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アリスインワンダフル埼玉


 アリスは絶望しました。かの自由奔放な兎をこの手で捕まえてやるはずでした。それがまあ、どうしたことでしょう。突飛な話だと思われるかもしれないけれど、彼女には埼玉がわかりません。
 彼女はアリス・グラスフルワールドというおよそ埼玉には似つかわしくない綺麗な名前を持ち、少なくとも異国で赤い屋根のお屋敷に住み、ブロンドの髪を持ち、水色のワンピースを着て暮らしていました。当然、埼玉のことなんて露ほども知りません。けれど、埼玉を初めて見たアリスは、少なくともそこが自分の暮らしていたのとは全く異なる世界であることに対しては人一倍敏感に反応しました。
 彼女は、初めてビルというものを見ました。それも、埼玉特有の中途半端な高さのビルです。どうせ見るのなら、東京のハイセンスで、なおかつバベルの塔のような神をも恐れぬビルであればよかったでしょうに。
 アリスはそれでも、四角くて白いそれに対して、素直に肝を潰してみせました。彼女がいつの間にか転がっていたのは丁度、さいたま新都心駅の前あたりです。左を向けばショッピングモール、右を向けばオフィスビル街とさいたまスーパーアリーナが立ち並ぶ愉快なところです。
 唐突に現れたロリータ服に金髪の、あからさまに外国人の少女を、埼玉県民は横目で見ましたが丁寧に無視しました。ビルを見ただけで恐れ戦いている彼女から面倒の匂いを嗅ぎとれないだなんて、まして助けようと思うだなんて、生きていくのに大切な素養を持っていないことの証明に等しいのです。
 アリスは辺りを見回し、見慣れない人と見慣れないものの溢れた世界を割目しました。それがどれだけの恐怖だったかは想像に難くありません。アリスは白い肌を更に青白くさせてから、斜め前にある階段に向かって駆け出しました。どんなに世界が違おうと、階段は階段です。アリスにとってそれは、この異世界である埼玉で唯一馴染みの深いものでした。反対に言えば、アリスにとって馴染み深いものはそれだけでした。
 しかし、不幸なことに、その階段はアリスにとってはこの世界で一番降りてはいけない階段でした。駅の真横に設置されたその階段は、広くて大きな大通り、車のびゅんびゅん走る大通りに繋がる階段だったのですから。
 アリスは車を知らないので、当然信号機も知りません。灯る赤は自分の好きなリボンの色だ、と思いました。それが致命的な間違いだと気づかないまま、アリスは道路に飛び出します。この世界のどこかに、自分のいた世界があると信じて駆け出します。けれど、そんなアリスを迎えるのは、恐ろしいほど凶暴で大きな一台のタンクローリーでした。

 アリスがはね飛ばされてぐちゃぐちゃの肉の泥になる前に、どうしてアリスがこんな酷い世界に来てしまったのかを話しておきましょう。走馬燈の代わりです。この世界はそんなに優しくないので、神様が一人一人に走馬燈なんか見せてはくれないのです。だからこの手製で粗末な回想でもって、彼女は自分の人生を振り返らなくてはならないのです。

 アリスは兎を追いかけていました。何せアリスの姉である、麗しのリデル・グラスフルワールド嬢の読み聞かせが殺人的につまらなかったからです。もう、本当に耐えられないくらいでした。どうして読み聞かせがこんなにつまらなくなるのかわかりません。他の人に同じ話を読み聞かせて貰ったときは、こんなにつまらない話ではなかったはずなのです。だからこれは、リデル嬢の才能なのでしょう。
 彼女が好意でアリスに対し読み聞かせをしてくれることはわかっています。アリスは賢い娘だったので、ここでその好意を無下にすることはしてはならないということもわかっています。だから彼女は、心底突拍子もないことでこの場を逃げ出すことしかできなかったのです。切実な思いでした。あのままでは多分死んでいたでしょう。つまらない話で自分の人生が無様に消費されていくことに耐えられずに、舌を噛みきって死んでいたでしょう。アリスは、兎を追うことで、自分の生存本能を奮い立たせたのでした。
 トイレに行くのもお腹がすいたも、あの場を離れる言い訳には弱いものでした。そんなありきたりな理由では、もしかしたら愛しの妹は自分の読み聞かせをつまらなく思っているのかもしれない・・・・・・そう悟らせてしまうだろうからです。姉妹の平和を守るためには、麗しのリデル・グラスフルワールド嬢に少しでも彼女の話がつまらないということを悟らせてはいけません。アリスはリデル嬢が大好きなのです。彼女の曇った顔なんか見たくありません。
 そんな地獄の読み聞かせの時に唐突に現れた兎は、まさに救世主のようなものでした。アリスはとっさに立ち上がり、兎に向かって駆け出します。
 ーーいいえ、お姉様。貴女のお話がつまらないわけじゃあないんですよ。私はただ、兎というとても興味深い代物を見つけてしまったので、やむを得ずそれを追いかけるのです、という爽やかな言い訳を全て、アリスは背中で語りました。背中だけで物事を語れるのは、何も熟練の老刑事だけではないのです。

 そうして、リデル・グラスフルワールド嬢の殺人的な読み聞かせから脱出したアリスは、少しだけ有頂天になっていました。孤島に建てられた絶海の刑務所よりもずっと脱出に難しいであろうところから、見事脱出して見せた自分の突飛さに酔っていました。リデル嬢の困惑は、兎という突飛なファクターによって浄化されるのです。ーー完璧だ。ええ、非の打ち所がありません。

 けれど、アリスは穴に落ちました。傷が無くても穴には落ちるというのはなかなかどうして教訓めいているのかもしれません。
 もしアリスがこんなおとぎ話か何かのような麗らかな日差しの下に暮らすお嬢様でなければ、きっとこれは三流ライターによってアレンジされたコラムにでもなっていたでしょう。
 兎を追って穴に落ちたアリスの指先は落ちる瞬間だけ、リデル・グラスフルワールド嬢の姿を求めるかのように宙を掻きました。けれど、リデル嬢は急に駆けだした妹の突飛さに驚いて疲れてしまった為、穏やかな日差しの中でうたた寝をし始めていました。リデル嬢は美しくて器用で優しい人間だったけれど、どこであろうとうたた寝をしてしまうところと、読み聞かせが殺人的につまらないところが欠点でした。
 アリスは穴に落ちてしまいました。ちなみに、彼女が追いかけたのは帽子も時計も持っていない、平凡な白兎です。ただ一つ特筆すべきことがあるとすればその兎は、アリスの住むキッシングフィールズの兎ではなく、丸々太った秩父産の兎であったということだけでしょう。
 落ちたら死ぬということはアリスの平和な頭でも簡単にわかりました。リデル・グラスフルワールド嬢の殺人的につまらない読み聞かせだって、まさか死ぬことよりも酷くて悲惨なことではないだでしょうう。アリスはあからさまに絶望しました。こんなことなら、お姉ちゃんの殺人的な読み聞かせを黙って聞いていてあげるんだった!
 そうした後悔すべき遍歴を経て、彼女は今まさにタンクローリーに殺されかかっています。穴に殺されないと思ったら、それより悲惨なものが待っていました。兎なんてもうどこにもいません。キッシングフィールズへの扉もどこにもありません。アリスは車を知らないので、当然タンクローリーも知らなかったのですが、あれに当たったら頭蓋骨がぶち割れるということだけは何となく察しました。
 ここは私がいるべき場所じゃないんだーー。アリスはその瞬間完全に理解しました。理解したときにはもう、彼女をこの世界からも排斥しようとする大きなタンクローリーが、ナンバープレートの数字をはっきりと読みとれるくらいのところまで迫ってきていました。


