです。そういうものを引っ張ってきた時、八割はろくでもない事態になってしまいます。大惨事です」
「そういうもんですかね? あ、そういえば、先生の名前何て言うんでしたっけ」
「担当医の名前すら怪しいんですか?」
「思い出せないことは思い出さない方がいいんじゃなかったでしたっけ」
「お薬、錠剤で出しておきますねー。お大事に」

「結局錠剤と粉薬二パターンで処方されてるんですけど……」
 灘嶺くんはお薬袋の中を覗き込みながら苦々しく呟く。やけにカラフルな錠剤と、その合間を縫うように粉末。嫌がらせをするような人じゃないと信じているから、きっとこれは間違えちゃったか忘れちゃったかのどちらかだろう。人間の記憶も蝉の記憶も当てにならない。
 カムカムハッピー内の薬局で薬を受け取ってから、そこを出る時には、御船は何も気にすることもなく、灘嶺くんの周りをふわふわ飛び回っていた。夏の暑い日に蝉が飛び回っているのは不自然なことじゃない。その蝉が人間の言葉を喋っていることはもしかするととても不自然なことかもしれないけれど、何せ夏だから。夏はどんな突拍子のないことにも概ね優しい。
「眠れないんですか」
 医師と同じことも御船は聞いた。クリスマスの朝の靴下みたいに睡眠薬を詰め込んだ袋を携えながら、灘嶺くんはなるべく気を抜いた声で応える。
「うん。眠れないよ」
「どうしてでしょう」
「ストレスだって先生は言ってる。結構揉め事も多いしさ、あんまり見たくないような結末を見せつけられるようなことも往々にしてあるんだよね。俺が力不足だから」
「そんなことありませんよ! センセイは素敵なお方です!」
 そうやって言い切る姿勢が、灘嶺くんにとって、こうなんだか・・・・・・居心地の悪いような気分にさせられるようなものの一つなんだけれど……結局何も言えなかった。御船がそんなことを言うのは偏に灘嶺くんの為だとわかっているからだ。
 百パーセントの信頼はどうしてこんなにも怖いのだろう。信頼されるのは嬉しいことなのに、どうして不安になってしまうんだろう。ちなみにこの問題の答えは、人間は百パーセントの信頼は一瞬で百パーセントの憎悪と失望に変わる恐れがあると、心の何処かではわかっているからだ。けれど、灘嶺くんがこのことに気が付くのは、残念ながらもう少し後の話だ。
「だから、俺はそろそろヨガでも始めちゃおうかなって――あ」
「どうしたんですか?」
「十枝先生だ」
 灘嶺くんは珍しく目を輝かせる。目の先には、四十代前半くらいの医師がいた。遠目からでもわかるくらい姿勢がいい、凛とした男だ。灘嶺くんはとても楽しそうに「十枝せんせーい!」と駆け寄る。その瞬間、十枝は眉間にいきなり蝋燭を垂らされたかのような、不機嫌そうな顔をした。
「ああ、十枝先生これからご出勤なんですね。頑張ってください」
「もう来るなって言っただろ。何しに来たんだ」
「どうして? 俺は患者だよ。患者が病院に行くのに、何の不思議があるの?」
「ここはお前みたいな人間を救える場所じゃないんだよ」
「ねえ、どうして十枝先生は俺を嫌うの? 俺はこんなに善良なのに」
「お前のその善良さが、傲慢が、一体どれだけの人を地獄に落としてるんだろうな」
「地獄じゃない。天国に連れて行ってるんだ」
 正確には牧人の楽園だ。皆が憧れるアルカディア。御船は迎え入れられなかったアルカディア。
「お前の宗教では人が死んだ」
 十枝は淡々と言った。
「仕方ないことだったんだ。俺の所為じゃない」
「死んだのは事実だ」
「ああそうだよ、死んじゃった。でも、止められなかったんだ。ねえ十枝先生。俺、悪夢を見るくらい悩んでるんだよ」
「それで、もしかして赦されると思ってるのか?」
「少しは」
 灘嶺くんの言葉を聞いて、十枝は一瞬とても不愉快そうな顔をした。起こられるかもな、と灘嶺くんは少しだけ身構える。
 けれど、不愉快な相手にこれ以上構っていられないと判断したのだろう。灘嶺くんに出会うよりもずっと早いスピードで去っていく。しゃんと伸びていた背が丸まっていた。それが灘嶺くんには、とても残念だった。
 灘嶺くんはその背中を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
「なんなんですか……あの人」
 御船が嫌悪感丸出しの声を出した。御船は自分の好きな人が嫌いな人は滴、という典型的な考えを持つ側の人間らしい。
「あの人はね、カムカムハッピーで一番のお医者さん。俺の主治医に、一回だけなった人。それ以後は、主治医になりそこねた人」
「治療拒否ですか?」
「十枝先生っていうのは優秀なお医者さんでね、心理学的に有名な学者さんでもある。テレビによく出てるんだよ。主に新興宗教にだだ嵌りしちゃった女の人が、ニュースで取り上げられる時なんかは」
 そこまで聞いて、蝉である御船にもおおよその察しがついたようだった。素性が割れるや否や診察室から追い出された灘嶺くんは、そのあまりにストレートな対応に面食らって傷つきもしたけれど、同時に好ましくも思った。宗教というものがどうしても受け入れられない人間だって一定数はいるものなのだ。宗教の部分を政治や、贔屓のアイドルに置き換えてもいい。そういうものに一々傷ついてはいられない。
「御船さん、生き辛いなぁ」
「蝉の私には計りかねますけど、そうでしょうね」
「生き辛いでしょうよ、蝉だってさ。蝉なら尚更さぁ」
 蝉はビービー悲痛に泣き叫んでいた。本当は悲痛でもないのかもしれないけれど、そう思い込んでも構わない程度には煩く泣き喚いている。生き辛いよ、と灘嶺くんはもう一度繰り返す。
「どうなの? 御船さん。嫌なところも見ちゃったけど、それでも蝉になった御船さんは、アルカディアのことが好き?」
「私、あの人の言葉を聞いたら、なんだかこう、胸が苦しくなりました」
「十枝先生のこと? まあ、耳に痛いこと言ってるよね」
「でも、センセイのことやアルカディアのことを思うと心がキラキラするんです」
「俺のこと? ・・・・・・キラキラ? キラキラって、結構ふわふわな言葉だよね」
「私、センセイを見ると、こんな状況でも生きてやろうって思うんですよ。蝉になってでも、七年間を土で過ごす憂き目を味わっても、アルカディアに迎え入れられなくても、・・・・・・このキラキラを求めて、生きてやろうと思うんです」
 それはまるで向日葵のように真っ直ぐな気持ちだった。土に潜っている蝉が間違えずに夏に出てこれる蝉にふさわしい気持ちだ。
「だから、私はアルカディアを好ましく思います。十枝先生がどう思おうと、アルカディアのことをキラキラっと見ますよ」
「キラキラかぁ。なんか良い言葉だよね」
「ですね」
 そもそも蝉の目にちゃんとした色覚とか、その得体の知れないキラキラを感じられる心とかがあるのかなぁ、と灘嶺くんは思う。御船は何かに追い立てられるかのように灘嶺くんの元にやって来て、スピーディーに成果を上げられもしないこの状況に文句も言わない。何というか、それが酷く不気味だった。御船に迷いはない。ここにいることが、本当に神様の思し召しだったかのようだ。
「私、アルカディアの信者だった気がするんです」
 不意に御船はそう言った。そろそろアルカディアの宿舎の方に戻らないといけない、とそれとなく別離を仄めかした灘嶺くんに対しての、牽制みたいな言葉だった。
「だって、そうじゃありませんか? 私、こんなにアルカディアに心惹かれているんですよ」
「……心惹かれる、かぁ」
「あの先生――あ、睡眠薬をくださった先生の方ですよ。あの先生もおっしゃっていたじゃありませんか。記憶を呼び戻すには、自分が心惹かれるものに素直になった方がいいって」
 キラキラの源泉。御船の心に引っかかる、蝉と人間を繋ぐ何か。他人の心なんてわからないから、ましてや蝉の心なんて絶対にわからないから、灘嶺くんは黙るしかなかった。御船の人生だ。御船の好きにしたらいい。御船は人じゃないけれど。蝉だけど。
「でも、俺、『御船明』って名前の信者さんに会った覚えがないんだ」
「あんなに沢山信者がいるなら、センセイが覚えてなかったとしても不思議じゃないんでは?」
「御船さん、この仕事を続けるコツを、一つだけ教えてあげる。それは、人の顔と名前を忘れないこと。自分の名前も憶えてくれない人間を、人は信用したりしないよ」
 それは確かに灘嶺くんの才能の一つに数えられるものだった。誰かの前で話をするのが上手いこと、とにかく誰かを安心させようとして常に努められること、人の顔と名前をしっかりと覚えていられること。ともすればエリートセールスマンに必要とされるようなその資質たちが、教祖としての灘嶺くんのことを支えてきたのだ。
「それじゃあ、どうして私は、アルカディアにキラキラを感じるんでしょう……?」
 御船の声が途端に小さくなる。あっ、しまった、と灘嶺くんは心の中で舌打ちをした。例え灘嶺くんの記憶力に自信があったとして、御船明なんて名前の信者がいなかったとして、そのことを御船に断固として言い渡すことが正しいとは思えなかった。真実とか正論とか、そういうものって大体あんまり美味しくない。それはさっき十枝が証明したばかりのはずだった。
「……そうだよね。いくら俺が記憶力に自信があったとして、忘れてるかもしれないよね。ヒューマンエラーっていうのはどうしたって起こりうるものだし。ね、御船さん。とりあえず、アルカディアの合同生活施設に来てみる?」
「合同生活施設?」
「そのままの意味で、信者達が一緒に暮らしてる大きなシェアハウスみたいなところなんだけど。老若男女かいる老人ホームのイメージでもいいし、合宿所みたいなところをイメージしてもらってもいい」
「ほほう」
「そこに、御船さんの前世を巡る何かがあるかもしれない」
「本当に、私が行ってもいいんでしょうか?」
「そこで御船さんが何かを掴めるかもしれないからね」
 灘嶺くんはまっすぐにそう言った。元より、灘嶺くんは病院が終わったら真っ直ぐにそこに帰るつもりだったので、行きずりで話しかけられてしまった蝉に付き合って当てもない度に出るよりは、アルカディアに戻った方がいい。
「ありがとうございます! センセイ、ありがとうございます!」
 御船は大きく飛び上がって、嬉しそうに空中で一回転をした。なかなかメルヘンチックな光景だった。連想されるのは皆から愛される耳の大きなゾウさんである。
「御船さん御船さん。もし御船さんが死んだ原因が――俺とかだったらさ、御船さんは俺のこと憎むかなぁ?」
「そんなこと、怒りませんよ。死んでしまったものは仕方がないし、忘れてしまったものは仕方がないんですから。私がセンセイを恨むことなんて絶対ありませんよ。この世のある程度の物事は水に流せばそれで済むんですし、水に流せば済むようなことなんか、一度死んだ私に流せないはずあるわけないじゃないですか。だって、こっちは血まで流してるんですもん」
「はは、上手いこと言ったね」
「上手いこと言ったんでしょうか? これ」
 御船という名前の奇妙な蝉は、滔々と灘嶺くんの跡をついてくる。灘嶺くんはなるべく御船のことを意識しないようにしながら、アルカディアへの道を進む。血を流す、とかいう物騒な表現が耳に残った。御船さんは、血を流したんだろうか?
 灘嶺くんは血が嫌いだった。流れるところを想像するのも好きじゃない。単純に怖いからだ。流血沙汰は嫌い。好きなものは甘いものだ。
 真夏の太陽が遠目に見える景色を華麗に歪めてみせる時みたいな、力技の嫌な予感がした。

