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有能探偵ハイムリック北崎 最後の事件


 有能探偵ハイムリック北崎は、証拠品を偽造することによってものの三十分で事件を解決した。全く、この上なく鮮やかな手腕である。犯人は泣きながら過去の怨恨を語り、容疑者だった人間たちは厳かな顔でそれを見守る。まるで雨上がりの昼下がりみたいだ。一つの物語の終焉に、いたくカタルシスを覚えてしまっているのだろう。素晴らしい。策間は一人そう思う。これは、殺人事件に慣れていない人間の感受性だ。
「今回の事件は、人間の行き過ぎた感情のもたらした悲劇だったのです」
 ハイムリック北崎がそう言って事件の総括をする。この間も使った台詞だったので、イマイチ説得力に欠けた文言だった。そもそも、殺人の原因が『人間の行き過ぎた感情』でないケースなんてあるんだろうか? 極端な妄執が、あるいは信仰に似た偏執が、物語をミステリーに抱き込んでしまう。十数回事件現場に同行したお陰で、策間はそのことを痛切に理解している。
「策間」
 そんなことに思いを馳せている内に、全ての収拾がついたらしい。高級スーツに鹿撃ち帽を被った麗しの名探偵が、策間の目の前で微笑んでいる。所作の一つから笑顔の細部に至るまで、ハイムリック北崎は探偵らしい探偵だった。
 捏造や虚言とはとことん遠い場所にいそうな彼のことを、誰も疑わない。崖の上の花と、汚泥の底を誰も結び付けたりしない。それを抜きにしたって彼は有能で、やり方に難はあれどもちゃんと事件を解決している。この世の中は適度に合理主義で、真実とか正当性とか正義とか、そういうものは意外と無視されがちなのだ。
「終わったし帰ろう。私、今日はちょっと疲れちゃったよ」
「今日も鮮やかな推理でした。まさか館が変形して東棟と北棟がくっついて、最終的にあの部屋とあの部屋が十秒で行き来できるようになるとは」
「あはは、本当にね。私もびっくりしちゃったよ。ほんっとこの世界ってわけわかんねー……気が狂うよこんなこと続けてたら……」
 今日の北崎は、館が変形した時にうっかり出てきてしまったネジをとっかかりに犯人を追い詰め、自白にまで持ち込んだ。勿論、そんなネジなど存在しない。北崎はこういう時の為に何種類かそういう『それっぽい』証拠を持ち歩いているのである。そして、もっともらしくそれを取り出して、でっち上げの推理を聞かせる。殆ど詐欺のようなものだ。それなのに、哀れで可愛い犯人どもはまんまと北崎に騙される。完全犯罪なんて所詮お伽噺だと思っているからこそ自分の過失を疑ってしまう! 人はもう少し自信家になるべきなのだ。殺人を犯した後なんかは特に。
 けれど、こうして導き出される北崎の結論は、いつだって概ね正しい。北崎が犯人だと指摘した相手は、大抵真犯人と一致する。だから、策間は一概に彼のことを悪だと言い切れないままでいる。それに、有能探偵ハイムリック北崎は、名探偵であるが故に金払いがとてもいいのだ。いくら北崎が捏造クソ野郎だとしても、他に彼以上に好条件で雇ってくれる人間がいるとも思えない。普通免許しか持っていない策間を喜んで助手に迎えてくれるのは、偏にハイムリック北崎だけだ。
「あ、私帰りにラーメン食べたいな。何処か寄ってよ」
 シートベルトをきちんと締めて、北崎が楽しそうにそう笑う。呆れるほど屈託のない笑顔だ。
「味噌ですか? 豚骨ですか?」
「え、塩がいいんだけど……」
「よし、間取って中華そばにしましょう」
 策間はそう言って、法定速度ギリギリの速度でシボレーを走らせる。実を言うと、この事件終わりのラーメンも嫌いじゃない。色々なところに目を瞑れば、北崎の助手はとっても条件の良いお仕事だった。
 策間がハイムリック北崎と出会ったのは、当たり前だけれど殺人現場だった。彼が所属していたサークルの合宿で、殺人事件が起こったのだ。
 彼が巻き込まれたのは、部長が密室で殺されるというオーソドックスな殺人事件だった。確かに施錠された部屋の中に、胸を一突きされた死体が転がっているというのは衝撃的で、策間は普通に恐怖した。人が死ぬのは怖い。普通じゃない状況なら尚更怖い。普通に生きてきた策間にとって、人間は須らく病院のベッドの中で幸福に死ぬものだった。それなのに、どうして胸にナイフを突き立てられなければいけないんだろう?
 合宿に来ていたのは、部長を除けば六人の部員だけだ。犯人はこの中にいる。そのシンプルな事実の恐ろしさといったら! 消去法を駆使して疑心暗鬼に陥った彼らは、殆ど恐慌状態だった。
 そこに現れたのが、有能探偵ハイムリック北崎だった。
「私が来たからにはもう大丈夫です。全てからっと解決させてもらいますよ」
 鹿撃ち帽に高級スーツというミスマッチなコーディネートで、北崎は優雅に立っていた。
「探偵ですか……? 本当に……?」
「勿論。この有能探偵ハイムリック北崎におまかせあれ! ……なーんてね」
 探偵がどうしてこんな場所に現れたのか? 探偵はどうやって事件を察知したのか? そんなことは考えちゃいけない。何せ探偵はそういうものだ。加えて、ハイムリック北崎は今一番有能な名探偵である。名探偵であるならば、更なる理不尽が赦される。誰も糾弾出来るはずがないのだ。
 そうしてハイムリック北崎が現れてから、なんと一時間で事件は解決に向かった。犯人は副部長で、動機は痴情の縺れで、とスピーディーに背景が解き明かされていく。
「そ、そんな! 俺じゃない! でたらめだ!」
「もう言い逃れは出来ないよ。それどころか、このまま容疑を否認し続けるのは、君にとってもよくないんじゃないかな? 心証がどんどん悪くなる」
「嘘だ……証拠は何処にも……」
「君の袖口には被害者の血液が付着しているね。折り返して誤魔化しているようだけど、そんなのは調べればすぐにわかることだよ。自分の血液って言い張っても無駄だからね。それは確実に被害者の血だ。それはそうと、私は先程からクーラーをガンガンにかけているのに、君は頑なに腕まくりをやめないね。早く袖口を見せてみなよ」
「…………そんな、でたらめが」
「密室に突入した時に睡眠薬で深く眠らせておいた部長を刺し殺したとかそういうのでしょ? ははは。そういう時はちゃんと血がつかないようにしなくちゃいけないよ。全く、呆れた馬鹿だ」
「そんな、つくはずが無いんだ。俺はあの時も、ちゃんと腕まくりを、血も、つかないように」
「でもついてるんだろ。はい、犯人確定だ。残念だったね。次はもう少しうまくやるといい」
 北崎がそう言い放つと、副部長はがっくりと膝をついた。完ッ璧な敗北宣言だった。美しい。隠された副部長の袖口には、確かに血飛沫が散っていた。腕まくりをしていたはずなのに。血が付かないように工夫したはずなのに。副部長が後の祭りの愚痴を繰り返す。
 はてさて、事件が終結した後、策間はそっと北崎のところに向かった。事件を起こしてしまった副部長が慰められたり糾弾されている隙に、こっそり自分の目的を果たしに行ったわけである。
 解決を終えた北崎は、特に楽しそうな様子でもなく、部屋の隅で息をついていた。さっき華麗に推理を披露していた人間と同一人物には見えなかった。プライベートとお仕事は、きっちり分けるタイプなのだろうか? その時はそう思った。
「ハイムリック北崎さん」
「うん? 君は……」
「策間です」
「ああ、容疑者達の一人か」
 その呼び名には適度に人権がない。だからこそむしろ好ましかった。ハイムリック北崎にとっては、容疑者達なんて間引いていく存在でしかない。
 澄ました顔は辛うじて微笑んでいるけれど、そこに個人的な親愛は無かった。要望に応じてサインくらいはしてくれるかもしれない。けれど、三時のお茶会は無理だろう。策間は密かにぞくぞくした。自分のとっておきが、その顔をどれだけ歪ませられるのだろうと密やかに思う。
「俺、探偵とか初めて見ました。本当にいるんですね。俺の中では宇宙人とか幽霊とか、そういうレベルの存在でした」
「私は宇宙人のことは信じてるけどね」
 ハイムリック北崎がすかさずそう言ってくる。宇宙人に何がしかのこだわりがあるのだろうか。探偵の癖に。それとも、宇宙人が絡むような殺人事件に出くわしたことがあるのだろうか? 名探偵は常識では測り知れない。
「ところで、そんな希少生物に何か用かな?」
 ハイムリック北崎が緩やかに首を傾げる。有り体にいって恐ろしい仕草だった。射程範囲に踏み入ってしまったことを自覚しながら、策間は敢えてもう一歩踏み込んでみせた。正直な体が逃げ出す前に口を開く。
「俺、見たんですよね」
「…………」
「注射器、袖口、あの時、北崎さんが――」
 それだけキーワードを並べれば十分だろう。相手は高名な探偵だ。察するに余りあるに違いない。
 さて、どう出るか。否定するか肯定するか。北崎が口にしたのはそのどちらでも無かった。
「策間って本名?」
「え、はい。そうですけど……策間一利」
「へえー『策』に『間』だと何だか犯人っぽいね。昔の私ならそれだけで黒幕扱いしてたね」
 最悪の感想だった。洒落にならない話だ。けたけたと楽しそうに笑う彼は、誰もが認める名探偵だ。彼の言葉一つで真相がひっくり返ってしまいかねない。
 現に、策間はさっき目撃してしまった。
 手練れのマジシャンのような手つきで、北崎が被害者の血液を擦り付けるところを。彼の手で、事件が暴力的に書き換えられる様を。
 一見して密室トリックの方は暴いたのだろう。糸口はくしゃくしゃになったシャツの袖だろうか? そうして副部長が犯人だとアタリをつけたのかもしれない。でも、そこには血飛沫なんて付いていなかったはずだ。
 ハイムリック北崎がつけたのだ。
 使われたものは小さな注射器だった。被害者の血を冒涜的に拝借し、副部長の背後からそっと袖口に噴射しているのを、策間はしっかりと目撃してしまった。本当は目撃したくないところだった。時間にして数秒の犯行なんか見たくもなかった。本当は探偵の提供するエンターテインメントに溺れていたかった!
 そう出来なかったのはパフォーマー側のミスである。ハイムリック北崎のミスだ。
 結果的に副部長の彼が犯人で、自供までやらかしたからいい。でも、あれが冤罪だとしたら? 鹿撃ち帽の采配だけでコーディネートされた恣意的なものだったとしたら? 本当に恐ろしい話だ。今まで探偵に特別な感情を抱いたことは無い策間だったけれど、今日からは違う。
「気付いてたよ。君が気付いてたのには。……これ、微妙な言い回しかな?」
「あの、俺……探偵に疎いんですけど、さっきのってやっぱりまずいんです……よね?」
 例えば、探偵であるならある程度の証拠品の偽造はオーケーだとか、全部丸く収めたらそれまでの道程は不問にしてもらえるとか、そういうスペシャルルールが探偵の世界にはあるんだろうか? と、そんな風に思ったのである。
「うん、まずいな」
 しかし、麗しのハイムリック北崎は、そう言ってあっさりと笑ってみせた。改めて思い直す。やっぱり駄目なんじゃないか! そりゃあそうだ。だってそんなの正義も節度も無い!
「策間ってさあ、確か大学四年生だよね? 今年卒業?」
「そうですね」
「内定出てる?」
「あの、何で窮地に陥るなり人格攻撃に入ってくるんですか」
「就活やら内定やらに人格なんか関係ないよ。私の周りも結構苦労してたし。どうなの? 就活浪人する?」
「え、いや……まあ……そうですけど……」
「大丈夫大丈夫。私もそういう就活事情には詳しいんだ」
 浮世離れした名探偵が口にするには、『就活』は酷く俗っぽいように聞こえた。それに、さっきのセンセーショナルな話は何処に行ってしまったのか。答えはすぐに明らかにされた。彼の中ではずっと地続きの話だったのだ。
「月二十五万でどうかな。結構いい額だと思うんだけど」
「え? ……はい?」
「業務は簡単。普段は事務所で自由に過ごしてくれていて構わないよ。私が事件現場に行く際に、同行さえしてくれればいい。後は事件解決まで付き合ってもらうことになるが、私はスピード解決が売りだからね、そう手間は取らせないよ」
「どういうことですか?」
「そういうことだよ。野暮なことを言わなくてもわかるだろ?」
 策間は察しが良い。野暮に聞き返すことはしなかった。多分、それは酷く無様だ。この洗練された男の前で、それは避けたい。
 策間はどうやら北崎の助手として雇って貰えることになったらしい。就職活動が上手くいかなかった彼にとっては、渡りに舟の申し出である。
 でも、何となく察していた。これは口止めの一種だ。助手として雇う代わりに、策間は共犯者にならなくちゃいけない。誰もが讃える至高の探偵の、一番いけないところに触れることを求められる。口の固さを尋ねられなかったのが一層恐ろしかった。個人の資質なんて関係が無いのだ。
「…………俺でいいんですか」
「勿論。私にもそろそろ助手が必要だと思っていたんだ。探偵にとっての助手は鹿撃ち帽並の必需品だよ」
「そういうものですか……。それなら、そうですね。よろしくお願いします」
 策間は就活に失敗していた。就職出来るならどこだって構わないと思っていた。二十五万円の月給は魅力的だし、福利厚生は求めただけしっかりしたものになりそうな気配である。
「何か質問はある?」
 その一言で完全に陥落した。ややあって、策間は遠慮がちに尋ねた。
「ハイムリック北崎って本名ですか?」
「本名なわけないだろ。何人だよ」
 ハイムリック北崎はそう言って笑ったけれど、ハイムリックはそもそも人名である。ちなみに、ハイムリック法の由来となったヘンリー・ハイムリック医師はアメリカ人だ。意外とわかりやすい名前なのだ。
 才能は時におぞましい。
 人間は適度にモラリストなので、持つべきものが義務を果たしている場合には寛容な姿勢を取ってくれるのである。さながらノブレス・オブリージュ、名探偵? 大いに結構! 有象無象の殺人鬼どもが適切に処理されるのなら、好きに現場を荒らしまわって構わない。骨の髄までご奉仕してくれれば、代わりに愛してやってもいいのだ。
 ハイムリック北崎は、その名を世に広く知らしめている名探偵である。まず仕事にあぶれることはないし、事件現場にずかずか踏み入っても赦されるし、トリック検証の為に不謹慎なことをしても見逃される。
 探偵業界に入った頃の策間は、その傍若無人さに驚いた。モラルを気にしていたら事件解決なんか出来ないし、殺人が起きた現場を歩き回れない。死体調べまくることも無理だろうし、誰かの罪を代わりに断罪することなんて、出来るはずがない。そのことは理解しているけれど、納得には時間がかかる。
 北崎がそれを赦されるのは偏に名探偵だからであり、最終的にちゃんと解決するからこそだ。名探偵である彼は警察からの信頼も厚く、いくらでも現場に入って良いし、捜査情報もちゃんと教えてもらえる。けれど、彼が無能であれば、あっという間に掌を返されてしまうだろう。
 この業界は酷い実力至上主義だ。どんな仕事であろうとそういうものなのかもしれないけれど、それにしたってこの業界はそれが露骨だった。
 加えて、ハイムリック北崎はとにかくセルフプロデュースが上手かった。世間の求める理想の探偵像を忠実に再現し、エンターテインメントすら提供してやった。「さて」から始める解決編も、勿体ぶった口上も、求められれば全てこなした。
 観客は誰も彼も非日常に飢えていて、地味な解決よりも装飾過多な物語を求めがちなのだ。北崎はそれらに上手に答えてくれる。
 例え根幹のところに赦しがたい捏造があっても、彼は探偵に必要なものを全て知っているし、実力がある。
 それに気が付いた後は、深く考えるのをやめた。策間のやるべきことは、助手として現場に同行し、適度に驚いたり悩んだりして、その場を盛り上げることだけだった。
 ボーっとしていても文句を言われることはなかった。北崎のめくるめくパフォーマンスを、一番近くで堪能しているだけでいい。コストパフォーマンスだけで見るなら最高の仕事だった。明らかにヤバそうな村や奇祭に同行させられるのは正直勘弁願いたかったものの、聡明な策間はすぐに気が付いた。ハイムリック北崎の傍にいれば、差し当たって死ぬことはない。
 あまりに順風満帆だと、それはそれで居心地が悪いのが人間だ。徹底的に楽な仕事の最中、策間は北崎に尋ねてみたことがある。
「小説とか漫画とかだと読者の目線に立つキャラクターが必要だってことで助手が要請されるじゃないですか」
「策間ってさ、一々そういうこと気にしながら本読んでんの? 人生つまんなそう」
「だったら、現実での助手の役割って何なんでしょうか? ……これって、本当は要らない役割なんじゃないですか? ていうか、助手が探偵のステータスの一つって言ってた割に、俺の空気っぷりがヤバいような」
「それは君のキャラが立ってないからじゃないの?」
「やめてください」
 痛い所を突かれた策間が、わかりやすく顔を顰めると、北崎はなだめるような声を出した。
「そんなことないよ。秘書みたいなもんだよ。君は全国の秘書に喧嘩を売ってるつもりか?」
「そんなことないですよ。それに、秘書って何か……その……エロい……感じの癒しをもたらしてくれるっていうか……」
「君の中の秘書はAVの中にしかいないの?」
 それから二人はしばし秘書についての卑俗なイメージを曝け出しあった。黒ストッキング、いけない残業、祝福の寿退社! 北崎は名探偵だけど、結構オーソドックスな趣味をしているらしい。
 そんな趣味の北崎が、エロくも何ともない助手を雇っているというのは、ある種の不文律のような気がしてならなかった。策間は枕営業に向かないタイプの助手である。
「そもそも、北崎さんってどうして探偵をやってるんですか? 可愛い助手と楽しく過ごす為じゃないんですか?」
「さっきから偏見が凄いな」
「今までの二十三年余りを探偵とも秘書とも無縁で生きてきた弊害です」
「私が名探偵になったのは、うどんが超好きだからうどん屋さんになったようなものだよ。小説書くのが超好きな人は小説家になるでしょ? アイドルが好きな人はアイドルになるでしょ? 犯罪が超好きな人は犯罪者になるでしょ? それと同じだよ」
「アイドルが好きな人はファンだろうが!!!」
「ちょっ、いきなりキレないでくれ!」
「すいません、ちょっと俺の美意識的な部分が、看過しちゃいけない部分だって言ってまして……」
「別にいいけど……策間ってアイドルとか好きなんだね……意外だ……」
 北崎と策間は若干気まずくなりながら、お互いに微笑み合った。誰にも譲れない部分はある。迂闊に触れれば死に繋がる逆鱗もあるのだと、殺人現場を渡り歩いていた二人は身をもって知っているのだ。
「あ、強いて言うなら理由はもう一つあるかもしれない」
 強張った顔を晒す策間に耐えられなくなったのか、北崎は思いついたかのようにそう言った。思わぬ方向に転がった話は、彼の興味を十分に引くには十分だった。
「私ね、親友にもう一度会いたいんだよね」
「親友? ……え、親友ですか?」
「うん。大学時代の親友なんだけど、色々なことがあってね。もう二度と会えないかもしれないんだ。私も心の何処かではもう会えないんだろうな、もう駄目かもしれないなって思ってるんだけど……一つだけ、たった一つだけ方法を思いついたんだ」
「それが探偵になることですか?」
「そう。無能であることをやめて、どんな手を使ってでも名探偵になること。それだけが私に出来ること、彼に出来る唯一の贖罪だ」
 いきなりシリアスになった空気を前に、何と言っていいかわかららなかった。えーっと、と前置きをしてから、策間はどうにか答える。
「その親友って……こう……ハイムリック北崎であることで再会の可能性があるお相手なんですか?」
「そうなるね」
「……へえー、なんか、探偵と犯人の関係みたいですね」
「はははは」
 北崎は優雅に笑った。ホーリーシット! その笑顔を見て確信する。その親友は、絶ッ対に犯罪者だろう。きっと、ハイムリック北崎は、その親友を追って探偵をやっているのだ。それはちょっと、お膳立てされ過ぎているんじゃないだろうか。
 あまり現実を見くびらないで頂きたい。ハイムリック北崎がシャーロック・ホームズであるならば、その親友とやらはジェームズ・モリアーティ気取りなのだろうか。楽しそうな構造だし、魅力的な物語でもある。ただ、久々に策間は眩暈を覚えた。
 どうかこれが単なる想像でありますように。悪趣味なジョークでありますように! しかし、悲しいことに北崎の目はある種の切実さで満たされていた。会えなくなってしまった親友は実在するし、北崎はその誰かに再会する為に探偵をやっている。
 この探偵に、人生を懸けた殺人を暴かれた人間が数多くいるのだ。誰かの物語のついでに救われてしまった人間たちが群れを為している。
 それはそれでおぞましい話だ。才能は時におぞましい。こういう時なんかには特に。
 それから数日後、カフェにいた人間が突然毒殺されるという物騒な事件が起こった。爽やかな朝に相応しくない話だ。
 被害者は店内に入ってから珈琲しか口にしていなかった。毒は案の定コーヒーカップからしか検出されず、疑いの目は可哀想なウエイトレスへと注がれた。当然と言えば当然の話である。毒入りカップに触れたのは被害者とウエイトレスだけだ。素直な人間なら、誰でも彼女を疑うだろう。
 そこへ颯爽と現れたハイムリック北崎は、モーニングを頼むより先に、この事件を解決することを決めた。ボックスシートでメニューを睨む策間を置いて、ふらつきながら死体の方へ歩いていく。
 そうしてブルーシートを掛けられた被害者をくまなく調べ、被害者の爪に酷い噛み癖があるのを発見すると、「胃の中に爪の破片が無いかな。解剖すればどうにか発見されると思うんだけど」と、ぼんやりした声で言った。北崎は結構朝に弱いのだ。
「爪の先の方にほんの少しだけ毒を塗っておいて、あとはこの人が爪を噛むのを待ってたんだよ。噛み跡がぎざぎざしているから、八重歯か前歯で噛み千切るスタイルだろうし、毒を塗っていた爪が胃の中に吸い込まれていけば証拠は残らない」
 爪に毒を仕込めるのは奥さんくらいのものだろうし、きっと奥さんが犯人でそこのチャーミングなお嬢さんは無実だよ。と続けると、その場は歓喜に包まれた。絞首台から救われたウエイトレスが感激の余り泣き出して、店内が拍手に包まれる。
 低血圧の北崎は、狂騒の中心で何とも言えない表情をしていたが、ややあってようやく席に戻って来た。一仕事終えた北崎はわかりやすく疲れていて、何だか途方に暮れているようだった。有り体に言えば泣きそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をするのだろう。
「大丈夫ですよ、北崎さん」
 気付けば策間は、反射的にそう口にしていた。踊り終えたバレリーナを抱きしめるような感覚で、帰ってきたばかりの名探偵を讃え上げる。
 さっきも拍手を受けてきた北崎だ。策間一人の喝采なんて何の意味も無いかもしれないが、策間は雇われ助手なのだ。役割を果たす義務がある。
「大丈夫って何?」
 唐突な言葉に対し、北崎は不服そうに唇を尖らせる。間違ってなかったと思うんだけどな、と策間は心の中だけで呟く。少なくとも、北崎が今求めていた言葉はそれだったはずだ。それに、北崎の顔色はさっきよりずっとマシになっているように見える。透き通る朝の最適解。
「いいんです。それより俺腹減ったんですけど、注文いいですか?」
「あそこの店員さんにスクランブルエッグとマフィンのセット二つって注文してきちゃった」
「ちょっ、何してくれてんですか。俺メキシカンピラフにしようと思ってたのに」
「どうして君は朝からそんなアッパーなもの食べたがるんだよ」
「朝から殺人事件を解決した人に言われたくないんですけど」
「私だってこんなこと朝からしたくなかったよ。解決しなくちゃいけないんだ。解決しなくちゃ……」
「どうしてそこまでするんですか。証拠の捏造まで……」
「捏造だって好きでやってるわけじゃない。でも、仕方がないんだ」
 北崎は困ったようにそう言った。このまま追及してやろうとした瞬間、スクランブルエッグが運ばれてくる。このタイミングすら仕組まれたものに思えて、策間は更に嫌な気分になった。食べ物で口を噤まされるのはずるい。
「さて、食べようか。私も今日はやることが出来たからね」
「何ですかそれ。なんかあるんですか」
「原点回帰だよ。原点回帰」
 そして事務所に戻った北崎は、何やら段ボール箱のようなものを取り出してきた。そして、中に入っていたノートを、ざばざばとデスクの上に広げる。雑多に積まれていくそれが何冊あるのかもよくわからない。とにかく膨大な量であることは違いなかった。
「というわけで、私はちょっと勉強に集中するから。依頼人が来ても適当に追い払ってくれる?」
 北崎がそんなことを言うのは初めてだった。カフェでの一件で、何か思うところがあったのだろうか。わからないまま、策間はとりあえず頷く。それを見た北崎は、満足そうに頷くと手元のノートを読み始めた。何の変哲も無い、普通のキャンパスノートだ。
 読書の邪魔をしたらいけないんだろうな、という至極まっとうな気持ちと好奇心がせめぎ合い、結局策間は口を開いた。だって、そんなことをされたら誰だって気になる。
「北崎さん、それ何ですか」
「あー、これね、探偵の勉強ノート」
「探偵の? 勉強ノート?」
「そう。私も昔から有能探偵ハイムリック北崎だったわけじゃないからね。だから勉強したんだ。千里の道も一歩からって言うだろ? 
だから勉強したんだ。……まあ、自分でもこんなことして何になるんだって思わなくもなかったけど……結果的にハイムリック北崎をやるにあたって、多少なり役に立ってる部分もあるから……何とも言い難いな」
 珍しく歯切れの悪い言い方だった。北崎ときたら、まるで生涯最大の汚点を語る時のような顔をしている。策間くんは、何故だか密やかに戦慄した。何の変哲も無いノートが、何だか酷くおぞましいものに見える。理由なんか少しもわからないのに。
「努力は正しいことだと思うんだけどさ、なんていうか……努力するのが不適切な分野があると思うんだ。例えばIQテストなんかもそうだと思うんだけどさ。そういうのって勉強でどうにかするものじゃないでしょ? それなのに、必死に真面目にそれをやってしまうことの気持ち悪さってさ……」
 言葉を選ぶように、北崎がそう口にする。しまったな、と策間は珍しく反省した。北崎は、何だか異国の童話を語る時のような、そんな雰囲気を漂わせている。その物語の中に策間が入る余地はない。
「……なんていうか、探偵とかやってる割に、北崎さんって真面目なんですね」
 それが何だか不服で、わざと刺々しい声を出した。恋する乙女の駆け引きみたいで、言った直後に後悔した。冗談じゃない。
「真面目かは怪しいな。そんなに優等生ってわけでもなかったし。探偵力をつける為には必要なことだったんだよ。ていうか、探偵になろうって人間は真面目だよ」
「何ですかそのパワーワードは」
「策間も助手力を高めるといいよ。事件が起こったらまず電話線を確認したり、一目散に吊り橋に走って行っては落ちていることを確認するんだ」
「嫌過ぎる……」
 策間が露骨に嫌な顔をする。けれど、北崎の言葉は真理である。彼の言葉は、探偵助手として必要な役割をぎゅっと詰めた適切な一言だった。探偵助手は名探偵になるよりもずうと簡単だし、才能だってそう特別なものは必要無い。
 助手に大事なことはただ一つ、探偵を肯定する才能だけなのだ。そして、そういうキチガイ沙汰に、策間はかなり向いている。
 ノートを読み返した北崎は、その後普通に探偵をこなした。迷うことも躊躇うことも無く、捏造と解決を繰り返し、名探偵を続行する。
 季節は巡る。来年度のカレンダーに『ハイムリック北崎と犬』をテーマにしたものが出るらしいと聞き、策間はその撮影に同行することになった。殆どアイドルみたいな所業だけど、実のところ探偵なんてほぼほぼアイドルなのだ。間違ってはいない宿業だった。
 マルチーズを抱えながら微笑むハイムリック北崎は、誰もが認める完璧なキュートさを誇っていた。抱えているマルチーズは、以前北崎が助けてあげた犬だ。血統書付きの可愛い犬は、人間並の身代金を引き出すことの出来る逸材なのである。
「完璧な人間なんてそうそう存在しないのに、人間は完璧な犬を求める」
 マルチーズ誘拐事件は、確かそんな台詞で締め括られたはずだ。北崎が言ったこの台詞を、策間は何故か今も覚えている。
 代わる代わる違う犬と撮影に臨む北崎は、とても可愛い。
 六時間以上かかった撮影の中、北崎は完璧だった。前日、凄惨なバラバラ殺人に携わっていたとは思えない。殆ど眠っていないはずだ。疲れ知らずは長所だけれど、出どころが不明のそれは、何だかとても空恐ろしかった。
 控室に戻った北崎は、流石に疲れているのかしばらく一言も口を利かなかった。「帰ろう」と言い出さない北崎を横目で見ながら、策間の方も黙々とソシャゲに勤しむ。ややあって、北崎が言う。
「アイドルっぽいことしちゃった……」
「そうですね」
「これは名探偵の範疇かな」
「まあ、セーフですよセーフ。きっとそれなりに売れますよ」
「はあ……いい感じに硬派な事件が起こってくれるといいな。このままアイドルに寄るのはまずいし、バランス取らないと」
「不謹慎ですよ、北崎さん」
「冗談だって」
 北崎はそう言い添えてくれたけれど、信じる気にはなれなかった。疲れた顔に張り付いた目が、笑っていないことを知っている。
 どうしてそこまでするんですか、という言葉が口から出てきそうだった。探偵ってそんなに楽しいですか? そんなになりたかった探偵になれて、北崎さんは幸せですか? カウンセリング染みた質問が出てきそうになるから困る。不幸だなんて言われたら尚更困る。そんなに別れた誰かに会いたいのか、それとも別の理由なのか。
「でもちょっと疲れたからさ、一時間くらい寝るね。一時間経ったら起こして……」
「はいはい」
「本当にさ、本気で言ってるんだからな、私は……」
「任せてくださいって」
「本当……もう……駄目だったらどうしよう……」
 それきり声は途絶えた。よっぽど眠かったらしい。
 策間はそれから三時間ほど北崎を放置した。寝かせてやろうと思ったわけじゃない。ソシャゲのイベントに夢中になっていたからだ。
目を覚ました北崎は、策間を責めなかった。小さな舌打ちが聞こえたけれど、上司の舌打ちなんて珍しくもない。策間は体よく無視をしてやった。そのままにしておいた方がいいこともある。
 「人はどうして探偵になるのか」を知りたかった策間は、文明の利器に即頼った。検索窓に『探偵 何で 理由』というふわふわのワードを打ち込んで解答を待つ。すると、そこに一つ興味深い言説があった。
『人は何故探偵になるのか? 私には一つ仮説がある。探偵は全員傲慢なサディストで、社会的病理を抱えている。本来司法や神が担うべき役割を、一手に担うことで興奮を得ているのだ。探偵というものは、自らのサディズムに向き合う必要がある』
 そうだろうか?
 ネットに投げられた無造作で適当な分析を見て、策間は密かに首を捻った。自称精神科医という書き込み主は怪しいことこの上なかったが、何となく一理あるような気もする。
 ハイムリック北崎を突き動かしているものが、彼のサディズムであるという説も腑に落ちた。親友に会う為という名目はあれども、時折見せる北崎の、あの何とも言えない雰囲気……。人は何故探偵になるのか、その答えが純粋な性癖だったら、……なんか少し嫌だけど、納得がいく。
 それじゃあ探偵に憧れる人間は全員マゾヒストなのか? 助手である自分もマゾなのか? その謎を解明すべく、策間はその日初めて五反田のSMクラブに赴いた。
 蠱惑的な受付嬢に「こういうの初めてですか?」と尋ねられ、見栄を張る必要も無いかと素直に肯定する。そうして、初心者用に設定されたコースでいきなり鞭を食らって泣いた。プレイに使われた鞭は音だけが派手なバラ鞭だったので、実際の痛みはそう大したものではない。それなのにわんわん泣いた。罪を突き付けられた犯人のようにびゃあびゃあ泣いた。
 土下座の姿勢で鞭打たれながら、策間は今までの人生を回想していた。かなりオーソドックスな現実逃避である。最初に巻き込まれた殺人事件のこと、名探偵のこと、助手であるということ……。風を切るような軽快な音に導かれて映し出されるそれらは、半生と呼ぶには小さすぎるスケールだった。策間が自我を芽生えさせたのは二十三年前なのに、初めて砂場で遊んだ時の記憶や、ゴーカートに乗った時の思い出が引き出されない。女王様の怒声が聞こえる。策間は反芻する。
「ほらっ! 何か言ってみるんだよ。お前まさか、こうしているだけでいじめてもらえると思わないだろうね? お前の怠慢が滲み出てるよ。そうやって黙っているだけで赦されると思っているんだろう。今までずっとそうして生きてきたの? 傲慢だね」
 女王様が鞭を振るい、策間のことを詰る。プレイを始めて数十分も経っていないだろうに、女王様は鞭打ちながら策間の人格を規定していく。その感覚には覚えがあった。それは、犯人を断罪する探偵の口調に似ていた。求められるものが似ているのかもしれない。それなら、そこにいるのは誰なのだろう。策間は急に、鞭を持つ手の方に痛切な憐憫を抱いた。それは一体何なのか。
「俺がやりました!」
 一際大きなバラ鞭の音が響いた後、策間は絞り出すような声でそう叫んだ。瞬間、ハイヒールの踵が後頭部を蹴り上げ、策間の身体がごろごろと床に転がされる。「他愛ないね」と女王様が呟き、そのまま蔑む視線を向けられた。
 SMプレイにはセーフワードというものが設けられている。プレイを施されている方が、本当に耐えきれないと思った時、自然な空気のままプレイ中断の意思を伝える為に用いられるものだ。それは、個人個人が思うままに設定出来るものであり、策間は『俺がやりました』というものに設定したいと打ち合わせの段階で伝えていた。
 女王様がプレイをやめてもなお、策間は小さな声で「俺がやりました」と繰り返した。事件現場で幾度となく耳にした言葉だ。幕引きに最も相応しい言葉だと思ったからこそ、セーフワードをそれにした。そうこうしている内に、プレイの時間が終わり、無機質なタイマーの音が鳴り響く。女王様が「お疲れ様」と言って、策間はようやく現実に引き戻された。
「思うんですが、策間さんはこういったプレイにはあまり向いていらっしゃらないかもしれません」
 帰り支度を済ませた女王様は、淡々とそう告げた。それはまるで何かの診断士のようでもあった。静謐な雰囲気の中、策間は性癖を診断されている。
「そういうのってわかっちゃうんでしょうか」
「職業柄……。策間さんはこういったプレイは初めてですよね?」
 策間は受付での時と同じく、素直に頷いた。
「でしたら、多分策間さんが求められているような世界はここには無いと思います。勿論、二・三度回数を重ねることで開花していくこともあるんですが、策間さんにそれだけの熱意があるかどうか……」
 聞けば、初撃で抵抗の姿勢を見せる人間には往々にしてMの適性が無いのだという。特殊な文脈で振るわれる暴力に即座に順応出来る人間がいることすら策間には想像出来なかったが、女王様の話ではそういうことは珍しい話でもないらしい。