 結果だけ先に申し上げますと、アリスは死にはしませんでした。当たれば死んでしまうようなものが迫ってくるのならば、避ければいいだけなのでした。何しろアリスはキッシングフィールズ出身なのです。子供は野原ではね回るくらいしか娯楽が無い世界の出身なのです。秩父に住んでいる子供並の身体能力はありました。
 アリスは機敏な動きで歩道に向き直ると、そのまま素早く飛んで点字ブロックの辺りに着地しました。ごろごろと転がって水色のワンピースの膝の辺りが汚れ、手首も少し擦りむいてしまいましたが、背後でタンクローリーが轟音をたてて走り抜けていくと、アリスは服のことも傷のこともこれっぽっちも気にならなくなりました。アリスだって、死ぬのは怖いのです。
 キッシングフィールズは自由に跳ね回ったって殺されたりしない世界でした。けれど、ここは違うのです。道路に飛び出したら死刑。問答無用で死刑。アリスは、ここでようやくあの赤色がアリスの為にあつらえられたリボンの赤とはまるで違うということを知りました。
 アリスは弾かれたように立ち上がり、一目散に逃げました。まるで兎を追いかけてでもいるかのようです。どこへ逃げたらいいかもわからないのに、アリスは風の冷たさすら気にせずに走り続けました。
 そうして闇雲に走って辿り着いた先には、確かに兎が居ました。けれど、その兎は、プラスチックのケースの中にいて、つんと澄ましています。アリスのことを、何処にも導いてくれそうにありません。そこは所謂ただのペットショップで、兎が跳ねまわれるような場所じゃないのです。
 アリスはもう色々と限界でした。蹲って、ただ兎を見ています。どうしていいのかわかりませんし、とりあえず疲れて、お腹がすいていました。もうここで死ぬのかな、と思ったのは何も大袈裟なことではないのです。追いかけてきた兎がこんなところで澄ましているんですもの。もうここで色々とおしまいなのだと告げられているみたいではありませんか。
 周りの人間はいよいよアリスをいないものとして扱っていました。ペットショップの前で行き倒れかかっている女の子なんて面倒くささの極致です。耐えられません。誰ひとりだって、関わろうとする人間なんていやしないのです。
 しかし、奇矯な人間はペットショップの前に集まるものなのでしょうか。気が付けば、やたら痩せこけた背の高い男がアリスのことをじっと見ていたのです。
 アリスは彼のことを、負けずに見返しました。どうしたらいいかわからなかったからです。奇矯な男でした。埼玉という冷たい場所で、アリスのことを見ているだなんて狂気の沙汰としか思えません。
 彼の名前は雛口。今まさにアリスがその目の前に転がっているペットショップを襲撃し、あるだけの現金を奪おうとしていた男でした。
「ねえ、ラーメン食べる?」
 雛口は見ず知らずのアリスに親切にもそう尋ねました。
 彼はあんまり女の子とのフランクなコミュニケーションに耐性がありません。言葉だけで相手と交流をはかることがとても苦手なのです。なので、雛口はそんなことを言ったのでしょう。
 アリスは目をパチパチさせました。目の前の男の人がどうしてそんなことを言うのかわかりませんでしたし、ラーメンというものの存在も知りませんでしたから、不安なことこの上ありません。けれど、彼女のいた世界とはあまりにも違う世界で、心も体も疲弊しています。何よりお腹もすいています。
 アリスは、雛口の手を取りました。そんなに綺麗でもない手でした。けれど、それは埼玉に来たアリスが初めて感じた温もりで、アリスを心の底から安心させるものでした。
 誘拐とか児童ポルノとか、嫌なものの蔓延る世界で、アリスと雛口は手を繋いで歩き出しました。警察に遭遇しなかったことは、雛口の悲しみに満ちた人生における珍しい幸福だったことでしょう。何しろ、美しいアリスとやつれた雛口の組み合わせは、あからさまに不適切な要素を含んでいましたし、雛口の上着のポケットの中には、人を刺す時によく使えそうな大振りなナイフが入っているのですから。