 アルカディアに着くなり、御船はその宿泊施設の端正さと、美しさと、システマチックな感じに驚いていた。この施設の建設費や運営費は主に寄付金で成り立っているんだよー、と灘嶺くんが言うと、御船は更に素直に驚いていた。それが灘嶺くんには嬉しかった。世の中の人はどうしたって汚いお金や裏のカラクリが無いと我慢できないものなのである。クリーンな状態なんてお呼びじゃないのだ。彼らの大半は泥にまみれたお話が好き。そうじゃないと、傷がついた脛を隠せないからだ。
「凄いですね。これが信者の皆さんの善意なんですね。喜捨なんですね」
 御船は素直にそう感嘆した。もしかするとそれは彼が蝉であって、傷つく脛を持たないからかもしれなかった。
 灘嶺くんは御船の言葉に答えないで、黙って奥へと進んで行く。数人の信者が灘嶺くんとすれ違って手を振ってくれた。誰も彼も、正気の沙汰じゃないくらい幸せそうな顔だった。
「あー、またこんなにお薬を貰ってきましたね。駄目だって言ったじゃないですか。ぷんぷん」
 応接室に着くなり、示し合わせたかのように一人の女性が部屋に入ってきた。ショートボブの黒髪に、少し吊り気味の目がシャム猫みたいで可愛い佐藤さんだった。有能な秘書兼お目付け役の彼女の言葉に、灘嶺くんは咄嗟に手に持っていた薬の袋を隠す。もう既に見咎められたものを隠したって意味がないのにそうしてしまうのは、彼が佐藤さんに怒られ慣れている所為だ。
「あんまりこういうものに頼っちゃいけませんよ、って私言いましたよね? 信者も含めて皆、センセイがこんなだと不安になるじゃありませんか。何の為に私はおやすみ前にホットミルクを淹れさせられているんです? ぷんぷん」
「だって……。というか佐藤さん、『ぷんぷん』っていう語尾はもしかすると俺を必要以上に怖がらせない為の処置なのかもしれないけど、無表情でやられても逆効果だよ……」
「ぷんぷん」
 佐藤さんはそのまま、長く長く溜息を吐いた。ホットミルクを淹れるのも、語尾に『ぷんぷん』と付けるのもさしたる手間じゃないから、佐藤さんは純粋に、灘嶺くんのことを心配しているのだと思う。優しい灘嶺くんは佐藤さんに少しでも心配をかけること自体が耐えられないのだけれど、如何せん、睡魔だけはどうしようもなかった。
 大抵のことには耐えられるつもりだったけど、眠れない夜の、あの段々とカーテンの向こうが青々としていく感じや、時計の秒針が擦り切れる音さえ聞こえてきそうなあの感じ、大好きなはずのタオルケットがどうしても身体に馴染まない感じ、『感じ』塗れで感覚器官だけがどんどん滲み出してような感じは、どうしても無理だった。あのフィリップ・マーロウだって、眠れない夜には手前勝手にギムレットを煽ったはずだ。そうであってくれ、と灘嶺くんは半ば祈りながら、タオルケットの中で丸くなる。
「……薬は治すものなんですよ。貴方、治す気はあるんですか」
「俺はマゾヒストじゃないんだよ。治るならとっくにどうにかしてる」
「自分では正確なところがわからないのが、ブラジャーのカップ数と性癖なんですよ。前者は下着売り場で、後者は五反田でしかわからない」
 果たして、佐藤さんは五反田に行ったことがあるのだろうか?
「佐藤さん、佐藤さんって五反田行ったこと――」
「センセイ、田辺新美さんは、勝手に死んだんですよ。アルカディアに魅せられ過ぎて、自分で死を選ぶことも全く恐ろしくなかったんでしょうね」
 灘嶺くんの存外真剣な質問は、あっけなく無視された。それと入れ替わりに、聞きたくもない言葉が耳に入ってくる。
「天国は死ぬ為の場所じゃないのに」
「田辺新美さんにとってはそうではなかったんでしょうね」
 淡々と佐藤さんはそう告げる。
「私が言いたいことは主に二つです」
「はい」
「あんまり人の死に気を揉まないこと。お薬は用法要領を正しく守って、なるべくなら飲まないこと」
 佐藤さんはびしりと指を二本天井に向けて突きだした。あまりに堂々とし過ぎていて、灘嶺くんはそれが純然たるピースサインであることを一瞬忘れかけた。平和からかけ離れたような表情をしている佐藤さんがやると、まるで目潰しのジェスチャーに見えて少し怖い。
「……肝に銘じておきます、脳味噌がそれに従ってくれるかはわかんないけど」
「んふふん」
 佐藤さんは灘嶺くんの返答に満足したのか、楽しそうな声を上げた。それでも、彼女の表情は殆ど変わらない。彼女の中の神様は、ポーカーフェイスをお好みなのだろうか? と灘嶺くんは本気で思う。何でもかんでも神様に絡めたくなるのも、一種の職業病なのかもしれない。
「俺からも二つ、聞いてもいいかな?」
 佐藤さんの真似をして、灘嶺くんもピースサインを向ける。贔屓目かもしれないけれど、特に物騒な要素は見られない。ピースサインの威圧感は、人によりけり。
「どうぞ」
「アルカディアに、『御船明』っていう名前の信者はいたかな? 俺には正直覚えがないんだけど」
「いません。私が覚えている限りでは」
 やっぱりな、と思う。自分の記憶力に自惚れているわけじゃないけれど、少しいい気分にはなった。灘嶺くんは信者のことを絶対に忘れたりなんかしない。しないからこそ、こんなに苦しんでいるのだから。さながらスティグマだ。灘嶺くんが少しでも自分の抱え込んだ宗教という代物に疑念を抱いた瞬間、そのスティグマは赤く鈍く痛むのだ。
 十枝のような態度を取る人間を見てもそうだ。『理解されないものである』ということを意識した瞬間、灘嶺くんはそれと戦わなくてはいけない状況に追い込まれる。
「それで、あと一つは?」
「うん?」
「あと一つの質問ですよ」
「ああ、そうだ」
 灘嶺くんは辺りを見回す。御船の姿が見えなかった。室内に佐藤さんの存在を認めた瞬間、サッと隠れたのかもしれない。
「佐藤さん、蝉は好き?」
「好きですよ」
 サラリと答えられてしまった。女性は須らく虫が嫌いなものである、という信仰が崩れた瞬間だった。
「私、秩父出身なので、よく見かけたんです。捕まえたりもしました」
「へえ、なんていうかその、意外」
「別に蝉の造形や生き方や鳴き声やくりくり黒目が好きだったわけじゃないですよ。そんなのは全然評価対象になりません。ただ、蝉は簡単に捕まりますから。鳴くのに必死過ぎるのか、生きるのに必死過ぎるのか、凄く簡単に捕まるんですよ。それこそ素手でも」
「素手かぁ……あんまり触りたくないけどな」
「簡単なものっていいですよ。簡単に捕まるもの。簡単に手にはいるものは、簡単に愛せるんです。そうして、すっかり好きにさせられました」
 その瞬間、佐藤さんがこらえきれなかったかのように、ふふっと小さな笑い声を漏らした。口元が小さく逆アーチの形を作る。夏の熾烈な日光の下では幻聴と間違えても差し支えないくらい、唐突で素敵な笑顔だった。
 もしやアルカディアも佐藤さんにとっては蝉と同じ? と聞こうとして踏みとどまった。久しぶりに理性的な判断だった。
 不意に、応接室にノックの音が響いた。規則正しい間の後に、一人の男性が部屋に入ってくる。所場博文。ちゃんと名前を思い出せたことに安堵した。所場は、佐藤さんに何やらを耳打ちすると、また慌ただしく出て行ってしまった。佐藤さんの顔が露骨に不機嫌そうになる。さっきまでの笑顔なんて欠片も無かった。
「センセイ、お手数ですが、正門の方には行かれない方がよろしいかと」
「何で?」
 佐藤さんは溜息を吐きながら、事の顛末を話してくれた。思わず、灘嶺くんも顔を曇らせる。あまりいい話じゃなかった。夏になってからは、いい話の方が少ないような気さえする。
「尚更、俺が行った方がいいんじゃないの?」
「貴方の御言葉は届きませんよ。ああいうのは、動物か何かだと思った方がいいんです」
 でも、俺の言葉は蝉にも届いているようだよ? 灘嶺くんは薬の袋を手近にあったテーブルに放り投げながら思う。
「まあ、気が向いたら見に行くよ。……大丈夫、別に。俺が見ておきたいだけだし」
「センセイがそうおっしゃるのなら、止めませんけど」
「うん」
 灘嶺くんはただ頷く。