 自分の性癖が至って普通なことを自覚しながら、策間はお礼を言って一万八千円を支払った。初回料金は三十パーセントオフなのだという。初心者にとっても優しい料金設定だ。
これからは撲殺された被害者に一層同情することになるだろうな、と、策間はぼんやり考える。特に、鞭で打ち殺された人間なんかには。これも助手力の一つなのかもしれない、なんて馬鹿げたことまで考えた!
 けれど忘れてはならない。成長は時に呪わしい。
 足が長くなれば歩幅も変わる。足並みが揃わなくなれば二人で歩くことは難しいのだ。
 策間がSMプレイに興じた一週間後の話だった。
 北崎と策間はとある屋敷にやって来ていた。さる資産家の催したパーティーで殺人事件が起きたのだ。
「こういうパーティーで事件が起こるとさ、出てくる料理が美味しいからお得感があるよね」
「メキシカンピラフありますかね」
「うわ、それまだ引きずってるのか」
 フォーマルな服装に身を包んで、楽しそうに会場内を歩き回る北崎は、やっぱりどこか不謹慎で、キュートで、……不適切だった。殺人現場という殺人現場を渡り歩く北崎は、もう既に感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。事件を解決出来ればそれでいいと割り切っているのかもしれない。純度の高いサディストで、誰かを断罪したり謎を解いたりするのに興奮しているのかもしれない。
 わからないことだらけだ。とりあえず、策間がマゾヒストではないことは確かだけれど。
「まあ、私にかかれば解決はすぐだよ。このハイムリック北崎におまかせあれ、だ」
「その決め台詞そんなに格好良くないのでやめましょうって言ったじゃないですか」
「ちょっ、私は礼服で殴り合いとかしたくないんだ。そういう喧嘩になりそうなこと言わないでくれ」
 今回殺されたのはわかりやすいことに、この家の当主だった。動機は遺産! この家の誰もがそれを狙っている! ただ金持ちだったというだけで、人生が長い長いデスゲームだった老人のことを思うと、策間は心底可哀想に思った。持ち物は簡単に呪いになってしまう。
 ご丁寧に事件現場には脅迫状が残されていた。装飾過多な事件である。それによれば、これから当主に続いて一族郎党が皆殺しになるらしい。景気の良い話だ。
「早く事件解決して解決パーティーしましょうよ」
「にしても、死体が見つかった小屋にはパーティー中誰も近づいてないっていうし、アリバイ成立ってやつだからな。私の方も今の段階ではどうしようもない」
「えー、折角ローストビーフとか用意されてるのに、このままって嫌過ぎますよ。早く解決してくださいよ。死体弄ってなんか見つけてください」
「即物的過ぎるよ……」
 うんざりしたような顔をする北崎を後目に、策間は勝手に死体を調べ始めた。何ていったって彼は名探偵の助手である。見咎める人間なんているはずもない。そもそも普段のハイムリック北崎の方がずっと好き放題してるのだし。
「策間、今のところは待機しようよ。ていうか、こっそり食べるならローストビーフもバレないと思うし」
「ローストビーフはシェフの手で切り分けられてなくちゃ嫌なんです」
「我儘過ぎる……」
 首を絞められた当主の死体を調べている時も、策間の心はそこまで動かなかった。死体を見て驚いていた頃とは違う、何か別の人間に変質しているのかもしれない、と彼は思う。その変化の先に何があるのかすらわからない。とりあえず、策間の気持ちは完ッ全にパーティーの方に向いていた。さっさと解決して、ローストビーフとメキシカンピラフを食べなければならない。
「なんかこの死体、若干美味しそうな匂いがしますね」
「あー、君の倫理観もそこまできたか」
「あ、違います。これ袖口に何かついてるんですね……。なんか、これ、芳醇なスパイスの風味と上品な溜まり醤油の香りが……あっ、これ用意されてたローストビーフのソースですよ!」
「いきなり特殊能力系探偵としての覚醒の兆し見せるのやめてくれない?」
「どうして袖口にソースが……いや、むしろソースが付いた時間が……問題なんじゃないですか……これ……」
 死亡時刻から照らし合わせれば、ローストビーフが調理され始めた時間には当主は小屋にいなくちゃいけないはずだ。それなのに、袖口にソースが付いている。それが指し示すことは一つ。
 当主は小屋で殺されたのではなく、本宅で殺されたのだ。そして、どうにかして小屋に放り込んだのだろう。
 そのことに気付けたのは大きな前進だった。本宅にいた人間でも犯行が可能なら、可能性がぐっと広がる。アリバイがどうとかいう話じゃなくなる! ファッキンなアリバイ崩しに奔走しなくてもよくなってしまう!
 まさか当主の袖口に注射器でソースを噴射するタイプの気狂いがいるとも思えない。いたらもう降参だ。はちゃめちゃな世界に大人しく感服してやろう。
 ともあれ、これで状況は変わったはずだった。
「北崎さん!」
 策間は嬉しそうな声を上げた。
 ハイムリック北崎は名探偵で、助手の策間よりずっと賢い。そのことを知っている策間は、すぐさま北崎に期待の目を向ける。今回は証拠を捏造する必要も無いかもしれない。とても軽くてチープなミステリーだ。快刀乱麻の推理でもって物語を断罪し、適当にシャンパンでも頂いて帰路につけるのだ!
 しかし、当のハイムリック北崎はたおやかに微笑んだだけだった。
 期待の視線に気付いていないはずがない。そもそも、真相に気が付いていないはずがない。
 求められているものはわかっているはずだ。春蘭豪華なパーティーに、完璧に決めたファッションの名探偵。あとは、皆を集めて『さて』から始める解答編をやればいい。
 窓際に佇む北崎は、しらっとした顔をしたまま動かなかった。ややあって、耐えきれなくなった策間の方が口を開く。
「あの、やらないんですか」
「うん? 何を? 捜査? パーティー? カタルシス? どれでもいいから主語をつけてくれないかな」
「解決編ですよ。だって、北崎さんもう犯人わかってます…………よね?」
 万が一のことがあってはいけないので、恐る恐るそう尋ねた。まさか天下のハイムリック北崎が真相に辿り着いていないなんてこともあるまいが、人間には波がある。お腹が痛かったり頭が痛かったり、なんだかやる気が出なかったりで、自慢の頭脳が機能しない場合もあるだろう。
「失礼だな。当然犯人くらいわかってるよ。当然じゃないか」
 プライドを傷つけられたのか、北崎は少しムッとしながらそう言った。
「それならさっさと解決しましょうよ。いつもみたいに犯人はお前だって言って、犯人に独白させて、何だかいい感じの雰囲気を形作って、それで適当に大はしゃぎして帰りましょう」
「せっかちだね。策間ってモテないでしょ」
「そういう流れ関係なく使える罵倒で攻撃してくるのずるいですよ。ていうか、何で解決しないんですか? え、疲れちゃったんですか?」
「……えー……だってさ、早いよ」
「何がですか?」
「ちょっとくらい頭を使ってくれ。ヒントは脅迫状だ」
 成長は時に呪わしい。
 一見クソみたいなヒントだったけれど、何故か策間の頭の中には一つの解答が過った。探偵助手というイカれた職業に従事している内に、何となく探偵力の方が育ってしまったのかもしれない。探偵助手の癖に、真相に辿りつけてしまうくらい経験値が溜まってしまったのだ。実地研修の恐ろしさだ。
「北崎さん」
「何でしょう」
「…………〝死体待ち〟ですか?」
 北崎は微笑みを崩さない。繕いなく行われた無言の肯定に震えた。
 探偵業界には『事件待ち』という言葉がある。事件の起こりそうな館や村などに張り込んで、事件が起こるのを待つことを指す言葉だ。これは業界の中でもタブーとされていることで、これをやるような不謹慎でおぞましい探偵は忌み嫌われるのが常である。
 北崎がやろうとしているのは、それより最悪な行為だった。脅迫状が出ている。遺産を相続する可能性の高い、直結の血族が狙われている。犯人は今も、犯行の機会を伺っている。このまま放置していれば、第二、第三の殺人が行われる可能性は高かった。この館は今、とても殺人に対する期待値が高いのだ。
「今解決したら、単なる殺人事件だよ。出来れば、これは連続殺人に発展して欲しい。事件が起こる前に解決した方が有能なのかもしれないけど、実際問題死体は多い方が派手でいいんだ。そっちの方がずっと話題になる」
 なるほど、一理ある言葉だった。探偵としての自分を大切にし、セルフプロデュースを怠らないハイムリック北崎らしい言葉と言える。捏造によるスピード解決とは、また違った合理。
 ただ、今まで見過ごしていた罪とは、根本的に質が違った。探偵が更なる殺人を待っている。勿論、自らの頭脳を試す為に、事件を心待ちにしている探偵も少なくはない。けれど、それとこれとはまた話が違う。北崎が待っているのは、本物の凄惨だった。
「……あ、その顔は、私のことを酷い人間だと思ってるんだろう」
「それも推理ですか?」
「じゃあこうしよう。私はまだ真相に気が付いていなくて、次なる殺人に戦きながら目下捜査中ってことで」
「そんなのが通用すると思ってるんですか」
「今私を見ているのは策間だけだからね」
 策間は、その言葉で思わず周りを見渡してしまった。確かに、ここには策間と北崎しかいなかった。作戦会議をする時はいつもそうだ。それなのに、今日に限ってはそれが恐ろしかった。観客がいない場所で何をやっても、誰にもバレない。
「本当に死体待ちするつもりですか」
「大丈夫、三人くらいにしておくよ。どうせ犯人だってそのつもりみたいだし」
「そんなのが赦されると思ってるんですか? それなら、それなら、俺が……」
「どうするつもりなんだ?」
「……俺が真相を看破します! これ以上犠牲者を増やしてどうするんですか! 今からでも遅くないんですから、俺が解決編をします! 大丈夫です。ぶっちゃけ俺も探偵に憧れてたんですよ。だって、一回くらいみんなやりたいだろうし……」
「ちょっ、そういうのやめてくれないかな。まったく、人間基本的に探偵大好きだよね。探偵体験が出来る風俗とか出来たら絶対流行るよ」
「いや、必ずしも風俗じゃなくてもいいんじゃないでしょうか」
「というか駄目に決まってるだろ! 君は助手だし、私はハイムリック北崎なんだ! 君が推理を披露したら色々おかしなことになる!」
「それなら北崎さんがやってくださいよ! 俺はそれでもいいんですってば! 次の犠牲者が出る前に事件を解決してくれさえすれば――」
 言い終わるより先に、視界の端に重そうな花瓶が映った。策間は、反射的に身を縮める。結果的にそれが更なる隙を生んだ。まさかいきなり暴力に晒されるだなんて。その相手が他ならぬ北崎だなんて! 想像すら出来なかったから避けられなかった。
 そのまま、容赦ない頭部への一撃が策間を襲う。わけもわからないまま、身体が浮遊感を取り込んで地面へと転がった。ズキズキと痛む頭は、むしろ思考をはっきりさせてくれて好ましい。自分を殴ったのはハイムリック北崎で、殴られた理由は、助手としてふさわしくないことをしたからだ。このシンプルな論理!
 暴力の理由が利己的でストレートなので、策間はむしろ安心した。北崎は自分を殺したりなんかしないだろう。ただ、北崎は自分をこの場から降ろすだけなのだ。
「あ、気を失わないのか。まあそうか。そうだよね。そんな上手い話ないよね」
 北崎の呑気な声が聞こえる。穏やかな声だ。この声が結構好きだった。有能探偵ハイムリック北崎が人気者なのは、この声が理由でもある。推理に伴う長台詞は、出来れば麗しいテノールで聞きたい。そういうことだ。
 北崎は手早く策間を縛り付けると、そのままふわふわのカーペットの上を引きずっていった。手近にあった扉を開けて、策間のことを放り込む。「おやすみ」と、声がして、電気が消された。
 それから策間は、意識すら失えないまま四時間半近くクローゼットに閉じ込められた。狭いし暗いし暇だし、控えめに言っても最悪な四時間半だった。頭の中で出来る暇潰しを粗方やり終わったあたりで、ようやく策間は解放された。クローゼットから物のように引き出され、縄を解いてもらう。
「ごめん、元気だった? 寒くない?」
「…………北崎さんはパーティーを楽しまれたようで何よりです」
「メキシカンピラフは無かったよ。ろくなパーティーじゃなかった」
「ちゃっかり解決パーティーでの大はしゃぎまでやってんじゃねえよ」
 策間が閉じ込められている間に、犠牲者は三人に増えたようだった。四時間半で二人増えた。一人あたり二時間ちょっとのハイペース。北崎が手心を加えた可能性は十二分にあった。むしろ、彼は確実にやった。
 早めの死体を求めたのは、きっと策間の為だろう。そういう優しさなら、持ち合わせられる男なのだ。
「…………新たに殺された二人は、俺達が殺したようなもんですよ」
「はあ、北極の氷が溶けたのは俺の所為です、みたいな戯言を言いよる」
「だって、あそこで解決してたら、死ななくて済んだのに……」
「策間、君は何か勘違いしてないかな」
 普段通りのテノールで、普段通りのスマイルで、北崎が淡々とそう言った。
「私は正義の味方じゃないんだよ? 単なる名探偵だ。私は確かにいけないことをしているかもしれないけど、その分ちゃんと物語に収拾を付けているだろう?」
「それでも、犠牲者が増えるのはよくないと思います……だって、人が死んでるんですよ?」
「私が来なかったらどうせ死んでいた人間だ」
 それはその通りかもしれない。その事実に気付いて息を呑む。それどころか、北崎が来なければ犯人すら捕まらなかったかもしれないのだ。
「それでも北崎さんが手を引いたら、他の名探偵が代わりに事件を解決していたかもしれないじゃないですか」
「もしもの話だ。呼ばれたのは私だった」
「北崎さん」
「策間」
 有無を言わせない口調だった。彼は今、この状況が致命的であることを自覚している。凶器を持った犯人と対峙する時のように、北崎は策間との間合いを取っていた。不意に策間は、ついこの間体験したSMプレイのことを思い出した。求められている役割。探偵の持ちうるサディズム。要請されたサディズム。そこに北崎の意思はあるのだろうか?
「君はハイムリック北崎の助手でいたくないの?」
「………………食い扶持ですからね」
「私は有能探偵ハイムリック北崎でいたいよ。道徳が無くても、才能が無くてもね」
 それを聞いた瞬間、策間の覚悟は決まった。立ち上がって、そのまま無言で走り出す。北崎が小さく「えー」と言うのが聞こえた。えー、じゃねえんだよ。
 もう決めた。今決めた。
 策間は、ハイムリック北崎を殺すことにした。勿論、ミステリー的な意味じゃない。社会的に殺すのだ。有能探偵として持て囃される彼を殺し、探偵でいられなくしてやるつもりだ。策間はあの日の注射器を覚えている。捏造の証拠を、あまりに合理化された探偵を知っている。
 ハイムリック北崎の人間性を取り戻さなければいけない。合理性もサディズムも神聖も切り離して、一人の人間に戻す! 彼を人間に降ろす! それを考えると、策間は否応無く興奮した。そこで気付く。策間はハイムリック北崎の本名すら知らない!
 あの館での殺人を、ハイムリック北崎の最後の事件にするのだ。それが出来るのは、助手である策間だけだった。道路を駆けながら、策間は自然と笑い出していた。高く響く笑い声をバラ鞭の打撃音に重ね合わせるのは、チープであるけれど魅惑的だった。早く、ハイムリック北崎を殺さなければ。
 ハイムリック北崎にとっての一番の弱みは、前述の通りの証拠品の捏造にあった。スピード解決の要であり、策間だけが知っている菩提樹の葉でもある。
 ただ、北崎を殺すには、それこそ疑う余地のない証拠が要求された。ハイムリック北崎の人気は盤石で、世間の名声は限りない。あれを殺す為には、それだけ致命的な何かが必要だ。
 しかし、北崎は全てを完璧にやってのけていた。直接的な捏造の痕跡は見つからない可能性の方が高い。
 ハイムリック北崎の唯一の失態が、策間による目撃だったのだ。しかし、あの絶体絶命の窮地で、北崎はアクロバティックな離れ業を演じてみせた。致命傷であるところの策間を弄して、強引に解決した。
 そんな生温いことをしている場合じゃなかったのだ。策間はあそこで、ちゃんと拒絶するべきだった。そうしたら、まだ傷は浅かったはずだ。身体に食い込んだ返し針のように、北崎と過ごした日々はじわじわと策間の懐に入り込んでいる。正直に言おう、名探偵の助手は楽しかった! 何といったって味わえる非日常の濃度が違う。大手商社の営業職とハイムリック北崎の助手職は、策間の中で殆ど同じくらいの重さを持っていた。狂ったことに、後者の方が若干比重が重いくらいである。
 もうどれだけお高い月給を積まれても離れられる気がしなかった。親との食卓や煌びやかな合コンでおいそれと口に出来ない職であろうとも、探偵助手というものの悦楽を知ってしまった!
 事務所の扉を開ける時でさえ、策間の手は震えていた。ここに通う日々は楽しかった。北崎が失墜した後はこの事務所すら無くなってしまうのだろうか? それを思うと泣きそうになった。それでも、感傷に浸っている暇は無い。北崎が追ってくる前に、事務所の中で何かしらの証拠を掴まなければ。
 背水を敷くかのように、策間は派手に荒らしまわった。発狂した馬よりも酷い暴れっぷりだ。好きだった部分から念入りに破壊し、棚という棚をひっくり返してやった。そこで気付いたのだけれど、この事務所には案外物が無かった。北崎は半分ここに住んでいるようなものなのに、生活感がまるでない。
 彼にプライベートはあるんだろうか? と間抜けな疑問が浮かぶ。四六時中彼は探偵をやっているんだろうか? 個性で売っている探偵が、実はおぞましいほど無個性な可能性は?
 そんな中で、北崎の私物と呼べるものは、一つしかなかった。
 いつぞやの時に触れた『勉強ノート』だ。
 そもそも、探偵の勉強とは何なんだろうか? あそこでちゃんと突っ込んでおかなかった自分に驚いていた。だって、探偵ってそもそも勉強してなるものじゃないのに! 北崎が北崎でいる為の秘密のノート。それこそ、彼が行った捏造と合理の証拠なんじゃないだろうか?
 物置の扉を開けて、無造作に置かれた段ボール箱に飛びついた。心臓が狂ったように高鳴っている。ノートは移動されることもなく、そのまま中に残っていた。
 手に取って開く。目を通して五秒、自然と声が漏れた。
「………………は、え、何これ」
 最初は小説か何かかと思った。鍵括弧で括られた文章がずらりと連なり、ノートをびっしりと埋めていたからだ。上から下まで、無駄の無いノートの使い方がされている。几帳面というよりは、偏執的な使い方だった。
北崎さんは小説家志望だったんだろうか? というふんわりとした思い込みは、数行読んであっさり消えた。小説にあるべきエンターテインメント性なんかそこには無かった。書かれていたのは単なる記録だ。
 ハイムリック北崎の記録だった。
 普段策間が接している『ハイムリック北崎』の全てがそこにあった。何を元に書き起こしたのかは知らないが、彼が言ったこと、彼の言いそうなこと、その全てが鍵括弧に閉じ込められていた。
 乱れた筆跡は焦りだろうか。A4サイズに切り取られた悲鳴。零れ落ちる何かを掬い上げるように、判読出来るギリギリの文字が並んでいる。一秒でも早く、ノートの主はこれらのことを書き留めておきたかったのだろう。
 忘れない内に。色褪せない内に。
 自然と手が震えた。生死の境で、自然の摂理に抗っているような、そういう気持ち悪さが這い寄ってくる。ノートはいくらでもあった。『探偵』になる為に、必要とした冊数は途方も無い量だった。
「あ、それ見たのか?」
 反射的に振り返る。咎めだてする様子は無い。手に持ったノートを落とすようなことはしなかった。北崎の前でそんな風にノートを扱えるはずがないのだ。
「北崎さん………………」
「どうしたんだ? 幽霊でも見たような顔をして。私は宇宙人くらいしか信じていないんだけど」
「貴方、誰なんですか」
 北崎本人は、『北崎』のことについて仔細に記録したりしないだろう。このノートは、北崎じゃない誰かが、北崎について書き連ねたものに違いなかった。それでいて、この筆跡には覚えがある。この筆跡は、鹿撃ち帽がトレードマークの、有能探偵ハイムリック北崎のものだった。――目の前の男のものだ。
 それってどういうことだろう? 策間は自問する。そして、答えはすぐに出た。
「ハイムリック北崎が本名なわけないだろって、私はちゃんと言ったよな?」
 果たして、ハイムリック北崎はそう言った。もう隠すつもりもないのだろう。むしろ、隠しているつもりなんて欠片もなかったに違いない。最初から、彼はそういうスタンスなのだ。
「言ってました、言ってましたけど……」
 酷いミスリードだと思う。あの日、北崎は策間のことを華麗に裏切ってみせた。賢くて美しくて、善性よりも事件の解決を善しとする彼の名探偵が、ヘンリー・ハイムリックの名前を知らないと思わせやがったのだ。
 そうして、北崎は体よく策間のことを完璧な助手に仕立て上げたわけだ。オーケイ、適度に人間を舐めていらっしゃる。道徳も倫理観も良識も無い。労働基準法だけはきっちり守ってくれたけど、その他は落第もいいところだ。
「嘘でしょ、本物じゃないなんて……だって、ハイムリック北崎は……有名で……有能で……名探偵で……」
「ハイムリック北崎にだって不遇の時代はあったんだぞ? そもそも、私が有名になったのはここ二年のことだ。長い下積みをしたんだよ。私がいくら有能であれども、最初の二年はまるで相手にされなかった。節穴だと思わないかな? 私はこんなに名探偵としての矜持に満ちているのに」
「下積みとかそういう話じゃないと思うんですけど……」
「でもまあ、一度有名になってしまえばこっちのものだ。私は今や有能探偵ハイムリック北崎なんだ」
「あの、どこからどこまでが嘘なんですか」
「ハイムリック北崎が私の本当だよ」
「親友に会いたくて探偵やってるっていうのは? 大豆と枝豆が同じものだっていうのは? 下北沢では食用のキリンを出してくれる居酒屋があるっていうのは?」
「ごめん、食用のキリンは嘘」
 ということは、それ以外は本当だということだ。探偵をやる動機も、枝豆と大豆も。真実のステージに上げられたものの可笑しさに笑った。勘弁してくれ。
「策間。人間が人間に与えられる最上のものって一体何だと思う?」
「…………わかんないですけど、愛とかですかね」
「優等生な答えだな」
 優等生どころのお話じゃない。モラリストがあふれるこの世界において、策間はこれが模範解答だと思っている。斜に構えたニヒリストなら、あるいはお金と答えるだろうか? でもまあ、きっとその二択で済むはずだ。
 恐ろしいのは、目の前の男が全く別の解答を用意していそうなところだった。右でも左でも無い第三の選択肢が、吊り上がった口の端から見えている。
「私が探偵を始めたのは、まあ結局のところ才能があったからなんだけどさ」
 傲慢な言葉だった。けれど、それは事実だ。北崎は洞察力に優れ、推理力もあった。大胆さも弁舌も、思い切りの良さも何でもあった。求められる役割を引き受けるだけの才覚があった。
「でも、そんな中で、才能が無いまま探偵になろうとした奴がいた。それが、オリジナルのハイムリック北崎」
「オリジナルのハイムリック北崎って……そんな、世襲制じゃあるまいし……」
「似たようなもんだよ。俺には探偵に必要な正義感とか倫理とか道徳とか善性とか欠片も無かったから、結構大変だったよ。才能が無くても、探偵に相応しいのはオリジナルのハイムリック北崎の方だったよ。お前が好きそうな探偵だった」
 策間は、北崎と見做していた男の口調が変わっていることに気が付いた。隙を見せているのではなく、意図的にそうしているのだろう。そのくらいの器用さが、目の前の彼にはあった。もしかすると、『オリジナル』の方に敬意を払っているのかもしれない。
「そっちのハイムリック北崎さんはどうなったんですか?」
「才能が無さすぎる上に空気が読めなかったからさ、方々の殺人現場に赴いてはヘイトを溜めて帰ってきてたよ。ついた綽名は無能探偵。大学在学中には何の成果も出せなくて、結局、結構いいとこの一般企業に就職したんだけど、あいつは諦めなかった。就職した後も、週末探偵ハイムリック北崎として細々と暮らしていたわけ」
 さながら兼業探偵でも呼ぶべきか。なかなか悪くないライフスタイルだと思う。よっぽど探偵が好きだったんだろうか。策間はその執着そのものを苦しく感じた。
「そしてその日がやってきた。とある資産家一族の館で起きた殺人事件に、ハイムリック北崎は巻き込まれた。あいつは館の近くで事件待ちをしていて、あの日も名探偵連中からは失笑を買っていた。でも、土日の話だったから北崎には都合が良くて、うっかりやっちゃったんだよな、多分」
「……オチが読めましたけど」
「北崎はね、その連続殺人事件の被害者の一人になった。別に一族の因縁とか募る憎しみとか何の関係も無いのに、ただただ巻き込まれて殺された。二番目だったかな」
 最終的にその事件では六人が殺され、通りすがりの名探偵が犯行を暴いたことにより、犯人まで自決したのだという。一連の悲劇は新聞に載った上で忘却のラインに乗せられた。全部終わった話だ。
「ハイムリック北崎が解決した事件の中にはもっと酷い惨状のものが沢山あったよ。村一個が奇祭の為に焼き払われたりとか、デスゲームを催す為だけに五十人単位で人間が集められて、残ったのは数人とかさ。探偵が生きてる世界っていうのはそのくらいのキチガイ沙汰があって然るべきなのに、北崎一人が死んだくらいで、笑っちゃうくらい悲しかった」
「それが普通ですよ」
「探偵助手がいっちょ前に人間っぽいこと言うなよ」
 北崎が笑う。
「北崎の葬儀は至って普通に執り行われたよ。誰もそれが偉大な名探偵の死だなんて思わなかった。まあそうだよな。実際別に偉大な探偵ってわけじゃなかったし。北崎は友達がいなかったから、俺が弔辞とかやったんだけど、いやー、あれ無理だね。何も言えんわ」
 葬儀や弔辞や感傷などの言葉を北崎が口にする度、策間に得も言われぬ居心地の悪さが過る。一度だけ、関わった殺人事件の被害者の葬儀に呼ばれたことがあるのだが、あの時のことは二人の中で何となくタブーとなっていた。
「あの事件がハイムリック北崎の最後の事件だって知ってるのは俺だけだった。だから、延滞したんだ」
「延滞?」
「俺はまだハイムリック北崎の物語が観たかった」
 そして、彼は勉強して学んで、一から下積んで、ハイムリック北崎になった。ノートは努力の証だ。優等生ではなかったという彼が、必死で行った勉強だ。
 どれだけの水準の『ハイムリック北崎』を彼が求めているのかはわからなかったが、まだまだ満足はしていないらしい。彼が求める『ハイムリック北崎』が完成した瞬間、彼は真に親友と再会するのだ。回りくどい蘇生法だけれど、宗教にも心霊にも科学にも拠らない独自のものである点は評価出来た。
「き……北崎、さん」
 どう呼び掛けていいのかわからなくて、仕込まれたその名前で呼んだ。役割を規定する言葉はSMプレイの文脈にあるものであった。あの日五反田で覚えたことを、北崎に伝えておくべきだったかもしれないと今更思う。
「本名、何て言うんですか」
「北崎喜咲くんだよ」
「そうじゃなくて、北崎さんが、北崎さんになる前の……」
「もう無い」
 決意の固さを示す、というよりは、何かしらの約束を守っているかのような響きだった。目の前の北崎は、北崎になる為にそれ以外を本当の意味で捨てたのであり、それ以後北崎であり続けたのだ。彼の本物は、言葉通りハイムリック北崎の中にしかない。
 抜け目のない彼の『本名』を示すものはこの世に存在しないだろう。勝手な予感だけれど、策間はそう思った。
「それに、知ってもつまんないぞ」
 つまらなそうに呟く彼に、ほんの一瞬だけ、策間は『北崎』の素を見たような気がした。人生を面白いつまらないの尺度で計ってんじゃねえよ。
「それで、どうするつもりなんですか」
「どうするって?」
「俺のこと」
 殺すんですか? なんて無粋なことは尋ねなかった。さっきまで策間は北崎のことを殺そうとしていたんだし、その逆をされても仕方がない。撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけなのだ。策間の拳銃からは弾すら発射されなかったけど。
「まあ、とりあえずクビかな」
「あ、ですよねー」
「申し訳ないけど就職先見つけてくれな。俺はもう知らない」
 拗ねたようにそう言う北崎は、最後の最後までそこそこ良い雇い主だった。良好な関係を築いていた、策間の大切な名探偵である。
「お前のこと結構気に入ってたんだけどな」
「俺も結構気に入ってました」
「もうこんな特別二度と味わえないぞ」
 そう言いながら、北崎がゆっくりと歩み寄ってくる。
 策間は一瞬、そのまま抱きすくめられるのかと思った。こうして脈絡の無いハグによって全てを有耶無耶にしてしまうつもりなのか、と。そういう大団円のパターンも今まで結構見てきたのだ。
 だから、首に冷たい感触を覚えた瞬間、策間はただただ安堵した。そんな出来合いの感傷で片付けられるのはごめんだった。彼が渡されたいのは引導だ。もう二度とここへ戻ってこられないような、もう二度とハイムリック北崎を殺そうとなんか思えないような、そういう楔だった。
「これは餞別だ」
 北崎が静かに呟く。一体いつから用意していたんだろうか。こんなもの。
「それは遠隔操作で爆破出来る爆弾なんだ。俺がそう指示したら、すぐさま爆発してお前の首を吹き飛ばす。『キングスマン』くらいなら観たことあるだろ? あのくらい派手な爆発が、お前の身体でも起こる」
「すいません、観たことないんですけど」
「お前がもしハイムリック北崎を殺そうとするなら、その時はこれを作動させてやるよ。でも、もしお前が十年黙っててくれるなら、絶対にそんなことしない。それは単なるお洒落なチョーカーってことになる。元々、それ以降は起爆装置が作動しないようにもなってるし」
「十一年後に俺が余計なことを言った場合は?」
「十年も経てば、ハイムリック北崎のことなんかどうでもよくなるよ」
 そんなことはないはずだ。だって、悪例が目の前にいる。目の前の偏執狂は、きっと十年経っても忘れない。
「というか成人男性がチョーカーってキツ過ぎるんですが」
「外してもいいよ。それ絆創膏代わりだし。爆弾は首筋に埋め込んどいた」
 そう言って、ハイムリック北崎は手の中にあった小さな注射器を、わざとらしく絨毯の上に落とした。演出過多な彼だから、その注射器はあの時と同じ種類のものだろう。
「それじゃあ、さよならだ策間」
「本当、何てことしてくれたんですか」
「怒る?」
「でも仮にここで怒って北崎さんを殺害しようとしたら、それはそれで爆破しますよね?」
「それはまあ、うーん」
「するんでしょうねえ……」
 とんでもないことをしてくれたものだ。人の身体に爆弾を埋め込んで平然としているなんて、正気の沙汰じゃない。普通に犯罪である。今まで暴いてきた殺人事件と同じくらい悪辣とした行為である。ただ、策間は骨の髄まで毒されている。キチガイに爆弾を埋め込まれたことよりも、目の前の男にクビを言い渡されたことの方が、ずっと悲しかった。
 さっきまで殺そうとしていた男に解雇されるのが、とても悲しかった。
「それじゃあ、今までありがとうございました」
「おいおい、泣くなよ」
「泣いてないです」
「泣いてるよ」
 泣けるくらいなら、こんな絶望的な気持ちにはなっていなかっただろう。それとも、稀代の名探偵は策間にはわからない涙すら見抜けてしまったというんだろうか? 有能探偵の言うことはいつだって正しい。人の感情まで捏造してんじゃねえよ。
 策間はハイムリック北崎の出した解答に反論しなかった。そのまま、慣れ親しんだ職場を出て行く。
 先んじて申し上げておくと、策間がハイムリック北崎探偵事務所の扉を叩くことは、これ以降二度と無かった。それは、彼がおぞましい殺人事件に巻き込まれることが無かったという幸運を裏付ける事実でもあり、彼が二度とハイムリック北崎に巡り合うことが無かったという不幸を裏付ける事実でもある。
 家に帰ってチョーカーを外すと、首筋に小さな赤い点が付いていた。数日もすればすっかり治ってしまいそうな、心許ない傷だった。この下に、ハイムリック北崎が埋め込んだ爆弾があるのか、と策間は一人思う。
 赤い傷の下にあるものを爪で掘り出そうとして、結局やめた。
 人生は続いていくし、策間は働かなければいけなかった。首に傷があるままでは、面接で不利になるかもしれない。彼はどこかの企業に、拾い上げて貰わなければならないのだ。
「あ、ハイムリック北崎って知ってますか? あの名探偵の」
「あー、聞いたことあるね。え、助手って何やってたの?」
「そりゃもうありとあらゆることですよ。死体のことも千切っては投げ千切っては投げ」
「どうしてやめてしまったのかな?」
「方向性の違いです」
「はあ、色々あるんだねえ探偵業界も」
 策間はにこやかに頷くと、面接官達のことをぐるりと見渡した。探偵業界は営業スマイルが殊更に重要な世界なのだ。面接官の一人や二人を篭絡出来ないようではお話にならない。
 方々の面接で『あのハイムリック北崎の助手をやってたんですよ』と言うと、面接官達は面白いくらい食いついてくれた。殺人や密室と縁遠い彼らは、適度に距離を取ってそれらを面白がれるのだろう。信じられないほどすんなりと内定が出て、白昼夢の最中にいる内に就職が決まった。どうしてこんなことが今まで出来なかったのだろう。傲慢にもそう思うくらいだった。
 策間はその中で一番当たり障りの無い企業に入社した。給料は北崎のところで貰っていた時より少しだけ安い。真夜中に事件現場に呼び出されることもなければ、明け方のラーメンに付き合わされることもない、至って普通の職場である。生活全てが助手業に組み込まれていたあの時に比べれば、なんてホワイトな仕事だろうか。清廉過ぎて涙も出ない。
 ハイムリック北崎は有名で有能な探偵なので、たまに噂を耳にする。方々に現れては事件を解決し、村の因習を解き明かしているらしい。彼の名声を脅かすものなんてどこにも無い。策間が何一つ語らないからだ。
 今日も生きている。爆発は起きない。ハイムリック北崎の秘密は守られ続けている。
 策間はたまに、思い出したように首筋を見る。もう傷跡なんかすっかり消えてしまった白い首に指を這わせ、ハイムリック北崎のことを考えた。十年にはまだ遠い日のことを考えた。
 果たして、この首に爆弾が埋め込まれているというのは本当なのだろうか? ハイムリック北崎に牙を剥いた瞬間、彼は正しくこの首を爆破してくれるのだろうか? それとも、全てはハッタリで、策間に施されたのは単なる脅しだったのだろうか?
 社会に上手く溶け込んだ策間は、もう北崎の秘密を明かそうとは思わない。彼を殺そうとは思わない。
 それでも、この実在するかもわからない爆弾のことを思うと、策間の中には奇妙な感情が渦巻いた。例えば、煮え立つ焦燥のような、あるいは、もうここにない安らぎのような。
 鏡の中の策間は、知らず知らず例の台詞を諳んじる。美しい一節を反芻する。――人間が人間に与えられる最上のものって何だと思う?
 その答えを、今ならはっきりと言えるだろう。