 なるほど、これを食べる為に自分はこの世界に連れてこられたに違いない、とアリスは味噌ラーメンの汁をすすりながら考えました。料理が戦いの道具になったり、芸術の域に達したりするグルメ漫画や小説じゃあるまいしそんな都合のいい美味しい展開などありえないのですが、そうとでも思わないとやっていられませんでした。
「美味しい? 有り合わせの材料しかなかったけど・・・・・・そこまで悪くなかったらいいな」
「美味しい! すごく!」
 簡素な材料で作ったにしては、雛口の作った味噌ラーメンはインスタントなんかより数十倍は美味しいものでした。バターもふんだんに溶かしたそれは、そもそも味噌というものに親しみの無いアリスにとって、至高の喜びをもたらします。箸がどうしても使えなかったので、フォークを使って、アリスは雛口の出してくれた味噌ラーメンを間食しました。勿論、スープまで飲み干しました。
 ごちそうさまの文化が無いアリスは、この感謝をどう示していいのかわからなかったので、とりあえず雛口の前で神様に祈ってみせました。埼玉みたいな場所で祈りが届くかは謎でしたが、とりあえず祈っておきました。
「・・・・・・お腹はいっぱいになった?」
 雛口は汚いダイニングテーブルの向かいに座りながら、煙草をふかしていました。煙草というものはパイプを使って吸うものだと思っていたので、アリスは雛口が煙を吐き出すのをしげしげと眺めています。煙は、アリスの父親が発するものより煙たくはありませんでしたが、なんだかずっと冷たく感じました。
「それで、君のお名前は? 家はどこ? どうして埼玉にいるの?」
 アリスは異世界の雰囲気に押されないように、凛として答えました。
「・・・・・・私、アリス・グラスフルワールド。キッシングフィールズにある、丘の上のお屋敷の次女よ。姉の名前はリデル・グラスフルワールド。キッシングフィールズでも有数の美人さんよ。読み聞かせは凄くつまらないけど」
「凄い名前だな。やっぱり外国人か。それにしては日本語が上手だけど・・・・・・もしかしてクォーターとか? おじいちゃんおばあちゃんが埼玉に住んでるとか」
「おじいちゃんおばあちゃんの話にどうしてなるのかわからないけど、おじいちゃんおばあちゃんも一応同じキッシングフィールズにいるわよ」
「じゃあ何で君は埼玉にいるの?」
「穴に落ちたからよ!!」
「はは、わっかんねー!」
 雛口は目の前の美しい外国人面の少女が空想癖のある危ない子だという認識を深めただけのようでした。この年頃で、なおかつこの可愛らしさならまだこんなキチガイ染みたことを言っても許される、とか雛口は思ってしまっているのです。このまま大きくなったらこの子は精神病院に入れられるか、ゴスロリ趣味のメンヘラリストカッターになるのだろうな、という奇妙な感慨を添えて。
 お腹が満たされて少しばかりは緩和されたものの、依然としてアリスは絶望していました。目の前の人は二本足で立っているし、服を着ているし、言葉は通じるし、恐らくは人間なのだろうけれど、アリスが見たことのあるどんな人とも違っていたのです。雛口の髪は黒いし、肌はやや黄色だし、着ているTシャツには恐ろしいことに「魂」とか書いてある。その珍妙な文字に見覚えはありませんでしたが、意味は何故かわかったので、そのセンスに震えました。
「兎を追いかけてたら、こんなところに来ちゃったの。ええ、ええ、わかってますとも。私がいけないんだわ。お姉ちゃんが折角本を読んでくれていたのにつまらないからって兎を追いかけちゃって。でもね、信じられる? お姉ちゃんの読み聞かせる本のセンスって死ぬほど酷いのよ。食べると体が大きくなるケーキだとか、キチガイ帽子屋が開く狂ったお茶会だとか。つまらないったらないわよ、私くらい成熟すると、もう少しウィットのきいたミステリーじゃないと満足出来なくなるの」
「ええっと、よくわからないんだけど、兎を追いかけてきたの? 君って案外野生児なんだね。もしかして、秩父出身だったりする?」
「チチブ? 私がいたところはそんな名前じゃないわ。さっきも言ってるでしょ。キッシングフィールズよ」
「兎が美味しいかの山から、お姉ちゃんの読み聞かせが嫌でここまで逃げてきたの? なかなか小さいのにロックだね。僕とは大違いのすばらしい行動力だ」
「私もう十歳なのよ!」
 両者の会話は全く噛み合っていなかった。彼らはどうにかしてお互いの価値観をすり合わせようと必死で、お互いがお互いのことを軽んじているわけでもないのに。まあ、無理もなかった。アリスはキッシングフィールズから一度も出ることなく十年を過ごしてきたのだし、雛口は埼玉から東京にすら上手く出れずに三十二年間を過ごしてきたのだから、話が合うはずもなかった。
 どうしようもないすれ違いの中、アリスは一つの重大で絶望的な質問をすることにしました。味噌ラーメンの入っていたどんぶりの中で、そぐわない銀色のフォークが光っています。それが、何のメタファーなのかは誰にでもわかります。
「ここは、どこなの?」
「ここは、埼玉だよ」
 埼玉。キッシングフィールズとはあまりにも響きが違います。雛口が何かを察したのか、紙にわざわざ漢字も書きました。・・・・・・見たことのない字でした。「埼」も、「玉」も。
 不安はじわじわと浸食してきます。これからどうすればいいのか。急に消えた私を、お姉ちゃんは心配してはいないか。このままキッシングフィールズに戻れなかったら、私は死んだと思われてしまうんじゃないか。むしろ、ここは死後の世界なのかもしれない。お姉ちゃんの善意に満ちた読み聞かせを無碍にしたから、私は地獄に堕ちたのだ。地獄にしては、色々とおかしなところだけれど・・・・・・それに、お姉ちゃんの読み聞かせだってある意味かなり地獄に堕ちるべき代物だと思うのだけど・・・・・・。
 それはさておき、これからどうしよう。切実にそう思いました。アリスは温かい家から放り出されたことに対する恐怖に悶えました。まだ十歳なのです。近所の農場で羊と戯れたりして過ごしていた少女なのです。そしてここは虐待とか育児放棄とかに敏感な埼玉です。・・・・・・雛口の元から離れれば、きっとそれは致命的なことになるに違いありません。
 アリスはちらりと雛口を見ました。アリスがその年頃の少女が身につけるにはシビア過ぎる媚びで目の前の男を観察しましたが、彼の表情から役立つ情報は別段上手く読みとれません。気まぐれで食べ物を与えてもらえたけれど、ここはキッシングフィールズではないのだから、拾い上げた時と同じだけの気まぐれさで放り出されることもあるのでしょう。
 放り出される・・・・・・想像しただけでぞっとしました。あんな右も左も上も下もわからない場所でお腹をすかせるような目にはもう遭いたくありません。何より、外は凄く凄く寒かったのです。キッシングフィールズは爽やかな初夏でしたが、どうやら埼玉は厳しい冬のようでした。夏物のワンピースを着た自分が凍死している姿を、やけに鮮明に思い描けます。ぞっとしました。
 静かに途方に暮れながら、アリスは雛口の言葉を待ちました。死刑を待つ囚人のような気分でした。彼女は兎を追いかけただけなのに。それだけなのに。
 沈黙に耐えかねた雛口が、困ったように視線を彷徨わせます。雛口だって軽く途方に暮れていました。困っているようだったから、勢いで家まで連れてきてしまいましたが、世間的に見てこれがどれだけ犯罪的なことか、彼はちゃんとわかっているのです。しかも少女は空想癖と虚言症の気があり、話すことも要領を得ない外国の子です。それに、雛口には雛口で、これから自分の人生をぐるりと変えてしまうようなことをするつもりだったのですから、甲斐甲斐しくアリスを世話している暇などないのです。
「アリスちゃん、帰らないの? 俺の家は見ての通り独身男の一人住まいの汚い家だし、君みたいな感性の女の子が長くいられる場所じゃないと思うんだけど」
「帰れるなら帰りたいけど・・・・・・帰れない、私は帰れないの」
 迷子は往々にして来た道を戻ることが出来ない。アリスの場合は尚更そうでした。追いかけてきた兎を探そう思っても、タンクローリーが走り回る埼玉で、兎が走り回っている姿が想像できません。もしかしたらこの世界は夢で、埼玉で死んだらキッシングフィールズに戻れるのかもしれないけれど、勇気は出ませんでした。あのタンクローリーの恐ろしさ。本能的な寒気。味噌ラーメンの美味しさ。全てが現実よりも現実的です。妙な言い方で、申し訳ないですけれど。
「・・・・・・もしかして、本当に外国から来たの? って、まあそうか・・・・・・日本語が出来ても、日本生まれだとは限らないもんね」
 雛口が少しだけ譲歩したように見えました。この子の言っていることは概ね訳が分からないけれど、この子が埼玉以外のところから来たのは確かかもしれない、と思い出したのです。雛口は埼玉から出たことがありませんから、もっと埼玉とは違う場所、例えば東京なんかには味噌ラーメンすら知らない金髪で青い目のおとぎ話の世界から来たような少女が住んでいるのかもしれない・・・・・・そう思ったのです。現実とアリスの存在を、いかにすり合わせるかが鍵でした。
「そう、少なくとも・・・・・・埼玉以外の場所から来たわ。埼玉じゃないところ、正確に言えばキッシングフィールズから私は来たの」
「とりあえず、埼玉以外のところ、もっといえばキッシングフィールズからきたってことは理解したよ」
「わかってくれて嬉しい!」
「うん、東京にはとんでもない地名があるんだね。お洒落なところは違うよ」
 まだまだ溝は深い。これだから戦争は無くならないのです。
「まあ、それで、私、帰る方法がないの・・・・・・。だから、どうしたらいいかが全然わからなくって」
「それはお金で解決できる問題? 東京までの電車賃で足りるくらい?」
 アリスには恐ろしいような悲しいような、・・・・・・ある意味とても安心させられるような一つの確信がありました。だって、完全なる絶望ってある意味では素晴らしい安定です。脅かされることの無い状態です。底には底が無いのです。底なんですもの。キッシングフィールズに帰れないということは、埼玉にいるしかないのです。当面は、諦めをつけて埼玉にいなくてはいけないのです。……そういうことです。家に閉じこもる為の言い訳を雨の日は探さなくていいように。
「東京までの電車賃を貰っても、帰れないと思う……。本当に絶望的だと思う。私、多分貴方に追い出されたら死んじゃうとも思う……」
 きな臭い話でした。普通の人間が聞いたら、その素性の知れなさと事情の訳わからなさで、即刻警察に突き出すような。こんな娘を抱えていたら、いつどこで後ろ指を指されるかわかったもんじゃありません。加えて、雛口のような独身の成人男性であれば尚更です。
 しかし、雛口はすぐに一一〇番にダイヤルすることも、アリスの細い手を引いて近くの交番に駆け込むこともしませんでした。埼玉じゃない場所から一人でやってきた少女に、珍しく彼は同情していたのです。この頭のおかしい女の子は、もしかするとこの幼さにして精神病院に入れられてしまうかもしれないか、とも少しだけ思っていたからかもしれません。
 それに、きな臭い身分と事情を携えているのは何もアリスだけというわけでもないのです。雛口は、自分の抱える暗澹とした未来を思いました。目の前のアリスは言動はおかしいし、キッシングフィールズ産の世間知らずでしたが、おとぎの国の世界の女の子のように美しい見た目をしていました。それを有効活用する方法を、雛口のお粗末な脳味噌は思いついたのです。
「ええと、つまり、アリスは僕と一緒に暮らしたいの?」
「ええ、そうよ。貴方と一緒に暮らしたい」
 アリスは部屋の汚れと狭さと雛口の痩せた顔を思って一瞬だけ肯定を躊躇いそうになりましたが、どうにかそう答えました。
「私、上手く説明できないけど、凄く可哀想なのよ。だから、よければ助けて欲しいの。貴方は可哀想なものを助けることに対して気持ちよさを感じたりする人間? そうだったら、うん、凄く嬉しいんだけど」
「ああ、うんそうだね。僕は人間のクズだけど、そういう善意を見せることで自分の価値を高めることも人並みに好きな人間だ。でも……」