「御船さん? 御船さーん」
「はい」
「うわっそこにいたの」
 応接室から廊下に出て、一声呼んだ時にはもう御船は背後にいた。鳴かない蝉の静かなことを思い知る。ビジュアルだけで煩い存在だから、そんな単純なことにすらなかなか気付けなかった。
「センセイがお入りになる部屋の中に女の方が見えたものですから、部屋に入るのが躊躇われましてですね」
「あー、別に入っても良かったのに。佐藤さんは蝉が好きなんだって。きっと殺されたりしなかったよ? ああでも、捕まえるのが好きって言ってたからそれはそれで危なかったかな……」
「私、死ぬのが怖いんですよ」
 ポツリと御船がそう言った。
「廊下で一人で考えていると、何だか怖くなってきたんです。蝉に生まれ変わったところまではよしとしましょう。でもそこからは? 死んだら、どうなるんでしょう。御船明としての意識はどうなるんでしょう。私、本当にアルカディアに迎え入れられるんでしょうか」
「迎え入れられるよ。だって、御船さんは本当に善良な人だったんでしょ? 大丈夫だよ。怖がることなんて何もない。人は皆、幸せになれるんだ。最終的には皆お誂え向きのハッピーエンドが待ってるはずなんだ」
「私は蝉です」
 言い切る言葉に迷いが無くて、内心ギョッとする。
 動揺する灘嶺くんを余所に、御船は窓の外に見える中庭の子供達にご執心のようだった。何がおかしいのかもわからない子供達の嬌声が聞こえる。今の子供はもう虫捕りなんかはしないのだろうか。
「……私もここに入っていれば良かったのに。そう思います。信者は皆幸せそうじゃありませんか。そうですよ、シンプルな教え。規則正しく楽しい共同生活。死後の幸せの確約。信者達からの善意の寄付で成り立つ運営。非の打ちどころがありません。ああ、そうだ。ここに入信していなかったからだ、そうです。私がアルカディアの信者じゃなかったから……こんな、蝉なんかに生まれ変わっちゃったんです……」
 御船の言葉にはジリジリという奇妙なノイズが混じっていた。それはさながら、蝉の羽音のようだ。寒気がする。御船の言葉が熱を持てば持つほど、灘嶺くんの心の内は冷えていくみたいだった。どうしてだろう。アルカディアを讃えてくれる嬉しい言葉なのに、凄く怖い。
「御船さん、あの、ちょっと落ち着いてもらえるかな」
「ねえ、そうじゃありませんか? 私がやり残したことっていうのはこれですよ。アルカディアの信者にならなかった前世の私の代わりに、今の私がセンセイの御言葉を受けなくちゃいけないんです。ああほら、センセイを見ているとキラキラが、キラキラが溢れてくる」
「御船さん、わかったから。ねえ、とりあえず落ち着いたらいいよ。ね? もうじき夜になるよ。だから、一旦外に出てくれないかな? あの、明日にはさ、御船さんの部屋を用意させるから。ね?」
「ああ、大丈夫です。センセイの言う事なら何でも聞きます。部屋も要りませんよ、蝉ですから。とりあえず、外に出た方がいいんですかね?」
「うん。でも、あんまり人に見られるとまずいから、そっちの窓から出て。それで、来る時にくぐった正門の方には絶対に行かないで」
 灘嶺くんは懇願するような口調でそう言った。もし御船に掴むだけの肩があれば、掴んで縋っているかもしれない。そのくらい必死だった。
 灘嶺くんの気色ばんだ表情を見て、御船はそのまま一礼をして(蝉が一礼だなんて! 灘嶺くんは密かに頭を抱える)御船の、出会った時よりずっと耳障りになった羽音が聞こえなくなるまで待って、灘嶺くんは正門の方へ向かった。
 正門前で、一人の中年女性が泣いていた。佐藤さんの報告通りの光景だった。一見するとアルカディアに救いを求めに来た人間のようにも見えるけれど、叫んでいる内容があからさまに違う。眉を顰めた。
「息子を返してください! お願いします! 何でもしますから! お金も払います! 息子を抜けさせてください! 何でもしますから!」
 黙って見ている灘嶺くんの元に、佐藤さんとはタイプの違う美人が走ってきた。信者の一人、高田さんだ。駆け寄って来たくせに、彼女は何も言えずに黙り込む。言うべき言葉が見つからない。灘嶺くんにあんなものを見せてしまったことに、彼女はあっさりと絶望している。ああ確かに、と灘嶺くんは納得する。こんな程度で絶望しているようじゃ、確かにアルカディアの外では生きて行けやしないだろう。
「あの人の息子さん、返してあげなよ」
 灘嶺くんは淡々と言った。子供を産んで手塩にかけて育てて愛を捧げてきた子供なのだろう。彼女は親なのだ。親なのに、あんなに地面に這いつくばって泣いて喚いて、アルカディアに懇願している。アルカディアに懇願する人間は多いけれど、あれは種類が違った。高田さんは悲しそうに首を横に振る。
「駄目ですよ、センセイ。私達はあの方の息子をアルカディアの施設から退所させようとしたんですが、彼は頑なに拒否しましてね。自分を追い出すなら死んでやると言って、今朝がた酔い止めを百六十三錠も飲んで自殺をはかりました。幸い命に別状はありませんでしたが、今は眠っています」
 素晴らしい袋小路だ、と灘嶺くんは舌打ちを返す。誰かの幸福と誰かの幸福は同じ形や色をそているとは限らないのだ。牧人の楽園アルカディア。個々が望むその場所にあるものは、同じとは限らないのである。
「彼はここでしか生きられないんだそうです。バナナフィッシュを思い出しませんか、センセイ」
 高田紫央奈はなかなかいい文学趣味をしているらしい。灘嶺くんは誰であってもサリンジャーを読んでいれば相手をなかなかいい趣味の人間だと思うのだ。そういうささやかな価値観でさえも違うのだから、況や幸せをや? ……そんなことじゃ駄目なのだ。アルカディアは皆を幸せにする為に生まれたのだから、誰かが不幸になってはいけないのである。皆の幸せの形は一つでなければ。
 灘嶺くんはこれを御船に見られるのを恐れた。今も怯えている。何故だろう、とても嫌な予感がした。そろそろ、あの中年女性を引き剥がしに警備員が駆けてくる。彼女がまるで変質者みたいに追い出されるのを見て、灘嶺くんは何もしない。
 さて、一体誰が信じるものが幸せだと呼ばれるのだろうか?

 アルカディアに入らなかったことを後悔して、蝉になってまでこの世に戻ってきたという話を、御船はそれから三日間の間真摯に信じ込んでいた。灘嶺くんの宿舎に泊まり(実際にはそれは、留まると言った方が正しいけれど)、灘嶺くんは神様の話やどうして人は生まれて来たのかみたいな話をするのを、ただ熱の籠ったキラキラとした目で見るだけで、彼は無邪気に満足しているようだった。
 灘嶺くんは、気が滅入っていた。佐藤さんに約束させられてしまったから、オーバードーズなんて絶対にしない。それでも、心底気が滅入っていた。
 そもそもアルカディアという存在が人によって幸せそのものにも害悪そのものにもなることを知ってしまった灘嶺くんは、多分御船の無邪気な盲信を怖れていたのだと思う。一向に昔の記憶を取り戻さず、ここに幸せを見出す御船のことを、どうしてこうも不吉に思うのか。灘嶺くんは本当は蝉が嫌いなんじゃないかと本気で悩んだ。思春期の虫取り少年が陥りそうな煩悶だった。
 蝉の寿命が七日間であるという話を、灘嶺くんはそこまで信じていない。だって、そんなのは美し過ぎるからだ。神様が世界を作った日数と、たかだか蝉の寿命を合わせる必要が一体どこにあっただろう? 気に食わない。
 ともあれ、その俗説で言えば、御船はそろそろ死ぬはずだった。蝉にしては長生きをしたとしても、二・三日の違いだろう。御船は蝉だけれどアルカディアの信者だから、きっと、あそこの部屋で死ぬ。人一人が優に暮らせるあの部屋で、蝉だけがコロンと転がって死んでいるのを想像すると、無理矢理蝉を食わされたような気分になった。
 灘嶺くんは、もうアルカディアで人が死ぬのを見たくはなかった。
 御船は蝉だけれど蝉じゃない。人の言葉を話している時点で、灘嶺くんの中で御船は蝉じゃなくて人間だった。七日間しか生きていなくても、人間だ。
 どうすればいいかわからなかったし、今更御船を追い出すほど冷酷になれないから困る。袋小路もいいところだった。
 袋小路に追い詰められた人間は大抵の場合そこで死ぬ。袋小路に追い詰められた人間には羽が無い。