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売られる戦場買う人でなし4


 その日は晴れだった。問題の無い凡庸な天気だ。そんな日に、同居人は僕達の家に不遜にも仕掛けられたテロの話を始めた。
 同居人の口から発せられるにしては随分重々しく語られ始めたそれは、最初は単なる世間話にしか思えなかった。じっとりとした目線を華麗に無視して、同居人は語りだす。
「扉の前にしめじが落ちてたの」
 同居人は箸を一切休めずにそう言った。
「はあ、しめじ」
「ねえ、真面目に聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。怖いね。これだから不景気は嫌なんだ」
「扉の前にしめじが落ちてたんだよ。それも一本じゃなくて、一パック分丸々。そのままにしてたんだけど、見てない?」
「帰ってないっていうか、出てないっていうか……それで? ああ、そう、しめじが落ちてたんだっけね」
 同居人があまりにも途方に暮れているように見えたので、仕方がなく僕は助け舟を出した。途端に、白米だけをもしゃもしゃと咀嚼していた同居人が顔を明るくしてチンジャオロースの更に箸を伸ばす。同居人の感情表現は表情よりも食事風景に現れる方が顕著のようだ。
「そうなの。ピッキングの為の針金だったらまだわかるんだけどね、しめじなの。新鮮そうなしめじなのに地面に潔くぶちまけてさ、何か気概を感じた」
「僕が自殺未遂を起こした時は気概があるって言ってもらえなかったんだけど」
「頼むからこのキッチュでキュートなホラーを話させてくれよ」
「ホラーとは言っても広がりがないからな」
「でも意味わかんないものって怖いからね。何かよくわからないけど」
「まあしめじならいいだろ、実害はないし。キノコはバターで焼いて醤油かけたら大抵美味いし。……拾ってくるなよ?」
 不満そうな顔の同居人を、一応牽制しておく。そして同居人は、次のような言葉で今日の食事と僕達の家の前にばらまかれたささやかなテロについて纏め上げた。
「ともあれ、これは事件だよ。何かを感じる」
 事件。
 大袈裟な言い方だけれど、そこを強く否定することも難しそうだった。だって、人間どんなことがきっかけで崩壊してしまうかなんてわからない。
「事件か。……事件ね」
「これからどうなっていくんだろう」
「どうもならないよ。そうだろ」
 しめじが落ちているならシュールなホラーになるだろうし、針金が落ちていたらクライムサスペンスになるだろうと同居人は言った。

 この物語が一体どんな方向に向くべきなのかはわからなかったけれど、次に落ちていたのは、針金だった。
 路線変更の始まりである。
「これは事件だよ」
 同居人がそう決めつけた。傍迷惑な路線に行かれてしまった。
 重々しく話す同居人が読んでいるのは、僕には縁遠い新聞だ。新聞にはお伽噺か三文ゴシップしか書かれていないのに。
 はてさて。ピッキングだろうがしめじによるテロだろうが、どちらにせよ殆ど家から出ない僕には関係がない。家の目の前にしめじが落ちても、針金が落ちても、僕の生活は変わらない。
 こんなことで同居人と僕との間に波風なんかを立ててやるつもりはないのである。僕と同居人の生活は、ある意味で危うい均衡の上に成り立っていた。それをわざわざ崩したくはない。
 僕達の生活が何かによって壊されるのなら、それは同居人が僕に愛想を尽くすことか、もしくは僕がまともに社会に出て、こんな場所から輝かしい明日へ踏み出すことじゃないといけなかった。
「新聞にはくだらないことしか書いてないね。最初にしめじ、次に針金だよ。こんな大事件が載らないのがおかしい」
「正直実際に鍵がぶち壊されたわけでもないし、鍵が壊されて僕が殺されるかなんかしないときっと載らないだろうね」
「でも、七本も落ちてたんだよ。ラッキーでもないのにラッキーセブンに合わせてきてるんだよ。なんだか凄い気概を感じる」
「僕が七回バイトの面接に落ちた時は気概があるとは言って貰えなかったけど」
「凄いね。気概を感じる」
「賞賛が遅い」
「過去の行動に今から賞賛を送ることが出来るっていうのはゴッホが死後に認められたことからもわかるだろ? 頼むからこの身近に迫るサスペンスに震えてくれよ」
 同居人は僕を愛おしそうに見つめながら、またしても途方に暮れていた。
 僕達には確実に温度差があった。確かに何かはこれからも起こるだろうし、僕達の間では確かに大事件なのかもしれないが、僕には興味がなかった。端的に言ってどうでもいいのである。意識してしまったら負けだ。それに、ここのアパートの扉が針金くらいでどうなることもないだろう。
「監視カメラでもつけるべきかな」
「まあ、君の気が済むならそうしたほうがいいんじゃない」
「いつも家にいるのは君だから、君が気になるならそうした方がいいかな」
「僕は別にどうでもいいけどね」
「殺されるかもしれないだろ」
「別に構わない」
 どうせぶち壊れているのである。今更のお話だ。
「やめてよ、そういう言い方」
「……なんで」
「嫌なの」
 それなのに同居人は、こういう話をすると酷く哀しそうな顔をする。合わないな、と思う。釣り合わないのだ。同居人とは。僕は同居人といるべきではないのだろうし、同居人は言わずもがな僕と一緒にいるべきじゃない。
 けれど、ぶち壊れた僕をただ一人待っていてくれたのも同居人なのだった。僕は思い出す。大学をやめた僕はアルバイトという身分ながらも働いていて、妹ちゃんと二人になった家に生活費を入れていた。
 僕は夜間のアルバイトしか受からずに、昼間大学に行く妹ちゃんとは入れ違いになる生活をしていた。
距離を取ったその分、僕と彼女がうっかり家で鉢合わせてしまうと、戦争だった。戦争といっても、大体は妹ちゃんが仕掛けてくる掃討戦だ。僕は指を折られた時のように、ただ黙って妹ちゃんの激情を受け続けていた。
 妹ちゃんは、僕の退学理由を、彼女の学費に求めてしまっていたらしい。美しいけどおよそありえなさそうな思い込みだ。そんなの馬鹿げているしナンセンスだった。
 僕は僕の為に大学を辞めたのだ。母親の実家はなかなか裕福で、実を言うと働かなくたって生活費には困らないし、保険金だって結構な額があった。妹ちゃんが気に病むことなんて一つもなかったのに、妹ちゃんはあれでなかなか神経質だったのだ。
「殺してやるから」
 妹ちゃんは料理が上手かった。母親からよく楽しそうに教わっていただけのことはある。その妹ちゃんが包丁を構えたのを見て、彼女がいよいよ切実であることを知った。料理を大切にする人間にとって、包丁が大事なものであることはわかっていた。少なくとも妹ちゃんにとっては大事なものだったはずだ。それを僕なんかに向けるということは、多分、そういうことなのだろう。
「ごめんね」
「謝るな」
「ごめんね」
「出ていけ」
「うん」
「出ていけ! 私とお母さんと、お父さんの家から出ていけ!」
 妹ちゃんは泣いていただろうか。覚えていない。ただただ怖かった。殆ど何も持たずに転がるように飛び出していくことになったのもその所為だ。あのままあの場所に留まっていたら、きっと妹ちゃんは僕か自分を刺していただろう。あの包丁は、母親が使っていたものなのだ。
 もうあの家には帰れないと思った。あのまま僕が妹ちゃんの傍に居れば、妹ちゃんはいつか必ず崩壊してしまう。まったく、同居人の悪戯は随分な余波を残してくれたものだと思う。けれど、妹ちゃんが事の真相を知ることはきっと一生ない。
 行くところはなかった。財布の中には六千円程度しか入っておらず、自分の口座にも、おぞましき数字しか記されていない。家にいても外に出ても命の危険性がある。それなら、妹ちゃんを犯罪者にしない為に外で野垂れ死ぬのもいいかもしれない。上手い具合に今は冬だし、きっとこの冬一番の冷え込みだ。
 どうしてこうなってしまったのかは結局わからないままだった。妹ちゃんと和解する方法とか、同居人と和解する方法とか、大学を辞めずに済む方法とか。基本的に僕の心持一つで何かが変わったかもしれない物達だ。
 それでも、物事にはタイミングというものがある。
 どれだけ後でああだこうだ思ったとしても、こうなってしまったことに対して何を言っても無駄なのだ。
 というわけで、僕は半ば全てを諦めきっていた。妹ちゃんや同居人、もしくは死に際の母親がしたのとは違った方向でだけれど。
 吐く息だけは白くて嫌になった。これじゃあ全ての物事に理由を付けたがっている可哀想な人間みたいだ。一体誰が決めたものが罪だと咎められるのだろうか。誰一人法なんか犯しちゃいない。一体誰が誰に償いをすればいいのだろう?
 前述の通り、寒い日だった。震えながら僕を待っているのを見て、僕は受験以外にはおよそ使わないであろうと、たかを括っていた知識を思い出す。……カノッサの屈辱、だっけ? あの、法王か誰かを怒らせてしまった皇帝が三日間くらい雪の中で許して貰えるまで立ってたという、アレである。
 同居人の立ち姿はまさにそれを彷彿とさせた。恋人を待っている可愛らしい女の子の姿でもなければ、退屈な講義をやり過ごす学生の姿でもなかった。はっきり言ってしまえば、同居人の立ち姿は随分屈辱的だったのである。きっとあの女はそんなことを認めやしないだろうけれど、同居人は寒気がする程切実だった。面倒臭いことも、面倒臭い男も嫌いなはずだ。ましてや、僕であるならば。
 罪悪感なのか責任感なのか惰性なのか、精々その三つと擦り合わせて同居人の在り方を観察してやろうと思っていたのに、そのどれとも違う。同居人は僕がいないと生きていけないんだというような、真摯な姿をしていた。屈辱的な姿だった。件の歴史用語との共通項は簡単に見つかる。同居人も皇帝も、どうしたって許して欲しかったのである。
「待ってたよ」
 僕を見つけた同居人が浮かべたのは、今ではすっかりお馴染みの、慈愛と諦念を華麗に織り交ぜた笑みだった。
「待ってたも何も。……何、君はエスパー? 僕が妹ちゃんに家を追い出される未来が見えてたの? それならもう少し前に教えてくれたらよかったんだけどな。教えて貰えたんなら支度をしておいてたのに。身一つで放り出される羽目にはならずに済んだ」
「ううん。エスパーじゃないよ。監視してただけ」
 同居人はさらりと言った。監視してた? 季節は春から凍てつく冬になっていた。あの永遠に思えるような長い夏を越えてなお、同居人は僕のことを見ていたというのか。普通に怖かった。ストーカーに遭うのは初めてだった。
「もう会ってくれないだろうって思ってたから、ずっとチャンスを待ってたの」
「それでそのチャンスが今やって来たってわけか。はは、何だよそれ。怖いし気持ち悪いし、変だろ」
「まあまあ、とりあえずココアでも飲みなよ。寒いでしょ?」
 そう言いながら同居人が強引に押し付けたココアは完全に冷めていた。一体、どれだけの間僕を待ち、ココアを渡す機会を伺っていたというのか。全く、大した執念である。押し付ける時の手の震えが寒さによるものだけじゃなさそうだったので、心底この女は不憫だと思った。
「私は料理が出来ないんだ」
「僕も出来ない」
「でも私よりは出来ると思うよ。私は包丁一つで全てを終わらせようとする人間だから。それなのに随分食べるのが好きだ」
 同居人は後にオニオンスライスのみの食卓を作りあげる手をひらひらさせながら、そんなことを言った。
「私は多分一人では生きていけないと思う」
「それは難儀だね。でもまあ君は両親に家から追い出されたりとかしないだろ? 妹ちゃんに八つ当たりされて命からがら逃げだすようなことにもならないはずだ」
「確かにそうだと思う。私に妹はいないしね」
「それじゃあ大丈夫だな。達者で暮らせよ。ああ、この台詞一度は言ってみたかったんだ」
「ねえ」
 同居人は僕の腕を掴んだ。存外強い力だった。驚いた僕は、あっさりとココアの缶を取り落とす。吐く息が震えた。冷たい風に晒された顔が軽く痛いくらいだった。同居人はこんな風の中に晒されていていい人間じゃないと思った。……本当に。心の底から。
「一緒に暮らそう」
「どうして」
「今夜は冷えるよ。……ねえ、一緒に暮らそうよ」
 茶番だと思った。僕達はお互いのことなんて知りたくもない関係のはずだから。もう全ては取り返しのつかないことで、いくらチャンスを伺ったからといって簡単には戻れない。けれど同居人は、同居人になる前の同居人は、白い息と一緒にこのアパートの名前を吐いた。明るさなんてどこにもない、暗い展望を備えた昏い名前だった。
「大丈夫だから」
 何の根拠もなく同居人は言った。
 そこから同居人は僕の同居人になった。
 そこから同居人は僕の宗教になった。

「ピッキングされるってことは、ここの家に誰か入ってくるかもしれないってことだよね」
「その場合、やっぱり殺されるのは僕だろうな」
「でも君はあんまり世間に認知されてないし、狙われてるのはやっぱり私なんじゃないかな」
「案外わかんないよ。娘に寄生して暮らしているクズ男を殺しにきた君の両親かも」
「お父さんお母さんには君のこと隠してるから、大丈夫。その点は」
 僕は犬か猫か。
「私、少し怖いんだよね。そう考えると外に出るのが」
 同居人が僕のようなことを言った。
「でも、会社には行かなくちゃいけないから困るよ」
「それは僕へのあてこすりか?」
 同居人は慌てて首を振る。悪意がないからといって何をやってもいいってわけじゃないんだけどな。
「……一人でいるのはやっぱり怖いんだよ。明るくても何が起こるかわからないし、針金のすぐあとだから」
「要するに、一緒に行って欲しいって?」
「駅まででいいし、明日だけでいいの。ただ、やっぱり怖いんだ。……駄目かな」
 迷った。前のお願いとは質が違う。基本的に、僕は同居人が強引にねだらなければ同居人の頼みなんて絶対にきかない。そこで、妙なことになるのが怖いからだ。妙なこと。具体的に、といわれれば困ること。
 今日の同居人はそこまで強引というわけじゃない。流されただけ、という言い訳が使えない程度にはしおらしくて、切実だ。同居人にはもしかすると付け狙うストーカーがいるのかもしれず、同居人は怖がっている。同居人は――。
 舌打ちが出た。こんなことは初めてだった。単純に苛立ったのだ。外の明るさ。面接に行けなかった僕。医者から貰った薬は面倒なので飲むのをしばらくやめていた。
「……もしかして、いいの?」
 返事はしなかった。結局僕は同居人を駅まで送りに行った。同居人は終始笑顔で、何かを話していたけれど、内容よく覚えていない。
 駅に着いて、満点の笑顔をした同居人がからっと言う。
「私と一緒なら、昼でも君はちゃんと外に出られるんじゃないかなぁ」
 言いたいことは色々あった。別に、お前の存在なんてそんなに大きなものじゃないよ、とか。外に出ることそれ自体と僕の社会復帰はまた大きく違う話だ、とか。
同居人は僕を廃墟のラブホテルに連れ出したことを思い返している。きっと、それを何だかキラキラしたベールに包んで、輝かしいものと見ているに違いない。たまらなかった。
 僕を外に出したのは針金だった。珍しく怯えた同居人。同居人の笑顔。そうだ、僕は外に出られる。同居人なんかいなくても外に出られる。
「僕は外に出られるよ」
 僕はきっぱりと言った。
 同居人の顔が少しだけ緊張する。
「そうか」
 同居人はそれだけ言った。僕は太陽の温かさを背中に受けながら、同居人に向かって深く頷いた。

 そうしてついに鍵が壊されたという知らせを受けたのが、今日の話である。針金が見つかってから、ゆうに三週間が経っていた。
 僕は珍しく、とあるアルバイトの面接に行っていた。今までのような珍妙で物悲しいアルバイトではなく、とあるゲーセンのバイトだった。
 「面接に行ってくる」と告げた時の同居人の顔くらいしか特筆することはない。同居人は何故か少しだけ動揺した様子で、ぎこちなく「いってらっしゃい」と言った。そしてゆっくりと窓の外を見る。今が夜でも明け方でもなく、真っ当な朝だということを確認して恐ろしくなったのだろう。
「朝だよ」
「まだ出ないけどね。面接は昼過ぎだ」
「私、今日早上がりなんだよ」
 同居人が何の仕事をしているのか知らなかった。なので、ふうん、とだけ返す。まさか、誰もいない家に帰りたくないだなんて言いだすんじゃないだろうな。
「そうか。珍しく僕が後に帰るのかもしれない」
「覚悟しておかなくちゃね」
 そうして同居人が少し笑った。そんなことに対して何の覚悟をするんだよ、と思ったけれど、何も言わないでおいた。
 僕は同居人がいなくても外に出られること証明しなくちゃいけなかった。針金が僕にもたらした恩恵はそう考えると素晴らしかったのかもしれない。
 あんなもので僕は外に出られるのだ。
「ああ、そう考えるとやっぱりこれも覚悟しなくちゃいけないのかな」
 歌うように同居人が言う。そういえば同居人は歌が上手かった。一体いつ聴いたのかは覚えていない。
「君がいない家にまた何か起こるんじゃないかって」
 その声を聞いてもなお、僕は面接に行く。

 ゲームセンターは最寄駅から二駅行ったところにあった。
「早稲田とか慶応とか、何年か前なら東大の生徒も働いていたんだよ」
 恰幅が良く人もそこそこ好さそうな老人が面接の相手だった。個人経営に近い形態をとっているこのゲームセンターでは、社長が直々にアルバイトの面接もこなすのだという。社長は近くの喫茶店に僕を呼び出し、何だか高そうなコーヒーを目の前に置いてそう切り出した。
「はあ」
「何故かそういう人間が集まるんだよ。別に募集要項にそう書いてあるわけでもないのにね」
「……そうなんですか……」
 どういう返答をしていいのかわからなかったので、とりあえず相槌を打っておく。僕がそこそこ有名な大学を中退していることを揶揄しているのかと少しだけ狼狽える。学歴コンプレックスというものはなかなか侮れない。けれど、どうやらそういうことでもないようだった。
「だから、ここは他の職場よりも存外働きやすいんじゃないかと思う。きな臭い人間は基本的に雇わないからね。職場作りというのは人間関係から始まるものだと思っているんだ」
 どうも、自分の職場の働きやすさについて説明したかったらしい。学歴イコール人柄の良さということではないと思っているけれど、社長に悪意が無いのは伝わってきた。それなら尚更のこと僕のような人間を雇うべきではないと思う。
「素晴らしい職場だということは募集要項を見た時点から思わせて頂いておりました」
「うん。それで、君の志望動機は?」
「人に笑顔を与えたいからです」
 微妙にずれた答えを返してしまったが、構わず話し続けた。同居人以外とでも普通に話せる自分に驚く。長い間の引きこもりと人恋しさは、果たして人間を成長させるのだろうか。
 月並みな質問に対して、面接指南書に書いてありそうな言葉達で応じる。社長は終始笑っていて、表情の変化と言えば時々目を細めるくらいだったから、心情が心底読みにくかった。少しだけ震える。この笑顔の裏で、僕はまだ出来損ないの烙印を押されているんじゃないか、と。
 その度に僕は何度でも同居人を刺し殺す。お前の所為でまたこんなことになったじゃないか、と責め立てる。実際の所、この面接での失敗に同居人がどんな形で関わってきているのかなんかさっぱりわからないというのに。
 一通りの質問が終わった後は、沈黙がやってきた。こういう時に軽い質問や、仕事に関するアピールトークなんかを出来れば良いのかもしれないけれど、生憎僕にそこまでの技量はなかった。
 社長は、どうして僕が突然大学を辞め、今までさしたるバイト歴も無くのうのうと暮らしてきたのかについて尋ねてはこなかった。それを聞く必要はないと判断したのだろう。
 もし尋ねられていたら、僕は何処から話していたのだろう? 同居人と僕が恋人だったところから? 同居人が僕の携帯電話を隠し、母親の死に目に出会えなかったところから? 妹ちゃんから家を追い出され、同居人に半ば償いのような形で同居を持ち掛けられ、その稼ぎで暮らし始めるようになったところから? わからないから、多分僕は尋ねられた瞬間に逃げ出していたに違いない。
 沈黙は毒だと思った。どうしても悪い方向に考えてしまう。今日は木曜日だった。同居人は今日も元気に働いているだろう。僕のいない場所できらきらと楽しそうに働く同居人を想像した。個人的な感情を絡めないで眺める同居人は、やっぱり申し分なく魅力的なのだった。
「さっき君、そこでソフトクリーム食べてたよね」
 僕の中身のない履歴書を指先で弄びながら、社長が不意にそう尋ねてきた。
 どうしてそんなことを言うのだろう、と思いながら僕は頷く。この喫茶店を出て少し行ったところに小さなソフトクリーム屋さんがあって、うっかり注文してしまったのだ。バニラとチョコレートのミックス。
「そのソフトクリームどうだった?」
「普通のソフトクリームでしたね。よくも悪くも平凡です。カラースプレーをかけるなら、もっとかけて欲しいですし。カラースプレーが高いのは僕だって重々理解しているつもりですが、あれじゃ困りますよ」
「実はね、あそこのソフトクリーム屋さんも私がやっている店なんだ」
 自分の笑顔がひきつるのが分かった。いくら社会に出ていないといっても、こういう時にカラースプレーの量に文句をつけるべきではないということはわかる。社長の笑顔は未だに崩れてはいなかったけれど、そこが逆に怖かった。
 僕はようやくコーヒーのカップを手に取った。持ち上げて飲み下す。あまり美味しくもないコーヒーだった。苦い上に薄いので、深みが全くない。でも、何かをコメントする勇気も無かった。ここが社長の経営しているカフェではない保証はどこにも無い。
 社長が、口を開く。
「うん。それじゃあ採用にしよう。早速、来週の火曜日から入ってもらえるかな?」