「でも、どうしたの」
「僕にはやらなくちゃいけないことがあるんだ」
「やらなくちゃいけないこと?」
 アリスは、こんなに困っている女の子を無視してまでやるべきことがあるのだろうかと、不遜にも思いました。可哀想であるということは、無条件に救われる権利があると、無邪気に信じているのでしょう。その幻想を華麗にぶち壊す存在が目の前にいるとも知らずに信じているのでしょう。
 雛口は真摯な目をして言いました。
「強盗だよ」
「何それ」
「何の罪も無い人間から不当に大切なものを無理矢理奪ってやるんだ。僕みたいな人間の屑がやるにふさわしいことさ」
「知ってるわ。キッシングフィールズにも泥棒さんと人さらいはいるのよ。泥棒も人さらいも、最終的には捕まって、首をくくられるけど」
「君はどこまでもおとぎ話的な世界に生きているなぁ。埼玉ではね、人を殺したって犯行がバレたりしないことがあるんだ。まったく、ろくなもんじゃないよ。僕みたいな人間はそのろくでもない場所に凄く凄く似合うんだけどさ」
 雛口は嫌な笑いを浮かべました。
「あなたは悪いことをするの?」
「そうだよ。でもね、それをしないと僕は今度はこの部屋からも追い出されちゃうのさ。君を助けるどころの話じゃなくなる」
 アリスは助けを求める相手の人選を完全にミスってしまっていることに気付き、やっぱり絶望しました。家の無い雛口なんてアリスとほぼ立場が変わりません。埼玉のことはアリスよりも知っているかもしれませんが、それだけではあまりにも実用性に欠けてしまいます。
アリスは不用意な正義感などを振りかざさず、黙って雛口の次の言葉を待ちました。正解だったようです。悪いことをするというのは彼だってもう重々承知のことなのでした。
「じゃあ、こっちの事情も話そうか。改めて名乗るけど、僕の名前は雛口。今にっちもさっちもいかない状況になっている成人男性だよ。彼女も奥さんも子供も預金もないのに、借金だけはあるろくでなしだよ」
「ヒナグチ」
「うーんちょっと発音が変かな。雛口、だよ。雛口。雛、口。」
「雛口」
「うん、まあまあ良いんじゃないかな」
 雛口は大仰に頷いて笑顔を浮かべました。相変わらず頬は貧相にこけているというのに、少しだけ活気づいたような気がします。それは雛口が久しぶりに誰かに名前を呼ばれたからだったのですが、それは考えてみれば随分寂しい理由でした。
「君が倒れてた場所を覚えてる? ペットショップ田山って店の前だ」
 アリスは思い返しました。雛口が言っているのは牧場でもないのに沢山の動物達がひしめいていたあのお店のことだろう。犬に猫に鳥に、――加えて兎。アリスと埼玉を繋げた、運命的な動物。あそこに違いありません。そのお店の名前が何だったかはアリスの記憶にはありませんでしたが。
「襲撃するのはあそこさ。ペットショップ田山。素晴らしいだろ?」
「どうしてあんな場所を襲うの? 動物が沢山いて、楽しそうだったわ」
 ただ、あそこにいる兎の目。秩父産だという丸々太った兎だけは少しもアリスを楽しい気分にさせてはくれませんでした。
「僕はね、今はペットショップ田山が建っているあの場所で、ラーメン屋さんをやっていたんだ」
「ラーメン……あの、私がさっき食べたあれ?」
「うん、そうだよ。それでお店を開いてた」
「今は?」
 雛口は自分から話を振った癖に、何だかとても不愉快そうな屈辱的そうな、奇妙な表情をしました。きっと、話さなくてはいけないことだということも、別にアリスがそれで自分を見下したりはしないということもわかっているのに、社会的に落ちぶれた割に立派な自分のプライドが許さなかったのでしょう。同情されたがりで構ってちゃんな精神的露出狂の癖に生意気なことです。
「……実は、あんまり流行らなくってさ。お客さんが来なかったんだ。お客さんが来ないとお店はやっていけない。そうして、僕のラーメン屋さんは潰れた。僕は毎日毎日工夫して、お客さんを呼び込もうと必死だった。だから毎月の土地代の支払いをどうか待ってくださいって、何回も何回も持ち主に土下座して頼んだんだよ。お願いしたんだよ。必死だったから。夢だったから。でも、僕に土地を貸してた田山はあんなに土下座したのに、ほんの少ししか、本当の本当の少ししか待ってくれなくて、払えなかったら借金という形で繰り越しさ。そうして散々借金を背負わされた挙句、あいつがペットショップをやりたいとか言いだしたから、急にあっさりと僕は追い出され、僕のラーメン屋さんは潰されて、ペットショップ田山が出来た。とうとうお金を稼ぐ手段も無くなった僕には、借金だけが残った。莫大な……いいや、沢山の額だ」
「土地を取り上げられたのに借金だけは残るの? 不思議。商品のお人形さんはもう無いのに、お人形さんの代金だけ払い続けるのね」
「ああ、そうだよ。まあ、ここは埼玉だからね。埼玉では往々にしてそういう絶望的なことが起こる」
 別にそれが起こるのは埼玉だけではないのでしょうけれど、彼らの世界はあまりに狭いのです。
「僕がどれだけ屈辱的なことをしてまで田山に媚びていたかわかるか? それなのに、あいつは犬や猫や兎やらを売る為に僕を無慈悲に追い出したんだ! こんなことが許されてたまるか! 埼玉だからってそんな酷いことが許されてたまるか!」
 雛口は感情に任せて軋むダイニングテーブルを叩きました。壊れそうなくらいテーブルが軋みます。感情的ですぐに理性的でなくなるから雛口は社会で上手くいきていけないのでしょう。難儀な男です。
「そういうわけで、僕は最早何がなんだかの借金を返さなくちゃいけないんだけど、もう首が回らないんだ。本当の本当にからっきしってわけさ。だから、もうこうするしかないんだ。僕は復讐しないと」
 アリスはきょとんとしました。
「復讐って、誰に? 田山に?」
「田山は憎いけど、正確に言えば誰に、じゃないんだよ。世界にさ。いや、世界は広すぎるかな。埼玉に、だよ」
 アリスはその言葉を聞いて、納得したようないまいち納得できないような、妙な気分になりました。雛口が困っているのは本当でしょう。けれど、雛口に土地を貸していた田山がその代金を受け取ることも、払えない土地代を借金という形で世話になった以上、田山がその借金を返してもらうのは当然のことです。アリスは自分のことを助けてくれた雛口に多少なりの親しみを覚えていて、彼が不幸なのならば、その不幸の原因を憎むこともやぶさかではありません。けれど、彼の不幸の原因は、何も田山の悪意というわけではないのです。……それなら、アリスは一体何を憎めばいいのでしょう?
「さて、計画は明日の昼にでも話そう。美味しいファミレスでパンケーキを食べさせてあげよう。ね、そうしようよ」
「どうして今話さないの?」
「だって、君凄く眠そうな顔してる」
 そうなのでした。アリスは十歳で、いい子なのです。夜の九時にはぬいぐるみを抱いて眠っているのが常でした。アリスは時計を探して雛口の部屋を見渡します。汚れた土壁の上の辺りに、鳩なんか到底出てきそうにないつまらなそうな時計がありました。……もう十二時をまわるところです。キッシングフィールズと変わらない時計の様子に安心しつつ、アリスは急に強い眠気に襲われました。時間を意識すると、途端に瞼が重くなってしまったのです。
「布団は引きっぱなしになってるでしょ? そこ、使っていいよ。僕は机に突っ伏して眠るから」
 アリスは雛口の示した薄汚れていてなおかつ平たいものが寝具であるということにカルチャーショックを受けましたが、眠気には勝てません。若干の抵抗を覚えながらも、もぞもぞと布団に潜りこみます。なるほど、床や外に眠るよりはマシだな、という感想しか抱けませんでした。リデル・グラスフルワールド嬢なら、この布団でだって健やかに眠ってみせるでしょうが……。
「雛口は一緒に寝ないの?」
「いやぁ、だってまずいよ。キッシングフィールズではどうか知らないけど埼玉ではその年頃の女の子と一緒に寝たりしたら逮捕されちゃうんだ。それこそ、キッシングフィールズでの強盗やら何やらと同じくらいの罪なんだよ。社会的に」
「やっぱり私、埼玉って嫌い。意味がわからないもの」
「電気消していい?」
「電気?」
「明かりのことだよ。暗くなるんだよ」
「構わないわよ。だって私、もう十歳だもの」
「おやすみ、アリス」
 パチリというアリスにとっては不思議な音が響き、部屋の中が一気に暗くなりました。雛口が机に突っ伏す為に、少しだけ椅子を引く音が聞こえてからあとは、暗闇に加えて静寂が訪れます。
 アリスは急に怖くなりました。前言撤回はあまり好きな行為ではありません。本当です。アリスがもう十歳で、ませた彼女はリデル・グラスフルワールド嬢と同じくらい紳士的に淑女としてエスコートされたいと常々思っているのも本当です。けれど、雛口の部屋での、いいえ、埼玉での暗闇と一人寝の夜は、理屈抜きに恐ろしいものだというのも、本当なのです。
 雛口はもう寝てしまったのでしょうか。眠るのが早過ぎます。こういう日の夜は、日が昇るまでの五時間程は、きっと死んでしまう程長い。更に恐ろしくなりました。アリスは、小さな声をあげました。
「ひなぐちぃー」
 それ以上は続けられませんでした。何と言っていいかわかりませんでした。雛口と一緒に眠ることはよくわからないけれど不適切で悪いことなのですから、それを求めることはどうなのだろうと思ったのです。アリスは自分の好きな……今この時点では手放しで大好きだと言えるような仲でもありませんでしたが、とりあえず親しみを持てる、相手に悪いことを強いるような真似をするのが果たして正しいことかわからなかったのです。
 それでも呼ばずにいられなかったことはアリスもまた感情的な十歳であることとを、それ以上続けられなかったことは彼女が埼玉を生き抜くに必要な理性を十歳にしては十分に持ち合わせていることを、それぞれ証明していました。
 その時、暗闇の中で雛口が身体をもぞもぞと動かし、椅子を引きました。そして、よたよたと覚束ない足取りで布団までやってきます。怒られるかもしれない、と思いました。十歳になって一人で眠ることも出来ない私を笑いに来たのかもしれないとも思いました。だってここは、埼玉なのですから。
 しかし雛口は何も言わずにアリスをぞんざいに押しのけると、あいたスペースに自分の身体を滑り込ませました。それでも布団は足りなくて、雛口の身体は半分以上床に寝ている状態になっています。
 雛口はアリスに丁寧に掛布団を掛けてやると、恐々とした手つきでぽんぽんとその背中を叩きました。それは十歳の女の子にするというよりは、もっと小さな子供にするべきことのような気がしましたが、こういう状況に慣れていない雛口が必死で考えた結果なのでしょう。
「縛り首になってもいいの?」
「嫌だよ。嫌に決まってる。君こそ、僕が隣で密着して寝ててもいいの?」
「嫌よ。嫌に決まってる」
「てめえ」
「冗談よ。冗談」
 アリスは雛口の方にもう少しだけ近づきます。痩せた身体はリデル・グラスフルワールド嬢に抱き着いた時の柔らかさ、快適さは微塵もありませんが、体温だけはリデル・グラスフルワールド嬢と同じで温かいものでした。安心するものでした。
 こんなことで縛り首に匹敵するくらいの罪になるだなんて、どう考えてもおかしいな、とアリスは思いました。私はやっぱり、キッシングフィールズがいい。
 そういえば、私と雛口は明日、縛り首にされるべき強盗なんてことをしでかすのだった、とアリスは思いました。こうして一緒に眠ることと強盗、二つの罪を犯したら一体首以外の何処を縛られるのだろう、とも。けれど、彼女が埼玉で生きていくには、縛り首になるくらいの覚悟を背負わなくてはいけないのです。彼女は、あの極めて汎用性の高い少年法のことなんて知らないのですから。
 アリスが穴に落ちるかのような深い眠りにつく瞬間に考えていたのは、母親のことよりも父親のことよりも、姉のリデル・グラスフルワールド嬢のことでした。お姉ちゃんなら、突然私がいなくなったとしても、それでどんなにショックを受けて泣いたとしても、夜になればきっとすやすや寝るんだろうな、と思うと、アリスはまた少し安らぎを覚えるのでした。