 袋小路状態の転機はやっぱり羽のある生き物の方からもたらされた。三日目のある日、御船は急にいなくなってしまったのである。
 御船の部屋を尋ねるのは灘嶺くんの一応の日課となっていた。会いに行くというよりは生死の確認をしているのに近い、何だか歪んだ訪問だった。
「御船さーん。御船さん?」
 いつもなら蝉にしては礼儀正し過ぎる挨拶が返ってくるのだけれど、その日は何の物音も返ってこなかった。灘嶺くんは半狂乱で部屋に飛び込み、御船の姿を探した。正確には死体を探したのだ。とうとう御船が死んでしまったのだと、灘嶺くんは叫びだしそうな焦燥に襲われた。けれど、そういうわけでもないらしい。御船は、自分の意志でここを飛び立ったのだ。灘嶺くんにはわかる。
 何しろ、御船の部屋の机がじっとりと濡れていたからだ。真夏だというのに、その湿りけは拭いさられていない。直感的に、あるいは思い込みに似た一途さで、灘嶺くんはそれが涙だと悟った。きっと、舐めたら塩辛い味がする。蝉に涙腺があるとは思えないけれど、御船はまだ人間なのだ。涙くらい流せるだろう。
 この夏の苛烈さにも関わらず机が湿っているということは、御船はさっきまでこの部屋にいたのだ。この部屋で涙を流して、そうして飛び立ったのだ。じっとりと湿った気持ちの悪い表面を撫でながら、灘嶺くんは決意した。御船を探さなくちゃいけない。蝉はそんなに長く遠くへは飛べない。ここに来るのだって、ちゃんとタクシーにひっついてきたのである。ということは、まだ灘嶺くんの探せる範囲にいるに違いない。
 蝉を探すのなんて初めてだった。入ってくるのと同じくらい勢いよく外へ飛び出しながら、灘嶺くんは思う。長らくインドア派を貫いていた灘嶺くんは虫捕りに行ったことがない。でも、大体蝉のいそうな場所はわかった。小説や漫画やドラマや映画のお陰である。何事もイメージが大事。
 アルカディアには信者の情操の為に綺麗な森が設置されている。何から何まで人の手が加わった人工的な場所だけど、無いよりはいいと思った。そもそも、絶対に本物がいいとは限らない。
 蝉はそこまで体力がないらしい。御船は森の入り口で見つかった。一年前に植えられたばかりの真新しい木に、黙ってしがみ付いている。蝉の区別なんかつかないけれど、灘嶺くんにはそれが御船であることが何となくわかった。
 彼はただ黙っているのではなく、何かに反抗するかのように沈黙していた。
「御船さん、どうしたの」
 灘嶺くんは、恐る恐る尋ねる。
「どうしたの、とは」
 御船が声を返してくれたことで、灘嶺くんは少しほっとした。
「だって、急にいなくなっちゃうんだもん。……あの部屋に入った時、凄く怖かった。俺、ああいう部屋の感じ、前にも経験したことがあるんだ。……あの、何とも言えない、嫌な感じ」
 灘嶺くんは苦虫を噛み潰した時のような顔をして、軽く左右に首を振る。けれど、悪夢は出て行かない。神様の加護を説いているはずの灘嶺くんは、今夜も睡眠薬無しでは眠れない。悪夢の糸を辿り、原因を掬い取る。灘嶺くんは、そこに蝉の影を見ていた。その気になれば、鳴き声の幻聴だって思いのままだろう。
「でも、そのお蔭で、御船さん。あんたの正体がわかりました」
「……はい」
 まるで名探偵か何かのように灘嶺くんはそう告げる。こんな物言いをするのはこれっきりだ。灘嶺くんは教祖であって名探偵じゃない。真実を究明するより、真実を隠蔽してでも誰かに幸せになってもらいたい。
「とはいっても、消去法なんですけど」
「消去法はどんな局面でも使える魔法の戦術ですよ。試しにセンター試験で消去法禁止令を出してみてでもごらんなさい。平均点は大きく下がりますよ」
「ありがとうございます、御船さん。っていうか、御船さんって呼んだ方がいいんですかね?」
 軽く首を傾げて、灘嶺くんは微笑みかける。御船以外の蝉は、まるで灘嶺くんの言葉に対して激しいブーイングを投げかけるかのように鳴いている。どいつもこいつも自分のことしか考えていない癖にうるせえよ、と灘嶺くんは思った。灘嶺くんだって今、自分のことしか考えていないのに。
「どういう意味でしょう」
「貴方、御船明さんじゃないんですよ。……多分、貴方の本当の名前は田辺新美さんだ」
「……素敵な名前ですね」
「御船さんはね、多分どっかで、御船さんの名前を見たんだよ。田辺さんが死んでから数日の内に、『御船明』っていう名前の男が死んだんじゃないかな? それを見て、田辺さんは自分を御船明だと思い込んでしまった。何故なら、田辺さんは、……自殺までしたんだから、もう田辺新美さんでいたくなかったんじゃないのかな?」
 自分の推理を滔々と語るのはなんだか恥ずかしいような、いたたまれないような、そんな気分だった。証拠なんて何一つ無い。ただ、何となく、そう思っただけだ。アルカディアに縁のある死者なんて、田辺新美くらいしかいなかった。数日前に正門の前で騒いでいた女性の息子は、今だってちゃんと生きている。
「田辺さんは田辺さんって名前に聞き覚えはないかな? 引っかかるところは? 丁度、半年前くらいのことだ。田辺さんがあの宿泊施設の一室で、首を吊って死んでいた。遺書も無かった。前触れも多分無かった。……田辺新美さんがどうして死んだのか、俺にはわからない。でも、俺はあの日から、俺の作った宗教の何がいけなかったんだろうって、ずっと眠れないでいる」
 佐藤さんや幹部の松永さんやその他いっぱいの人が、灘嶺くんにそれを見せまいと必死になっていたのを思い出す。灘嶺くんの教団なのに、灘嶺くんが起こっていることを知らないなんて妙だ。だから灘嶺くんは、制止を振り切って田辺新美の部屋に入った。あの時、得体の知れない嫌なものを感じた。今朝御船の部屋に入った時と同じだ。
 田辺新美の死体の印象は虫に似ていた。人間の形をしているのに、それはもう人間じゃなかった。
 灘嶺くんは言葉が通じないものが苦手だ。
「間違ってたら、ごめん。怒る?」
「怒りませんよ、そんなことじゃ」
 御船は、とても穏やかな声をしていた。灘嶺くんの周りを飛び回るんじゃなく、蝉らしくちゃんと木に留っているからかもしれない。黒くて丸い、ビーズみたいな目は本当に灘嶺くんのことを見えているのだろうか、と思う。
 一拍置いて、また話し出す。
「それで、よかったら、教えて欲しい。……田辺さんは、どうして死んだのかな? 田辺さんは、それを伝える為に、蝉になって戻ってきたんじゃないかな」
 生まれ変わりなんて信じていなかったけれど、もしそういうものがあるのなら、多分この為にあるはずだ。伝えられなかった思いを伝える為に、御船が言っていた『キラキラ』の正体を、伝えて欲しい。
 そして、なるべくなら彼は、田辺新美にとってアルカディアが安息の地であったと言って欲しい。そうじゃなくちゃ、これからも灘嶺くんは眠れないからだ。
「……私は、センセイの期待に沿えませんよ」
 御船の声が響く。蝉の鳴き声とは程遠い。でも、うら若き女の子とも違う声だ。
「わからないんです。田辺新美がどうして死んだのか」
「それは、思い出せないってこと? それとも、俺の話は全然見当違いで、御船さんは田辺新美さんと何の関係もないってこと? ねえ、御船さん」
「見当違いじゃありませんよ。私は、全部全部思い出しました」
「え、本当?」
「でも、彼女が死んだ理由なんて、わからないままです」
 どういう意味? と灘嶺くんが聞くより先に、御船が木から離れた。空に放たれる時の羽音が、如何にも蝉です、と言わんばかりの濁音で、灘嶺くんは少し驚く。
 御船のことが握りこぶし大の点に見える程度の距離をとって、今度こそ御船と灘嶺くんは向かい合った。息を飲む。
「ねえ、センセイ。御存じですか。蝉はね、暑さが苦手なんですよ。蝉の寿命が七日間しかないのは、暑さが苦手なのに、夏に土から出てくるからなんですよ。季節外れの蝉なんかは寿命が長くて、一ヶ月ほど生きるんです。なんででしょうねえ。それなら秋に出てくればいいじゃないですか。どうしてそんなこともわからないんでしょう」
 蝉が蝉について語るのは、なんだか気味が悪かった。これは他の生き物にも当てはまることかもしれない。猫が猫について語るのも。クジラがクジラについて語るのも。人間が人間について語るのも。それなら、人間が神様について語るのは? セーフだろうか? アウトだろうか? アウトじゃなくても、気持ち悪くない?
「……御船さん、あの」
「でもね、ようやくわかりましたよ。彼らにも彼らで夏に出て来なくちゃいけない理由があるんですよね。蝉には蝉の理由があるんです。狂おしいほどの夏に出て来なくちゃいけない、キラキラの理由が」
 御船の周りに、得体の知れないキラキラが取り巻いている。
「新聞のコラムだったかなぁ、そういう話を読んだんですよ。私が新聞をあんなに真剣に読んだのは初めてだったかもしれないなぁ……。新美の名前が無いか、アルカディアの糾弾記事が無いか、目を皿にして探したんだ」
「……………………」
「御存じですか。今日、新美の誕生日。生きていたら、二十一歳でした。ああ、あの子、夏が似合う子でしょう。夏に生まれたからなんですよ。あの子ほど太陽が似合う子はいなかった」
「うん、新美ちゃんは、……夏が似合う子だった」
 田辺新美が死んだのは、寒さの厳しい冬の朝だった。
「新美の誕生日に、間に合わなくちゃいけなかったんだ」
 影みたいな御船の姿がぐらぐらと揺れていた。
「思い出したのは、昨夜、信者達のとある怪談話を聞いていたからでした。他愛の無いきっかけでしょ? 蝉が聞き耳を立てているとかいないとか、普通の人間は気にしないんですよ。夏に相応しいものは蝉と怪談話ですよ。ねえ、新美が使っていた部屋は悪魔の部屋って呼ばれているんでしょう? アルカディアの教義では道徳的に問題のあるものはいけないってされているんでしょう? 自殺なんていけないことですもんね。新美はアルカディアに迎え入れられず、地獄の山羊に食い殺されるんですって。何度も何度も何度も」
 灘嶺くんはそんなことを教えたつもりはない。自殺は確かにいけないことだけれど、そんな、地獄にいる山羊に食い殺されるとか、そんな怖いことは絶対に言わない。そんなことを聞いたら、灘嶺くんは怖くて死ぬに死ねなくなる。
「…………フラッシュバックとはこのことだと思いました……。ねえ、危うく忘れるところでした。あのキラキラ、アルカディアを、センセイを見た時のあのキラキラの正体がようやくわかりましたよ。憎悪ですよ憎悪。どうして気が付かなかったんでしょう。天才と馬鹿とは紙一重だっていいますけど、性質の違うものは紙一枚隔てたところに置かなくちゃいけないって、誰が決めたんでしょうね? 神様? あの綺麗なキラキラの正体がこんなものだなんて酷いや!」
 御船の声は段々と大きくなっていく。あの小さな身体の何処から声を絞り出しているのかまったくわからない。
「御船さん、あの、ちょっと、帰」
「そうです! 田辺新美は私の実の娘! 離婚して母親に引き取られてからは普通に会ったことはありません! でも幸せでいてくれていると思っていました。アルカディアなんてクソみたいな宗教に! 娘がハマって死ぬまでは! 母親が泣きながら報告してきました! 妙な宗教にハマってから娘をほったらかしていたらいつのまにか娘は原因不明の自殺をしちゃってたってさ!」
「帰りたい……」
 一刻も早くここから逃げ出したかった。さっきまでの名探偵っぷりは何処へやら。仕方がない。灘嶺くんは名探偵じゃなく単なる宗教家だ。
 灘嶺くんはどうして名探偵が真相を話そうとしている間犯人はうかうかとそれを聞いちゃったりしているのかなぁと常々思っていたものだけど、何となく理由がわかる。――逃げられないよ。こんなに怖い状況でさぁ。
「俺は新美の母親を責めた。どうして新興宗教になんかハマってるのに、助けようとしなかったんだって! そうしたら、ふふ、幸せそうだったからって。赦せんよなぁー、アルカディアは妙な壺を買わせたりしない、寄付を強要したりしない。馬鹿か! 騙されてるんだよ! 新興宗教なんてものはいつだってトラブルの種だろうが! 不幸の源泉だろうが! どうして新美を助けなかったんだ!」