 こうして僕はめでたく無職からフリーターへと進化したわけだけれど、そのニュースを手放しで楽しそうに報告できる雰囲気でもなかった。僕が面接を済ませて家に帰ると、同居人が呆けた顔で部屋の扉の前に立ち尽くしていたのである。鍵でも失くしたのだろうか、と思った。半分正解で、半分不適切な回答だった。
 僕と同居人は未だにお互いの携帯電話の番号を知らなかった。僕は同居人に隠された携帯電話を捨てて、新しいものに換えていたし、携帯電話を新しくしてからしばらくは同居人に会っていなかった。新しい番号を教える機会も、登録し直す機会もなかった。だから、同居人はこの一大事を僕にいち早く伝えてやることが出来なかったのである。
「それでも、家の中で待っててくれればよかったのに」
「だって、君が気付かないかもしれないって思ったんだよ」
「言えばいいじゃないか」
「そうしたら君は外に出てまで見るのを面倒臭がって放っておいたに違いないからだよ」
「それは言えてる。正解だ。慧眼だ」
 ここまでしたのだから見ないと許さない、と同居人が無言で訴えていたので、大人しく扉の鍵に目を向ける。……うん、壊れている。鍵を差しこむ銀色の丸い部分が丸ごと無い。僕の適当な観察でもわかるくらいにわかりやすく、鍵は壊されていた。
 まるで、壊れた様を見せつけるような壊され方だ。前衛芸術だと言い張ってもいいくらい。この鍵は恐らくもう何の役割も果たさないだろう。鍵の交換にいくらかかるのかはわからないが、きっとそれも同居人が払うのだから僕には関係のないことだけど、犯人に対しての経済的憤りは少しばかり覚えた。でも、それだけだ。
 同居人は壊された扉の鍵を見ながら神妙な顔をしている。僕を待っている間に散々見ていただろうに、僕が来たことで新たな展開が見込めるとでも思っているかのようだ。生憎、僕は名探偵でもなければ犯人でもない。
 同居人はぽつりと呟く。
「とうとう壊されたね。鍵変えないと」
「そうだね。鍵ってそんな簡単に壊れるものなの?」
「ここのアパートの鍵はしょぼかったからね。それに、多分扉の方が損傷がひどいよ」
 僕の実家の鍵よりは数段立派だろうに、とは言わなかった。僕の実家の鍵はまだディンプルキーにもなっていない。
「そうか。何でやられたんだろう」
「バールとかじゃないの? 執拗に壊されてた」
「怖い?」
「執拗だったからね、暴力が」
 同居人はまるで横からそれを眺めていたかのような深刻な表情でそう言った。執拗に破壊された鍵。周りの扉も傷だらけ。誰も見ていなかった。そういえば、このアパートの他の住人というものを今まで僕は意識したことがなかった。とことん、僕の世界には同居人しかいなかった。
「……警察には言ったの?」
「行ったし、言ったよ。でも取り合ってもらえないの。まだ直接的な被害が出たわけじゃないから」
「鍵が壊されてるのに?」
「それだけじゃ弱いんだよ」
 同居人は強い口調でそう言った。
「鍵が壊されてたんでしょ? 何か盗まれたものとかなかったの?」
「私が調べた限りなかった。君こそ、何か盗まれたものあるかもよ。確認しないと」
「僕のノートパソコンあった?」
「あったよ」
「それじゃあ多分大丈夫。僕の持ち物なんてそのくらいだから」
「いや、君のパソコンの中身を抜き取りにきたサイバー泥棒かもしれない」
「中身はポルノ画像と何かよく分からない自己啓発サイトとバイト探し用サイトだけなんだけど」
「往々にしてそういうところから国家機密は漏れているのかもしれない。陰謀が始まっているのかもしれない」
「僕のノートパソコンから始まる陰謀なんかで崩される国家なんてもう転覆した方がマシだろ」
 くだらない話をしている場合でもなかった。盗まれたものが無いというのは客観的に見れば奇妙だし、怖かった。部屋の鍵が壊されたのに何もされていないなんて。それはつまり、部屋の中に欲しいものがなかったということだ。
 あの部屋にあるもので、犯行当時になかったもの。
 それが犯人の目的だと考えた方がいいだろう。
「つまりまあ、君だよね」
「え?」
「最近変わったことない? 誰かに尾行されてる気がするとか、誰かに見られてる気がする、とか。なるべくお薬をキメてない時がいいんだけど」
「生憎私はお薬をキメて満員電車に乗る習慣はないんだけどな」
「それこそ駅までの道程だ。誰かと頻繁に遭遇するな、とか。そういう自意識過剰な案件は何か無いの?」
 同居人は美人である。
 目立つ容姿をしているし、気立ても頭も良くて、お人好した。何度でも言いたいことだけれど、大学時代は僕以外にも随分モテていたのである。
 同居人は魅力的で、人を惹きつける。それが悪い方向に向かってしまう事例を、僕は知らないわけではなかった。ここまで発展したのは流石に初めて見たけれど、エスカレートした愛情が暴力の形を取って僕に突きつけられたこともある。
 あの時はびっくりしたなぁ、と少しばかり懐かしく思った。同居人と同じゼミの男がいきなり拳で殴りかかってきたのだ。僕はそれほど腕っぷしに自信がなかったので、「話せばわかる」と叫び倒し逃げ回っていただけだったけど、同居人は果敢にもその男に平手打ちを喰らわせて、常識人らしく説教をした。
 襲い掛かってきた男は可哀想に泣いていて、最終的にはすごすごと帰っていった。僕はそんなものを見せられて食欲が吹っ飛んでいたというのに、同居人が何事もなかったかのように、これから鰻の美味しい店に行きたいのだと言い出したのも鮮明に覚えている。同居人はそんなことに煩わされたりなんかしないのである。
 度を越した愛情は無理を通して道理も通そうとする。
 度を越した愛情は全ての理由を吹き飛ばして、人間を本能に忠実な生き物にさせる。
 冷静に考えれば、好きな女の子の彼氏を殴り飛ばしたからといって好きな女の子がいきなり「愛してる!」と叫びだすはずはないし、そもそも暴力なんて加えてしまったら一転犯罪者となってしまうのだから、そんな行動に全く意味はないのだ。
 それでもやらせてしまう恋の熱を、僕は恐ろしいと思っていたのだと思う。あの時点から、僕は少しばかり愛情に疎い人間であることを自覚すべきだったのかもしれない。
 もしくは、あそこで同居人をあの男に向かって差し出してやればよかったのだ。同居人を物みたいに扱うのは心苦しくもあるけれど、仮定の話だから許して欲しい。そうすればあの男は惨めに泣くこともなく、同居人は僕みたいな男を居候させることもなく、妹ちゃんは無事に僕に連絡をつけることが出来た。全てが上手くいくような気がする。
 けれど、このパターンで幸せになるのは、もしかすると妹ちゃんだけかもしれない、とも思った。
 それって、どういうことだろう。

「あ!」
 同居人が不意に発した大声によって、僕はどうにもならない仮定の話からようやく戻ってくることが出来た。もしも、という話は僕達にとっては毒なのだと、どれだけ言い聞かせれば覚えられるのだろう。それだけ仮定の話というのは甘いのだ。気を取り直して、同居人に向き直る。
「どうしたの」
「そういえば、二、三日前から帰り道になんだか視線を感じるような気がしてたんだ」
「どうしてそれを早く言わないの」
「言ったら君はどうにかしてくれたの?」
 小首を傾げながら同居人がそう言ったので、僕は黙る。
「そもそも僕より君の方が断然強そうじゃないか」
「か弱い女の子に言うには不適切な台詞だと思うよ」
 そうだろうか。平手で男を打つ同居人。エアガンを持って僕を迎えに来た同居人。妹ちゃんに追い出された僕を待っていた時の得体の知れない恐ろしさを持った同居人などが思い出される。少なくとも、弱そうには見えなかった。
「それなら、それを警察に言った方がいいんじゃないの?」
「でも、何にせよこれでも弱いよ。だって、まだ何の被害も出てないし、私自身に何の危害も加えられてないし」
「鍵が壊されるっていうのは相当だと思うけど」
「だって、まだ私のストーカーが犯人だって決まったわけでもないし」
 同居人は珍しく弱気だった。疑わしきは積極的に罰せという僕の姿勢がもしかすると随分過激派なのかもしれない。社会に生きていくというのは大変なことだ。もっと派手に喚きたてればいいのに。
「私達は自分のことを自分で守らなくちゃいけないんだよ。もしかすると最初のしめじにも重要なヒントが隠されてるのかも」
「しめじにねえ」
「しめじの花言葉が『お前を殺す』とかかもしれないし」
「しめじは花じゃないけど」
「菌言葉とか、あるかもしれないし」
「犯人の特徴とかは覚えてないの? それに用心するだけでも大分変わるでしょう?」
 同居人は一瞬だけ俯いた。そして、指先で空中の何かをなぞる。何かを思い出そうとする時の同居人の癖なのだろうか。同居人は少し考え込んでから、言う。
「背は百七十センチ前後。痩せ形で、黒髪。あんまり特徴とかよくわからなかった。あんまり注意してみてなかったから。でも、強いていうなら」
 同居人が不意に口元を歪める。どういう意図かはわからない。同居人のことは、いつだってよくわからないのである。
「君に似てたよ」
 同居人が小首を傾げた。どうしていいかわからない時の同居人の癖だ。僕も真似して、小首を傾げる。

 昔からドッペルゲンガーというものに妙な関心があった。見たら死ぬと言われているものは案外あるものだけれど、ドッペルゲンガーはそのなかでも異彩を放っているような気がしたのである。死を告げる相手と同じ姿をとるだなんて悪趣味にハイセンスだ。いなくなった後の穴を埋めてくれるのかもしれない、と僕のような人間は薄暗く期待してしまう。
 はてさて。今回の話はドッペルゲンガーと似て非なるものだ。どっちかというと、多分生霊とかそういうものに近い。僕の中のイメージの中で、件のそれがドッペルゲンガーのイメージと可憐に重なるというだけで。
 僕と似た姿のストーカーと聞いた時に、僕は本気で一瞬、それが僕のドッペルゲンガーである可能性を思い描いたのである。ドッペルゲンガーの僕が仕事帰りの同居人の跡をつけていく。同居人が振り返るのを、彼女の視力が怪しくなるぎりぎりの距離から待っている。
 鍵を壊した謎の犯人も、イメージの中では僕と同じ顔をしている。執拗な暴力。理屈に適わない衝動。恋と並んでその衝動を引き起こさせるものとして、憎しみがあげられる。掛け値のない憎しみは、復讐の先に一体何が得られるのかを正確に把握せずに、誰かの手にバールを持たせる……のかもしれない。
 僕はそこまで聞き分けのない憎しみを身体の中で飼っているつもりはなかったのだけれど、もしかすると自分が気付いていなかっただけで、実は僕の憎しみというのは理屈とか未来とかコストパフォーマンスとか、そういうものを一切口にしない傲慢な美食家だったのかもしれない。
 それが、僕の知らない内に僕のドッペルゲンガーを生んで、同居人をじっとりと濡れた目で見ているのだ。
 ドッペルゲンガーは鍵なんかで満足するような奴でもないだろう。ドッペルゲンガーは同居人との距離を詰めていき、いつかはバールで鍵ではなく同居人を執拗に攻撃するかもしれない。同居人はドッペルゲンガーと僕との区別がつかなくて、いつものように柔和な笑みで僕の元に駆けてきて、そしてあっさり殺されてしまう。可哀想なことだ。
 そうして同居人を殺した暁には、ようやく僕を殺す為に僕の目の前に現れてこう告げるのだ。
「大丈夫。お前の仇は討ってやったから。売られた戦場にけりはつけたよ。だからお前は大人しく、僕に任せて死んでしまうといいよ。多分、それがいい」
 バールが振り下ろされる。
 ……なんて、馬鹿馬鹿しい想像だった。ここは現実だ。ファンタジーの世界じゃない。戦場みたいな現実だけれど、好き好んで戦争を受ける人間はそういない。どこもかしこも妥協と諦念で停戦協定を売り買いし、自分の中のショットガンを片隅で錆びさせていく。そういう血生臭い怪物が出てくる余地なんてない。
 そもそも、それじゃあ同居人と心中することになるじゃないか。僕は同居人と死にたくなんかなかった。死ぬなら一人で死んでやりたい。死に際まで同居人と一緒なんて考えただけで眩暈がした。そんなことになったら、今までと何にも変わらない。心中だけは絶対にしてやらない、と頭の中のドッペルゲンガーを押しこめた。
 同居人が見た僕に似ているストーカー、というのもきっと勘違いの産物だろう。生憎僕には目立った特徴がないし、同居人も同居人で顔は広くて社交的な割に、自分の世界は狭いのだ。少し覇気の無い男が背後に居たら、誰だって僕に見えるんじゃないだろうか。嫌な贔屓のされ方である。
 何が起こるわけじゃないのだ、そう思った。僕と同居人の戦場だって未だに停戦協定がしっかりと結ばれている。お互いにそれを無造作に切ってやるつもりなど更々なかった。警察はフィクションの世界のように無能じゃない。これ以上のことがあれば即座に動いて、犯人を逮捕してくれるだろう。僕はともかくとして、同居人はしっかりと税金を納めているのだから。
 そう思っていた。

 同居人があまりに怯えるので、僕は嫌々ながら食材の買い出しに出た。外には出たくないという癖にどうしてもロールキャベツが食べたいと駄々をこねるので、僕は渋々スーパーに行く羽目になった。バイトが決まって、外に出ることに対しての抵抗が薄まっていたのだろう。うっかり、同居人に報いてやることになってしまったのである。
 僕がグレープフルーツ教授と勝手に名付けている初老の男性がスーパーにはいた。僕がスーパーに来る頻度はそう多くないのに、いつも見かけるから、恐らくグレープフルーツ教授は殆ど毎日スーパーにやってきているのだろう。
 今日も教授は五百ミリリットル紙パックに入ったグレープフルーツジュースを片手にスーパーのベンチに向かって確率の講義をしている。
 いつも開店一番に乗り込んでくることで有名な彼の荷物はグレープフルーツジュースと小さな青い鞄だけだ。荷物の軽い彼の職業が教授でないことはよれよれのシャツに合わせられた青いジャージのズボンが証明している気がしたし、周りの買い物客たちはグレープフルーツ教授を大声でわめき散らすただの精神病者としてしか見ていない。
 けれど、僕はグレープフルーツ教授が好きだった。僕はグレープフルーツ教授に負けず劣らずの社会生活不適合者だと思うし、彼の声は嫌いになるには勿体ないくらいとても綺麗だ。それに堂々としている。それに、これはおまけだけれど、グレープフルーツ教授が話し終える瞬間に見せる、切なげな、それでいて満足げな表情は、何だかそこはかとなく尊い。
 でも、今日の彼は単に確率の講義だけをしているわけじゃなかった。彼は、学生時代に野球部に所属していたという雑談をしていた。教授というものは、学生にくだらない雑談や、それに絡めた人生訓を話すのが大好きなのである。彼は何かを懐かしむような顔で言った。
「私はですね。ある大事な試合でね、盗塁をしようか迷ったのですよ。足が遅い癖にね。その時は絶好の盗塁チャンスだったんです。これほどまでに盗塁にうってつけな時なんて訪れないんじゃないかって思うくらいのチャンスです。だから私は走りました。まるで自分が自分じゃないみたいでした。背中に羽が生えたよう、駆け抜ける姿は風のようでした。あれほど、気持ちいい瞬間はあれ以来一度も味わったことがありません」
 グレープフルーツ教授は柔らかな笑顔で講義を形作っていく。夕飯時が迫って、色々な人間が教授のことを忌まわしいもののように無視していく中、僕は教授の話を聞いていた。教授が一瞬言葉を切った。溜息と共に、次の言葉が吐き出される。
「それでもやっぱり私の足は遅くて、全ては錯覚で、私はアウトをとられてしまいました。私はチームメイトや監督から袋叩きです。わかりますか。人は、身の程を知ることが一番重要なのですよ」
 反響した。
 ――「人は、身の程を知ることが一番重要なのですよ」
 僕は、何故か酷く尊いものを見たような気分になった。しめじも針金も暴力も盗撮も悪意も同居人も僕も罪も罰も、全部がその言葉に貫かれたかのようだった。
 ええ、存じ上げていますとも。
 そういうことなんでしょう。
 グレープフルーツ教授は話し終わると、静かに泣き始めた。泣きながら、合間合間にグレープフルーツジュースを啜っている。僕は歩き出した。同居人にロールキャベツを作らなくてはいけなかった。

 そこから来週の火曜日まで、何も起こらなかった。
 来週の火曜日というのは、すなわち僕の新しいアルバイトの出勤日だった。鍵の騒動の後、遅ればせながら無職からフリーターに進化したことを同居人に告げると、同居人はまるでこの世界から戦争が無くなったと聞かされたような、大袈裟な笑顔を浮かべた。テーブルに載ったココアがひっくり返るんじゃないかと思うようなジェスチャーで、大仰に同居人が祝う。
「よかったね。これで君はもう大丈夫だよ」
「今までが大丈夫じゃなかったみたいな言い草だね」
「今までも大丈夫だったけど、更に大丈夫になったんだよ」
「今までもバイトが決まったことはあったじゃん。僕の場合、そこから何日もつかって話になるんだよ。自分で言うには憚られることだけどさ」
 最後にバイトをしたのはいつだったのかは判然としないけれど、三日でやめたことは覚えている。確か、下駄箱の形が気に入らなかったのと、店長に人生は何たるかを説教されたからだ。何を言われたって人生なんてそう変わるものでもないのだということを理解されないのが嫌だったのだと思う。
 同居人はとことんそこまで甘ったれな僕のことを十分知っているはずなのだが、何故か自信ありげに微笑んでいた。今までにあまり見たことがないパターンの笑顔だった。
「今回は大丈夫。私が保証する。そんな気がするの。君もそんな気がするでしょ?」
 そうでもない、と僕は答えた。そんなことはわからない。自分の意志が及ばないところがあるものは怖い。そういうものだ。
 同居人もそのことは十分わかっているはずなのに、頑なに首を振り、大丈夫だと繰り返した。そのまま、女の勘についての見解を尋ねられる。タクシーの列と携帯電話の影を見たので、僕は大人しく、わからない、と答えた。その答えに、同居人は納得なんかできないようだった。
「絶対に成功するよ。大丈夫さ。きっと、何かが起こらない限り、君は真っ当な一日を踏み出すだろうさ」
「……それはどうも」
「感慨深いよ。色々とね」
「それもどうも」
「それでさ、君は幸せ?」
 同居人が囁いた。不適切な言葉を発する時のようだった。
「……じゃあ、君はどうなんだよ。僕がまともになって、幸せなのか」
「私は幸せだと思うよ。君が幸せならね」
 そう言って、同居人は立ち上がってしまった。話を穏便に終わらせる為によく使われる遣り方だ。話が絶妙に噛み合っていないことに対して噛みつくのは不適切なように思えた。だって、傍目から見たら随分健康的な展開なのだし。
「私、凄くロールキャベツが食べたいんだよ。長いものに巻かれたい気分っていうか」
「キャベツは別に長くない」
「それじゃあ、よろしくね」
 同居人は流れる笑顔でそう言った。

 結局のところ、同居人の太鼓判なんて全く当てにならずに僕のフリーター生活は頓挫した。一度も働かずにしての終了だった。今回は僕の気まぐれじゃなく、極めて対外的な要因だったわけだけれど。
 社会で働くにあたって、連絡手段というのは脇に置いておけない大事なものである。だから僕は、携帯電話を持っていた。新しいバイト先にも、僕の携帯電話の番号は当たり前だけれど教えてある。殆どその為のものなのだから当たり前だ。仕事の為。社会生活の為。
 その場合、同居人に番号を教える意味はないような気がしていた。だって、同居人と僕の世界はあの家の中で完結するわけだし、外で連絡を取ることも特にない。
 「今から帰るよ」と星を眺めながら報告したり「君の声が聞きたくなって」とか美しい山間の風景を眺めながら呟いたりしちゃうようなことが僕達に起こることもなさそうだったし。そんなことになったら、もう僕達の生活なんて地獄みたいなものじゃないか。
 それなのにこうなったのは、やはり、同居人と僕の家を襲った謎のテロの所為に他ならない。くだらなくて意味もわからない行為だと思ったけれど、なかなかどうしてこんな微妙な問題にまで切り込んでくるものだ。
「電話番号教えて貰ってもいいかな」
 同居人はおずおずと僕にそう尋ねた。あの時の同居人の顔と言ったら! まるで、清水の舞台から飛び降りる時みたいだった! あそこから飛び降りても死にはしないらしいけれど。正確に言うなら、まるで断られたら死んでしまうんだよ、と主張せんばかりの顔、だろうか。
 一瞬だけ迷った。
「いや、また何かあるかもしれないじゃない? それで、その時に連絡が取れなかったら嫌だな怖いなって……ほら、言い残したいこととか、あるかもしれないし。非常事態だからいいんじゃないかなって」
 その一瞬の間に同居人はぺらぺらとろくでもない理由をつらつらと述べた。死んでしまうかもしれない、だなんて御冗談を。死ぬとしたら同居人ではなく僕の方だ、という確信があった。けれど、同居人の目は切実だった。同居人の最後の言葉を、僕は受け止めきれないんじゃないかと思うような。
 同居人に死ね、と言う勇気はなかった。だから承諾した。そういう気分だった。同居人の最後の言葉を受け止める覚悟を決めたわけじゃなかった。
「……ありがとう」
 もっと派手に喜ぶものかと自惚れていたのだけれど、同居人は極めて静かに、噛み締めるかのようにそう言った。
 同居人は乳白色の石鹸みたいな携帯電話に、久しぶりに僕の電話番号を登録した。そんな洗練された見た目をしている機械に僕の番号を入れるとなんだかいけない化学反応が起きてしまいそうで怖かったけれど、同居人の意向なのだから仕方がない。
 こうして、同居人は僕の電話番号を手に入れた。さしたる価値も無い電話番号だ。同居人はその電話番号を一度だけ読み上げて、それきり黙った。僕の携帯電話に同居人の電話番号は入れなかった。例え今死んでしまうとなっても、同居人に言い残したい言葉なんて一言もなかったからだった。
 正直なところ僕は、まさか同居人から電話がかかってくるなんてことを全く想定していなかったのだけれど、ある意味そうやって高を括っていたのだけれど、その考えはあっさりと裏切られた。
 僕がバイト先の最寄駅に降り立った瞬間に、同居人から電話がかかってきた。
 電話の向こうの同居人は泣いていた。
 会社に行く時に、ボーガンで撃たれたと、同居人は言った。普通に生きてきたのならおよそありえなさそうなシチュエーションを、同居人は嗚咽と一緒に吐きだした。こんな素晴らしい朝に、同居人はボーガンで撃たれてしまったのだ。
「それで、もしかして死にそうなの?」
「そんなことないよ。でも、避けようとしたら足を挫いたの。周りの人が大丈夫ですかって言ってたけど、怖くて逃げ帰ってきたの。私、はっきり犯人の顔を見てやろうと思ったんだけど、逆光で見えなかったの。怖かった。私、殺されちゃうんだね。無残に殺されちゃうんだ」
「落ち着きなよ。死ぬ前に言い残したいことは?」
「死にそうなわけじゃないんだって! 私、もう家から出られないかも。怖いんだ。今も、一人でいるのが怖くて」
「僕みたいなことを言うなよ。立ち位置が被ると色々困ったことになっちゃうだろ」
「ねえ」
 同居人の声が、一瞬だけクリアになった気がした。嗚咽になんか邪魔されないすっきりとした声。シフトの時間は迫っていた。僕は歩きだして、輝かしい社会人としての第一歩を踏みしめなくちゃいけないはずだった。
「帰ってきてくれたりしないかな」
 同居人がそんなことを言ってしまってはおしまいだと思った。僕はそんなものを求める相手じゃない。そもそも求めるべき相手でもない。僕はあくまで同居人の償いを受け止める為に同居人と暮らしているのだから。
 けれど、僕は殆ど考えもせずに電話を切って、出て来たばかりの駅へと戻る。周りの人からすれば、忘れ物でもしたように見えているかもしれない。こういう時はやけに自意識過剰になってしまうから困る。実際は駅員でさえ僕のことを覚えていやしないだろうに。
 同居人がボーガンで撃たれた。転んで足を挫いた。会社を休んだ。
 僕はボーガンで撃たれなかった。真っ直ぐ歩いてここに来た。バイトをバックレた。