 次の日、『まさかこんなことになるなんて』と、アリスはペットショップ田山の前で、素直に絶望していました。でもまあ確かに、昨日はキッシングフィールズでリデル・グラスフルワールド嬢の読み聞かせを(途中までは)粛々と聞いていたというのに、今日は埼玉で雛口に命じられて田山の経営するペットショップ襲撃のお手伝いをすることになるだなんて、覚悟や想像をしておけという方が難しい話です。
 雛口にそういうのは『一寸先はマミ』というのだと聞きました。るんるん楽しく銃を撃ち放していたマミという女の子が次の瞬間には首を食い千切られて殺されてしまったという故事からきた言葉だと雛口は続けました。つまり、人生とは何が起こるか全くわからないということなのです。アリスは心底恐ろしく感じました。そして、マミという女の子の二の舞になんかなりたくないと、埼玉への嫌悪感を深めるのでした。

 アリスは昼に、約束通りのファミレスで雛口と話し合ったことを思い出します。ごみごみした店内に、沢山の人。雛口が勝手に注文したパンケーキはキッシングフィールズでいつも料理人に作ってもらうものに比べて数段薄い代物でしたが、可愛らしく熊の顔が模ってあり、アリスは埼玉も捨てたもんじゃないな、と思いました。楽しそうに熊の顔をナイフで切り分けるアリスを見ながら、頑なに水しか注文しない雛口は穏やかに切り出しました。
「それでだね、アリス。ペットショップ田山の襲撃計画のことなんだけどね」
「ストップ。こんな人の多いところで話すようなことじゃないと思うわ。誰かに聞かれていたら捕まっちゃうもの」
「こんなところだからいいんだよ。ファミレスっていうのは自分の話をしたくてたまらない人間か、自分の世界に浸りたい人間しかいないんだから。僕らの話なんか誰も聞いちゃいないさ。でもさあアリス。君がここで襲撃計画の話を聞きたくないのは、君がクマさんパンケーキに夢中だからだろう?」
 アリスは答えませんでした。都合の悪いことは黙殺できるのが少女の特権なのです。
「わかったよ。君がパンケーキを食べ終わるまで待ってる。それでいいだろ?」
 アリスは満足そうに頷きました。
「だったらそのブサイクなクマの顔を崩さないように丁寧に丁寧に切り分けたりしてないで、さっさと食べちゃってくれないかな。どうせクマの顔なんてチョコソースじゃないか。スプーンでバターみたいにぐちゃぐちゃ塗り広げちゃえばいいんだ」
 アリスはその言葉も華麗に無視して、余計丹念にパンケーキを切り分けました。アリスがパンケーキを食べ終えるまでに雛口は四回も店員さんにオーダーの催促を受けましたが、雛口は絶対に水以外の物を頼んだりしませんでした。
「ペットショップ田山襲撃計画の話をしよう」
 アリスがパンケーキを食べ終わって一息ついた頃、雛口は改めてそう切り出しました。もうパンケーキが無いので、アリスは吊るされた猫のように大人しくしています。
「ペットショップ田山は十時に閉店なんだけど、田山は閉店作業を裏口を開けたままでするんだ。そこから簡単に侵入できる。だから、アリスはそこで十時頃にペットショップ田山に行って、田山と店先で少し話をしてくれ。その隙に僕は金を盗んで逃げるから。オーケイ?」
「そんなので気が引けるかしら」
「大丈夫。田山の奴はロリコンだから」
「ロリコン?」
「少女への暴行で執行猶予ついたこともあるし。まあ何にせよ、アリスを見たら凄く興味をそそられるだろうと思う」
 アリスには執行猶予の意味がわかりませんでした。ロリコンという言葉も知りません。けれど、嫌な響きの言葉であることはわかります。……なんとなくだけれど、田山は大金を取られてもいいような人間だという気もしました。雛口は目を輝かせながらアリスを重要な部分に組み込んだ計画を話すものですから、アリスはその勢いに飲まれるしかないのです。
「強盗ってそんなに簡単に出来るものなのかな……。言っちゃ悪いけど、その、雛口はそんなに強そうにも見えないし……」
「まあラーメン屋さんじゃなくなってからずっとインドアな生活を送ってたし、ラーメン屋さんやってたから体力はあるつもりだけど、体力だけあっても仕方ないんだよね、襲撃には。でも、武器がある」
 そう言って雛口はあるものを取りだしました。アリスには見慣れない代物です。雛口は得意げに、これはモデルガンというものだと説明しました。これを見ると、人間は誰であろうと怯むものらしいのです。不思議なことに!
「ふふん、いけそうな気がしてきただろう? 勿論、君にも埼玉で戦う為の武器をあげる。ほら、このワンピースだ」
 アリスの目の前に出されたのは、ピンク色のけばけばしいワンピースでした。今アリスが着ているものとは全然違う、可愛くも上品でもないワンピースです。アリスが可愛らしい十歳の少女であることを利用するのならば、それは全く以て武器にはならなそうな洋服でした。
「何そのワンピース……」
「ふふん、まあ着ておきなよ。君のそのワンピースにはポケットが無いだろう? ポケットは重要だよ。現代人は、ポケットの中に夢を飼うものなんだからね。だから、アリスのポケットの中にも、大切な夢を仕込んでおく。使い方は分かるだろ? いざという時は、それを使ってくれ」
 雛口は目を輝かせながら、ワンピースをアリスに手渡しました。ずしりと重い感触がしました。あまり好きではない感触です。
「なあアリス。絶対に襲撃を成功させるぞ。わかったね。僕らの人生はここから始まるんだ。埼玉に復讐してやるんだ。埼玉に傷つけられた僕達がね」
 アリスは頷きましたが、どうしてこうなったのだろうという気持ちはやっぱり拭えませんでした。
 一体何がどうしてこうなってしまったんだろう?