「……御船さん、田辺さんが死んだのは、アルカディアの所為かな? 田辺新美さんは、特に遺書とか、ダイイングメッセージとか、そういうものを残していなかったはずなんだけど」
「わからないなら、こじつけるしかないだろうが」
 なるほど、それはとてもシンプルな方法だった。
 よくよく考えれば、灘嶺くんの手前勝手な悪夢やトラウマも、そうしたシンプルな方法に則ったものじゃなかっただろうか? 灘嶺くんは、田辺新美が死んだ理由がアルカディアであることが怖くて、そういうことになってしまっていたんじゃないの?
「俺は母親を刺し殺したよ。新美を助けられなかった罰だ。続いて俺は、自分の喉に刃物を突き立てたんだ。新美を助けられなかった罰だ」
 灘嶺くんは新聞を読まない。傷つきやすい灘嶺くんが楽しく見られるページが、恐ろしいほど少ないからである。田辺新美の自殺と違って、その件は大いに報道されただろう……。でも、確かあの時期は中学生が同級生を誘拐してどうこう、みたいなセンセーショナルな事件が起こっていた気がするから、ありきたりな心中事件なんて見過ごされていたかもしれない。
 そうして、御船明は蝉になる。
 気が付いたら、彼は蝉になっていた。時空も記憶も歪んで、七年間を土の中で過ごす。彼はただ、自分の信じるキラキラを信じて夏に這い出て、灘嶺くんの語る神様の話を聞く。
「そうだ、お前だ。お前が新美を殺したんだ。そうだ、だから俺は、俺はお前に、アルカディアに復讐を」
 キラキラが止まらない。蝉を迷わず夏に導く目的が滾る。彼らの多くはただ漫然と遺伝子のリレーを繰り返している。それが彼らの輝きだから。ああ、灘嶺くんが少し前まで絶望していたそれの、健全さといったら!
「御船さん。あんたはアルカディアに救われる側の人間だと思ってたんだけど」
「救われない。忘れない。七年土にいたって、忘れない。思い出したよ。センセイ。俺は、お前に、復讐する為に出会ったんだ。神様がその機会を与えてくれたんだ」
「ねえ、御船さん。御船さんは神様を、信じて――」
「それに今の俺は人間じゃない。ただの蝉だ」
 何を今更、と思う。御船が本当の蝉だったら、そんな悲しみも、そんな激情も憎しみも持ち得ないだろう。彼は灘嶺くんの周りにいる生き物の中で、今週はトップクラスに人間だった。アルカディアの信者の中には、一週間丸々アニメの再放送を惰性で見続けて潰す人間だっているというのに!
 それでも、灘嶺くんは少しだけ期待する。人間だった頃の御船がおよそ理解し得なかったアルカディアというものに、彼は蝉になって触れたはずだった。そして、あんなにキラキラしながらその素晴らしさを汲んでくれていたはずじゃないだろうか? ……あの時の言葉が、色々な誤解の賜物であったとは、あんまり考えたくない。
「それで、御船さんは・・・・・・その、どうするんですか。これから。し、進退とか?」
 蝉は表情が変わらないので、一縷の期待をこっそり掛けた。でも、そう上手くはいかないらしい。蝉の無機質でつやつやとした両目に、灘嶺くんのひきつった笑顔が映る。
「殺してやる」
 夏に似合わない重苦しい声がした。夏の風物詩失格だと思う。
「そういうの、やめようよ」
「来世では控えよう」
 今世で控えてくれる気は、どうやらなさそうだった。
 なんてこった、完全に失敗だった。何が名探偵だ。こんなにも殺意というものに鈍感だった癖に!
「……蝉に、人が殺せるんでしょうか」
「残念ながら」
 そう言うと、御船は急に歩道側へ飛んでいった。公園から一歩出れば、そこは人と車が行きかう何の変哲もない道である。一人の会社員がスーツに汗染みを作りながら、歩道を赤い自転車で走っていた。自転車で歩道を走るのは、あまりよくないことだ。でも、悪人と呼ぶほどじゃない。
 会社員は熱にあてられて、大きく旋回して近づいてくる御船にまだ気が付いていないようだった。大多数の人間は虫をそこまで警戒しない。だからまんまと、顔に突っ込まれてしまうのだ。
「うわっ!」
 御船に突っ込まれた会社員が、勢いよく車道側へバランスを崩す。いきなり顔に蝉が飛んできたら、大抵の人間は動揺する。それが人間の知能と悪意を持った蝉なら尚のことだ。御船は飛びついた会社員の眼球に足を掛けてから、また飛び立っていく。それと同時に、会社員の顔が地面に着いて、鈍くて嫌な音を立てた。
 会社員に向かって運送屋の軽トラックが突っ込んできたところで、灘嶺くんはたまらずに反対側へ駆けだした。背後で悲惨な音が聞こえた気がするけれど絶対に気にしない。灘嶺くんの大嫌いな、臓物を撫でさすられるような悲劇の予感がした。それは全て怒り狂った御船の行き場のない憎しみと無差別な暴力衝動の所為で、それらは全て灘嶺くんを苗床としているのである。
 どうしてこうなったんだろう。救いを求める者に手を差し伸べすぎたからだ。そもそも、蝉に手を差し伸べて俺はどうしようと思ってたんだ! ジーザス! 灘嶺くんは久しぶりにこんなに鮮烈な後悔をした。体が震える。蝉が怖い。
 真夏に走り回るなんて正気の沙汰じゃないけれど、逃げなくちゃ殺されるのが明白な状況で、逃げない人間はいない。インドア派の灘嶺くんはすぐに日光に足を取られた。殆ど吐きそうになりながら走る。御船は訳の分からない叫び声をあげていた。怖い怖い怖いよ! けれど、灘嶺くんの元に神様からの助けは来ない。
 アルカディアの建物内に入り、急いで扉を閉める。ぜえぜえという大袈裟な呼吸音は蝉の羽音よりもうるさい。
「ううぅ……ひいいいぃ……」
 なんて鮮やかな手の平返し。コペルニクスもびっくりの転回! 人間の価値観は気分次第でいくらでも変わる。そのことを灘嶺くんは深く思い知った。目の端に涙が浮かぶ。こんなはずじゃなかったのに……という弱々しい呟きが漏れた。
「そうとも。俺だってこんなはずじゃなかったよ」
 背筋が冷えた。オーソドックスなホラー展開は、実際に経験するとこんなにも怖い。
 灘嶺くんのすぐ真横に、御船がいた。一体何処から入って来たんだろう。何処からでも入って来れるさ、だって、蝉だから。
「逃げられると思うなよ、センセイ」
 灘嶺くんは転がるようにして、御船から距離を取った。もつれた足を懸命に走らせて、廊下の奥へ向かう。震えた手でドアノブを握った。バッと室内に入る。そこで、とうとう足が動かなくなった。膝を誰かに掴まれているかのようで、もう少しも逃げられない。
「室内に逃げたな! 室内に逃げたな! 逃げ場はどんどん無くなるぞ! お前の体内に入って内臓を食い散らかしてやる! 死ね! 死ね!」
「うわああああん! 助けてえええええ!」
 そんなことを言われているのだから口を閉じてしまえばいいのに、灘嶺くんは大声を上げて泣き叫んだ。これが今までやってきたことの報いなのかと思うと、やりきれない。灘嶺くんに悪意なんてこれっぽっちも無かったのだ。
「新美の仇だ」
 御船さんのハードボイルドな処刑宣告が響く。灘嶺くんは目を瞑った。万事休す。休んでいる場合じゃないのに。その時だった。パアンと銃声のようなものが響いた。驚いて灘嶺くんは目を開ける。平和主義者の集まりであるアルカディアで、響いてはいけない音だった。
 涙でぼんやりとする視界に、見慣れた顔が映る。蝉には見えなかった。
「大丈夫ですか、センセイ」
「佐藤さん、佐藤さんだ……」
「すいません。センセイのお部屋に勝手に入ってしまって。センセイが朝ごはんを食べにいらっしゃらないので、心配していたんです」
「いや、それはいいんだけど……心配かけてごめん……」
 灘嶺くんはようやく、佐藤さんの今の状況を把握した。彼女は仁王立ちで灘嶺くんの前に立っていた。右手には、丸めたクロスワード雑誌が握られている。灘嶺くんを待っている間、解いていたのだろう。
 その雑誌の表面に、何かがこびりついていた。いや、何かと呼ぶのも白々しい。そこにひっついているのは、紛れもなく蝉だった。
「どうかしましたか?」
「いやあの……佐藤さん……」
「はい」
「佐藤さんって、蝉、好きじゃなかったっけ……?」
 色々言いたいことはあったはずなのに、それだけが口を衝いて出た。夏の風物詩ですからね、と軽やかに言ってのけた彼女の笑顔を今でもまだ鮮明に思い出せる。ハードボイルドな彼女の笑顔は貴重で輝かしいのだ。それはもう、凄く。
「ああはい、好きですけど。でも、センセイったらまるで蝉に殺されるんじゃないかってくらい怯えていらっしゃったので。処分しました」
 事も無げに佐藤さんはそう言った。最早佐藤女史とか、そういう風に言った方がいいんじゃないだろうか? と思うような貫禄だった。聞いてしまえば単純な理由である。大事な大事な灘嶺くんが、蝉を怖がっていたので排除した。ええ、はい。素晴らしく明解な行動だったわけですね。
「センセイ、蝉がお嫌いだったんですね。少し前に蝉と一緒に歩いているところを見たばかりだった気がするのですが」
「佐藤さん。人間っていうのは一クール毎に嫁を取り替えたり、抱いていたシャチのぬいぐるみを明日には捨ててクジラに抱き替えたりする生き物なんだよ」
 灘嶺くんは丸めた雑誌に貼りつく御船の欠片と、床に散らばる御船の大部分を交互に見た。完膚なきまでに死んでいた。酷くて惨い死にざまなのに、蝉であるというだけでこんなにも精神的ダメージが少ない。なんて素晴らしい蝉補正。
「殺しちゃったね……」
「殺しちゃいましたけど。もしかしていけませんでしたか? アルカディアの教義に蝉を殺してはいけないとは載っていませんでしたけど。あと、人間以外の生き物の殺生も明文化されて禁止はされていませんよね。そうでしたらすいません。わかりませんでした」
 佐藤さんは軽く唇を尖らせる。不満なのだろう。何せ、彼女は灘嶺くんの為に蝉を――御船を殺したのだから。肩で息をしている顔面蒼白の灘嶺くんが、一言も自分を労ってくれないのが少しばかり気に食わないのである。彼女はハードボイルドで真面目でクールだけど、基本的に、愛しの教祖様のことが大好きなのだ。
 灘嶺くんはようやくそのことに気付く。そして、まだ少しぎこちない表情のままどうにか笑顔を作ると、佐藤さんに言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 佐藤さんはピクリとも表情筋を動かさずにそう返す。
「……俺の為に蝉が死んじゃったよ。本当、悪いことをした」
「あら、お優しいんですね。流石はセンセイです。私はセンセイのそういうところが、嫌いではありませんよ。むしろ大変大好きです」
「ねえ佐藤さん。これでよかったのかな」
 重々しく問いかける灘嶺くんに向かって、佐藤さんは軽く首を傾げる。心底不思議そうな顔だった。何せ、彼女は自分の中にちゃんと確固たる信念を抱えているのである。迷いなんか欠片も無い声で、彼女は答える。
「当然ですよ。だって、蝉なんかより人間の方が大事じゃないですか」
 況やセンセイをや。と彼女は締めくくると、しっかりと頷いた。
「そうだよねー。……そうなんだよねー……」
「そうですよ」
 喋らない蝉は、本当に単なる蝉だった。潰れた姿はゴミに似ていた。
 こうして、言葉を話す蝉と灘嶺くんの一夏の『キラキラ』は終わりを告げた。随分呆気ない終わりだけれど、仕方がない。蝉との物語なんて、潰れて死んだ虫との話なんて、この程度の幕切れが相応しいのである。灘嶺くんが学んだことは三つ。一つ、物事は人の見る目によって恐ろしいほど変わるということ。一つ、いくら言葉を喋り人間の知能を持った蝉がいても、潰してしまえば全く怖くないということ。一つ、憎しみや怒りや嘆きや殺意なんて感情でも、ひたむきであればそれはキラキラした生きる意味に変わるこということ。異常だ。
 結局、どうして御船明が蝉になってしまったのかだけは、わからないままだった。もしかしたら、人間は死ぬと須らく平等に蝉になってしまうのかもしれない。そして、生殖への飽くなき渇望と、人間だった頃のやるせなさや後悔や嘆きや痛みを全部載せて、夏の間執拗に鳴き続けるのかもしれない。
 そう思うと、灘嶺くんはつくづく、死にたくないなぁと思うのだった。