 家の最寄駅を出た。朝のキラキラとした太陽が出迎えてくれる。
帰ってきてしまった。そこにどんな背景があれども、シンプルな事実としてそれは存在する。僕はバイトをバックレて、多分クビになるだろう。
 同居人からの着信を受けてからすっかり気が滅入ってしまったので、携帯電話の電源なんかとっくに切ってしまった。
 ボーガンで撃たれたら人は死ぬ。それだけの悪意を同居人は向けられたのだ。僕以外にはさして恨まれる要素も無さそうな同居人だけれど、それでも撃たれた。撃たれてしまって、足を挫いた。
 帰り道ざわついた箇所があったので、ここが同居人が撃たれた現場なのかと覗いてみた。けれど、そこにボーガンの要素は全く無かった。
 どうやら路上全域にケチャップがぶちまけられるという悪趣味な悪戯が起こったらしく、警察やら何やらはそちらにかまけているようだった。ボーガンよりもケチャップ。同居人の事件は話題にすら上っていないようだ。
 僕はケチャップをべちゃべちゃと踏みながら、家へと急いだ。同居人が殺されていたらケチャップよりも注目されていただろうに。ボーガンで撃たれたなんて衝撃的な事件はケチャップよりもぬるいものなのか。答えはイエス。だって、ケチャップの方が面白いし、あれだけ派手だったら新聞に載るかもしれない。
 ケチャップで出来た足跡がすっかり見えなくなるくらいのところで家に着いた。取り替えたばかりの鍵を差しこんで扉を開ける。その音に反応して、部屋の中から同居人の声がした。
「帰ってきてくれたんだ……」
 驚きと安堵と歓びを織り交ぜた素直な声だった。僕はその声を手繰るようにして部屋に入り、何も映っていないテレビの前で、お誂え向きにクッションを抱えている同居人を見つけた。部屋の中には湿布の匂いが充満している。癒しとは程遠そうなツンとした匂いだ。
「……帰って来るって言ったじゃん」
「言う前に切れてたよ、電話。酷いなあ」
 同居人は以外にも穏やかな表情をしていた。どうやら、僕が戻ってきたことで少しのことは黙認される状態になっているらしい。寛容なのはいいことだ。同居人は、そういう生き物なのだ。
「これは立派な事件じゃん。殺されかかってるんだからさ。警察に言った?」
「逃げるのに必死で言ってない。……もし君が帰ってきてくれたら言おうって思ってて……」
 同居人はクッションに顔を埋めながらそう言った。聞き取り辛くて少しだけ苛ついた。右足にこれでもかと言わんばかりに巻かれた包帯が痛々しい。こんなところまで不器用なのか。
「警察が来てたよ」
「えっ」
「でも、どうやら君の事件じゃないみたいだ。路上にケチャップが塗りたくられたとかいう事件が君の事件のすぐ後に起きたみたいで、君の事件のことについてはどうにも話題にもなってなかったみたいなんだ」
「ケチャップ……?」
「適度に悪趣味で適度に面白くて誰も死ななかったし誰も怪我してないから、君の事件よりもエンターテインメント性に溢れてて、皆が好みそうだよね。そんなわけで、君の事件は改めて警察に言わなくちゃいけないんだけど」
「うん……そうだね」
 僕は同居人の元へ歩いていく。僕に見下ろされる形になった同居人が少しだけ怯えの色を見せたのがわかった。例え僕であっても見下ろされるのは怖いのだろうか。それとも、僕だから怖かった? どうでもいいけれど。とりあえず、僕は同居人の抱えていたクッションを取り上げて部屋の隅に放る。同居人は特に何の抵抗も見せずに一連の流れを見ていた。
「でも、思うんだ」
「…………何を?」
「警察に言うのはもう少し待とうかなって」
「……何で?」
「だって、路上がケチャップで塗りたくられてたんだよ。警察はそっちで大忙しじゃないか。だから、少し待とうかなって。だから、もう少し待ってから警察に言おうよ。君は心底怖いだろうし殺されるような目にあったんだからそんな悠長な話は我慢ならないかもしれないけど」
 さて、どうくるか。
 これは十二分に事件だよ、と事件性を主張して可愛らしく頬を膨らませる同居人。本当に心配してるのかと僕を責める同居人。不安で泣き出してしまう同居人。ケチャップの海を見に行こうとする同居人。撃たれたボーガンのことを事細かに僕に説明してみせる同居人。戻ってきて嬉しかった、と生温いことを言いながら微笑んでみせる同居人。
 僕が想像した同居人はそんなところだ。僕が想像した好ましい同居人、と言い換えてもいいかもしれない。
 現実というのは大抵の場合好ましいものを裏切るように出来ているので、僕の想像した同居人は結局何一つ現実に飛び出てきてくれることがなかった。
 同居人は無表情だった。そこには何一つ色が無い。
「……ケチャップの海、見に行く?」
「……ちょっとまだ外に出るのは怖いかな」
「君の赤いハイヒールに似てたんだ、あの赤色。途中まで僕のケチャップの足跡もついてるよ」
「そうなんだ」
「君をボーガンで撃った犯人がケチャップもやったんだと思う?」
「それはないと思う。だって、私以外にやっても意味ないじゃない。私はケチャップの海なんか見てないんだし」
「どうしたって犯人は君狙いみたいだね」
 まるで世界に同居人しかいないみたいだ。
「とりあえず、落ち着いたら。僕だって帰ってきたんだし」
「……そうだね。そうだ、バイト……」
「バックレたけど」
「それ、いけないんじゃないの」
「クビだろうね。クビ。また面接からやり直しだと、次まともに働けるのはいつになるやら」
「私も会社休んでられないね」
「呆れたように言うなよ」
「ううん。でも、これはモチベーションになるから。君との生活を円滑に進める為にも、私は働かないとって」
「モチベーションの和訳の欄に、でかでかと『理由』って載せることに対してはどう思う?」
「私は反対しないと思う」
 同居人が笑った。
 僕も同居人の隣に座る。同居人は微動だにしなかった。そのまま尋ねる。
「ずっと前から聞いてみたかったことがある」
「なーに?」
 同居人は意図的になのか無意識になのか、妙に間延びした声で応じた。さっき、殺されそうになったというのに。怯えていたはずの同居人は僕が来たことで安心しきっているように見えた。見えない悪意からも飛んでくる矢からも、僕なら守ってくれると無邪気に信じ込んでいるのだろうか。やめてくれよ、と思う。これ以上笑えなくなると困る。
「全部僕がやったって告白したらどうする?」
「……何を?」
「しめじに針金、ストーカー行為にボーガン」
 なるべくリズムが良く聞こえるように言ってみた。真面目な空気が苦手なのである。音楽は全てを和らげる効果があるというし、いいかもしれないな、と思ったのである。
「……嘘だよね?」
 微かに笑みを零しながら、同居人が尋ねた。念を押すような言い方をしたのは、これ以上僕が失言を繰り返さないようにする為だろう。生憎そういう配慮は無視するつもりでいる。
「いや、仮定の話だよ。仮定の話」
「仮定の話? じゃあ、本当じゃないってことだよね」
「もしかして、少しは本当なんじゃないかって疑ってる? だから、そこまで過敏に反応してるのかな? まあ、本当かどうかはそれこそ当ててみたらいいんじゃないかな。暇潰しみたいなものだよ」
「探偵役と犯人役を一手に引き受けるなんて贅沢だよ」
「僕は割合欲張りな人間なんだ」
 同居人の頭をおざなりに撫でて、僕は話を続けようとする。その感覚があまりに久しぶりだった所為か、同居人の顔がワントーンだけ明るくなった。それを見てから、僕はまた口を開いた。
「まあ、そういうわけなんだけど」
「でも……それにしても、どうして君がそんなことをするの? そもそも私が一番聞きたいのはどうしてしめじだったのかってことなんだけど」
 それは尤もな話だと思った。僕だって客観的にその話に向き直ったらまずどうしてしめじだったのか聞きたがるだろうし。
 けれど、その答えは教えてあげられない。
「まずはその話は置いておいて、僕が君を襲う二つの理由について話そう」
「二つの理由……?」
「そう。思い当る節はある?」
 同居人が緩く首を振った。嘘を吐くのが下手だというのはいつだって致命的なのだと思い知る。しらばっくれるつもりのようなので、懇切丁寧に教えてあげることにした。同居人の目が、やめてくれと懇願していた。残念、やめない。
「一つ目。僕は試してるんだよ。どこまで君は我慢できるのかって。どこまでなら君は僕を赦せるのかって。それで、ありとあらゆる行為で自分を貶めてやろうと思ってるんだ。どう? その為に君を恐怖に陥れて、あまつさえ殺そうとしてる。一つ目の理由はなかなか複雑でね。僕は君を試すと同時に、それで死んでしまったらそれはそれで構わないと思っているんだ。だからボーガンなんて使ったんだよ。死ぬような目に遭わせて、反応を見る。万一それで死んでしまったら、ゲームはおしまい。僕は復讐を果たす」
 復讐という言葉を同居人に対して使ったのは初めてだ。今まで僕達がやってきた共同生活というものの意味が根本から固定されてしまう魔法の言葉。全ては不幸な事故だった、という暗黙の了解を破り、同居人が自ら背負っていた十字架に自分で登るえげつない行為。
 同居人が浅く息を吐く。過呼吸にならないか心配だったけれど、同居人はそこまでやわじゃないはずだ。
 僕は続ける。
「二つ目。僕は今日君を襲ってバイトをバックレたことで当然バイトをクビになるだろうね。でも、それも計算の内なんだよ。これで僕はフリーターから働く間もなく無職に逆戻り。働くのなんか正直な話面倒だし、しんどいからね。一石二鳥ってわけだ。君は僕を責められないだろ? 何しろ君がどうしてもって言うから戻ってきた僕なんだ。もしかすると罪悪感すら覚えるかもしれないな。君は善良で素敵な人間だから」
 嫌味を言ったわけじゃない。事実を述べただけだ。ボーガンで撃たれた同居人。命の危険があった。一緒に暮らしている相手に何をどうしたって伝えたかった。わかる。同居人だって責められる要素なんて何も無い。
 死にかけるということはそういうことなのだ。
 だから、僕達はお互いに何の咎も背負わずに元の生活に逆戻り出来る。
「君は僕のことを完全に把握してるわけじゃないだろ? 君が仕事に行っている間、一体僕が何をしているか、君は知る由も無いんだ。僕が君の命を狙ってボーガンを構えて駅への道で息を潜めていたとして、君はそれを知らないんだ」
 同居人を殺す。そのことを全く今まで考えたことがないとは言えない。僕の中でやっぱり同居人はよくも悪くも大きな位置を占めている存在だ。同居人を殺してしまえば、嫌でも僕の生活は変化する。僕と同居人が加害者ぶったり被害者ぶったりする必要もなくなるわけだ。そもそも、殺してしまえば僕は完全に殺人犯だ。法に裁いて貰える犯罪者になれる。
「そこで考えて欲しいのはそれからの話だよ。君の今までのスタンスを鑑みて、一つ考えて欲しいことがある」
「……一体何を考えるの? そんな状況で」
「つまり、こういうことだよ。こんな告白をされた後でも、君はそういう人間をまだ赦せる? 一緒に暮らしていける? どうしようもなく落ちぶれたクズな僕でも、庇いたててくれるの?」
 一方的な言葉だった。けれど、今までもずっとこういうパターンだったはずだ。同居人は右手をさすりながら、僕の方を見た。この世に酷いことなんて沢山ある。一体どのレベルまで、同居人は償いだと見做してくれるのだろう?
「まさか、殺されるまでなんて言わないよね。君の背負っている罪なんて殆ど君の自縄自縛みたいなものなわけだ。君が背負い込む癖を持っているとはいえ、そこまでのレベルってわけでもないだろう? でも、時々思うんだ。君はもうとっくに正気を失っていて、あんなささやかな罪で自分を死刑に追い込むまでになってるんじゃないかって。馬鹿は死なないと治らない、狂人は死なないと直らない、さて、君はどうするの?」
 まくしたててしまったことに心の中で謝りながら、同居人を見据える。
 同居人は長い間何も言わなかった。全てが冗談だったと言ってもらえるのを待っているみたいだった。生憎僕にジョークセンスは無いし、僕はそんなことを同居人には言わない。
「復讐」
「うん」
「復讐、って、何」
 同居人がようやく言葉を発した。小さな声だ。
「私は罪なんか背負ってない。罰を受けてるつもりもない」
「へえ」
 思いの外冷たい声が出てしまったことに驚いた。同居人の顔がいつになく真剣で、本心の言葉であると少しでも認められたからこそ、もう少し優しい相槌を打ってやろうと思っていたのに。なんて可哀想なんだろう。同居人は長い間苦しめられ続けて、正しい判断が出来なくなってしまっているのだ。
「私は殺されたって脅かされたって、君と一緒に暮らすよ。でも、罪なんて絶対に背負わない。どうして罰とかいうの? 私は」
 その先に待っている言葉が予想できた気がして、慌てて僕は同居人を制した。
「――待てよ。仮定の話だよ。仮定の話。大丈夫だから、心配しなくても」
 そう。これはあくまで仮定の話だ。同居人が不安に思うことなんて何もない。子供がやる暇潰しみたいなものだ。大人がやる自慰みたいなものだ。
 同居人は不意に正気に戻ったかのような顔をして、僕の顔を見つめた。生まれて初めて僕という人間に出会ったかのようだ。人間関係が更新される時はこういうものなのかもしれない。
「……そうだよね。そうだよ、うん」
 同居人は、何故か自分に言い聞かせるようにして言った。自己暗示。思い込み。それは何かを守る時に往々にして使われる手法だ。
「それより、まともなことを考えないとね。君が犯人のはずがないんだから、そんな話しててもしょうがない。うん、しょうがないんだよ」
 そう言いながらも、同居人は何だかとても怯えているように見えた。そんな反応はずるい、と思う。こっちまで色々と意識してしまうじゃないか。まるで、気にしないで、と言いながら上目遣いで睫毛を震わせてくる女の子みたい。何かを訴えたいなら言葉か暴力のどちらを用いらないと。
「撃たれた記念にココアいれてあげようか」
「本当? 鍋で煮る奴?」
「そうだよ」
 同居人は壊滅的に料理が下手なので、純ココアとミルクココアの粉の違いすら分からない。その癖大量にまとめ買いをするものだから、家には大量の純ココアが貯蔵されている。砂糖を入れて鍋で煮ないと美味しいココアにならない純ココアは、同居人には作れない。同居人はココアが大好きだというのに。
 ココアの粉を適当に入れて、砂糖を混ぜて練り込む。本来の作り方はよく知らない。けれど、僕が作ればそれなりに美味しく出来るので気にしない。鍋の中で黒色が渦巻く。
「何だろう。なんだか優しいね」
「ココア作ってやるくらいで優しいって言われるのも何だか複雑だけどね」
「優しいよ」
 匂いが過度に甘い。砂糖を入れ過ぎたかもしれない。
「私はずっと、優しいなって思ってたよ」
 携帯電話も土下座も屈辱もなかったかのようにそう言った。
「そうでもないよ」
「いや、私はずっと」
「そういうのいいから」
「……いや、真面目な話ね」
「そうだね、真面目な話か」
「真面目な話なんだけど、いい?」
「うん」
「それでさ、君はいつまでこんなことやるの?」
 唐突な僕の言葉に、同居人の目が少しだけ大きくなる。元から大きな目をしているのだから、そんなことをしても少しも驚いているように見えないのが、同居人の数少ない欠点の一つだ。
「ココアは多分、ずっと好きだよ。何か一つ飲み物を選んでそれとセックスしなさいって言われたら、ココアを選ぶと思う」
「それじゃなくてさ」
 僕はグレープフルーツ教授の言葉に従っただけである。身の程を知ってやろうと思っただけだ。だからもう、全てを終わらせようとしている。身の程を知らない人間は必ず破滅する。僕は大分落ちぶれているけれど、破滅したくはないのだ。そして、同居人にも出来ればそんなことにはなって欲しくない。
「もしかして、死のうとか思ってないよね」
「……何の話?」
「償うのに疲れたから、もう後は地獄で閻魔様に委ねようってこと? やめなよ。きっと君は天国に行っちゃうよ。絶対にそうだ」
 神様から沢山の贈り物を貰っている君だから。自殺は罪だとか無粋なことを言う人間もいるかもしれないけれど、彼女はちゃんと架空のストーカーまで犯人役に用意してくれたじゃないか。セーフに決まっている。
「そんなにつらいならどこかでピリオドを打っておけばよかったのに。僕は別に怒りはしないよ。というか、君に怒ったことなんてそんなにない。お雑煮に小豆をぶち込んだ時は流石に雑煮と共に腸まで煮えくり返ったけどね」
「ごめんね、私よくわかんない」
「嘘吐き」
「嘘じゃない!」
 同居人が声を荒げた。怯んではやらない。嘘じゃないというのは本当だろう。でも、その言葉が向けられる対象が違う。
 火を止めて、僕はココアを煮詰めるのをやめる。ココアが固まってしまいそうだけれど仕方が無かった。本当はココアでも飲ませながらゆっくりと、それこそ解くように話を聞こうと思っていたのだ。けれど、こういうのもやはりタイミングの問題だから仕方がないのだろう。
 もうココアなんか期待出来ない展開になってしまったことを、同居人も察したのだろう。声を荒げて三秒後、同居人の眉がへたりと下がった。困ったような笑顔。本気で困っているのか、殊勝な顔をしていれば赦してもらえるとでも思っているのかいまいち判別がつかなかった。
「なんていうかさ、お粗末な物語だとは思うよ。何せ僕の世界には君くらいしかいないんだからさ」
「ミステリーにあるまじき狭さだったよね。私はこれをミステリーだとはこれっぽっちも思ってないけど」
 それなら何だと思っていたのだろうか。僕達の関係はある意味サスペンスだったし、生ゴミ以下に成り下がった僕の姿は十二分にホラーだった。二人共が大変に不器用で生々しいから、ドキュメンタリーもアリなのかもしれない。僕は同居人に微笑みかける。牽制の笑みだ。まさかお前、恋物語をここに当てはめようとしているんじゃあるまいな?
 同居人はまた困ったような顔をする。悪戯がバレた時のようだ。同居人が仕掛けることはいつだって冗談では済まない代物だけれど、そう思った。
「なんだったのあれ」
「大きく括って考えてよ」
「それでもよくわからない」
 同居人は少し考えるような素振りをみせてから、丁寧に言った。
「なんていうかね、君と同じ位置まで行こうと思ったんだよ」
「へえ、それって上昇? 下降?」
「平行移動」
「そうくるか」
「君と同じ位置にまでいけば、君がもう離れなくても大丈夫だって、こんな人間なら利用したって構わないって思ってくれるんじゃないかと思ったんだ」
「それでしめじにピッキング? いやいや大きく括れ、なんだっけ?……犯罪行為?」
 同居人は頷く。ああ、可愛らし過ぎて吐きそうだ。同居人は僕が同居人のことを、罪悪感だけで縛れるような人間じゃないと思っていると、殊勝に思っていたらしい。いやはや、同居人だってこれで自分なりに考えたに違いない。努力の跡が透けて見えるかのようだ。
 同居人だって恐らくはもう限界だったのだろう。それで、僕と同居人の間に何かを起こしてやろうと思ったに違いない。何かが起きなければ物語は進まない。僕らは永遠に停滞している。もう何処にも進めやしないのだ。可哀想な僕の同居人! その変化が、僕の就職だけじゃ、駄目だったんだろうか。
「でも、あれでしょう。君は優しいから他人を傷つけたり迷惑をかけたり出来なかったわけでしょう。それで、自分の家の前にしめじやら針金をぶちまけて、自分の家の鍵をぶち壊した。非実在のストーカー野郎の行為をエスカレートさせて、最後にはどうするつもりだった?」
 良識的に考えたら全く意味が分からないけれど、同居人とずっと一緒に居た僕なら容易にわかる。結局のところ、同居人が傷つけられるのなんて僕くらいなのだ。この家は同居人の家であり、僕の家でもある。ざまあみろ、と思う。同居人の悪意は、僕を傷つけることしか出来ないのだ。
 同居人はしおらしく僕のことを見つめている。殊勝なことじゃないか。
「ということは、僕は君の中で犯罪者並ってわけだね。わからなくもないんだけど」
「そうじゃないの。……そうじゃないんだけど」
「要するに、お前はクズとしてのレッテルが欲しかったんでしょう。でも、あまりに真っ当に生き過ぎてて、こんなことになっちゃったんだ」
「随分勝手なことを言うんだね」
「そこまでして、まだまだやり直せる素敵な君が僕と釣り合うような残念な何かに落ちぶれたい理由って何よ?」
 同居人は大きな目を瞬かせる。同居人の瞳の中に、月並みな比喩だけれど星が見えた。キラキラと輝いていて、生憎僕には眩しくて疎ましい。
 愛とか恋とか、そういうのはもううんざりなのである。だって、同居人は僕じゃなくたって十二分に幸せになれるような人間なのだ。それが、僕じゃなくちゃいけない理由なんてない。彼女は結局、妥協や罪の意識で僕と暮らしていると思われることに耐えられなかったのである。誰に? 他ならぬ、僕と自分にだ。だから、いけないと思うようなことをしたのだろう。僕は初めて同居人を残念な奴だと思ったし、心の底から哀れんでいる。……だって、愛とか恋とか共同生活って、そういうことじゃないだろう?
「どうしたらいいかわからないんだよ」
 いつの間にか同居人は泣いていた。彼女が最初に狙っていたのが吊り橋効果なのか、はたまた自分を僕に釣り合うような何かに貶めることなのかはわからないが、同居人は貪欲なのである。どちらだって欲しくて堪らなかったはずだ。
「私は料理が出来ないからさ、茸って焼いてバターと醤油でどうにかすれば大抵美味しいんでしょ? だから、そのくらいならまだどうにかなるかなって。安かったしめじを買って家に帰ろうとして、でも、その途中で、何だろうね、何かに憑りつかれた」
 そうして、君はしめじをぶちまける。おかずになるはずだったものだ。そうして針金をぶちまけて、暴力をぶちまけて、……案外会話の糸口が欲しかっただけじゃないの? と僕は邪推する。いつだって同居人は、何かに追われて僕と一緒に居ることに必死だ。
 何か、なんてもう濁せない。罪悪感である。罪悪感。もう何が何だかわからなくなったそれだけが、僕と同居人を繋いでくれている。それが無ければ、同居人と僕なんかはもう絶対に一緒になんかいない。
 そんな関係は不健全だと思っている。
 間違っているのは同居人の方だ。
「一緒に居ちゃ駄目かな。私と君が同居人でいるのは、そんなに駄目かな」
「駄目だね!」
 即答する僕に、同居人が微かに笑った。その笑顔は何処か諦めているのに完璧だ。同居人はこれからも、落ちぶれる為の行為に余念を許さない。非生産的でどうしようもないことを続けるだろう。僕はわかっている。同居人にとって、僕を愛すること以上にどうしようもなく残念な何かなんてありはしないのだ。
「ねえ、駄目でもいいよ」
 同居人が僕の背中に手を回した。屈辱的なことのはずだ。惚れた方が負けだけれど、お互いにどうしたって可哀想なお話だ。愛しさは腐り果てている。ぶちまけて欲しいのは本音ではなく建前で、きっと同居人は解放されたがっている。本当はもうやめたがっているはずなのに。
「私のこと、どう思ってる?」
「大変遺憾に思ってる」
「……上手いこと言ったつもりになってるかもしれないけど」
「ちっとも上手いこと言ったつもりになんかなってないから勘弁してくれよ」
 僕はやっぱり死んでおくべきだったよな、と過去の自分を責めている。妹ちゃんに家から追い出されたあの日に凍死しておくべきだったと思っている。同居人は音信不通になってあげていた間に僕のことを切り離しておくべきだったと今でも思っている。
 あのささやかな偶然がなければ、僕達はこんなことにはなっていなかっただろう。そして、もしかしたらお互い別れて別の道を歩んでいたかもしれない。この同居が始まったのも、あの偶然がきっかけだとしたら? 同居人の監視が始まったのは、あれをきっかけとして僕が同居人との連絡手段を絶ったからだ。
 同居人は今も罪悪感に苦しんでいる。その所為で、僕から離れられないでいる。この膠着状態を破らなくては。その為に、ああ、簡単なことだ。僕が言うべき言葉はたった一つ。
「赦してあげるよ」
 同居人が真っ直ぐに僕を見る。
「だから、もういいんだよ」
 もう僕と暮らす必要なんかないんだよ。
 これはそういう意味だ。
 終わりの言葉はいつだってシンプルなものでなくては。
「君は世界が狭いよ」
「それ、インドア無職に言う台詞じゃないよ」
 同居人は未だに泣いていた。ずっと望んでいたものが手に入ったはずだ。全ての魔法は解けて、同居人の異常なまでの執着だって空中に消える。隠された携帯電話なんてどこにも無かった。そうしたら、同居人は笑えるはずだ。
「わかってないね。もうそんなの、どうでもいいんだよ」
 同居人は静かに言った。
 どういうことか、一瞬わからなかった。
 けれど、遅れて理解する。何せ僕はずっと同居人の傍にいたのだから。
 手遅れだったのだ。同居人は頭のネジが外れて砕けてしまっている。砕けたそれを、そのまま飲み下してしまったのだ。
 同居人の罹っている病気はどこまでも普遍的でありながら、恐ろしい程性質が悪く、それでいて僕が全く好ましいと思っていない結末を運んでくる。
 同居人は泣きながら、ようやく笑顔を見せた。
「一緒に暮らそうと必死なのも、何処かに行こうと持ちかけるのも、君がどれだけ社会に上手く馴染めなくても私だけはそれを赦してあげるんだと思ってるのも、君がどんなに私を憎んでいようとそんなことはどうでもいいことなんだって思うのも、愛だよ。恋だよ。そういうものだよ」
 同居人の手が自分のブラウスのボタンを外していく。
「わかってたはずでしょ。私はずっとずっと大好きだったんだから。私達は少しのタイミングの違いで恋人じゃなくなってしまったかもしれないけど、そんなことはもう心配ないんだよ。だって、私は償わなくちゃいけないんだから。君がもう私を好きじゃなくても、一緒に居るしかないんだよ」
 そこでようやく気が付く。もう少し早く許してあげるべきだった。
 戦場を売ったのは僕。買ったのは人でなしの同居人の方だった。
「僕は絶対に赦さないからな」
「うん、いいの。それでいい」
 同居人の細い肩が露わになった。白い肌。唇まで多分白い。大丈夫だよ。好きだから赦してあげる。大丈夫。好きだから。私には責任があるから。何をしたって一緒にいられるから。大丈夫。
 最初から最後までそうだったのかもしれない。僕は頭がおかしいくらい僕のことを愛している同居人に囲われて、可哀想に。逃げられないね。
 もう全てがどうでもよかった。僕は結局まともな仕事につけなかったのだから。アルバイトなんてもう関係ないよ。だから、大丈夫。
「諦めろよ、私のこと、心配だったんだろ?」
「調子に乗んなよ、絶対に赦さねえからなクソ女」
「あはは、ありがとう」
 同居人の細く長い舌が僕の首筋を舐めた。全てを赦されている気分になって、それだけで射精しそうになる。同居人の爪がいつの間にか長く鋭く伸びていた。この爪で柔らかい部分を触られたら、きっと肉が抉れてしまうだろう。
「私達はそれでいい」
 同居人の手が僕の服にかかる。気に食わないものだと言わんばかりにその手が服の裾を丸め込んだ。ラフな灰色のTシャツ。脱がせるには、少し手間取るし、僕が手を挙げてやらなくちゃ脱げない服だ。
 同居人の涙がぼたぼたと灰色の生地に黒い染みを作っていく。雨みたいだ、と思う。悲しかったね。辛かったんだね。
 簡単なことだというのに、どうして同居人は言葉に出来なかったのだろう。同居人は僕が真っ当に働き始めることなんて、全然嬉しくなかっただけなのだ。
「景ちゃん」
 同居人の声が響く。
 安心する声だった。

 初めて同居人の隣で眠った夜、夢を見た。
「結局お兄ちゃんは私のことより同居人さんのことを優先するんだ。同居人さんはお母さんの仇なのに。同居人さんがお母さんを殺したも同然だよ。親子の愛って強いんだよ。もしあそこでお兄ちゃんがお母さんのところに駆けつけてくれたなら、お母さんは助かったかもしれないよ。うん、そうだ。絶対にそうだ。だって、お母さんはとても善良な人間だったんだから。お母さんが選ばれないなんてことがあるはずなかったんだから。死にそうだったタクシーの運転手さんなんてあそこで死ぬべきだったんだ。お母さんは助かるべきだった。だって、奇跡は善良な人間にもたらされるものだと思うから! 同居人さんの気まぐれさえなければ、神様はきっとお母さんを助けてくれるはずだったんだ。それなのに同居人さんは……同居人さんが、あんなことをするからいけなかったんだ。私、知ってるよ。お兄ちゃんは何も悪くないんだって。何にも悪くないんだって。お兄ちゃんが毎日惨めに暮らしてるのは、悲惨なトラウマの所為でしかないんだって。だからお兄ちゃんは何にも悪くないんだって。でもね、私、お兄ちゃんのこと赦せなくなっちゃったんだよね。ごめんね。だからお兄ちゃんは無条件に赦してくれる同居人さんのところに行っちゃったんだよね、ごめんね。でも、わたしやっぱりお兄ちゃんのこと赦せない。裏切り者。死んじゃえ。死んじゃえ」
 妹ちゃんはそんな殊勝なことを言わない。もっと直接的な、暴力という名前の肉体言語でコミュニケーションをはかってくる。今度妹ちゃんに会う時は、僕が殺される時だ。言葉なんかより包丁で僕を刺すことを選ぶはずだ。そこで気が付いた。
 夢の中の妹ちゃんは、それきり口を開かなかった。どうやら僕の言葉を待っているらしい。夢の舞台は母親と妹ちゃんと僕が暮らしていたあの家だった。けれど、包丁とかナイフとか、そういうおよそ物騒なものは何処にも無い。
「大学辞めてごめんね」
「どうしてそこで謝るの」
「妹ちゃんが一番怒ってたのはそこだと思ってたから」
「なら、どうしてそんなことしたの」
「……正直な話、よくわからない。妹ちゃんはどう思う?」
「さあ。わからないから怒ってるんだよ。同居人さんに大学内で絶対に会いたくなかったからかもしれないじゃない」
「妹ちゃんは同居人が嫌いなんだね」
「大嫌いだよ」
 妹ちゃんは素直に言った。同居人からはもう失われてしまった素直さだった。妹ちゃんは僕から取り残されて、今は順調に大学に通っているのだろうか?
「私は」
「うん」
「愛とか恋とか、そういうのだから同居人さんと一緒に居るとか、そういうの絶対に赦さないから」
 妹ちゃんも泣いていた。泣き顔は同居人に似ていた。僕の脳内の女性の顔のレパートリーが少なすぎる所為だろう。ずっと一緒に居たはずの妹ちゃんの顔も、同居人に浸食されてしまっている。これも同居人の思い通りなのかもしれない。
「赦さなくて良いよ」
「良いとか悪いとかじゃないの。私は赦さないって言ってるの」
 妹ちゃんが心の底から憎らしげに言った。妹ちゃんらしくない。もう妹ちゃんの振りをすることもやめてしまうつもりらしい。それでいい。それでこそ。
「赦さないから」
 これから、こういう夢とは長い付き合いになるのだろうと、薄ら寒く確信した。夢の中で姿だけを借りて、僕は妹ちゃんを凌辱する。僕は一生ここから抜け出せない。妹ちゃんに会うことも、多分もう二度とないのだろう。
 僕は繰り返す。同居人に似た顔の妹ちゃんに向かって、同居人のような口調で言う。
「僕を赦すのは同居人だけでいいんだよ」
 僕の言葉が終わるか終らないかのあたりで、妹ちゃんが僕を刺し殺した。凶器なんてどこにもないのに。
 僕の傷口から流れるのは安っぽくもキュートな電子音だった。そのメロディには聞き覚えがあった。

 携帯電話のアラームで起こされるなんて久しぶりだった。
 鳴っているのは同居人の携帯電話だろう。同居人が隣に寝ている所為で、同居人の目覚まし時計に僕まで巻き込まれてしまった。当の同居人はアラームに気付かずにまだ眠っている。頬に刻まれたのは涙の流れた赤い痕、髪に乾いた精液が散っていた。どんな気持ちで、同居人はその口を離したんだろうか。
 携帯電話のアラームは美しく響くカノンだ。
 どうして携帯電話の初期アラームの中にカノンは必ずと言っていいほど紛れ込んでいるのだろう。美しい音楽なら、誰かを不躾に呼び立てても構わないと思っているのかもしれない。不遜な考えだ。
 僕はセキュリティロックなんか掛かっていない同居人の携帯電話を手に取り、アラームを勝手に切った。スヌーズ機能もしっかり切って、まだ微睡んでいるままの同居人をもう起こさないようにしてやった。
 そし、朝のコーヒーを淹れるついでに、僕は乳白色をした同居人の携帯電話を、ゴミ箱の中に放り込んだ。鈍い音がする。
 おやすみなさい。