 ペットショップ田山は半分だけシャッターが閉められて、開店している時とはまた違った印象を与えました。閉店したというのに動物たちは元気で、犬は自分の尻尾を追いかけていますし、金魚は同じ水槽の仲間の尻尾を食い千切ってぼろぼろにしています。
 アリスは、意を決してシャッターを叩きました。遅れて、面倒くさそうな「はーい」という声がします。奥から、人が現れてきました。
「お嬢ちゃん、もう閉店だよ」
 奥から出てきたのは田山でした。名札は手書きなのでしょうか、やたら斜めった字が躍っています。田山はアリスよりは高いものの、成人男性にしては存外背が低く、なんだか鼠に似ていました。あるいは――……兎? ぎろぎろと丸い目が、アリスの細い腕や足を見て下世話な想像を膨らませているのがわかりました。アリスは息をのみましたが、ここで自分が何か失敗をすれば、あのどうにも頼りない雛口の立場や計画が更に危ういことになるということは容易に想像がつきます。やるしかありません。
「自由研究で、ペットショップについての調べものをしたいの。明日までの宿題なのに、忘れていて……」
 アリスは雛口に教え込まれた言い訳をそのまま口にしました。短絡的で、アリスにとってはちっともわけがわからない言葉です。それでも、アリスのことを色々な意味で好ましく思っている田山には、十分納得出来る理由だったようでした。否、本当は、理由なんてどうでもいいことだったのでしょう。
「調べもの? 自由研究? へえ、偉いね」
 田山がアリスを値踏みしているのがわかりました。可愛らしいアリス、田山の大好きな年頃の女の子。
「質問に答えて貰えますか?」
「ああ、ああ、構わないよ。よければ中に入りなよ。色々教えてあげるよ」
 田山はにたりと笑いながら、アリスのことを手招きしました。
 アリスは少し迷いましたが、拒否できる雰囲気でもありませんでした。動物たちはまるでコレクションか何かのように、等間隔のケースの中に閉じ込められてきゃんきゃん各々鳴いています。アリスは、恐る恐るそのケース塗れの店の中へ入って行きました。
 中に入ると、鳴き声は更によく響いて聞こえます。彼らにはそれぞれ悪趣味な名前(何故か田山は自分で商品に名前をつける癖があるようでした)と、種類名と、何故か出身地までが記されています。埼玉県産のものは殆どいません。全国各地から、様々な動物が集められています。
「うちの店ではね、ペットをちゃんと産地ごとに分けて売っているんだ。例えばあそこの犬は秋田産、あそこの猫は岐阜産。あの兎は美味しい美味しい秩父産、みたいな具合にね。だって、生き物っていうのは育つ世界でびっくりする程変わってくるだろう? 秩父の兎と、スイスの兎じゃまるで違う。おっと、そんなに離れちゃそもそも種類が違っちゃうかな、うふ、ふふふ」
 田山は自分の言葉に笑みを漏らすと、同意を求めるかのようにアリスの方に向かって首をかしげます。アリスはわけがわからないながら、慌てて頷きました。田山はそれを見て、満足げにまた笑いました。
「アリスちゃん、わかるかい。僕は実は東京出身なんだ。こんな、埼玉なんて場所とは違う。鮮やかな場所だ。アリスちゃんも埼玉出身じゃないんだろう? そうじゃなきゃ、まともに生きて行けやしないもんね」
「そうなの? 東京は埼玉よりもいい場所なの? 私は確かにキッシングフィールズ出身だけど、別に埼玉は――」
 その時、叫び声がしました。聞き覚えのある声、というより、雛口の声です。田山が少しだけ顔を赤らめながら、興奮した様子で「ほらきた!」と叫びました。嫌な予感は十二分にしていました。弾むゴムまりのような感じで田山が店の奥の奥へと入っていきます。店の奥には開けた部屋があって、そこには金庫と事務机、それに倒れた雛口と二匹の大きな番犬がいました。裏口から廊下を通って十メートル程。雛口はあっさりゲームオーバーを迎えてしまっていました。
 番犬の牙は深々と雛口の足に食いついています。どうにも外れそうにありません。
「雛口!」
「あああ、アリス! 店先に留めておけって言っただろ! どうしてここに来てるんだよ!」
「いくら田山がロリコンだからってそんな交渉術無理よ!」
「うわああああああん! 助けてアリス! 痛いんだ! 裏口から店に入ったら、この犬共がいきなり出てきて噛みついてきたんだ! くそ、痛い! 痛いよう!」
 雛口のモデルガンは全く意味を為していないようでした。モデルガンだろうが本物の銃だろうが、この番犬達は怯んだりしないのです。そうやってしつけられているのですから。雛口は諦めればいいのに自分の足に食いついた犬を払おうと足をばたばたさせています。手を使わないのは、傍らのもう一匹が、雛口の手が出てきたら今度はそっちに噛みついてやろうと待ち構えているからでしょう。完璧な包囲網でした。雛口の仲間の側であるアリスが何もせず見惚れてしまうくらいには。
「雛口……? アリス……? もしかしてアリスちゃんは、この悪者の仲間なのかな? それとも、脅されて従わされてるとか? ん?」
 アリスは答えられませんでした。ここで脅されていると言えば、田山の対応が凄く変わるだろうことはわかっていましたが、それを言ってしまえばおしまいなのです。仲間だと言える勇気はありませんでしたが、雛口だけに責任を負わせるような真似をすることだけは絶対に嫌でした。何せ、田山は十歳くらいの女の子が大好きらしいのです。雛口がアリスを脅しただなんて思われた時には、それを大義名分にして雛口をあれこれするに違いありません。
「まあそれは後々わかっちゃうよね。とりあえずあの悪者からも話を聞こうか」
 田山はわざとにっこりと笑いながら、二匹の番犬に弄ばれる雛口に向き直りました。
「ステイ! お前ら、ステイ!」
 その言葉を聞いて、雛口の足に噛みついていた犬がまるで可愛らしい兎のようにその場でちょこんと座りました。こうして見てみると、なかなか可愛らしい犬達です。けれど、その口の端からぽたぽたと赤く垂れているものは恐らく雛口の血液でしょう。……あんまり見たくはないものです。可愛らしさなんて、その事実だけでぼろぼろに消し飛んでしまう。
「痛い! 痛いよ! クソ! このクソ犬共が! ほらあ! 救急車を呼べよ! 血、血が出てるんだぞ! 狂犬病になって狼人間になっちゃうううう」
「言っておくけどね、うちの犬はちゃんと予防接種をしてるんだ。馬鹿にしないでくれるかな。狂犬病は狼人間になる病気でもないしね。ただ死ぬだけ。最後にもう一つ言っておくと、君は不遜にもうちに強盗を働きに来た悪者でしょ? 呼ぶとしたら警察だね、警察」
 雛口は右足から血を流しながら情けなく泣いていました。アリスは頭でも抱えてやりたい気分です。だから言わんこっちゃない。悪いことをするのにもまず力が必要なのです。雛口が牙を剥いたとして、一体その細っこいそれが何に立ち向かえるというのでしょうか。埼玉どころか田山にも、いいえ、田山の番犬にすら敵わないじゃありませんか。
「それで、君はもしかして、雛口クンかな? あの、そこそこ美味しいけど特別秀でたところの無いつまらないラーメンを作ってた雛口クン? 酷いねえ、凄く酷い。ここが埼玉だからといって、こんな酷いことは許されないよ。借金が返せないからって、まさか親切にも貸してあげた僕のところにお金を盗みに来るなんて」
「違うんだ、これは……」
「ペットショップの閉店時間は午後十時! 知ってるだろう! 言い訳はごめんだね! そこに転がっているのはモデルガン、もしかしたらナイフとかも隠しもっていたのかな? アリスちゃんを使って僕の気を引いている隙にこそこそ汚く金を盗もうとしてたんだろう! このクズ!」
 そう言いながら、田山は容赦なく雛口のこめかみを蹴りつけました。あまりに唐突で、なおかつ容赦が無かったので、思わずアリスはのけぞってしまったくらいです。雛口は足を抑えるのをやめて、頭を抱えてのた打ち回り始めました。田山はそんな雛口には目もくれず、二匹の番犬――シェパードという種類の犬です――を慈しむように撫で始めました。
「よーしよしよくやったぞぉ、パードレにマードレ。実際に泥棒を捕まえたとあればお前たちはきっと高く売れるだろうねえ、よしよし」
 田山は犬に対しての癖に猫撫で声で、そんなことを言いました。
「泥棒じゃない」
「泥棒でしょうが! ねえ、盗んだお金で埼玉から逃げ出そうとでもしてたの? 馬鹿だなぁ、埼玉から逃げられるはずなんてないのにさ。それにしたってどうしようかな。このまま罰として犬と交尾でもしてもらおうかな」