売られる戦場買う人でなし2


 同居人と喧嘩をした。

  同居人と喧嘩をすることも時折ある。僕らのような停滞した間柄でもそういうことが起こるのだ。とはいっても、主に僕らの喧嘩とは一方的な僕の爆発で起こることが多い。言ってしまえば、完全なる八つ当たりだ。自分勝手な主張とも言える。同居人は絶対に僕を怒らないし、僕を赦すことだけがその存在意義みたいになっているから、目立った衝突や対立や罵り合いが起こることはない。ただ、些細なきっかけですれ違いが生じ、僕だけが我慢出来なくなり、僕だけが家を飛び出すだけだ。今日のように。
 同居人には申し訳ないことをしていると思っている。こんなお金も定職も甲斐性も無い奴にこうして手を噛まれるのだから、この歯の全てを抜かれても仕方がないと思っている。けれど、全ては理屈じゃないのだ。どんなに申し訳なかろうと、僕は同居人と真っ向の対峙をすることを避けて、小奇麗なアパートを飛び出す。
 我ながら酷い言葉を投げつけてしまったものだと思う。発した言葉の半分は放送禁止用語という最低加減だ。人でなしだとか、死んでくれだとか、絶対に赦さない、だとか。社会に全く貢献していない僕が言うには片腹痛いような言葉も沢山言ってしまった。
 同居人は僕に何も言い返さなかった。同居人はよく口も頭も回る女の子だから、普段は僕に言われっぱなしでいることは少ない。けれど、今回ばかりは違った。僕の言葉が純然たる八つ当たりで、どこまでも理不尽だと思ったからだろう。めちゃくちゃな理屈で傷つけられることに、彼女は特に寛容だ。何故なら、それが自分の罪を洗い流してくれると信じているから。
 同居人が僕と暮らす第一の理由は、言うまでもなく罪の意識に苛まれているからである。僕を社会から爪弾きにし、立ち直れなくさせた張本人だと彼女が自負しているからだ。彼女の考えは少なからず間違っちゃいない。……そう考えている僕は、その同居人の罪悪感に甘えて、のうのうと暮らしている。
 けれどそれは、無条件に奴を見過ごしてやるという意味じゃない。
 同居人が全てを諦めてしまっているのが不快だった。同居人の目が申し訳なさそうな色に染まりながら僕の罵声を受けるのも、それに何かの感慨と安心を覚えているのも、たまらなく嫌いだった。
 そんなに贖いたいならお前の方からどうにかすればいいじゃないか。
 そんなに自分が可哀想だと思うのなら、僕なんか放り出してまともな日々を始めればいいじゃないか。
 そんなに僕が可哀想だと思うのなら、どうにかして僕を救ってくれたらいいじゃないか。
 漠然とした要求はエスカレートしていく。お互いに何をどうしたら状況が打開出来るのか、どうすれば全てのわだかまりを消してしまえるのかを毎日必死で考えているから、全く何もしていないというわけでもないというのに。
 売られた喧嘩は土下座をして買うようなスタンスだ。それでいて、買った瞬間に慈愛で包んでゴミ箱に捨てられてしまうのだから、たまらない。
 真冬でなくてよかった、と思った。夜が寒くないというのはいい。昔、真冬に身一つで放り出された時は、心から先に折れてしまいそうだった。
 僕がもし喫煙者だったなら、こういう時に煙草が夜の心許なさを埋めていてくれていただろう。しかし、喫煙は随分前に、もっと正確に言うならば同居人と暮らし始めてからやめてしまった。同居人は喘息持ちで、煙草の煙が苦手なのだと聞いたからだった。
 そのことを言ってしまった時、同居人は心の底から不覚だ、と言わんばかりの顔をしていた。慌てて、同居人が大袈裟なジェスチャーと共に言う。
「別に気にしなくていいんだけどね」
「流石に、それは気にするとか気にしないとかの問題じゃないだろ」
「だって、喫煙者の人ってニコチンが切れると駄目なんでしょう? それこそ、煙草をやめようって時には自分の身体を縄で縛ってどこかに閉じ込めなくちゃいけないんでしょう? 私、君を縛れる自信ないよ」
「全国の喫煙者に謝れよ」
 そして、僕は結局簡単に煙草を捨ててしまったのだった。ニコチンの依存性にはもう少し期待していたのに、同居人がわざわざ換気扇の前のスペースに作った喫煙スペースは一度も使われずに終わってしまった。
 セブンスターは七つも星を冠しているというのに、たった一人の同居人に負けた。あれ以来、セブンスターを吸う人間を見ると、無意識に同居人より弱いのだな、と思ってしまう。とんでもない言いがかりだ。
 煙草を吸うことも、音楽を聴くことも出来ない夜というのは退屈だ。誰かのところに行くにしても、僕は同居人以外の知り合いがいない。妹が一人いるけれど、長らく会っていないし、次に会う時は彼女に殺される時だろうと覚悟しているから、当てになんか出来なかった。

 溜息を吐く。星を見るのは二秒で飽きた。道路には人も猫もあまりいない。エンターテインメント性に欠けた夜だった。もう僕は箸が転がっても楽しめるような年齢じゃないのだ。
 腕に巻きっぱなしだった腕時計を確認する。……まだ午前零時を少し過ぎたあたりだった。シンデレラはお家に帰らなくちゃいけない時間だけれど、僕はまだ帰れない。こうして家を飛び出してきた時は、いつだって同居人が寝てからこっそり家に帰るのがセオリーだ。僕のちっぽけな、持つべきではないプライドが、同居人の「おかえり」を聞くことを赦さない。
 一時間くらいしたら帰ろうと思った。何しろすることがない。僕が持っているのは腕時計一つ。これでどうやって暇を潰せばいいというのか。完全に自分が悪いというのにどうしたって苛立たしくて、道端にあった石を蹴った。そこで気が付く。
 鍵を忘れてきた。
 一生の不覚だ、と思った。しれっと帰ってやろうと思っていたのに、これじゃあドアを開けられない。同居人はあれでいてなかなか几帳面だから戸締りをせずに眠るなんて考えられない。
 明日は何曜日だろう。というか、今日は何曜日なんだろう。もし明日が平日なら、同居人はいつも通り仕事に行くだろう。その時に上手く部屋に入れば、鍵が無くても家に帰れる。いや、でもそれは結局気まずいまま同居人と鉢合わせなくちゃいけなくなるわけだから、僕に何のメリットも無い。仕事に行ってしまったら、再びあの扉は閉じられてしまうだろうし。アパートメントの癖に、流石同居人の家というべきか、あそこはセキュリティがとてもしっかりしているのだ。生半可なピッキングじゃ痛くも痒くもないだろう。
 帰れない、と思うと無性に帰りたくなるこの現象になんて名前をつけてやろう。天邪鬼だよぉ! と脳内の同居人が適当なネーミングを披露する。確かにそうかもしれないけど。
 途方に暮れた。まさか、こんなことになってしまうだなんて。
 腹立たしいことに僕のちっぽけなプライドはまだ機能していて、同居人の「おかえり」を聞く勇気が持てない。
 とりあえずとぼとぼと歩き出した。夜明けまではまだ遠い。歩いていなければ夜に潰されそうだった。