無能探偵ハイムリック北崎


 特に理由があって免許を取ったわけじゃない。ただ、北崎を迎えに行く為だけに午前二時に車を走らせるのは、何だか酷く不適切な感じがした。絵里坂が運転しているのは何の変哲も無いただの国産車で、真夜中に似合うほど洒落た車種でも無い。不適切だよな、と彼は確認するように呟く。
 成金趣味丸出しの大きな屋敷の前で、鹿撃ち帽を被った男が蹲っていた。まるで靴を隠された子供みたいに、何処にも行けずに震えている。可愛い女の子だったら慰めてもらえただろうが、生憎彼は少しも可愛くない成人男性でしかないので、都会の夜の無関心によく溶け込んでいた。
 北千住の街を威嚇するようにクラクションを鳴らすと、弾かれたように鹿撃ち帽の男が顔を上げた。そして、逃げるような速度で車に乗り込んでくる。
「ごめん絵里坂、迎えに来てもらうのはこの間で最後にするつもりだったんだが」
「ギャンブル依存症の人間もアル中もソシャカスもみんな『この間で最後』って言うんだよな」
「私はそんなのとは違う」
 北崎が苦々しく否定する。その通り、全然違う。何せ北崎が属するのはそれらよりもっと劣悪なカテゴリーなのだ。
「で、今日はどこまでやらかした? 何まで口にした?」
「『私が来たからにはもう大丈夫です』『全てからっと解決させてもらいますよ』『この名探偵ハイムリック北崎におまかせあれ!』……は言ったかな。言ったな」
「あちゃー、数え役満だな」
 絵里坂は字面に反して淡々とした口調でそう言った。いつものことだ。ギャンブルよりも性質が悪く、ボランティアにしては俗悪な行為を、北崎はしてきたのである。
 殺人現場への飛び込み、辻斬りのような探偵行為だ。
 どういう仕組みかはわからないが、北崎は今日も、とある邸宅で起きた殺人事件の話を聞きつけ、呼ばれてもいないのにその現場に参じたのだ。溺れる者は藁をも掴む、容疑者どもは猿をも頼る! 突然現れた探偵を、意外にも彼らは狂乱の内に受け入れる傾向にある。その混乱こそが、探偵をこの世に蔓延らせる原因にもなってしまっているわけだ。
 勿論、それが一概に悪いとも言えない。探偵によって事件が解決することは無いわけではないし、解決したら概ねハッピーエンドだ。ただ、問題はある。
 その探偵が途方もなく無能で、通り魔的に立ち寄った事件を解決出来なかった場合なんかは、悲劇でしかない。最悪だし惨めだし、何よりとっても不謹慎だ。丁度、今夜の北崎のように。
「もし解決出来ないってわかってたら、私だって大人しくしてたんだけどね。……ある程度最初に自信満々なところ見せないと、そもそも捜査させてくれないんだもん」
「大見得きった代償は高かったな、ハイムリック北崎」
「…………もうハイムリックじゃない……」
 ハイムリック北崎というのは、北崎喜咲の探偵ネームである。漫画家がペンネームを用いるように、北崎は探偵行為をする際に、ちゃんと探偵としての名前を用いるのだ。この名前の由来はそのまま、喉に詰まった異物を、腹部を思いっきり圧迫することで排出する『ハイムリック法』に因んでいる。真実は異物じゃないのだが、この響きが北崎は妙に好きなのだ。
 絵里坂が初めてその名前を聞いた時なんかは、それこそうっかり泣きそうになった。壊滅的なネーミングセンスだと思った。完ッ全に当て馬側の名付けである。こんな名前の探偵が事件を解決出来るはずがない。
 しかし、それを指摘しても、北崎はしれっとした顔で「メルカトル鮎を知らないのか? 有名だぞ」と言い放ったので、絵里坂はいよいよ泣いてしまった。このままだとファンに刺される。
 こんなにもデリカシーと才能が無い北崎が、どうして探偵という夢にこだわるのか。最初は全然わからなかった。けれど、そんなに難しい経緯じゃなかったのだと後になって気が付いた。
それこそ、歌と踊りが好きな子がアイドルを目指すようなものだった。小説を書くことが好きな子が小説家を目指すようなものだ。自然の摂理だ。当たり前の流れだ。好きという気持ちは凄くシンプルな行動原理である。だって好きなんだから!
「好きなのに才能が無いなんてずるい、そんなの酷い……」
「そんなのお前だけじゃないよ」
 絵里坂はなるべく優しくそう言った。今日はちょっと疲れているので、言い争いを避けたかったのだ。それに、これだけ頑張って事件現場に赴いているのに、何の成果も上げられない北崎は普通に可哀想だったし。
「でも、今回のは物凄く難しかったんだよ。密室で人が殺されてて、内側のU字ロックもちゃんと掛かってて、それでドアの隙間がガムテープで目張りされてたんだ」
「目張りは外から?」
「外が主だけど、中もされてたよ。特にU字ロックの周りなんかは。だから、糸を通してU字ロックを締めるとかも出来なかったんだ。もう、こんなの無理だよ。不可能犯罪だ。宇宙人か幽霊か自殺したくなるガスとかの仕業だよ」
「それこの前も聞いた」
「ほら、今回は本物の密室なんだって」
 そう言って北崎は一枚の写真を見せてきた。さっき言っていた通り、目張りされた扉が映っている。きっと、周りの人間が恐慌に陥っている間に撮影したものだろう。そういうところも反感を買う理由なのに、北崎にはその辺りがよく理解出来ないらしい。『解決の為に役に立つから』と、彼の中にあるのはそれだけなのだ。
 扉には確かに目張りの跡があった。扉を封印するかのように執拗にガムテープが貼られている。扉を内側から撮影した写真もちゃんと用意されていて、その写真では確かに、堅牢そうなU字ロックの上下にもガムテープによる封印が施されているのだった。
「ね、凄いだろう」
 北崎の口調は自己弁護と感嘆の入り混じった奇妙な明るさに満ちていた。ミステリ好きの彼は、自分を負かした密室であっても愛せてしまうのだから懐が深い。
「凄いっていうか……うーん、そうだな」
 絵里坂は車を道路脇に止めると、もう一度その写真を見た。肝心の死体の写真は無いらしい。単にそれがつまんない死体だったからだろう。ということは、この密室の肝はこの扉に尽きるのだ。どうせそれ以外のヒントなんて望めないのだし。
 はてさて。重要なのは、ドアノブと鍵穴が一体になっているタイプの扉であるという点だった。縦十五センチ、横七センチの金色の長方形の中に、ノブと鍵穴が慎ましく収まっている。その金色の長方形の端も、がっちりと目張りされている。それはもう頑丈に、それはもう執拗にやられている。それを見て、絵里坂はひらめいてしまった。
「なあ、トリックわかったんだけど」
「えっ、まだヒントが開示されてから数行しか経ってない……」
「言ってもいい?」
「……うーん」
 少しだけ逡巡した後、北崎が頷いた。なんだかんだ言って、事件に未練があるらしい。間違ってるかもしれないけど、と言い添えてから、絵里坂が語り出す。
「犯人はさ、被害者を殺した後、普通に部屋の外に出て、そのドアノブと鍵穴がついてる長方形の部分を丸ごと外したんじゃないのか? それで開いた穴から手を差し入れて、U字ロックを掛けて、ロックの上下にガムテープ貼って、長方形の部分を元通りに嵌めて、改めてガムテープで目張りしたんだよ」
「……はあ? そんなの、え、そんなの……」
「扉の鍵の仕組みくらいはわかるだろ? 鍵穴がちゃんと鍵を噛んで、デッドボルトを押し出せればいいんだ。同じように嵌め直せば鍵は掛けられる」
「でも、それだとネジとか外さなくちゃいけないだろ……? あそこ丸ごと外すんだったら、それこそ全部……」
「まあそうだろうな。でも、元より扉はガムテープで目張りするつもりだったんだし。むしろ、その為に目張りするつもりだったんだろうし。さっきの写真、やけに几帳面に鍵穴周りにも目張りがされてただろ? あれ、あの部分がうっかり外れないようにガムテでガチガチに貼ってるんだよ。でも、そこだけガムテープ貼ってると不自然だから、ドア全体を目張りしたんだろうな」
「……あぁ……」
 全てを見透かされた犯人のように、北崎がそんな声を漏らした。頭から鹿撃ち帽を取り去ると、後部座席に投げる。その目が光を失っているのを見て、絵里坂は慌ててこう言い添えた。
「いや、俺は現場に行ってないし、第一お前みたいな探偵じゃない。間違ってるかもしれないぞ?」
「そんなことはない……絶対に無い……」
「普通に自殺だったかもしれないし、部屋に自殺したくなるガスが撒かれたのかもしれないし、幽霊か宇宙人の仕業かもしれないだろ。お前も探偵なら自分の推理に自信を持てよ」
「やだもう絶対絵里坂のが合ってるもん……そういうことだよ……トリックなんて大体そんなもんだもん……何が宇宙人だよ、何が幽霊だよ、いるわきゃないんだそんなもん……」
「俺は宇宙人だけは信じてるよ」
 そこは譲れないところだったので、絵里坂はとりあえずそう主張しておいた。彼は探偵にロマンを感じなかった分、宇宙に情熱を傾けているのだ。
「宇宙人か……絵里坂が言うならいるかもしれないな……何せ絵里坂は私より賢いからな……密室のトリックを暴けるだけの賢さのある絵里坂なら間違えるはずがない……」
「面倒な奴だな……」
「もう駄目だ……今日の失敗は本当に立ち直れないやつだから……」
「戻る? もう他の探偵が解決しちゃってるかもしれないけど、もしかしたら間に合うかもしれないぞ? そしたら、やっぱり真相がわかったって言って解決すればいい」
 その提案に、北崎が一瞬逡巡する。別に推理さえ合っていれば、それを横取りしてハイムリック北崎が披露しても構わないわけだ。小手川邸を出てからまだ三十分も経っていないし、今なら他の名探偵共がやって来ていない可能性もある。
一度尻尾を巻いた北崎は快く思われないかもしれないが、それでも事件さえ解決してしまえばオールオッケーだ。探偵はそういうものである。
「いや、いい……」
 けれど北崎は脱力したようにそう呟くと、更に深くシートに沈み込んだ。
「何だそれ。プライド? 探偵としての矜持? 捨てちまえそんなの」
「そういうことじゃない……別に、カンニングがどうこうって話じゃないんだ……」
「……じゃあ何だよ。問題ないだろ?」
「いや……さっき現場で滅茶苦茶ストレスかかったからね……。私、事件現場に吐いちゃって、そのまま逃げてきたんだよ……」
「お前本当何なの?」
「自分が一番思ってるよ! 何でそうやって死体蹴るんだよ!」
「お前がまだ生きてるからだよ」
 尤も、探偵としての北崎は半死半生ではあったけれど。ここまで無能を晒したら、もう出禁になってもおかしくないレベルだ。今回は無理矢理潜り込んだようだけど、次からはどうなることやら。
 巷の名探偵たちは、むしろ招かれる側の立場だというのに、実績の無い北崎はその気配すらない。
 一体いつまでこんなことを続けるのだろうか。探偵志望というわけでもない絵里坂より、海外どころか国内ミステリーすら殆ど触れたことのない絵里坂より! ……劣っているのが目に見えているのに。
 北崎はぼんやりとした目で窓の外を眺めている。それが正しく敗北者のメタファーのような気がして、絵里坂はたまらなくなった。エンジンをかけて、のろのろと車を発進する。
「ラーメンでも食べて帰ろうか」
 あんまり甘やかしてはいけないと思いつつも、絵里坂はそう言った。現場で嘔吐してしまったということは、きっとお腹がすいているに違いない。北崎はまだ落ち込んでいるようだったが、ラーメンの誘いには素直に頷いた。殺人現場を見たすぐ後に食事を摂れる部分は、北崎の数少ない探偵ライクな長所だった。裏を返せば、それ以外探偵向きの部分は無いということでもあった。

 努力は時に痛ましい。
 報われる努力ならいい。後のハッピーエンドが担保されている努力は美しい。けれど、報われない努力はそうじゃない。醜い場合の方が多い。
 人間は適度なモラルを備えて生きているので、必死にもがくネズミが蟻地獄に飲まれているのを見るのは悲しい。鼻先にニンジンを吊り下げられた馬がずっと走らされているのを見るのは辛い。同じところをぐるぐる回って途方に暮れているモルモットを見るのは痛ましい。
 そして、たまに苛立ちを覚える。
 ところで、探偵としてのハイムリック北崎は最悪だけれど、英知大学生としての北崎喜咲はそこそこ優秀な人間だった。今日も北崎は教室の一番前の席を陣取り、教授の質問に的確に答えている。単なる選択科目だ。そう気を張るような科目じゃない。それなのに、北崎は予習復習を完璧にこなし、教授の求める答えを完璧に弾き出す。優等生なのだ。
 対する絵里坂は一番後ろが定位置だった。単位さえ奪取出来れば良い人間が位置取る、魅惑的な堕落の席である。講義中、絵里坂は一言も喋らないのが常だが、それでも単位は来る。評価もそう悪くないのがつく。元々緩い授業なのだ。北崎のような姿勢は素晴らしくはあるものの、正直コスパが悪い行為でもあった。あんなに頑張らなくてもいいのに!
 北崎と絵里坂は共に三年生である。大学三年生の夏ともなれば、真面目な学生たちがそろそろ志望業界などに狙いを定め、来春の熾烈苛烈な戦争に備える時期でもある。お粗末極まりない成績に不透明な展望を備えた絵里坂に比べ、優秀な成績を収めている北崎はそれなりに良い企業に就職出来ることだろう。
 それなのに、北崎は大手商社や花形出版社や銀行などには目を向けず、『名探偵』という色々ふわっふわなものを目指し続けている。いつまで人は探偵を志していいのかについて確固たる意見があるわけじゃないが、少なくとも就活くらいはした方がいいんじゃないだろうか……。絵里坂は自分のことを棚に上げながらそう思う。
 北崎は今日も熱心に授業に参加している。名探偵というものは広範な知識を要求されるものだから、というのが彼の真面目さの理由だ。いつどんなものが暗号やダイイングメッセージの解読に役立つかわからないからね! とキラッキラの笑顔で言っていたことを思い出す。
 実際に西洋の宗教画に絡んだ暗号が出てきたとしても、どうせ北崎は解けないだろう。一文字もノートを取らないまま、絵里坂は緩く確信している。

 ハイムリック北崎の就活問題。
もしかするとこれは結構重要な問題なんじゃないのか? ということに気が付いた絵里坂は、その日の昼に早速尋ねてみることにした。北崎はお気に入りの鹿撃ち帽を被って、熱心に書き物をしている。日課である『トリック研究』だ。
 北崎は今まで読んだ推理小説のトリックを全部ノートに纏めていた。『研究ノート(3)』というナンバリングが生々しい。凡人の彼は、細々と、着々と、探偵を目指していやがるのだ。
絵里坂はふと、MENSAに入ることに情熱を傾けていた同級生のことを思い出した。MENSAとは、IQ200以上の人間しか入れないとかいう、なんていうか高級サロンのような、大昔の遊郭のような、アレである。あれに入る為に、IQテストの過去問を必死で暗記している同級生が昔居たのだ。
彼が結局MENSAに入れたのかどうかはわからないが、それを見た絵里坂は何となく「うわっ」と思ったものだった。努力の形が歪な上に、報われる気がまるでしなかった。そういうことじゃないだろう。その時覚えた気味の悪さが、北崎の日課にはあった。
今日も北崎は必死に探偵を目指している。その不意を衝くように、わざと大きな声を出した。
「なあ。お前、行きたい業界とかあんの?」
 絵里坂の声に、ぴたりと北崎の動きが止まる。そして、不安そうな目でこう繰り返した。
「業界……?」
「でもお前金融って感じしないよなぁ。外資系ってのもアレだし……あ、でもお前TOEICの成績良いんだっけ? だったら普通にそういうのでもいいのかもな。別に地元に愛着とか無いだろ?」
「あ、なるほど、えっと……いや、」
「俺はもう就職出来りゃなんでもいいんだけどさ、お前は意外とそういうのこだわるんだろ?」
「……こだわるも何も、私は生まれながらにして探偵の宿命を背負ってるからな。業界を言えというのなら、それこそ探偵業界だよ」
 さっきまで戸惑っていた舌が、一拍遅れてくるくると回りだす。北崎はアドリブに弱い。この気取った言い回しも、一回脳内でシミュレーションしないと出てこないのだ。そのあからさまな凡人らしさを見る度、何とも言えない気持ちになってしまう。
「そんな業界無いだろ。ちゃんと考えないと本当にヤバいぞ?」
「そんなことを君に言われる筋合いはない。何せ君は探偵についてはビギナーだ。心配することはない。私は卒業までに探偵として身を立ててみせる」
「実際出来ると思ってんのか? 大体、お前成績良いんだからさ。その時点で予防線張ってるんだよな。お前要領悪いとこあるけど、ESじゃあまず落ちないだろ? だったら、ちゃんと考えた方がいいぞ」
「だから、私は……」
 北崎が困ったように目を伏せるのを見て、絵里坂は密かな愉悦を覚えていた。口ごもらせてやった、という暗い喜びが腹を満たす。ミステリーだとか探偵だとかにどれだけ傾倒していようと、そういったものへの憧れは、圧倒的な現実に握り潰される運命にある。そういうロマンを叶える為に必要なのは才能でしかなくて、北崎にはその才能が無い。
 それについて薄々気が付いているからこそ、北崎はここを責められると弱いのだ。人の自我が駄目になっていくのを見るのが面白くて、絵里坂は更に続けた。
「学生時代に打ち込んだことは推理小説のトリックをひたすら暗記することです? でも実際に解決出来た事件はありません! お前真面目にそんなこと言うつもりなの?」
「そんなことは……」
「グループワークでもどもるつもりなわけか? 探偵志す前にもう少しコミュニケーション能力育てた方がいいぞ。お前いきなり声ちっちゃくなるしさ。あと、都合悪くなるといきなり目線逸らしたりするのも反感買うんだよ」
「……何だよ。何か機嫌悪い? 先日の小手川家の事件の時のこと怒ってる?」
「いや、そういうわけじゃない」
「……こっちだって何も考えてないわけじゃない。……何も考えてないわけじゃ……」
 ノートに目を落としながら、北崎がそう呟く。そして、ぽつぽつと金融はどうだとか、英語が使える職業につくならどうだとか、ぼんやりとした現実の話を続けた。
「なんだ。何も考えてないわけじゃないんだな」
「……今日の絵里坂はおかしいぞ」
「そんなことない」
 絵里坂はにこやかに笑ってみせた。さっき覚えたいけない嗜虐心はすっかりどこかに消えていた。北崎に『現実的な進路』を口にさせた達成感からかもしれない。外資系企業に勤め、なめらかに商談を交わす北崎! 想像しただけで愉快だった。そうだ、それでいい。
「そんなことあるだろ」
 けれど、北崎は暗い目をして首を横に振った。無能探偵よろしく食い下がるつもりか? と絵里坂は内心でせせら笑う。ややあって、北崎は言った。
「君、何がしたいんだよ。君が言わせたいことは言っただろ。なのに、どうしてもっと不機嫌そうな顔をするんだ」
「え?」
 それきり北崎は何も言わなかった。絵里坂が一生読まなさそうなお堅い海外ミステリーのトリックが、ノートをひたすら埋めていく。果たして絵里坂がどんな顔をしていたのかは知る由も無かった。北崎には探偵の才能が無い。だから多分、さっきのもクソ推理の一環だろう。とりあえず、そういうことにしておいた。

 最近は北崎の無能っぷりにとんと呆れている絵里坂だったが、絵里坂が彼と仲良くなったのは、偏にこの探偵趣味がきっかけだった。因果なものである。
 丁度一年ほど前だろうか。絵里坂はカンニング疑惑を掛けられたのだった。答案を回収する際に、絵里坂の机からカンニングペーパーが滑り落ち、優雅に床に着地したのだ。アシスタント・ティーチャーを務める院生はそれを見逃さず、競技かるたよろしくそれを拾い上げた。その時点で絵里坂の有罪は八割決まってしまったのだった。
 舐めるように見つめられるカンニングペーパー。一分の隙も無く埋まったそれを確認していく内に、アシスタント・ティーチャーの顔色がみるみる悪くなっていく。それと比例するように、口元だけは微かに笑みを形作っていった。これから起こる騒乱の予感に、ちょっとばかり心を躍らせているのだろう。浅く溜息を吐いて、彼女の口が喚きだした。
「これは何ですか!」
「知りません」
 絵里坂は冷静にそう答えた。内心は殆どパニックだったが、ここでの反論は無駄でしかない。あくまで冷静に収めなければ、泥沼に嵌ってしまう。既に教室中の視線が自分達に集まっている。大事になるのは目に見えていた。
「何を言ってるんですか! どこからどう見たってカンニングペーパーじゃないですか! 貴方、カンニングしたんでしょう」
「俺にも何が何だか……。正直、どういうことなのかわからなくて……」
「しらばっくれないで! ……絵里坂瑛士、学籍番号はA1782066。控えましたよ」
「だから、僕はやってないんです」
 誰も絵里坂を救おうとしなかった。救おうとする人間なんているはずがない。どれだけ否定しようと、証拠のカンニングペーパーは見つかってしまった。
事件らしく言うならば、彼以外不可能な状況で彼が犯人だということを指し示す証拠がある、という状態だ。疑う余地が無い。彼がカンニングをしたのだと、あの教室の全員が思っていた。
「知りません」
 絵里坂はもう一度はっきりと言った。誰にも信じて貰えない状況で、それでも彼は強硬に無罪を主張したのである。どうで死ぬ身の一踊りだ。これだけ注目を浴びたのだから、最後まで見苦しくいってやる、という気概だった。
 だから、本当にそんなつもりじゃなかった。誰かに助けてもらおうだなんて、絵里坂は少しも考えていなかったのだ。
「待ちたまえ」
 その時、やけに涼やかな声があたりに響いた。
「頭ごなしに疑うのはよくない。彼は犯行を否定しているんだ。誰も彼を信じてやらないのか? 何の証拠も無しに……」
 突然立ち上がったその声の主は、この暑いのに上下黒のリクルートスーツを着ていた。頭にはシャーロック・ホームズを露骨に意識した鹿撃ち帽も被っている。首から上だけを見れば、上質でオーソドックスな探偵スタイルだった。『本当は全身シャーロックスタイルにしたかったんだが、お金が無くて帽子だけ買ったんだ』と、後にその珍妙なスタイルの理由を聞いた。
「いや、証拠ならここにありますけど。ほら、カンニングペーパー。絵里坂くんの筆跡とまるで同じなやつ」
「筆跡くらい誰だって真似られるだろう。それなら、絵里坂くんを嵌める為に誰かが仕込んだのかもしれない。それとも貴女は自分が筆跡鑑定のスペシャリストだと?」
「はあ? 貴方何言ってるの?」
 アシスタント・ティーチャーがあからさまに怪訝そうな顔をする。その冷たい視線に動じないまま、鹿撃ち帽の男は続けた。
「探偵とは弱きを救い、正義を行うものです。今ここで一人の学生が罪に陥れられようとしている。私は一介の探偵としてそれを見過ごすことが出来なかった。それだけのことです」
 教室はすっかり静まりかえっていた。この自称探偵をどう扱っていいのか、皆が皆露骨に困っていたのである。面白がればいいのか、蔑めばいいのか、有難がればいいのか、面倒だと思えばいいのか。このえげつないシンキングタイムにあっても、男は堂々とアシスタントティーチャーを見つめている。
「た、高畑教授……」
 この空気に耐えきれなかったのか、ATの方が先に脱落した。救いを求めるかのように、試験監督を務めていた教授の方に視線を移す。その瞬間、教室中の期待も教授の方に移動した。あからさまに面倒臭そうな顔をして、老齢の教授が口を開く。
「北崎くん。私は試験中は帽子を取るように言ったはずですが……」
高畑教授は、差し当たってそう指摘した。冷静極まりない声だった。それに合わせて、教室内が平静を取り戻すのがわかる。
「もう試験は終わったじゃないですか! 『やめ!』と言われたんですから、もう試験は終了ですよ。従って私は帽子を被っていいわけです。そう思いませんか? それに、今の私は北崎ではなく、名探偵ハイムリック北崎です」
「北崎くん。まあ、それでは帽子のことはよしとしましょう。それで、君は絵里坂くんの無実を主張し、彼のカンニングが冤罪だと言いたいわけなんですね?」
「その通りです!」
「しかし、英知大学の試験では、机の中も試験直前にアシスタント・ティーチャーの皆がチェックすることになっています。その時にカンニングペーパーは見つかりませんでしたよね? 森下さん」
 森下と呼ばれたアシスタント・ティーチャーが頻りに頷いて教授の言葉を肯定する。それを見た教授は満足そうに頷くと、もう一度北崎の方を見た。
「だとすればそのカンニングペーパーの出どころは絵里坂くんが服か何かに隠していて、試験終了時の気の緩みと共にうっかり落下させてしまった、というのが一番正しいような気がするんですけれどね。名探偵であるところの君の推理では、そのあたりはどうなっているんでしょうか?」
 教室中の視線が北崎ことハイムリック北崎に集まっていた。当事者である絵里坂でさえ、うっかり熱の籠もった視線で北崎のことを見つめてしまう。期待の熱だ。
探偵というのは、こういう閉塞した状況から華麗に話をひっくり返してみせる存在だと思っている。だとすれば、高畑教授の言にだってちゃんと反論してみせるはずだ。絵里坂は無邪気にも、そう期待してしまったのだ。
 けれど、北崎は唇を震わせたかと思うと、さっきとはうって変わったか細い声でこう呟いた。
「……えっとぉ」
 ホーリーシット。言葉に詰まりやがった。絵里坂は弁護してもらっている立場でありながら舌打ちをしそうになった。さっきの威勢は何処へやら、今の北崎は宿題を忘れた子供のような有様だった。
心なしか顔も赤いし、汗もかいているようだ。視線に刺されたまま、完ッ全に委縮している。それを見た高畑教授は眉一つ動かさず「とりあえず北崎くんは帽子を取りましょうか」と言った。北崎が大人しく帽子を脱ぐ。
「それでは……どうしましょうね。答案の回収だけしちゃいましょうか。あ、はい、それでいいです。それじゃあ今日は――」
「待ってください! まだ私は納得してません!」
 着々と答案回収を進める教授に向かって、北崎が悲壮な声を上げた。教室の空気が再び凍りつく。引き際を間違えた人間の一踊りが、不幸の気配を漂わせていく。
「あの、北崎くんもそろそろ着席しなさい。さもないと君も単位を落とすことになりますが」
「今の私は北崎じゃない。名探偵ハイムリック北崎です! みすみす冤罪にかけられようとしている人間がいるのに、黙ってろって言うんですか! そんなのあんまりですよ! 高畑教授! そう思いませんか!」
「思いません。正直、収拾がつかなくなるのでこのまま続行するなら君の処罰も停学になりますが……」
 その言葉を聞いて、北崎はようやく大人しくなった。健全なラインだと思う。見ず知らずの人間に対して単位の一つなら擲てるが、停学はちょっと重い。そういうことだろう。
 教室の空気は混沌としていた。突如として差し挟まれたカンニング事件と、その混乱を延焼させるかのような探偵の登場。最早ちょっとした大惨事である。絵里坂よりもむしろ北崎の方がよっぽど途方に暮れた顔をしていた。あろうことか北崎は、助けを求めるかのようにちらちらと絵里坂に視線を寄越してくる。どうしろと、と本気で思った。
「えー、そうですね。絵里坂くんはちょっとこちらへ来てもらえますかね。残りの皆さんは教室を出て結構です」
 教授は丁寧な口調でそう告げた。穏やかな微笑が、暗に『出て行け』と告げている。それを聞いて賢明な英知大生はみんな、そそくさと教室を出て行った。
 のろのろと後ろ髪を引かれるように出て行ったのは、賢明でない北崎だけだった。脱出の機会を与えられてなお、北崎は絵里坂に救いを求めていた。絵里坂は心の中でもう一度唱える。俺にどうしろと。

「あっ」
「……何」
「あっ、いや、その、どうかなって……」
「何が」
 教室を出てすぐのところで、北崎が待っていた。高畑教授の人払いから優に三十分以上が過ぎていたのだが、その間ずっと突っ立っていたらしい。ここまでくると殆どホラーの領域である。事実、絵里坂の方もいたくドン引いていたのだ。
「……停学とかになったか?」
「とかって何だよ……。いや、証拠不十分で再試。一週間後」
「ほ、本当か? 嘘じゃないのか!?」
「何でこんなことで嘘吐くんだよ」
「……それはほら……私を慮ってくれたのかな、と……」
 北崎が心底申し訳なさそうにそう言ってくる。そこで、北崎を三十分も突っ立たせていたものが何なのかにようやく気が付いた。この独りよがりの狂人は、絵里坂を救えなかったことに罪悪感を覚えているのだ。
「よかった……本当によかった……。あ、喉乾いてないか? あれなら何か奢るぞ!」
 そして、その罪悪感の解消の方法がやけに即物的なのも、絵里坂の趣味に合っていた。ジュース一本でさっきの大立ち回りの責任が取れると、彼は本気で思っていらっしゃる。
 ご機嫌を窺うような顔をしている北崎の提案に、絵里坂は結局頷いた。教授との面談の所為で喉が渇いていたからだ。
「何も出来なくて本当に悪かったと思っている」
「あ、いや、別に謝られることでもないし」
 北崎からコーラを受け取りながら、絵里坂はそう答えた。そもそも、北崎は無罪こそ勝ち取れなかったものの、間接的に絵里坂を救ったからだ。
「二度目はないですよ」
 高畑教授のその言葉を聞いた時、絵里坂は耳を疑った。彼の真意の程はわからない。心の中で何と思っていようが、教授の決定は『再試』だった。
 教授の温情は、十中八九北崎が派手に喚き立てたお陰だろう。あそこまで騒ぎ立てて結局何の意味もなかったとなれば、北崎の立場が無さすぎるからだ。あの時の北崎の、哀れな犬のような目を思い出す。あまりに哀れな生き物を見ると、こっちが申し訳なくなるという状況の良い例だ。
あれのお陰で絵里坂は救われた。無罪放免というわけじゃないが、完全なるクロ判定として停学になるよりは遥かにマシな措置だった。
「でも、探偵っていうのは弱きを救い、正義を遂行するものなのに、何にも解決出来なかった。これは、私の責任だ」
「……なんかアメコミヒーローみたいな価値観だね」
「真実を暴き、冤罪を晴らしてこそ探偵なんだ。今日の私は探偵力が極めて低かったと言わざるを得ない」
「探偵力」
 いよいよアウトな方向にいきそうなパワーワードだった。北崎はこの暑い日差しに似合わないほど陰鬱な顔をしているけれど、それは全部彼の探偵としての矜持に由来しているらしい。本物だ、と思った。本物の狂人だ。
「あんまり気にすることないと思うよ」
「これは探偵であるところの私と、冤罪との戦いなんだ。最早絵里坂にすら関係ないくらいに」
「関係ないことは無いと思うぞ……」
 話があちこちに飛んでいくのを、絵里坂がさりげなくフォローする。けれど、北崎は自分の考えを全く譲らずに、勝手に反省している。一応隣り合って同じ言語で会話しているというのに、意思の擦り合わせがまるで出来ていない。ギリギリのところで反発し合う磁石のようだった。
 というか、今回の件は、特に冤罪というわけでもなかった。
 絵里坂はその日、普通にカンニングをして普通にバレたのだ。
動機は成績向上、試験の円滑なパスである。何せ英知大学の試験といったら面白味もクソも無い癖にやたらと難しい。その癖、単純な暗記能力で事足りる。カンニングペーパーさえあれば、この煩雑な全てを一気に解決出来るというわけだ。
 それなのに、北崎はよりにもよって絵里坂を庇ってしまったのだ。冤罪と喚きたて、本物の悪を見逃したのだ。
 北崎の判官贔屓というか、わかりやすい嗜好というか、そういうものの関係で、糾弾されている絵里坂に味方しようとしたのだろうが、無能もここまでくると罪である。弱いものいじめを止める自分の図、はこの上なく甘美だったのだろうが、探偵としては三流もいいところだ。
 結果的には絵里坂のピンチを救ってくれたわけだが、それは探偵としての救済ではなかった。単に声の大きいものが幅を取っただけの話だ。いわばおぞましいパワープレイである。でも、停学が再試になった以上、文句を言うつもりもなかった。
「でも、私はこれからも頑張るからな! これからも期待してくれ。そして、絵里坂が殺人事件の容疑者になった時は必ずや救ってやろう!」
「……はあ」
 あんなに証拠が揃った状況で絵里坂のカンニングがクロだと見抜けなかった人間が言う台詞だとは思えなかった。しかも、一回失敗した癖に堂々と殺人事件を指定してくる厚かましさにも驚いた。もう少しライトなものに挑め。
「今はまだ力不足かもしれないが、この間ようやく有栖川作品を読み通したんだ。島田荘司作品に続いて一気に読んだんだぞ! これで探偵力の方もかなり底上げされたと言わざるを得ない」
「えっ、お前の探偵力のつけ方ってそういうのなの?」
「だってそうそう事件とか無いし、飛び込んで解決出来なかったらさっきみたいなことになるし……とりあえず次は館シリーズを読もうと思うんだけどな、何分、あれら全体的に分厚くて……」
 真面目に言う北崎を見ながら、絵里坂は知らずコーラのペットボトルを握りしめていた。ぎゅうむ、とボトルが無機質な悲鳴を上げる。
「それで探偵になれんの?」
「なれる……と思う。うん。だって他にあるか?」
「わかんないけど、わかんないけどさあ……なんか、なんかなあ……」
 その方向性のズレが恐ろしかった。実直だけどどこか外れた勉強法が怖い。
 北崎に探偵の才能が無いとかならまだいい。しかし、その才能の無さの度合いが問題だった。ハンバーグにホイップクリームが載ってるのを見て『不味い』と判断出来ないレベルなのは致命的なのだ。そこまでくるとマイナスである。
 それでも、北崎は自分がいつか探偵になれることを疑っていないようだった。寝不足なのか濁った眼の奥で、江戸川乱歩に育まれた情熱が燃えている。
 その時、絵里坂は北崎に興味を持ってしまったのだった。
「えーと、なんだっけ、お前の芸名? 探偵名? って」
「…………ハイムリック北崎」
 北崎はそれを言う時、少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。鹿撃ち帽まで被ってそんな態度を見せる北崎を見て、絵里坂は更に複雑な気持ちになった。自分で言うのが恥ずかしいような名前を付けるべきじゃないのだ。
 あの時絵里坂は、自分がどうして北崎と友達になろうとしたのかわからなかった。けれど、今ならわかる。有り体に言って可哀想だったのだ。目の前の何かが何者かになれるところを見れるなら、少しくらい好奇の目で見られても構わないと、そう思ったわけである。
 ところで、絵里坂は今でもたまに考える。
 もしハイムリック北崎が物凄く弁舌巧みな天才だったとして、あの場にいる全員を捻じ伏せられるだけの空論を編み出せていたとしたら。
 絵里坂のカンニングは正しく『無かったこと』になっていたのだろうか? 探偵が全てを決めて、世界を歪めてカタルシスを語っちゃうわけだったんだろうか? 絵里坂はそれを思うとぞっとしない気分になった。昨日夜なべして作ったカンニングペーパーが反旗を翻すかのような気分だ。