「獣姦!? いや、無理! 無理だから! エロ漫画では割合好きなシチュエーションだけど自分ではやだ!」
「雛口クンもそろそろ他人の痛みを知った方がいいよって、そういうことだよ。紙とインクの女の子達の絶望を知った方がいいよって、そういうことだよ。あとは、自分の経営しているお店に急に強盗に入られちゃった人間の痛みとかもね!」
 アリスはどうしたらいいのかわからなくて、二人の間で右往左往しています。悪いことをした雛口が捕まった。雛口が罰を受ける。私は? 私はどうしたらいい?
「ああ、雛口クンみたいな人間のクズがそんな大層なこと言う気がしないけど、一応言っておくね。僕は『僕はどうでもいいからこの子だけは助けてください!』とかいう話は絶対に聞きいれたりしないから。だって、どうしてどちらかに限定されなくちゃいけないのさ? 二人いるんだから二人痛めつけなきゃ駄目でしょう。不公平でしょう」
 くつくつと、かふかふと、田山が気持ち悪く笑っています。アリスは、この人は被害者だけれど、完全なる悪人だと思いました。この男は、雛口からお店を取上げる時にも、こんな風な笑みを浮かべていたに違いありません。楽しんでいるのです。楽しくて仕方がないのです。雛口とアリスは、田山を楽しませる玩具でしかありません。ああ、ここはやっぱり地獄で、田山は地獄の悪魔なのだ、とアリスは思いました。店内でえげつない展開が繰り広げられていることを察知したのか、犬も猫も兎も亀も思い思いに鳴いています。心底恐ろしいことに!
「ここはペットショップだから、僕が雛口クンをリンチして殺しちゃったりしても、きっと綺麗に処理できるんだ」
 恐ろしいことを言いだしました。肉屋じゃなくても注文の多い料理店じゃなくても完全犯罪は出来るのです。ここにいる秩父産の兎や秋田産の犬は、雛口を綺麗に処理してくれることでしょう。目の前の男は本気です。本気で雛口をそうして処理するつもりなのです。
「やめて! 田山さんお願い! お願いやめて! 私が、私は、私は……」
「さっき言ったじゃないか。そういう倫理は通用しないって。アリスちゃんだって、あとでちゃあんとお仕置きしてあげるから。そもそも、悪いのは雛口クンの方なんだよ? 悪い人は罰を受けなくちゃいけないんだ。わかるでしょ」
 田山は純然たるサディズムに満ちた笑顔を向けました。悪意のある微笑みです。それなのに、田山はあくまで被害者の側にいようとしているのでした。過剰防衛という言葉を知らないアリスは、田山をそこの位置から引き摺り降ろすことが出来ません。床に蹲って痛みと悲しみでぶるぶる震えている雛口だって、その言葉を投げつけてやることは出来ないでしょう。もう心が折れてしまっているのです。悪いことをしたら罰せられなくちゃいけない。借金なんか作ってしまった雛口が悪い。埼玉なんて最低な場所に住んでいる雛口が悪い。アリスは、絶望しました。
「ふふふ、アリスちゃんには悪いことをしたら罰せられるっていうこと、知ってる?」
「知ってるわ。凄く。凄くね」
「へえ」
「だって、私の住んでたキッシングフィールズではね、強盗なんてした悪い人は首をくくられるのよ。絶対に逃げられないの。絶対に幸せになれたりしないの。でも、ここはキッシングフィールズじゃなくて、夢もなくて、希望もなくて、幸せもあんまりなくて、犯罪は見逃されたり、雛口みたいな弱い人間を虐める奴がいっぱいいて、お姉ちゃんの読み聞かせる物語よりもずっとずーっと面白い話がいっぱいある、埼玉なんだから!」
 アリスは泣いていました。きっと、キッシングフィールズの不幸は、埼玉の不幸よりもずっとずっと上品な不幸です。ささやかで美しい、例えば実の姉の読み聞かせが殺人的につまらないとかいう程度の不幸です。ここじゃない場所。ここじゃない世界。雛口という名前の男が、その努力を認められないなんてことは恐らく無いだろう世界。ここが埼玉であることに対して植えつけられた絶望なんて、舐め上げたくもなかったのに。
「だから、正しくなくても、負け犬でも、雛口は幸せになってもいいんだよ。雛口がお金を返さなくても、やっていることが単に因果応報の自業自得でも、田山がやっていることがどこまでも正当な正当防衛でも、私は雛口が責められなくたっていいと思うの! いいと、思うの・・・・・・」
 雛口は悪い人間でした。自分の失敗を取り返そうと、正当な利率でお金を貸し付けている人間を襲い、借用書と現金を奪おうとした悪い奴でした。けれど、アリスは雛口に幸せになって欲しかったのです。褒められたことをしている人間じゃなくても、アリスは雛口のことが好きでした。こんなこと許されません。犯罪を犯したのが自分の好きな人間だからといって、その罪に目を瞑ったり、ましてや加担なんかしてはいけないのです。けれど、ここは埼玉です。おとぎの国でもキッシングフィールズでもありません。ちょっとくらいフェアでなかったり、道徳的でなかったり、酷いことが起こっても、許されてしかるべきなのです。
「それはそれは、僕に優しくない倫理だねえ、アリスちゃん」
 田山は少しだけ不機嫌そうな声で、そう言いました。
「でもまあ、そんなことは僕には関係ないんだけど」
 そうして、田山の雛口への攻撃が開始されました。
 それはこれから先の人生においてアリスが見てしまう痛ましい暴力の中で、最もえげつなくて執拗で凄惨な暴力が浴びせかけられました。最初の一撃――田山による雛口の肋骨への蹴り、の時は、アリスも雛口もどうか骨が折れてなければいいな、と思っていました。しかし、数十秒後には致命傷になるような場所の骨が折れてないといいな、思いました。それほど激しい攻撃だったのです。
 もしかしたらですけれど、田山は以前にもこうして債権者をリンチにかけたことがあるのかもしれません。だって、そうとしか思えないくらい華麗な攻撃だったのです。躊躇いの無い暴力だったのです。
 田山が裏口を開け放して閉店作業をするのも、そこに二匹のシェパードを配置しておくのも、この楽しみの為なんじゃないかと疑ってしまうくらいです。そうだとしたら、なんて雛口は馬鹿なんでしょう。救いようがないくらい可哀想なんでしょう。
 雨のような暴力は止みませんでした。興奮しきった顔で、田山は雛口のことを蹴りつけたり殴ったりを繰り返します。雛口の肌は赤黒く変色し、足からも身体からもいつの間にか血が流れ始めていました。
「人間のクズなんか早く死んじまえ! お前なんか、埼玉から消えたって誰も気付いてなんかくれないよ! 死んじまえ! 死んじまえ! 殺してやるから!」
 雛口の口から一際大きな血の塊が飛び出してきました。田山はそれを見て、きゃっきゃっとはしゃいだような声をあげます。これは、罰なのでしょうか。これが、罰なのでしょうか。
 そうして、アリスは選択しました。
 アリスは雛口の選んだダサくてピンクでヒラヒラのワンピースのポケットの中に、小さな手を入れました。このヒラヒラのワンピースに似合わないくらいに深いポケットです。アリスが落ちた深い穴みたいでした。アリスのことを待っていた底なしの穴。この大きなポケットに底があることが不思議に思える程でした。アリスは、ポケットの中にあるものを取り出します。
 田山は雛口に夢中でした。何が何やらわかりませんが、説教などをしているようです。
 だから、アリスが大振りなナイフを田山に向けていることなど、彼は気付きませんでした。アリスはナイフを鞘から抜きました。そして、鞘だけを静かに仕舞います。そうして、田山に一歩近づきます。
 戦え。戦え。アリスの脳内ではその言葉がぐるぐる回っていました。戦え。ナイフを、ナイフを振り上げろ。今までパンを切る時に使っていたナイフで田山を殺さなくてはいけない。そうじゃなくちゃ、雛口が殺されてしまう。
 ここは埼玉なのです。戦わなくては生きていけないのです。東京よりは夢が無く、秋田県よりはエンターテインメント性の高い埼玉なのです。キッシングフィールズとは全然違います。戦わなくては、殺される。
 アリスは、田山の方へ向かって、田山の脇腹をめがけて、ナイフの高さを調節しました。躊躇ってはいけません。躊躇ったら、きっと。アリスはもうこんなことなど出来ないのです。アリスは、一気に床を蹴りました。穴に落ちていく時のように、身体がふわっと軽くなり、宙に浮いた気分になりました。