 通りを歩いていくと、並ぶタクシーの列が見えた。
 僕の苦手なものの一つだ。歓楽街が近いからこんなことになっているのだろうけれど、誰を待っているのだろうと思って不安になってしまう。「終電を逃してしまった人達を掬い上げて、朝には皆綺麗に消えてしまうんだよ」とかつて同居人が教えてくれたけれど、これだけ沢山のタクシーがあると、どれか一台は誰にも選ばれないんじゃないかと怖くなってしまう。選ばれないものというのは怖い。
 昔、同居人が泥酔して、タクシーを拾わなくちゃならなかったことがある。同居人がまだ何の罪も背負っていなくて、あのアパートにも住んでいなかった時の話だ。
 実家に住んでいた同居人はお育ちのいいシンデレラで、十二時になるまでに家に帰りつかないといけなかった。
 それなのに奴は酒を煽りに煽り、僕の姿が可愛い子犬に見えるまでぐでんぐでんに酔っぱらった。止めればよかったのかもしれないけれど、顔色を少しも変えずに泥酔する器用な彼女に、僕はすっかり騙されてしまったのである。
 同居人は華奢だったので、背負う分には何の問題もなかった。長い髪が僕の肩の前の辺りにかかり、まるで同居人と自分が癒着してしまったかのような感覚に、どうしてだか不吉な予感を覚えた。
 流石に同居人を家まで背負っていくわけにもいかなかったので、僕は大人しくタクシーを拾うことにした。タクシーはいつでも待っていてくれる。あの日も並ぶタクシーの列は途切れることなく並んでいた。まだ苦手意識の無かった頃の僕は、適当に、一番前にいたタクシーを拾おうとした。
 しかしその時、死んだように眠っていたはずの同居人が存外強い力で僕を叩いて止めた。予想外の出来事に苛立つ僕に、同居人が低い声で囁く。
「ごめん、待って」
「何? 車に乗ったら吐きそうとかそういうのやめてよ」
「違うの。向こうの……奥から二番目のやつに乗りたい」
「何で? 遠いんだけど。もう少し長く僕の背中にいたいっていう理由とかだったら、盛大に手を離すぞ」
「そうしたら私は腕の力だけでしがみついてやるから。共倒れしてやろう」
 同居人の声が本気だった。そう考えると誰かを背負うというのはなかなかリスキーな行為なのかもしれない。言葉の響きがそもそも重いし。
 首の骨を折られたくはなかったので、僕は大人しく同居人の言葉に従った。今まで背負ってきたのだから、同居人が指定するタクシーのところまで歩いていくのはさほど辛くない。
 川のように一直線に流れるタクシーの列の麓の方までやってきて、同居人の指定したタクシーの前に着く。何の変哲もない普通のタクシーだった。
「これでいいの?」
「うん……いいの……」
 同居人は殆ど眠っているような状態で、僕の言葉なんて半分も聞いていなかったと思う。やっぱり酔っぱらいの戯言だったのか、と思いながら、僕は中の運転手に向けて話しかけた。
「すいません……乗ってもいいですか。背中の奴泥酔してますけど、多分吐いたりはしないと思うので」
 運転手さんの返事は少し遅れた。明らかに慌てているような様子だった。その様子をみた僕も慌てた。運転手さんが今まさに何を持って何をしようとしていたのかがわかってしまったからだった。
 運転手さんの左手には細身のナイフが握られていた。一体何処で入手したのだろう。ここは歓楽街が近いというから、狂乱の中でこっそり誰かから買い上げたのだろうか。柄の部分に彫られているのは何だろう、と思って目をこらすと、どうやら兎のようだった。兎ってあんなに流麗にくデザインできるものなんだなぁ、と僕は場違いに驚嘆する。
 この運転手さんはどうやら左利きらしい。ナイフを持った方と反対の手、すなわち右手首には、言ってしまえばよくある、リストカットの跡が七本あった。薄く血が滲んでいる。
 僕が同居人を背負いながら運転手さんに話しかけた時、運転手さんはまさに、ナイフを振り上げていたところだった。そのまま振り下ろされていたらどうなっていたかわからない。ややあって、運転手さんが言う。
「大丈夫ですよ」
「え、いや、その」
「大丈夫ですから。吐いても大丈夫ですから。乗ってください」
 僕の言葉で完全に調子が狂った運転手さんは、血塗れの手首を隠すようにナイフを持った方の手で抑え付け、裏返った声でそう答えた。タクシーの扉が開く。とうとうこれで、断って前のタクシーに乗ることも出来なくなってしまった。引き攣りながら、僕はタクシーに同居人を押し込み、自分も続けて乗った。
 躊躇い傷だけとはいえ、右手首からの出血はなかなか盛大で、ハンドルも窓も肝心のナイフもてかてかと黒っぽい血で濡れていた。
「ど、何処へ行きましょうか」
「そうですね……あっ」
 運転手さんが慌ててシートベルトを付けた時に、手のナイフはつるんと滑って後部座席の足元に落ちた。僕が先に驚きの声をあげた所為で、運転手さんは何も言えずに固まっている。近くで見れば見る程素敵なナイフだった。気のいい殺し屋さんが可哀想な幼女を悪から救う時に使いそうなナイフだ。血に濡れたそれに、手を伸ばす。
「そのままにしておいてください」
 ナイフを拾い上げる直前に、運転手さんは震えた声で言った。
「そのままにしておいてください」
 運転手さんは念を押すように繰り返す。血に濡れたナイフなんて進んで触りたいものじゃなかったから、その言葉には大人しく同意した。この状況を生み出した張本人は僕の隣で暢気に寝息を立てている。シートベルトを掛けるついでに揺り起こして、耳元で囁いた。
「どうするの、これ。どういう顛末をつけるつもりなの」
「……顛末?」
「収拾って言ってもいいけどね。お前がこんなタクシーを選ぶからこんなことになった」
「全部終わったでしょ」
「いつ自棄を起こすかわかんないじゃないか。それに僕とお前が巻き込まれることになるかもしれないんだぞ」
「大丈夫だよ」
 同居人はそこだけやたらはっきりと言った。酔っているとは思えないようなしっかりした口調だった。
「この人は、もう大丈夫。そういうタイミングがあるんだよ」
 そう言い残して、再び同居人が眠りにつく。少しえづくような素振りをみせていたのにも血の気が引いた。それ以外にも血の気が引いた。
 世の中にはタイミングというものがあって、同居人は何故かあの日、それを確かに察したのである。同居人に選ばれなかったら、この運転手さんは死んでいただろう。そして新聞を読む習慣のない僕達は、そんな些末な事件を知らずに暢気に暮らしていたに違いない。
 同居人は選んでしまった。
 それは、運転手さんの命を救った。
 血塗れの運転手さんに向かって、同居人の住む家の住所を告げる。運転手さんの声はもう震えていなくて、ただ一言「あそこらへんに住んでいる人って、何だか皆さん立派な犬を飼ってらっしゃるんですよねえ」と言った。
「この泥酔女の家でも犬、飼ってましたよ確か。庭で」
「はあ、いいですねえ。私は犬が大好きなんですよ」
「でも、こいつは犬アレルギーだから、一回も飼い犬に触れたことが無いんです」
「はあ」
 運転手さんはそれきり話さずに、ただ黙々と同居人と僕を彼女の家まで運んだ。同居人は一度も目を覚まさずに、何回か寝ている間にえづいた。それを見た僕は、いざとなったら車外に首を突きだそうと、終始同居人の首根っこを掴んでいた。

 この件から、僕は選ばれることを知った。タクシーの列が苦手になったのもあの時からだ。もしかすると、同じようにタクシーの中で自殺しようとしている運転手さんがあの列の中にいたかもしれない。けれど、同居人に選ばれたのはあの運転手さんだけだった。選ばれるものは限られている。
 同居人はこうして見事な勘の良さで運転手さんの命を救ったわけだけれど、これは同居人が特別素晴らしいシックスセンスを持ち合わせているということの証明にはならなかった。人間には、そういうものに敏感になるタイミングが、少なからずあるのである。
 同居人はその後、同じようなシチュエーションに巡り合い、そして、取り返しのつかないことをしてしまった。僕がぶち壊れるきっかけになり、同居人が僕という不良債権を抱え込むに至ったきっかけだ。
 同居人は選ばなかった。いや、選べなかったのである。
 同居人に見過ごされたとある出来事は、ナイフの形をとって僕達の関係性を切り裂き、死に至らしめてしまった。運転手さんを救った時の勘の良さは、僕らの時は全く発揮されなかった。恐ろしいことだ。
 タクシーの件と僕らの件で、僕は選ばれることと選ばれないこと。そして、どうしようもならないタイミングの悪さを知った。
 だから、そういうものを連想させるものは全て嫌いになった。つまり、現実世界のものは大体嫌いだ。

 タクシーの列を見て気を滅入らせた。けれど、その不快感も結局一過性のものに過ぎないのだと思い知る。時計の針はやけに進みが遅くて、頭を抱えた。いい歳をした男がまるで鍵を失くした小学生のように彷徨うだなんて、どうしたって悪趣味な喜劇だ。公園でブランコでも漕いでいようと思ったけれど、カップルが公園でセックスをしているのを発見して逃げた。少子化に歯止めを掛けている立派な男女には敵わない。嘘。子供達が遊ぶ為のブランコの揺れを利用してピストンしている人間なんて死んだ方がいい。客観的に見れば、僕の方が死んだ方がいいのかもしれないけれど。
 このまま僕が死んだら、同居人はきっと幸せになれるのだろうなぁ、と思った。あそこまで凄惨な暴言で満ちたあの諍いのきっかけなんてもう既によく覚えていない。
 僕がバイトにまた落ちたからだろうか。いや、そもそもバイトの面接に行ったことを同居人に伝えたかも怪しい。同居人はいつだって蚊帳の外にいて、僕を赦すだけなのだから。知る必要なんてない。
 同居人を縛っているのは同居人が僕に対して感じている罪悪感に他ならない。それだって、同居人がふと、自分の感じている罪悪感と、僕がこうして鬱々と社会に適合できないでいることとの間に相関関係なんて何一つないことに気がついてしまえば解決してしまうような問題だ。同居人は素直で明るくて善人だから、気付いていないだけである。
 それなら、いっそのこと僕が死んでしまえばいい。僕は多分これからも同居人に癒着して生きていくことをやめられない。心のどこかではそれを当然の権利なんじゃないかとまで思ってしまっている。今夜だって、鍵さえ忘れていなければ、季節外れのサンタ・クロースよろしく同居人の眠るあの部屋にこっそり帰っていただろう。ご存じでしょうか。馬鹿は死なないと治らない!