 こうしたわけで北崎と絵里坂の奇妙な友情は始まったのだった。一年にも及ぶ二人の関係を綴る物語の中に、ハイムリック北崎の華麗なる事件解決パートは一文字も無い。不可解な殺人事件が起きなかったとか、北崎がそこに介入できなかったとか、そういうわけではない。
北崎はこの一年で優に三十八件を超える事件現場を訪問し、そこの現場を荒すだけ荒して一つも事件を解決出来ないまま逃げ帰った。密室殺人、アリバイトリック、不可解な暗号に雪に残った足跡の謎! その全ての前に北崎は敗北した。
 こうしてみると意外と物騒で不可解な事件は起こっているようなのだが、それらの殆どが北崎には解けないものであるというのも恐ろしかった。世界は謎に満ち過ぎている。人を殺す時にわざわざ密室を作りたがる奴が多すぎる。死に際に戦国武将や囲碁に擬えたダイイングメッセージを残したがる奴が多すぎる。
 ここまでくると何か一個くらい北崎に解けるものがあってもよさそうなのに、とも思うのだが、現実は非情だし、ハイムリック北崎はポンコツだった。
 就活だって百社受けて内定ゼロとかもあるらしいし、三十八件というのはまだまだ温いお話なのかもしれない。そう思ってはみたものの、ES無し実技一発勝負の探偵業でこれ以上の未来があるものだろうか。
 ちなみに、先の三十八件の中には、北崎がA評価を貰った中世哲学史に絡めたイカれたダイイングメッセージの殺人事件もあった。当然とっかかりすら分からなかった。
 絵里坂はそんな北崎の様子をただただ生温く見守り、いつになったらこの哀れな生き物が諦めるのかを観察していた。事件現場へ迎えに行ったり、彼が解けなかった数多の謎についての話を聞いたりするのは、自由研究の一環のようなものだ。
 たまに突くといい声を出す朝顔みたいなものだった。
「だって、聞いてくれよ。密室で老人が一人ナイフで刺されてて、犯人と目された男は一週間前からイタリアに行ってて今も国内にいなくて、老人が死んだのは昨日の朝なんだぞ? 不可能犯罪に決まってるじゃないか……。部屋は密室で、誰も出入りしてた形跡は無くてだね」
「思うんだけどさ、それもしかして八日前にその怪しい男が刺して、老人は何故かわかんないけど刺さったナイフに気付かなくてそのまま生活してたんじゃないの?」
 絵里坂は何の責任も無い単なる一般人なので、北崎から聞いた事件の概要に対して適当な意見を言っても赦されてしまう立場だった。適当なことを言っている時が、いつだって一番楽しいのである。
「えっ、いや流石にそれは……」
「そういえば悲しいことに昨日の明け方地震があっただろ? 結構大きいやつ。その地震で体内にあった刃が緩やかに振動して、それが原因で血が噴き出したのかも」
「そんな……」
 絵里坂の大胆な仮説に、北崎は絶句していたが、後に他の名探偵によってこれが正答だと明かされると、泡を吹いて倒れた。この程度の不条理で根を上げていては探偵は務まらないというのに。
 北崎の彷徨は終わらない。ここまで終わりが見えないと、絵里坂の方も焦るようになった。何も悪いことをしていない人間が、そこそこ優秀な人間が転がり落ちていくように破滅していくのを見るのは恐ろしいものだった。
 そしてついにその日がやってきた。絵里坂が北崎の才能に見切りをつけた日だ。そのきっかけは、本当にささやかなことだった。

 その日二人は北崎の家で素麺を啜っていた。夏だし食欲も金も無いし、という絵里坂の提案で、大量の素麺を夕食にすることになったのである。素麺はめんつゆと麺さえあれば成り立つという素晴らしく画期的な食べ物なのだ。「せめて揚げ玉と葱くらいは欲しい」と駄々をこねる北崎は「探偵だって事件さえあれば成り立つだろ。薬味無し素麺と似た構造をしてる」とねじ伏せた。五秒で考えた詭弁だったが、北崎はそれで納得がいったらしかった。単純が過ぎる。
 北崎の住むマンションは一人暮らしの女の子でも安心なくらい過保護なオートロックで、絵里坂の住んでいるアパートより格段に広い。親からの仕送りも結構潤沢に貰っているから、バイトをしなくても探偵業に勤しむことが出来るのだ。いよいよ良い御身分である。
絵里坂が強硬に割り勘を奨めなければ、もみじおろしまで揃った素麺を用意したのに違いないのだ。金持ちの道楽としての、エンターテインメントとしての探偵! 就職をしなくてものうのうと生きていけそうな北崎の様子を見ると、なんだか複雑な気持ちになった。真っ当な人間の振りをしてつらっと生きていく北崎と、親からの仕送りを貰ってぬるっと生きていくハイムリック北崎のどちらがマシなのだろう。世間一般ではなく、絵里坂の中で。
 そんな絵里坂の煩悶を欠片も理解しないまま、北崎は素麺を啜り、テレビを観ていた。文句を言っていた割に、結構素麺を消化している。このままだと追加で茹でる必要があるかもしれないな、と絵里坂は思った。ジャンケンで負けた方が茹でることにしよう。
 テレビでは家族向けのクイズ番組がやっていた。この日の趣向は犯人当てだった。テレビの前の皆さんも考えてみましょう、の惹句と共にVTRが流れ、その映像の中のヒントを元に犯人を当てるのだ。さっきから北崎が目を輝かせているのはこれの所為か、と絵里坂は遅れて気が付く。例えファミリー層に宛てたクイズでしかなくとも、ミステリーの匂いがすれば否応無く楽しめちゃうのだ。なんてお手軽なんだろう。
「絵里坂も推理しろよ。競争だ」
「あー・・・・・・うん」
 絵里坂は素麺を啜りながら、適当に答えた。テレビに映る雛壇芸能人達がきゃあきゃあ喚き、出題編が始まる。
 この番組は後に出てくるクイズほど難しくなっているらしく、最初のVTRの一般正答率は86%だった。「お子さんでもわかるようになっているので、どうぞご家族で!」というテロップが流れた後に、頭を殴られた死体が映し出された。どこがお子さんでも、だ。絵里坂は少し笑ってしまう。死体のエンターテインメント化が激しい。ゴールデンタイムだぞ。
 映像自体はなんてことはなく、センセーショナルな撲殺体が映った後は、取り調べを受ける容疑者四人が映し出されていく。取り調べを受ける彼らの利き手が、映像の中のヒントで巧妙に、あるいはあからさまに分かるようになっているのだ。ペンを持つ手、腕時計のはめてある方、カップの持ち方などなど。撲殺体は左側頭部を袈裟掛けに殴られていることは最初に示されており、ご丁寧に犯人は左から殴ったみたい・・・・・・? と番組のマスコットキャラが首を傾げる。ここまでくると、その優しい謎解きに心が震えるほどだった。
 正答率86%は伊達じゃなく、ここまで露骨にヒントを出されたら答えを出すのは簡単だろう。そもそも、こういった犯人当てにおいて利き手の問題は結構オーソドックスなのだ。犯人は、右手に腕時計を着けていた中村という名前の男だろう。ミステリーの世界において、人間は絶対に利き手に腕時計を着けない。彼だけが、容疑者の中で唯一左利きなのだ。
「これさ、犯人……」
 絵里坂はCM中に、無邪気にそう言い掛けた。そして、すんでのところで思いとどまった。途方もない負のオーラと居たたまれないほどの嫌な予感が、どうにか絵里坂のことを守ってくれたのだ。その先を言っていたら地獄が待っていただろう。言葉を無理矢理素麺と一緒に流し込んだ。そして、CM中にも関わらず画面を食い入るように見つめている北崎のことを、息を殺して観察した。
 その必死の形相を見て察する。それこそ簡単な推理だ。北崎は、さっきの手厚いヒントが賜られた犯人当ての答えが、まだわかっていないのだ。正答率86%は伊達じゃない。残る14%の人間は、答えが分からない。でもまさか、普段あれだけ探偵の勉強をしている北崎が、そのマイノリティーの中に含まれるなんて!
 勿論、北崎が犯人を当てられない可能性については考えていた。正直、一般正答率が50%を切ったらわからないだろうとも。番組がその段階まで進んだら、さり気なくチャンネルを変えようとも思っていた。でも、まさか一問目からわからないだなんて。
 CMが明けて、ご丁寧にもう一度VTRが流れた。北崎はめんつゆと箸を置いて、必死に映像を観ていた。もうやめてくれ、素麺を食べろ、と心の中で絵里坂は思う。もう、ジャンケンとか何にも無しでお代わりを茹でに行ってやってもいいから。
 結局北崎は解答編に入るまで一言も喋らなかった。答えが分かったら満面の笑みでそれを伝えてくるだろう北崎は、ただただ真摯にテレビに向き合い続けていた。
 解答については絵里坂の予想した通りで、右手に腕時計を着けた左利きの男が犯人だった。芸能人たちの大半が正解し、解けなかったただ一人が派手に弄られている。
 どう声を掛けていいかわからない状況の中で、北崎の方が先に口を開いた。
「私の思った通りだった!」
「……え?」
「わかってたんだ! 簡単な問題だよ。セオリーだな。……初めから怪しいと思っていたんだ」
 嘘だ、と反射的に思う。北崎はわかっていなかった。わかっていなかったのに、そんな嘘を吐いている。けれど、責められなかった。北崎の顔面は依然として蒼白で、途方に暮れているのが目に見える有様だった。
 こんなしょぼいところで見栄を張るのか、と絵里坂は思った。たかだかテレビ番組なのに。ファミリー向けのクイズでしかないのに。
 ここで北崎のささやかな見栄を崩してしまったら一体どうなるんだろうか。好奇心よりも恐怖が勝った。こんなバラエティ一つで、友人の尊厳が粉微塵になるところは見たくなかった。
「マジで? お前わかったの?」
「えっ……?」
「凄いな! 俺わかんなかったわ。お前の勝ちだよ」
「え、本当に? 本当にわかんなかったのか? 絵里坂が?」
「俺こういうの苦手なんだよな。お前はすげえよ」
「そうかー……そうか!」
 北崎が噛みしめるようにそう繰り返す。安心と優越感がありありと滲むその姿を見て、絵里坂は自分の機転を褒めてやらずにはいられなかった。危ない所だったが、絵里坂は正解を引いたのだ。
 無邪気な北崎は、本気で絵里坂もあのクイズの答えがわからなかったのだと思っているだろう。素晴らしい善性だ。
「絵里坂がわからないなんてなー……。これは、私の日頃の努力が実を結んだってことなんだな! 嬉しいぞ!」
 調子に乗り倒す北崎のことは多少腹立たしかったものの、気まずいことになるよりは百倍マシだった。
「確かに今回は凄いな。改めて呼ぶよ。名探偵ハイムリック北崎!」
「いやったー! ひゃっほーい!」
 たったこれだけのことで、北崎はあられもなく喜んでいた。その喜びっぷりたるや、クリスマスの朝の子供みたいだった。軽くホラーだ。絵里坂はさりげなくテレビを消し、しばらくこの茶番に付き合ってやることにした。心はとても単純な部分なので、こうしてはしゃいでいる振りをするだけでも、そこそこ楽しい気分になってくるものなのである。
 謎の高揚感に包まれながら、北崎が事件を解決でもしたら、それはもう凄く楽しいんじゃないかと絵里坂は思った。クイズに正解しただけで全国優勝の気分なんだから、そのテンションの上がり方たるや、金メダル獲得レベルになってもおかしくない。
 それと同時に、絵里坂の心の中で何かが冷めていくのもわかった。北崎がはしゃげばはしゃぐほど、絵里坂の脳が冷静になっていく。こんなクイズで一喜一憂するような人間に、実際の事件が解決できるはずがない。そもそも、クイズは解けてすらいない。
 どこからどこまで北崎は本気なのか。それすら絵里坂にはよくわからなくなってきていた。実際はもう探偵なんかに見切りをつけて、手堅い企業への就職案内を眺めているのか? それとも本気で自分にはまだ可能性があると信じているのか? 疑問は割合すぐに解消された。
 素麺を啜りながら酒を飲み、延々とくだを巻いている北崎は、結局チャンネルが切り替わったことには気づかなかった。吐く一歩手前の顔をして、唸るように呟く。
「もう辛い……」
 素直過ぎる弱音だった。さっきまでの楽しさはそう長くは続かなかったらしい。アルコールに触れると精神の強度が下がるのだ。
「もうやめれば? 色々」
「でもさ、私に探偵諦めて欲しくないだろ」
「はあ?」
「きっと寂しいぞ」
 この男は一体何を言っているんだろう? と思う。この間、北崎に就活の話を切り出した時と似たような気分になった。北崎の顔はあの時と同じ、何とも言えない表情をしている。
「私の友達に滅茶苦茶絵描くの上手い子がいたんだけどさ」
「うん」
「就職するからやめちゃうんだってさ。つっまんないよなー。絶ッ対才能あるのに。なのにやめちゃうなんて悔しいだろ」
「お前の探偵としての才能よりはマシかもしれないけど、それでも現実には敵わないこともあるわけよ、多分」
「えーでも嫌なものは嫌だ」
「他人の人生を保証出来ない以上、やだやだ言ったって仕方ないだろ」
「最早遺憾を通り越し、生理的嫌悪感を覚える……」
「お前大分酔ってるだろ」
 実際のところ、単なる酔っ払いの妄言であることは何となくわかっていた。切実な風に聞こえるのはただの変換ミスである。
「ずっと探偵になりたかったんだ。その為に沢山の時間を費やしてきたし、努力も重ねてきたつもりだ。いつか探偵になる為に。でもこれ、一生探偵になれなかったら、私はどうなるんだろう……」
「どうにもならないよ。お前はお前のままだよ。ずっと北崎のままだ」
 14%に入ってしまうような人間でも構わないのだ。何かになれないまま生きていくのはそんなに怖いことじゃない。
「探偵が駄目だったらどうしよう」
 北崎はそう呟いてとうとう眠った。傍迷惑な奴だ、と他人の家に陣取りながら絵里坂は思う。ハイムリック北崎の名前が『いい思い出』でしかなくなる日はそう遠くないのだ。
 駄目だったらどうしよう、と絵里坂は密かに復唱する。駄目だったらどうしよう。

 それから夏が終わるまで、ハイムリック北崎の出番は無かった。探偵が必要なほど珍妙な事件が起こらなかったのもあるし、そもそも北崎程度の情報網でキャッチ出来る事件現場が無かったのもあった。北崎と絵里坂は何のドラマティックも無い普通の大学生として日々を過ごすようになった。
 変化が無かったわけじゃなかった。絵里坂は北崎の才能に見切りをつけ、その結果、妙に凪いだ気分で彼の奮闘を見つめるようになった。終わりが見えると楽になるものである。マラソンとかと同じだ。
 終わりが見えてしまって焦りを覚えたのが北崎の方で、大人しく就活方面に向かうかと思った北崎は、より一層無茶なやり方で事件に介入するようになった。十年に一度の奇祭が行われる村に単身乗り込んで、山姥伝説に擬えた殺人事件に遭遇した挙句、余所者ということで散々疑われたり、怪死した天才画家の住んでいた曰くつきの屋敷に張り込んで通報されたりしたのである。特に後者は探偵界隈では『事件待ち』と呼ばれて忌み嫌われる行為だというのに、北崎はそのタブーを犯してしまった。
 結果的に『事件待ち』を行った屋敷では殺人事件が起こったのだが、北崎が解決出来るはずもなく、タブーに不祥事を重ねるようなことになってしまった。ハイムリック北崎の名前は嫌な意味で有名になっていた。
「北崎」
「うん? どうした?」
「最近お前おかしくない? 大丈夫?」
「私のどこがおかしいって言うんだ? 平気だよ」
「この間連続殺人事件が起きた土路村にお前がいたって聞いたんだけど」
「人違いに決まってるだろ」
「鹿撃ち帽にリクルートスーツで山の中に分け入る人間なんてそういないだろ。せめて今度からマスクとサングラスで顔を隠そうな」
 北崎は絵里坂に失敗を言わなくなったし、真夜中に事件現場に迎えに来てもらうこともなくなった。北崎の方も思うところあったのか、自分の時間の無さに気が付いたのかわからないが、若干の変化があったらしい。まだまだ暑い九月、来年の今頃には骨を埋める会社が決まっているかもしれないのだ。
 絵里坂は北崎の探偵活動について本人に聞いたりしなかった。その代わり、インターネットという文明の利器でその動向を監視していた。恐ろしいことに、嫌な意味で有名になったハイムリック北崎の名前のお陰で、週末彼がどこでどんなことをやらかしたかが筒抜けになってしまっているのである。
『無能探偵、この間の某村に行ってたってマジ?』
『写真ある。完全に面白がってるよな』
『野次馬より酷い。北崎の方を誰か逮捕しろよ』
『警察何やってんの? この間は事件待ちしてたって言うしさ』
『不謹慎すぎる、死んでくれ』
 絵里坂はそれらの書き込みを見て、北崎の週末のバカンスについて知ったのだった。一時は北崎が犯人ではないかと疑われたらしいが、通りすがりの名探偵が彼の冤罪を晴らしてくれたらしい。有能な探偵の有能さに感謝した。
 探偵を名乗り事件現場を荒した上で、何も出来ずに帰っていく北崎がヘイトを集めないはずがなかった。正義で動こうが義憤で動こうが、やっていることは愉快犯である。不謹慎だと名指しで叩かれ、ネットに晒される北崎の姿を見て、絵里坂は普通に心を痛めた。
けれど、探偵なんて須らく不謹慎なんじゃないだろうか? 一体どうして事件を解決した探偵は『お前、楽しんでるだろ?』と糾弾されないんだろうか? 絵里坂にはその辺りがよくわからない。
 それもまた才能とか貢献度の話になってくるのかもしれない。犯人さえ捕まえてトリックだけ解いてくれれば、探偵側の心構えとか別にどうでもいいのだ。結果を出せていない北崎のやる気と善性なんて今のところゴミである。
 ネットの中に流布された北崎は思い思いの物語を付け加えられては誹謗中傷を繰り返されていた。自称プロファイラーの見立てによると、北崎はサイコパスの部類に入るらしい。意外とひねりのない診断結果である。
 探偵になりたがる奴なんて心がぶち壊れてるんだよ、というストレートな指摘もあって、その点については絵里坂も同意せざるを得なかった。本当なら小学生で脱していなくちゃいけない欲望だ。
 当の北崎自身は、自分が無能クソ不謹慎野郎としてネットに晒されていることに全く気が付いていなかった。北崎は悪い文明であるインターネットに染まっていないのだ。
 絵里坂の方も特に教えようとはしなかった。見たって仕方がないものは闇に葬ってしまった方が良い。世の中の大体は見なくたって困らないものなのだし。
 でも、闇に葬れないものもある。人気は集められない癖に悪意を集めるのだけは得意だったハイムリック北崎は、とうとう無視できない領域まで行ってしまったのだった。

 その日、北崎は絵里坂の家に遊びに来る予定だった。夕飯を一緒に食べて、普通の大学生みたいにゲームをするのだ。絵里坂の中ではその後北崎に、明後日提出のレポートを代筆させるところまで予定を組んでいたというのに、初っ端の待ち合わせから、北崎は予定を狂わせた。待ち合わせ時間を一時間二十分過ぎても、彼は現れなかった。
 約束を忘れて、また事件に首を突っ込んでいるんだろうか、と絵里坂は少し不機嫌になった。どうせ解決出来ない事件に取り組むより、レポートをやってくれた方が万倍良いに決まっているのに。そこで絵里坂は、いつもの匿名掲示板にアクセスした。立ち回りの悪い北崎が、どこかで馬鹿にされていることを期待したのだ。
 するとそこには、もっと直接的なヒントがあった。『北崎捕獲!』という不穏でポップなタイトルの横に、URLが添えられている。躊躇いも無くクリックした。ポップアップが開く。すると、閲覧数九人という極小の枠の中で、北崎がボッコボコにされていた。
 スマートフォンのカメラを使ってリアルタイムで配信される光景は、何だか酷く現実感が無い。けれど、薄汚れた部屋の中で、北崎が縛られているのは見えた。オーイエー、なんてわかりやすい展開だろうか。そのまま眺めていると、サングラスとマスクで匿名性を手に入れた誰かが、北崎のことを蹴り上げるのが見えた。絵里坂を除く八名が、どんなモチベーションでこれを観ているのかはわからない。こんなの単なる暴力でしかないのに。
 配信に添えられた文言によると、どうやらこれは制裁の一種であるらしかった。不謹慎にも現場を荒らしまわる、サイコパス似非探偵への罰である。……なるほど。
要するに顔や住所やその他諸々の個人情報が悪意をもって晒されている北崎を体のいい玩具にする為の理由付けでしかないんだけれど、御旗があると無いとじゃモチベーションがかなり違う。ついにここまで来たか、悪意。絵里坂は溜息を吐いた。右目の奥が鈍く痛みを持つ。
北崎はもう随分暴力に晒されているようで、既に意識が無かった。外国製の抱き枕のように横たわる北崎は、人間とは程遠いものに見える。そんな北崎のことを見ていても楽しくないので、背景に注目した。そこはどうやら廃ビルようで、窓の外にちらちらと外の風景が見える。夕焼けに染まる風景、具体的に言うならばビルの並びに、見覚えがあった。
「あ、結構近い」
 思わず呟いてしまった。
 普通ならわからないだろう。絵里坂だって、見ず知らずの赤の他人だったらわからなかったに違いない。けれど、北崎がボコボコにされているその場所は、絵里坂の家の近所だった。歩いて十数分のところにある建物だ。北崎はきっと、時間通りに絵里坂の家に行こうとして、そして捕まったのだろう。簡単な推理過ぎて泣けてきた。なんて鈍臭いんだろうか。
 制裁の様子を配信している彼らは、多分北崎のことを人間として認識していないのだろう。そこにあるのは単なるコンテンツでしかなくて、『ハイムリック北崎』に本名があることすら思いついていない。北崎にお友達がいることも、北崎がこれから就活を控えていることも知らないはずだ。
 エンターテインメントとして不本意に消費される北崎を画面越しに五分ほど観てから、絵里坂はゆっくり出かける準備を始めた。コメント欄もわいわいと盛り上がり、配信者たちが動画を自主的に削除する頃には、絵里坂は件の廃ビルにやって来ていた。画面越しに観ていた場所に実際に降り立つのはなんだか愉快な気分だった。エンターテインメントと地続きの現実!
 果たしてあの少ない閲覧者の中に、証拠を揃えて警察に通報する人間はいるんだろうか。耳を澄ませたものの、特にサイレンの音などは聞こえなかった。名探偵様の清廉な足音も聞こえない。絵里坂は安心して、薄汚れた扉を開けた。黴臭い臭いがした。
 最近はこういうことばかりだ、と思う。だから、これは単なる意趣返しだ。
 いつもいつも見苦しいばかりの北崎に、人間が人間に与えられる最上のものを与えようと思った。動機はそんなところだった。
このビルは、随分前に見捨てられてしまったうら寂しい場所である。あちこちが崩れ、危険だから出入りが推奨されていないし、水道から出る水は錆で赤い。元は一フロアごとにオフィスとして貸し出されていたらしいが、その名残は少しも残っていなかった。
汚い階段を四階まで上がり、扉を開けた先に配信と同じ光景があった。ギャハギャハとダイレクトに響く笑い声が鬱陶しい。
配信の際に着けていたマスクが無く、素顔が晒されている。ボロボロの北崎を囲んで楽しそうにはしゃぐ彼らは、絵里坂や北崎とそう歳も変わらないように見えた。
躊躇いを脇に置いて、絵里坂は一気に駆け出した。色々なものが捨てられているこの場所は、物騒なものだってそこそこ拾えちゃうのだ。