 そして、大量の血が流れました。

 けれど、それはアリスが望んでいた光景ではありませんでした。流れたのは、またしても雛口の血でした。田山の脇腹にナイフが深々と刺さる瞬間に、雛口の、血塗れでボロボロな身体の中では比較的綺麗な細い手が、ナイフの切っ先を掴んでいます。ぼたぼたと、そこから鮮血が溢れ出しました。パニックになったアリスは、めちゃくちゃにナイフを振り回しますが、雛口はナイフを離しませんでした。かといって抑え込む力も無いので、雛口の指はナイフに踊らされ鋸を引くようにごりごりと傷つけられていきます。
「どうして? なんで? どうして……」
 それしか言えませんでした。どうして私がこんなにも勇気を出して頑張ったのに、埼玉という場所にふさわしい行動をしてみせたのに、どうしてこんなに余計なことをしたのか。その通りです。まるで映画か何かでヒロインの女性を庇う主人公のような真似だったではありませんか。彼が守ったのはキャメロン・ディアスではなく、埼玉県在住の性格のねじまがった中年男性なのです。わけのわからなさを通り越して、怒りが湧いてきました。雛口の小指が、ありえない方向に曲がりながら、ぷらぷらと揺れています。あ、いけない、とアリスが思った瞬間に、雛口の小指が取れました。アリスの背中を叩いてくれた手が、あの指が、あっさりと雛口のもので無くなってしまいました。けれど、雛口はそんなことを気にしてもいません。なんだかとても穏やかに、唇を開いてみせました。
「君はキッシングフィールズに帰らなくちゃいけないんだ。キッシングフィールズでは悪い人は生きられないんだろ? こんなことに巻き込んだ後に言うのもなんだけどさぁ、これだけはさせちゃいけないと思ったんだ。埼玉県の大人だからね。ここはずるいことを言わせて貰うよ」
「そんなのずるい。本当に酷い」
 アリスはもう十分にいけないことをしたではありませんか。それは、アリスが埼玉で生きることを決めたから、雛口と共に生きていくことを決めたからそうしたのです。それなのに、どうしてこの期に及んで、アリスだけを助けてやろうとだなんてするのでしょう。わかっています。これは雛口のエゴです。肉体がもう生きられなさそうだから、せめて精神だけは高潔に美しく可憐に保っておきたいと、そういうわけなのでしょう。その為にアリスは利用されてるに過ぎません。けれど、そのエゴでいっぱいの優しさが、どうしてもたまりませんでした。嬉しく思ってしまいました。これでは余計、雛口がハッピーエンドを迎えられないことに対して絶望してしまうじゃないですか。
 田山はあと一歩のところで刺されそうになったことが恐ろしいのか、情けないことに、さっきの雛口と同じく床に転がってぶるぶる震えています。往々にしてサディストというのは打たれ弱いものなのです。田山だって例外ではありません。
「私は、雛口と一緒に居るしかないんだってば。私はもう襲撃してしちゃったんだから……」
 アリスは雛口の指を拾おうとしました。その瞬間でした。何か丸くて白い影が視界を横切り、雛口の指が消えました。慌てて、その白い影を目で追います。
 それはあの兎でした。秩父産まれの兎です。丸い丸い黒い黒い穴のような両目を持ったあの兎が、雛口の指をくわえてアリスをじっと見ています。そのまま、兎が駆け出しました。アリスも慌てて駆け出します。あの小指を取り返さなくちゃいけないと思いました。死にそうになっている時に小指なんて必要ないのかもしれません。けれど、どうしても取り返さなくちゃいけないのです。あれは、アリスを助けてくれようとした指なのです。
 兎の耳が手で掴めそうになった瞬間、アリスの身体が急に浮き上がりました。
 自分が穴に落ちているということに彼女が気が付いたのは、自分の名前を呼ぶ雛口の声が段々遠くなっていったからでした。兎の姿はいつしか見えなくなって、埼玉の下衆な空気も掻き消えて、雛口の指もどこかへ行ってしまって、アリスは目を閉じました。
 そもそも、どうしてあんなお店に穴があるんだ? と、アリスは十歳ながら、初めての疑問を抱きました。兎のこともキッシングフィールズのことも、訳が分からないことばかりです。これから死ぬまで自分はこうした不幸や理不尽やわけのわからないことに巻き込まれて死んでいくのかと思うと、アリスはもう既に穴に落ちているにも関わらず、また更に深い穴の中に落ちていく気分になりました。

 リデル・グラスフルワールド嬢は眠っていました。リデル・グラスフルワールド嬢は妹が少しの間消えたって気にせず転寝を出来る才能の持ち主なのです。だから、少しの間消えていた妹がいきなりどこからか転がり現れても、相変わらず彼女は眠っていました。リデル・グラスフルワールド嬢がようやく起きたのは、ピンク色の可愛くないワンピースに、雛口の血をつけた妹が彼女に抱き着いてきた時でした。リデル・グラスフルワールド嬢に抱き着きながら、アリスはもう一度泣き喚きました。大好きなキッシングフィールズに戻ってきた喜びなんて、そこには微塵もありません。
「お姉ちゃん! 怖いぃぃぃぃぃ! 私、世界が怖い、嫌なことが怖い! 平凡で幸せな世界に突如口を開いて襲ってくるような不幸が怖い! 戦いが怖い、傷つくのが怖い、戦争が怖い、私、・・・・・・埼玉が怖い」
 リデル・グラスフルワールド嬢は、眉根を寄せながら言いました。
「アリス。可哀想なアリス。そして、私の可愛い妹。貴女はとても純真なのね。……不幸があるのは別に埼玉だけじゃないのよ。貴女の生きるキッシングフィールズにだって、埼玉で起こるのと同じ種類の、同じ濃度の、同じ深さの不幸はあるのよ。戦争もあるわ。戦わなくちゃいけない時もある。貴女はまだ小さいから、それを知らないだけ。可哀想なアリス。兎を追って穴に落ちて、貴女はこれから先に知らなくちゃいけないものを」
 可哀想なアリス。リデル・グラスフルワールド嬢は繰り返します。
「人が幸せになる為に求めるものが『世界』ではいけないのよ、アリス。私の言っていることがわかるかしら? キッシングフィールズを幸せの条件に数えては駄目。キッシングフィールズにだって埼玉にだって不幸はあるの。キッシングフィールズに無条件に幸せを求めては駄目。埼玉に無条件に不幸を求めては駄目。可哀想なアリス。わかってね。お願いよ」
「じゃあ、私はどうしたらいいの。私はハッピーエンドが一番好き」
「私だってハッピーエンドが一番好きよ」
 そう言いながら、リデル・グラスフルワールド嬢は優しく目の前のアリスを抱きしめました。愛しの妹はキッシングフィールズには似合わない服装をしています。埼玉の汚れた空気の匂いがします。けれど、アリスは確かにリデル・グラスフルワールド嬢の大好きな妹で、幸せの大切な一因です。ハッピーエンドと呼んでも差し支えない存在なのでした。
 そしてアリスは、何をハッピーエンドと呼ぶべきか、どうしてキッシングフィールズが幸せの場所にも不幸の場所にもなるのか、埼玉がどうして天国にも地獄にもなるのか、美しくて殺人的に読み聞かせのつまらない姉によって知ったのでした。

 キッシングフィールズには広い広い麦畑があります。崖なんかない麦畑ですから、ライ麦畑のキャッチャーなんて必要のない麦畑です。だから、ここにいるとしたら、彼は受け止めて貰えずに無様に転がっているに違いありません。アリスはすぐに見つけることが出来ました。彼からは埼玉の無慈悲で恐ろしい、戦争の匂いがしたのです。
「麦畑が汚れちゃうよ」
「はは、やっぱり秩父と似たようなもんじゃないか。まあ、僕はあんな未開の土地に住んだことはないけどね。一度見たことがあるんだ。山と森と、兎がいた」
「でも、私はいなかったでしょ」
「当たり前だろ。あそこは秩父なんだから」
 解放された気分になったか、と聞きたい気もしました。借金なんか、埼玉から離れてしまえばどうということはありません。強盗の罪に問われて指名手配になったとしたって、見つかるはずがないのです。人は彼を重い借金に耐えかねて荒川に身を投げたとでも思うかも知れません。彼はもう脅かされたりしないのです。ナイフはパンに使えばいいのです。幸せになれる気がするか、と聞きたい気もしました。けれど、アリスの口は動きませんでした。これこそがハッピーエンドというものだろうか、と、勘違いしてしまいそうになります。いえいえ、愛しの姉が言っていたじゃありませんか。不幸は起こるのです。アリスはまだ美しい少女で、つまらない読み聞かせ程度にしか脅かされたりしましんが、明日戦争が起こり、アリスが今愛しているキッシングフィールズだってアリスに牙を剥くかもしれません。
 だから、この状況をハッピーエンドだなんて呼んではいけないのでした。呼ぶならば、大変遺憾だし不本意なことだけれど、加えて悲しみに満ちていることだけれど、甘い展開の似合う、少しだけ料理の上手い男にハッピーエンドを見るしかないのです。
 アリスは泣きそうな気分になりながら、でもしっかりと麦畑に立っていました。雛口は憮然とした表情をしていますが、それは単に無くなった小指やら折れた前進やらの痛みが酷いからに違いありません。リデル・グラスフルワールド嬢が後ろからゆっくりと現れる気配がしました。あまり待たせては、きっとリデル嬢は眠ってしまうことでしょう。アリスは言いました。他の全ての問いを棄却して口にした代物でした。
「私がいなくなって寂しかった?」
「絶望した」
 雛口は果たして無事にここで生きていけるのでしょうか。そんなことはわかりません。キッシングフィールズが無条件の天国であり、埼玉より絶対に素晴らしいところだといえないところだと言えないと知ったとしても、それでも、キッシングフィールズにいる雛口をハッピーエンドと言わずとしてどうするのでしょう。
 麦畑には兎が居ました。アリスはその存在を一瞬だけ横目で見ましたが、もう追いかけたりはしません。
 そこにいる兎が果たして秩父の兎なのか、それともキッシングフィールズの兎なのかは、この世界の誰もが与り知らぬことでした。アリス・グラスフルワールドのお伽噺には、そんなことは何の関係もないことだからです。
                 
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