 死ぬことにした。
 行動的だと評されてもいいような場面で短絡的だとか衝動的だとか言われてきた僕が、公園から離れる。一刻も早くこの素晴らしい考えを実行に移さなければ。こんなに気持ちが高ぶったのは久しぶりだった。
 まるで水を得た魚。ドライアイ気味だと同居人に指摘された目がぐるりと回って何処か高い建物を探す。電車はもう動いていないし、車に飛び込むのは運転手さんが可哀想だ。飛び降りられるマンションの住人はたまったもんじゃないかもしれないけれど、イギリスでは人の死んだ建物は高く売れるらしい。幽霊も素敵な調度品になるのだという。考え方次第なのだ。問題ない。
 そして僕は、同居人と暮らすアパートと同じくらい小奇麗なマンションを見つけた。高さは多分十階建てくらい。もやしっ子と散々言われてきた僕だから、きっとそのくらいの高さでも死ねるだろう。夜なのに煌々と明かりの灯るマンションのロビーへと歩みを進めた。
「ちょっとお兄さん、困りますよ」
 高そうな観葉植物の前で、不機嫌そうな警備員が僕を止めた。年の頃は三十代くらい。色々と不機嫌な御年頃なのだろう。僕はなるべく無害そうな笑みを浮かべながら口を開く。
「僕、ここの住人なんですけど、鍵……そう、鍵、忘れちゃって」
「ここの住人の顔だったらわかるはずなんですけど」
「僕、少しばかり影が薄いんです。甲斐性が無いからですかね」
「それじゃあ、部屋の番号教えて貰っていいですかね」
「九〇二号室です」
「残念、この建物八階建てなんですよ」
 八階建てときたか。目測では十階建てくらいだと予想したから、敢えて九階の住人を装ったというのに。警備員は完全に僕を訝しげな目で見ている。
「……そうだ、警備員さん。この先オートロックあるんですよね。ちょいと警備員権限で開けてくれませんか。僕はなかなか小心者なので、知らない人をインターホンで叩き起こすのには抵抗があるんです」
「そんなこと言われて開けられるはずないでしょう。さっさと帰って寝てくださいよ。もうすぐ夜が明けますよ」
「別に強盗しようってわけじゃないんです。清廉潔白ですよ。なんならボディーチェックだってしてくれて構わないです。こんなラフな格好で人の家に押し入ることなんて出来やしませんって。ね?」
「どうせここの八階から飛び降りて死んでやろうとか考えてるんでしょう。そういうの困るんですよ」
「困る? 慣れてるんですか?」
「昔僕が新人だった頃、そういう言葉に騙されて三回くらいオートロックを通したことがあるんですよ。そういう人達ってなんだか、凄く軽やかにここへやってくるもんですから。その内二人は死にました。飛び降り自殺です」
「ちなみに残りの一人は?」
「手ぶらで下着泥棒に来た男でした」
 警備員は遠い記憶を探るかのように目を細める。夜なのにこんなに明るい場所にいる気分って一体どんなものなんだろうなぁ、と思った。夜の良いところなんて、偏に暗いという点だけなのに。
「ここではもう二人も人が死んでるんですね。よく住人が逃げ出さなかったもんだ」
「二回とも、こっそり処理しました。白昼堂々やられでもしなければ、皆さんが起き出す前に処理することも簡単なんですよ。多分、どこのマンションでも同じじゃないですかね。正直、何処でだって人は死んでるんです。どんなマンションでも人が飛び降りてるんです。でも、何処だってそれは隠す。住人に逃げられたらたまったもんじゃない。イギリスでは人が死んだマンションの値は上がるらしいですけどね。幽霊が大好きだから。でも、生憎ここは日本です」
「幽霊を見たことは?」
「いいえ、一度も。ここは明るいですからね」
 幽霊は明るい場所には出てこないと知っているような口振りだった。幽霊になったからこそ、明るい場所に出て行きたい人間も少なからず存在するだろうし、むしろそういった人間の方が八階から飛び降りるんじゃないだろうかと僕は思う。僕がここから死んで幽霊になれたら、まず間違いなくここの警備員さんにお礼を言うだろう。
「それで、オートロックは開けてくれないんですか」
「開けられませんよ。死にたがっている人に対してなら特に」
「でも、今までの三人は見過ごしたじゃないですか。その内、死んだのは二人だけで、なおかつここの住人は誰もそのことを知らない。それなら、僕が死んだって構わない訳でしょう?」
「駄目です。だって、今度は隠し切れないかもしれないじゃないですか。もう、夜が明けますよ。一日が始まっちゃう。僕は夜が明けたら交替をしてタイムカードを切って、ファミレスでモーニングを食べて帰って眠るんです。誰かの自殺をなかったことにするなんて、疲れちゃいそうじゃないですか」
 警備員は観葉植物の葉をぶちぶちと千切りながらそう言った。手持無沙汰なのだろう。どうやら、ここでは死なせてもらえないらしい。警備員を説得するのには随分時間がかかりそうだし、愚図愚図していたら多分そのまま夜が明ける。夜が明けたら、自殺なんて物騒なことを、誰も赦しちゃくれないだろう。
「僕はですねえ。ここが掟の門だったなら、っていう想像をしながらいつもここを守ってるんですよ」
「掟の門? 何ですかそれ」
「今はこの門を通るべきじゃない。けれど、二秒後はどうかわからない。三日後はどうかわからない。夜が明けたらこの門は閉じられるかもしれない。転じて、死ぬ前に少しは本をお読みなさいって意味です。ミステリーなんてものを読むんじゃありませんよ。やっぱり、読むならカフカです」
 僕は神妙に頷いた。同居人がドンピシャで買ってこない限り、僕はカフカを読まないだろうけれど、人恋しい夜に話し相手になってくれただけでもありがたいのだから、アドバイスだけは神妙に受け取っておくべきだろう。警備員は千切った観葉植物の葉を床に放り投げる。爪が緑色に染まっていた。
「それではまた、お元気で。八、というのは末広がりなんですよ。いい数字でしょう」
 頷いて、ロビーを出た。ちなみに僕と同居人が暮らす部屋は、一〇八号室だ。開けてなんかまったくいない。煩悩に塗れた部屋だった。
 外に出ても、まだ辛うじて夜だった。喉が渇いていたけれど、鍵なんて重要なものを忘れてきたくらいだったから、当然財布も持っていなかった。虫が集りそうな明るさの自動販売機が眩しい。同居人がここにいたら、何も言わずにココアを買ってくれるんだろうな、と思う。同居人は僕に甘いものを買い与えるのが好きなのである。
 甘いものが好きなのは僕じゃなく同居人の方だ。自分がもらって嬉しいものを人に与えなさい、という教えを愚直に守る同居人の育ちはいい。同居人に関しては、本当に褒めるところしか見当たらないのだ。嘘でもお世辞でもなく、本当に。例えば、こうして僕に出会うタイミングだとか。

「いつも帰ってくるはずの時間からもう二時間四十八分くらい経ったよ」
 同居人はそう言った。感情の読み取りづらい声だった。
 僕の家出の範囲なんてとても狭い。同居人が書を捨てて外に出れば、すぐに見つかるくらいの場所にしか僕は行かない。どこまでも行けるだけの行動力さえあれば、僕はあんなところに住んでいないからだ。
 ここの自動販売機は、いつも同居人がココアやおしるこを購入する行きつけの自販機だ。
 我ながらわかりやすいところにいたと思うけれど、どうかそれが見つけて欲しいかったからだとは思わないで欲しい。
「二時間四十八分……」
「映画が一本終わって、感想まで語り合えそうな時間だ」
「正確に測り過ぎだろ、それ」
 同居人は笑わなかった。誰かの葬式に参列しているかのような沈鬱な表情で、僕の言葉を聞いている。
 同居人の手にはエアガンが握られていた。
 僕の視線がエアガンに一心に注がれていることに気が付いたのだろう。同居人がつまらなそうな声で「護身用だよ」と教えてくれた。護身用。僕は頷いてエアガンから目を逸らした。一体、何から身を守るつもりなのだろう。
「もう夜が明けるよ。どうして帰ってこないの?」
「……もしかして、今までもずっと起きてたの?」
 同居人は答えなかったけれど、無言は肯定とみなすという取り決めをあらかじめ交わしてあったので、意志の疎通はスムーズだった。
 同居人が眠ってから帰るのが定石だったはずだった。けれど蓋を開けてみればおぞましい。同居人はいつだって僕の帰りを待っていたのだ。それも、いつもとは少しばかり様子が違うと即座に気付く程度には注意を払って待っていた。
「そうなんだ、知らなかったよ」
「うん」
 ここで声を荒げるのはあまりにみじめだ。だから、馬鹿にしてるのか、とか哀れんでるのか、とか、そういうことは絶対に言わなかった。
「昔は夜があんなに長かったのに、今は凄く短く感じるよ。そういうことってあるだろ?」
「特に、君が私と喧嘩して、君がいなくなっちゃった夜なんかは」
「あれは喧嘩じゃないよ。八つ当たりっていうんだ。素人目には少し判断が難しいかもしれないけど」
「帰らないの?」
 同居人の目は真っ直ぐ僕を見ていた。どこまでも真剣で、躊躇いの無い目だ。
「帰ってきてよ。待ってるんだよ。私、何でもするから。お願い、戻ってきてよ」
 同居人の手が震えていた。それも、片手だけだ。エアガンを握っている方の手だけは全く震えていやしない。同居人の声は震わそうとして、逆に失敗しているみたいだった。同居人には、迷いや躊躇いが全く無いのだった。一体、どうしてそんなことを言うのだろう。
 僕は同居人に酷いことを言った。思い返すのも罪なんじゃないかと思うくらい酷いことをこれでもかと言ってやった。同居人は理不尽な僕の言葉に黙って耐えていた。それが贖罪になるのなら、と思いながらじっと耐えていた。馬鹿みたいだ。僕の言葉に八つ当たり以上の意味を見出そうとする方が傲慢なのに。
 同居人は僕がいない方が確実に幸せだろう。僕が死ぬ前の猫みたいに行方を眩ませて、自販機を物欲しげに見つめながら野垂れ死んでくれた方が、ハッピーに生きられるだろう。
 賢い大学を出たはずの同居人の行動も思考もまるで支離滅裂だった。
 前々から気が付いていたことだけど、やっぱり同居人は頭がおかしいのかもしれない。そうに違いない。だから、こんな真夜中に僕と押し問答を繰り返し、エアガンまで持ち出して僕を連れ戻そうとしているのだろう。そうでなくては許さない。
 どう足掻いたって僕の理解の範疇を越えている。一体何をしたら同居人が僕に愛想を尽かすのかが予測できないから、ふと見限られるきっかけになるものがわからない。加えて、僕は同居人の頭を元に戻してあげられる魔法の呪文を知っている。ただ一言。たった一言。僕が同居人を赦してあげるといってやればいいのだ。そうしたら素敵な同居人の頭のネジは綺麗に嵌り、きっとハッピーエンドが待っているだろう。
 でも、無職のままであのアパートを放り出されたら僕は完全に死ぬ。実家には戻れない。さっきまでは死んでやろうと思っていたけれど、同居人にこうして見つかってしまった以上、その決意だって完全に萎えてしまった。
 だから、今夜も僕は同居人と暮らす為に、彼女を絶対に赦さない。
「……何とか言ってよ」
 同居人は子供のように情けない声でそんなことを言った。悲しそうな顔は、恐ろしい程同居人に似合わなかった。
「……いや、帰ろうと思ってたよ。本当に」
「嘘だ。それなら、こんな時間になるはずないよ」
「違うんだよ。家の鍵、忘れちゃってさ」
「鍵?」
「寝てるのにインターホン鳴らすなんて非常識だろうから、朝を待ってたんだ」
「いつからそんなに気遣いさんになったの? 真夜中に大音量で『天使にラブソングを』なんかを観る人間だったじゃないか」
「あの映画は名曲の宝庫だからね。君にも聞かせてやろうと思ったんだよ」
 段々と空が紫色になっていく。明日の天気はあまりよくないのかもしれない。這い寄るように変わっていく空の様子は精彩に欠けていた。今日と明日との境界線が一緒に溶けて、新しい一日が始まる。
「帰るなら、もういいよ。今度はインターホン鳴らしてよ。起きようが何しようが、どうでもいいから」
「そもそも、今度は鍵を忘れたりしないよ」
「うん。それがいいよ。そうじゃなきゃ駄目だ」
 同居人の目の端が赤くなっていた。もしかしたら、同居人は僕がいなくなってから少し泣いたのかもしれない。それか、彼女はただ単純に眠いのだ。眠らずに迎えた明日は、きっとしんどいものとなるだろう。
「明日も出勤?」
「明日っていうか、今日だけどね。今日は水曜日だもん。私ねえ、人が死ぬのはいつだって水曜日な気がしてるんだ。だって、週の真ん中なんだよ。いつだって真ん中っていうのは魔の領域だから」
「それなら、僕も死ぬと思ってた?」
「そんなことないよ」
 同居人は嘘を吐くのが下手だ。
「もう朝だしさ、もう少し待ってファミレスでモーニングでも食べて帰ろうよ。パンケーキとかソーセージとか、そういうものをさ」
「そんなこと言って、まだあと開店まで二時間くらいはありそうだけど」
「でも、折角外に出たんだから。ほら、君の嫌いな星が消えていくよ」
 星が嫌いだと言った覚えはなかった。けれど、夜の隙間を埋めるように輝く星達が消えていくのは、なるほど確かに見ていて気持ちが良いものだった。


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