「おい、大丈夫か?」
「…………」
 返事は無かった。
 北崎は依然として意識を失ったままだった。体力も暴力への耐性も無い男なのである。この調子だと、きっと明日には熱を出すだろう。廃ビルの廊下は寝苦しいだろうに、そこが終の棲家であるかのように動かない。
 時間が無いので、絵里坂は手っ取り早く北崎のことをビンタで覚醒させた。ギャッと小さな悲鳴を上げて、北崎が目を覚ます。これで目を覚まさなかったら根性焼きも辞さないつもりだったので、絵里坂は少し安心する。
「絵里坂……?」
「よし、起きたな」
「え、ちょっと……」
「よしよし、重要なのはここからだ。事件が起こってからじゃないと探偵は何の意味も無いからな」
「事件……?」
「ほら立て。お前の大好きなミステリーが待ってるぞ」
 満身創痍な北崎を無理矢理立たせると、絵里坂はとある木製の扉の前に北崎を立たせた。そして、ドアノブを握らせる。
「よし、開けてみろ」
 言われるがまま、北崎は何度かドアノブを回した。けれど、扉は全くと言っていいほど動かなかった。
「開かない……」
「そうだな。密室だからな。確認したか?」
「か、かく……確認した……」
「よし、ぶち破るか」
「どうしてぶち破るんだ? もう帰った方がいいんじゃないか……」
「何言ってんだよ。密室があったら破るのが探偵だろ。俺は詳しいんだ」
 適当なことを言いながら、絵里坂は予め用意しておいた手斧でひたすら扉の中央を叩き始めた。あっさりと扉の中央に裂け目が入る。古ぼけた扉が徐々に壊れ、無理矢理開いていく。扉の中央に大きな穴が空いたところで、絵里坂は慎重にその中へ手を差し入れた。ややあって、半壊した扉がゆっくりと開く。
ミステリーにおける様式美を間近で味わうことで、彼は柄にもなく高揚していた。その脇で、ただただ北崎が茫然としている。御誂え向きの展開の中で、探偵志望の方が取り残されていた。
「ほら開いたぞ!」
「何でそんなに楽しそうなんだ……?」
「ほら早く!」
 米倉を襲撃した主婦のように、息堰切って絵里坂が部屋の中に入っていく。のろのろと北崎もそれを追った。
 果たして、その中には三体の死体が転がっていた。一体は部屋の中央に、一体はベッドに、一体はなんと壁に磔にされていた。麗しき大盤振る舞いだ。長編にだってなれちゃいそうなポテンシャルだ!
「死体だ! ほら、見てるか?」
 ここまで鮮烈な光景にあっても、北崎はぼんやりとしていた。腫れ上がった目を死体に滑らせると、震えたように息を吐く。探偵としての口上も、張り切った現場検証も無かった。ただ彼は、噎せ返るような惨劇の臭いを嗅いでいるだけだった。探偵らしからぬその素振りに、慌てて絵里坂が尋ねる。
「大丈夫か? 意識ははっきりしてきたか?」
「えー、あー……? うん。……うん?」
「ちょっとまだ難しいかー。よし、一旦落ち着こう」
 それから絵里坂はボロボロの北崎がはっきりと事態を飲み込めるようになるまで、たっぷり一時間休憩を挟んだ。焦ることは無い。この密室はただただ彼の為にある密室なのだから。
 休憩を挟んで、ようやく北崎が事態を把握し始めた。廃ビル、ボロボロな自分、特に普段と変わらない様子の絵里坂。
「……私は誰かに連れ去られて……何だかよくわからない暴力を受けて……それで……どうしたんだろう……」
「その点についてはもういい。些事だから」
「些事」
「そうだ。前置きみたいなもんだよ」
「死んでいるのは、私のことを殴ってきた人達だな……」
「そうだな。まあ別にそこは関係ないっちゃないんだけどな。ミステリー小説においては死体のバックボーンなんて添え物だって、お前も言ってただろ?」
「いや、それにしたって……」
 何かを言おうとした北崎を無言で制し、改めて絵里坂が状況を説明してやった。
「いいか。密室の中に死体が三体だ。中央に転がっているのは柳瀬、ベッドの上にいるのは松原、壁に磔になっているのは下崎だが、この際名前も殺され方も大して意味が無い。こういうのは見た目のインパクトだからな。ただ、柳瀬だけは犯人の名前を示していると思わしきダイイングメッセージを残しているな。えーっと、何かチェス絡みっぽいぞ。右手に握られてるのは白のルークだ。左手に握られているのは多分動物暗号だ。五十八種類の動物の名前が書かれたメモがあるぞ。お前、チェス得意だし動物も好きだし、こういうの得意だろ」
「私、動物そんなに好きって言った覚えないんだけどな……」
「まあ、一番大事なのはこの部屋が密室だったってことだな。扉が開かなかったのはお前も確認しただろ?」
「確認した……いや、確かに確認したんだけど、待って、少し理解が追い付かない……展開がお早い……」
「大丈夫、いくらでも待つぞ。何せ時間はたっぷりあるからな」
 そう言いながら、絵里坂は踊るような足取りで磔られた死体に近づいた。そして、これみよがしにジャケットのポケットから鈍く光る何かを取り出す。
「ほら、下崎のポケットに鍵が入ってるぞ。本格的にミステリーだな。扉はさっき開かなかった。完全に密室だな」
「何でそんなにノリノリなんだ?」
「お前こそもっとはしゃげよ。さあ、この不可解な殺人をお前が解明するんだ」
 絵里坂はアドレナリンの出尽くした声でそう言った。舞台は整っている。探偵もいる。完璧に誂えられた朝食みたいだ。焼きたてパンの幸福と、スクランブルエッグの完璧と。求められるものが全てある部屋。
「こうして密室の中で複数人が殺害されてると、どうしても三人が殺し合ったんじゃないかと思いがちだけどな。そうなると磔にされてる下崎が最後に殺されてることはないとか血の具合とか細かな推理を重ねていくのがセオリーなんだろうが、俺は三人を殺した犯人は同一人物で、この三人以外の誰かだと思うな」
「絵里坂の推理、早いな……。まるで名探偵だ」
「いや、俺はあくまでサポートだ。ここに探偵はお前しかいないよ。さあ、何から解く? 暗号か? 密室か?」
「ここに探偵は私しかいない……」
 絵里坂の言葉に嘘は無かった。
 だって、容疑者になりそうな人間は軒並み死体になっている。探偵の北崎を除けば、残るは絵里坂だけだ。
そして、消去法で導かれる美しい結論の通り、これらの殺人は、全て絵里坂の犯行である。三人を速やかに殺害し、壁に磔にしたり、暗号を握らせたりしたのも絵里坂だ。柳瀬の手元にある暗号を解いたら、ちゃんと絵里坂の名前を示すようになっている。結構力作のクイズなのだ。
 そして、肝心要の密室トリックだが、これにも結構な時間と手間が掛かっている。実際にはあの扉は鍵によって施錠されていたわけではなかったのだ。しかし、扉は開かなかった。何故か? 何のことはない。この廃ビルは前述の通り、随分前に見捨てられてしまったうら寂しい場所である。あちこちが崩れ、危険だから出入りが推奨されていないし、水道から出る水は錆で赤い。
 差し当たってビルに足を踏み入れた絵里坂は、その床のボロボロ加減に少しばかり退いた。けれど、これは使える、とも思った。これだけボロボロな場所なら好き放題してもある程度まで赦されるだろう、という勝手な期待をかけたわけである。
 躊躇いを隅に寄せて、したたかに三人の若者を殺した絵里坂は、とりあえず北崎のことを廊下に出した。途中意識を取り戻されたら面倒なことになるので、もう一度きつく縛り直しておいた。まあ、意識を取り戻したら取り戻したで、何らかの方法でもう一度昏倒させるつもりだったのだけど。双方にとって幸いなことに、北崎は呑気に眠り続けた。
 死体を所定の位置に配置し、暗号を作り終えた絵里坂は、数分だけ考えて、扉に向き直った。
 そして、おもむろに木製のドアの内側面、その中央に穴を空け始めた。あくまで貫通を避けながら、穴を大きくしていく。
 ある程度まで穴が空いたら、絵里坂はホースを買いに近所のホームセンターへと向かった。三十メートルのホースが三千円以下で買える環境に、何だか妙に感動した。
 ホースを買って死体祭りの部屋に帰ると、かつて洗面台があったと思わしき場所の蛇口に装着し、慎重に捻った。赤く錆びた水が緑色のホースを流れ、ホースを黒く染めていく。
 ホースの先からゆっくりと流れ落ちる水を、絵里坂はそのまま扉の穴に注いだ。乾いた地面が雨を喜ぶように、ボロボロの扉が水を吸う。上手くいくかはわからなかったが、絵里坂は三千円も払ったんだから、という理由で慎重に作業を進めた。
 そうして無理矢理扉に水を吸わせるのを一時間ほど繰り返してから、そっと扉に手を掛けた。扉はさっきよりずっと引っ掛かりを訴えるようになっていた。それを確認してから、急いでホースを回収して廊下に出た。
 かなり強引なやり方で扉を湿気させ、扉を疑似的に施錠したものの、絵里坂に罪悪感は欠片も無かった。どうせ廃ビルだ。誰も困らない。ホースを近くのゴミ収集所に捨てに走ると、急いで北崎を起こした。多少無理矢理起こしたのもこの密室処理の為だ。密室だと認めさせた後にどれだけ休憩を挟んでも構わないが、いい塩梅の時に確認して頂けないと、扉の膨張が直ってしまう。
 あとは穴ごと扉を粉砕し、鍵を内側から開ける振りをするだけでよかった。北崎の反応は何だかイマイチだったけれど、急ごしらえにしては及第点のものが出来上がったと思っている。
 トリックに気付かせる手筈はいくらでもあるが、一番スマートなのは、長い間使われていないはずの水道の水が、この階のものだけ赤くないことを指摘することだろうか。他の階は真っ赤な水が、この階に至っては透明なのである。水は何に使われたのか? を考えればおのずと答えは出るはずだ。……北崎の手にかかったら出ないかもしれないが、ここには絵里坂もいる。北崎一人でなければどうにでもなる。
 問題編の数行後にいきなり解答を書いてしまうミステリーなんか前代未聞だ。加えて犯人である絵里坂は目の前の無能クソ不謹慎探偵にとても協力的だし、慈愛の目すら向けている。こんなにお膳立てされた物語なんて他にない。それで構わなかった。北崎は今まで本物の事件に翻弄され、本物の密室の中に哀れに敗れ去るだけの単なる人間だった。
 才能が無い人間が蹂躙される様を見飽きたのだ。だったらもう少し違う景色が見たい。それならこうするしかなかった。逆転の発想である。探偵なら事件に介入しても怒られない。名探偵なら北崎は後ろ指を指されない。しかし、彼には才能が無い!
 だったら、一から探偵を生んでやるのだ。ハンバーグに生クリームがどうしていけないのかを、絵里坂がちゃんと啓蒙してやろう。
「ハイムリック北崎、どうなんだ」
 押し黙ったままの北崎を導くように、優しい声でそう言った。あからさまに困った様子の北崎が、軽く目を伏せる。
「えー……密室なんだろう? 難しいな……。ていうか無理じゃん……超常的力くらいしか……」
「せめて三人が殺し合ったって発想からいけよ。いきなり超常現象に頼るな」
「三人が殺し合ったのかも……」
「いいぞ、そっちの方がまだミステリーに寄ってる。でも、探偵ってのは密室を暴くのがセオリーだろ? 暴こうぜ、密室! とりあえず水道捻ってみない?」
「え、嫌だよ。絶対汚いじゃないか……」
「そこでごねるなよ」
 絵里坂は既に、十段階に分けたヒントを用意している。北崎がそれでもわからないというのなら、穴埋め形式で真相を教えてやってもいい。それでも駄目なら最早四択クイズでもいい。もう〇×でもよかった。それより簡易な回答形式を思いつかない。というか、二択ですら選べない北崎を想像するのが怖かった。
 絵里坂は鞄に入れておいた鹿撃ち帽を取り出して、そのまま北崎に被せた。いつぞやの時に、北崎が車に忘れていったやつだ。
どんなにボロボロだろうが、どんなに普段着めいていようが、鹿撃ち帽を被るだけでそれなりに探らしく見えるのが不思議だ。コーディネートアイテムとして優秀過ぎる。
「ハイムリック北崎」
 絵里坂はもう一度その名前を呼んだ。相変わらず酷いネーミングだ。けれど、その名前に、絵里坂は若干わくわくしてしまう。思えばこれはカンニング事件の再演だった。はからずも同じ構図だ。果たして、北崎は今度こそ間違えないでいられるだろうか。
「その通り、私はハイムリック北崎……」
「どうだ? 頑張って考えられそうか? もう考えなくてもいいんだけどさ。正答を吐き出せそうか? まあ、答えから先に聞いちゃってもいいんだけどさ。大事なのは結果! お前が事件を解決したっていう実績! もうそれが正解かどうかもどうでもいいんだよ。適度に適切に解決したってことにしちゃおうぜ。就活とかも同じだって。一回どうにかなっちゃえば、学生時代に頑張ったことが嘘でもいいの。サークルの副部長だったって言い通さなくてもいいの。お前に才能が無くても一回密室解けたらそれでいいんだって」
 教え諭すようにそう言って、絵里坂は技巧を凝らされつつ放置された死体たちを見渡した。北崎はそれらを写真に撮ろうともしなければ、積極的に探偵をやる素振りも見せない。自分が当事者になってしまってびっくりしているのだろうか、と絵里坂は一人慮る。――本当に無能だな。麗しいくらい。
「容疑者軒並み死んでるんだから、もう迷う必要ないだろ。流石にもう一択まで絞ったんだから頑張ってくれよ名探偵」
「一択って……」
「トリックは抜きにして、犯人は誰だと思う?」
「犯人は……」
「外部犯説は無しだ。このビルにいるのは俺とお前と死んでる三人だけ。じゃあ、誰が犯人だと思う?」
「えっ、あの、少し過ったんだけど……」
「ああ、お前が犯人っていうのは無いよ。そもそもお前じゃあの三人に勝てないだろ。ボコボコにされてた癖に」
「あ、はい……なるほど」
「もういいんだよ。ハイムリック北崎がここでやるべきことは『犯人はお前だ』って指差すだけだからな」
「……誰を?」
 絵里坂は答えなかった。あのクイズバラエティと同じだ。答えを言ってしまっては意味が無い。100%の人間がわかるだけのヒントを出すのと答えを出すのは趣が違う。
 絵里坂は北崎の言葉を待ってみた。誰だってわかる一択を叫ぶのに、北崎はたっぷり五分ほどかけた。普段ならここでキレてもおかしくないくらいの時間の掛け方だったが、最初で最後かもしれないので黙って待った。絵里坂は無粋な人間なんかじゃないのだ。
 北崎は探偵めいた帽子を被って、探偵ライクな表情をして、探偵が最も輝く部屋に立っていた。その口がゆっくりと開く。
「いや、……そうだな」
「何が」
「犯人なんかいないんだよ」
 北崎は静かにそう言った。
 新しく解答欄を生み出す小学生みたいな真似だった。けれど、北崎は探偵めいた口調で、静かに繰り返す。
「簡単な消去法だよ。そして誰もいなくなったんだ」
「アガサ・クリスティーがもうやったやつだろ」
「そう、もうやったやつだ。でも、別に悪くないだろ? それにあれは結局」
「おっと、それ以上いけない」
 肝心なところに触れかけた北崎のことを慌てて止める。実を言うと、絵里坂はアガサ・クリスティーの小説なんか一冊も読んだことが無いのだ。従って、タイトル通りそして誰もいなくなってしまうのかすら知らない。そんな結末が赦されていいのかも知らない。
 それよりも、明後日の方向に行きそうな目の前の物語に掴まることの方が重要だった。こんなにはっきりと喋る北崎のことは殆ど初めて見たから、どう対処していいかわからない。まるで名探偵のような顔をして、北崎が淀みなく推理を語る。
「密室とか全然よくわかんないし、鍵が中にあったんなら自殺なんじゃないかな。宇宙人がハイパーテクノロジーでどうにかしたのかもしれない。絵里坂って宇宙人は肯定派なんだろ? だったら多分、宇宙人がやったんだよ」
「それはちょっと、最悪が過ぎるぞ」
「いいんだよ」
 まるで神託のような顔をして、名探偵はこう締めくくった。
「私は君を疑わないからな」
 暗号と密室と消去法を華麗に無視して、ハイムリック北崎はそう言って笑った。
 そんな信頼が何になると言うんだろうか。結局北崎は何一つ成長していないのだ。探偵らしからぬ無能さを晒し、最後の最後まで失敗し続けている。何一つ解決出来ないまま、かなり高濃度の殺人犯を見逃そうとしている!
 廃ビルの窓から見える空は、薄い紫色に染まってきていた。時間を掛け過ぎたオーダーメイドの密室が、明け方に侵食されている。普通の大学生として過ごし損ねた夜が、じわじわと明けていくのが分かった。二時間もすれば、外は完全に朝を迎え入れるだろう。
 絵里坂はふと、北崎喜咲に頼もうとしていたレポートのことを思い出した。勤勉で賢いこの男なら、きっとA評価の取れるだろうレポートだ。代筆を頼めば、北崎は何だかんだ言って引き受けてくれるだろう。
「…………そろそろ帰るか」
「そうだな。私もちょっと疲れたよ」
 あちこちに幅を利かせる痣を考えれば、疲れたどころの話じゃなかった。適度な倦怠感と夜明けの高揚が入り混じって、現実との距離感を失っている。これは果たして現実なのか? それとも悪趣味なスラップスティックコメディなのか?
 警察が踏み込んでくる気配は依然として無かった。あの動画の視聴者数なんてたかが知れていたし、ハイムリック北崎のことを本当に案じている人間なんて絵里坂くらいのものだ。誰も北崎の為に警察を呼ぼうなんて思わなかった。全てはエンターテインメントの範疇に収まって、きっと何処にもいけやしない。
 絵里坂は考える。ここを出る前に、三人で殺し合ったってことにする為に細工しておこう。暗号も密室も全部無かったことにして、都会に埋没する、一つのつまらない諍いにしてしまおう。何故なら、隣にいるのは敬愛すべき探偵で、彼が語ったことが真実なのだ。ハイムリック北崎は多分これからも無能だけれど、例えばたった一人の読者、唯一の観客みたいに、それを承認してやる人間がいたとすれば。それは紛れもない本物なんじゃないだろうか。
 はてさて、これから待ち受けるはきっと恐ろしくも堅実な就職活動だったり、麗しくも煩雑な社会生活でしかないだろう。しかして、人生は終わらない。
 差し当たって、絵里坂が北崎に言うべきことは一つだった。
「これから殺人現場に出入りする時はサングラスとマスクして行こうな」
 遍く悪意とカメラと才能の壁に負けない為に、一番シンプルで画期的な方法がそれなのだ。果たして、北崎は少しだけ首を傾げてから、ゆっくりと「わかった」と呟いた。わかってないんだろうな、と絵里坂は思う。朝の浸食が進んでいく。
 この世界はわからないことだらけの癖に、探偵なんてものが赦されてしまっている。それなら、末席にこの無能を座らせて欲しい。死体塗れの部屋に、絵里坂は勝手に約束する。きっとその日が来るまでに、八十六パーセントの壁は超えさせてやりますので。

                           (了)

売られる戦場買う人でなし3


 そういえば、長らく僕は同居人の仕事を知らなかった。同居人が就職活動をしているのを見る前に僕は大学を辞めてしまったし、同居人に関することで僕にとって大事なことは、同居人が家賃を払うに足る収入を得ているかどうかだけだったので、聞かなかった。僕が無職だからとかいうことでは断じて無い。単に興味がなかった。ふわふわとした関係でいいと思いながら、むしろそうじゃなくちゃいけないと思いながら、ただただ同居生活を送っていた。
 こういった関係は対外的には奇妙なものに思えるようで、しばしば社会からは勝手なレッテルを貼られる場合がある。例えば、こういったことがあった。

「はい」
 思わず手に取った電話は重かった。同居人が同居人になって三ヶ月ほど、元気に毎日を怠惰怠惰で過ごしていた時期の話である。生活ペースは完全に社会生活不適合者のそれなのに、いかんせん鳴り続ける電話を無視できるほど僕は俗世間から離れられていなかったのだ。
 三ヶ月という微妙な案配の時期も悪かったかもしれない。魔のマジックナンバースリー。同居人と暮らし始めてから一月の間は息すらするのが辛かった。二月目は苦しんでいたのが嘘のように慣れて、少しだけ安らいだ。三ヶ月目は退屈だった。何もする気が起きなくて、何もしなくても許されてしまう時期。
 それはまあ、電話くらい取るよなぁ、と。
 電話の向こうの声ははきはきとした声で同居人の名前を呼んだ。沈黙する僕に耐えかねたのか、同居人ですか? と二度聞き返す。社会にちゃんと適応している人間の声だった。聞きやすいし堂々としている。対する僕の声は、いきなり野に放たれた猫の子のような可哀想な声だった。小さく震える声で返す。
「え、あの、い、違います。人違いです」
「え、あの、どなたですか?」
「え、いや、どなたですか?」
 思わず同じ言葉を返してしまった。相手が一気に訝しげになる。まずい雰囲気だった。目当ての同居人の代わりに出てきた男がこんな様子じゃ、怪しいにも程がある。取り繕うように僕は言葉を続けた。
「ぼ、僕は彼女の同居人で・・・・・・」
「同居人!? 旦那さんいたんだ・・・・・・いや、彼氏、ですかね?」
 相手の声が一気に興味と好色に満ちたものになる。あ、まずい、と思った。慌てて方向を修正する。
「あの、違うんです。僕と彼女は何の関係もなくて、えっと、本当は、あ、でも同居、同居してるんですけど」
「・・・・・・はあ、それは」
「違うんです! あっ、あう、あ、の人と僕は無関係で! 無関係で! 同居はしてて! あっ」
「・・・・・・あの、失礼ですけど貴方本当に彼女のーー」
 ガチャンと派手な音を立てて、子機を本体に向かって投げつける。ちゃんと切れたかは怪しいけれど、子機がツーツー可哀想な音を立てているので、とりあえず通話は終了出来たのだろう。ほっとしながらも、体の震えが止まらなかった。
 そのまま僕は布団に籠もり、震えてる間に気持ちよくなってきて寝た。同居人がスーパーの総菜を買って帰ってくるまで、僕はそのままずっと寝こけていた。
 夕御飯の席で、同居人は電話機を背に笑って言った。
「出なくてよかったのに。留守番契約してるよ?」
「出たくて出たわけじゃない。電話が鳴ってると、気になるだろ」
 僕は何の気無しにそう言ったのだが、同居人は顔を強ばらせて、「うん、そうだよね。そうだね。ごめん」と、やたら申し訳なさそうな顔をして頷いた。同居を始めて三ヶ月しか経っていなかった。「連絡」「電話」というキーワードで無闇やたらに反応してしまったのだろう。それを見て、僕の方もどうしていいのかわからなくなった。ここに来ることになった経緯を思い出して、少し義務的に顔を歪ませてやる。同居人は更に萎縮して、もう一度「ごめんね」と呟いた。心の内でこっそり呟く。何の儀式だよ。
「というか、電話大丈夫だったの? 妙な風に思われたとか、僕からの怪しい電話の所為で仕事クビになりそうとかないの?」
「あはは、君を元気に養って行くた為にもクビになるわけにはいかないしね」
 それはもう本当に。切実な話だった。今の僕には収入がない。行く場所もない。電話を受けたことをもう一度改めて後悔する。
「大丈夫だよ。そこまで変なことにならなかった。寝ぼけてたんだって言い切ったら大抵のことは何とかなるもんなんだよね」
「僕のことはどう説明した? 同居人?」
 僕は必死に同居人の同居人であることを主張し続けたけど、信じてもらえたかは怪しい。下手したら通報されていたかもしれない。
「何で?」
「いや、知らない男が君の部屋にいて、電話にまで出たらおかしいだろ。不審に思うだろ。どうやら君は随分慕われてるみたいだし・・・・・・」
「別に不審に思われてないよ」
「思うに決まってるだろ! 僕は恋人じゃないって異常に過剰な反応返しちゃったんだぞ!」
「いやそれも大丈夫」
「どうしたんだよ!」
 まさか、トチ狂って恋人だなんて紹介されてないだろうな。と、僕は背筋が薄ら寒くなる。もう一生社会復帰出出来る気がしないからどうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど、・・・・・・なんだろう、ぞっとしない。
 けれど、同居人はあっさりと言った。
「弟だって紹介しておいた」
「弟」
「自然でしょ。寝ぼけた弟がお姉ちゃんの仕事の電話に出たの」
「・・・・・・勝手に血を繋げるなよ」
「いいじゃん、自然なんだし。本当はそういう関係じゃないといけないんだよね」
 同居人の指摘はごもっともだった。
「人はね、名前の付けられない関係のことを見落としがちなんだよ」
 同居人は何でも知った風に笑った。三ヶ月目の余裕だった。もしくは、諦め?
 それから更に九ヶ月が経ち、加えて更に少し経って冬が深まり、僕と同居人は未だに人に説明しづらい生活を送っている。名前のない関係は見落とされがちで、今日も日々の隙間に挟み込まれている。僕は未だに無職のままだ。

 そうして迎えた何でも無い日の休日。
「お腹が空いたんだよね」
 同居人がエンターテインメント性に欠けた呟きをした。生憎、つまらない発言に付き合ってやる程度には暇だった。
「そうか。僕もだよ。ご飯は炊けてる?」
「炊けてる」
「そうか。それを食べよう」
「もういい加減文明的な食事をしたいんだよ」
 それなら外食をしろ、と言いたかったけれど、黙っていた。同居人は僕と食事をすることに対して心底抵抗があるらしい。理由は簡単、僕は同居人と一緒じゃないとろくに食事を摂らないからだ。
「何か買ってくれば?」
「外に出るには化粧したりとか、髪セットしたりとか色々あるからね。私は凄くお腹が空いてるから、そんな体力が無いんだよ」
「困ったことになったね」
 同居人の言外の主張はわかっている。お腹が空いて、なおかつ白米だけでは我慢が出来ない。でも外に何かを買いに行く気にもなれない。だから、早く台所に立って、何かを作れ。同居人はそう言っているのだ。言葉を介さないコミュニケーションを身につけてしまったことが少し悲しい。これだけ長く一緒にいるのだから仕方がないのかもしれないけれど。その時間の長さすら悲しい。
「……作らないよ」
「えっ」
「意外そうな顔をするなよ。なんか作る気になれないんだ。確かにお腹は空いてるけど、僕は家政夫ってわけじゃないんだ。気が向いた時に料理するけど、気が向かない時には絶対にしない、単なる無職」
「やだやだお腹すいたよ」
「それじゃあ、今日は君が作るといいよ」
 僕はなるべく優しげな口調でそう言った。突き放した口調で言ってしまえば、昼食は更に遠くなってしまうだろうからだ。まるで子供に実験を促すように。大事なのは強制させるような口調にならないようにすることだ。
 同居人は大きな目をくるくるぱちぱちとさせて、僕の言葉の裏を探ってやろうとしていた。裏も何も。面倒臭いという気持ちの純度は高い。
「だって、私は包丁で全てを終わらせるような存在だよ」
「達人っていうのは一つの物事だけで全てを語る存在だっていうよ」
「玉葱を水に晒すことすら知らなかったのに?」
「それはこの間覚えたじゃないか」
 同居人は自分の壊滅的なまでの料理の才能をちゃんと自覚している。自分の能力を見誤る僕のような存在とは違うのだ。素晴らしい。人間、少しは自省的にならないと。
「大体お腹がすいたら僕に頼むだなんて、いつか僕がいなくなったらどうするんですか、お嬢さん」
 至極真っ当な僕の言葉に、同居人の目が丸くなった。先日の真夜中の話を思い出す。今日の同居人はエアガンを持ってない。
「いなくなるの? いつ?」
「いや、今すぐって話じゃなくて、仮定の話。だから、この前みたいなことはしなくてもいいんだよ。うん、そう、仮定の話。僕がいなくなって、料理が出来る人がいなくなって、君が化粧とかして外に買い物に出ることが死ぬほど億劫になっちゃったらどうするのかなって。死んじゃうよ」
「でも……」
「大丈夫。見ててあげるから」
 僕の言葉があまりに優しいことに同居人は心底驚いたらしい。
 僕なんかに見られていたからといって何の御加護も期待できないというのに、同居人は何故だか嬉しそうに頬を緩め、「それじゃあやってみようかな」と行った。同居人のスイッチはよくわからない。
 そういうわけで、化粧や髪のセットが億劫になる程度には空腹だったはずなのに、同居人はまんまと僕の提案に乗った。
「何か食べられないものある? 思えば私ってあんまり君の食べ物の好き嫌いについて知らないからさ。好きなものって言われても、ココアくらいしか思いつかないくらい」
「言っとくけどそれはお前の好物だ」
「そうか……。やっぱり何にも知らないんだよね。いけないよね。ねえ、君は三人のパンケーキ職人の話を知ってる?」
「聞いたことないね」
「ある王国に三人のパンケーキ職人がいたんだ。一人目のパンケーキ職人は、王様に生クリームの載ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。二人目のパンケーキ職人は、考えた末チョコレートをふんだんに使ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。三人目のパンケーキ職人は青ざめながら必死で考えてさ、結局何もトッピングを施さないまんまのパンケーキを王様に献上したんだ。でも、彼もまた、首を刎ねられてしまった。そう、王様は実はパンケーキ自体が大っ嫌いなのでした! そういう話」
 同居人はジェスチャーを交えながら表情豊かに世界理不尽残酷物語を語った。現代文の成績は悪くなかったはずなのに、言っていることがさっぱりわからない。作者の気持ちを答えさせたいなら、選択肢を作って欲しい。
 僕は大人しく同居人に尋ねた。
「つまり、その話の教訓は?」
「相手への理解というものは心底大切。ちなみに、三人のアップルパイ職人の話っていうのもあるんだけど、聞きたい?」
「いや、いい。何となく予想がつく」
「残念だな。こっちは裏切りと愛に満ちたスペクタクル巨編なのに」
 その言葉に少しだけ後悔をそそられつつも、僕は黙った。同居人が名残惜しそうに僕のことを二、三回見て、台所に向かう。冷蔵庫の中から取り出される食材からは、一体何を作ろうとしているのか全く見当がつかなかった。トマトに、大根に、セロリに、人参。まあ、煮込めばきっと食べられるもの達だ。
 同居人の後ろ姿はとても可愛らしい。華奢なのに、すっと背筋が綺麗に伸びているから実際よりも背が高く見えるのもいいと思う。何処から取り出してきたのかわからないエプロンも、ばっちり似合っていた。
 こういう同居人の姿を見て、心の動かされる人もいるかもしれない。理想の相手だと夢見る人間もいるかもしれない。だって、後ろ姿だけなら本当に完璧だった。例え同居人が切ったトマトを丸ごと床に落とし、驚いた拍子にそれを無慈悲に踏みつけてしまうくらいの手際の悪さを誇っていたとしても。
 どうしてそこまで台所で右往左往してしまうのかがさっぱりわからなかった。そもそも、『切ったトマト』なんてお世辞めいた言い方をしたけれど、同居人の手によってカットされたトマトは皮一枚で繋がっていた。切れてない。同居人の素足に、赤い汁が滴る。同居人は途方に暮れた顔をして、結局そのままにした。どうしてそのままにしてしまうんだ?
 同居人の綺麗な手が、何を思ったか残ったトマトを鍋に入れた。トマトは生でも食べられるのに、と言う前に、鍋が火にかけられる。水分量の多いトマトがはぜる音がした。同居人が焦って、何かを切る。鍋に入れる。油を足す。このタイミングで肉を入れる。その間に踏み潰された食材は数知れずだ。
 控えめに言っても、地獄絵図だった。
 絶望的な調理風景を見ながら、少し心配になってしまう。同居人はこのままでまともにお嫁に行けたり、まともな誰かとまともな生活を送ることは出来るんだろうか。見た目も社会的地位もハイスペックなら、案外大丈夫なのかもしれない。世の中の価値基準はとても複雑な物差しで出来ている。
 でもまあ、それにしても限度がある。僕はもう鍋の中を見られない。だって、怖くて。
「ねえ、何だか黒くなっていくよ」
 同居人の途方に暮れた声がする。
「何が? 未来が?」
「全部だよ、全部」
「がんばれー」
「心が籠ってないよ!」
 いつかの同居人の結婚式には真っ白なスーツで行ってやろうかなぁと思っている。
 別にウエディングドレスを着た美しい同居人を名作映画よろしく攫ってやろうと思っているわけじゃない。ただ、それを見た瞬間の同居人の反応を面白がってやりたい。だって、同居人の結婚式に招待される、なんて最高に悪趣味なジョークだ。
 こんな展望を語った後では尚更悪い冗談に思われるかもしれないけれど、実を言ってしまえば僕と同居人は昔恋人だったことがある。何の事情も知らない人間から見れば、同居人と僕は今でも恋人に見えるのかもしれない。何せ、年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしているのだし。加えて同居人は僕がねだれば性欲処理くらいなら余裕でしてくれちゃうような女の子なのだ。
 けれど、今はもうそういう間柄じゃない。
 少なくとも、僕と同居人は恋愛という関係で括れる間柄じゃない。
 エプロン姿で跳ねる同居人は、僕と付き合っていた頃と変わらないようにも見えた。
 変わってしまったのは関係だけなのだ。

 大学生の頃、同居人はとても面倒な女の子で、可愛らしい女の子だった。自分の面倒さを可愛らしさで包み、誰からも愛される女の子だった。僕の視界を自分で満たさなくちゃ、我慢のならない子だった。
 思い出す同居人は本を読んでいる僕の頬を突き、いつだって悪戯っぽく笑っている。
「そういうのやめろ、正直面倒」
「景ちゃんが構ってくれないからじゃないですか」
「それなら何で僕と付き合ってるの? 僕は元よりそこまで社交的な人間じゃないし」
「景ちゃんの顔が良いからですかね……」
 同居人は目を細めながらそう言った。茶化しているような雰囲気を醸し出しているけれど、本気であることは何となく察せられた。同居人はこういうところで嘘を吐くのが苦手なのである。正直者が最上の美徳であろうというお伽噺譲りの擦り込みにやられちゃっている。
「だって、格好いい人ってあんまりいないんだよ? 世の中を見てみなよ。皆何処か欠けてるんだよ。完璧に理想の相手なんて殆どいないの。だから、私は恋人選びの時には何処か譲れないところを一つ決めて、残りの部分は出来るだけ妥協と許容をすべきだと思ってるの。私が譲れないのは外見だったから、それ以外のところは全然許容出来ちゃうの。全く以てオールオッケーってわけ」
 同居人は僕の顔がどんどん苦々しくなっていっていることにようやく気がついたらしい。
「それでも私が君と一緒に居ることに、実をいうと妥協なんてちっともないんだ。景ちゃんは素晴らしいと思うよ。真面目だし、堅実だし、実直だし」
「それは殆ど同じだと思う」
「いいんだよ。私は景ちゃんが好きなんだからさ」
 同居人が甘えた声を出して僕に擦り寄る。
 僕は同居人を十分に赦せていたのだと思う。何様だと思われるかもしれないけれど、本当に的確で素直に答えるなら、僕は確かに同居人を赦せていたのだ。僕の人間関係というのはとにかく許容から始まっていた。同居人は恋人として僕の傍にいても許容できるような女の子だった。それどころか、僕にはあの時点での僕でさえ、同居人には釣り合わないくらい、素敵な子だったと思う。
 同居人は悪戯をするのが好きだった。今はもう絶対にそんなことをしないだろうけれど、課題に集中して同居人をほったらかす僕の靴紐を解くとか、いきなりクラッカーを鳴らしてみせるとか、そういう悪戯をしては僕の気を引こうとした。
 多分、世間一般からすれば可愛らしい茶目っ気に分類されるであろう悪戯の数々。僕はそれを受け止め、たまに苛立ち、極稀に愛しいと思った。
 あとは、例えば、物を隠した。
 ペンケースの中の青ペンだとか、講義のノートだったりとか、もしくは辞書だったりとか。そういうものを同居人はこっそり隠して、あとで気が付いた僕の前でふふんと何故か得意げに笑ってみせるのだった。僕は溜息を吐いて、同居人と一緒に隠し場所までわざわざ隠されたものを取りに行った。これが、『物を隠す』悪戯のおおまかな流れだ。
 何回も何回も物を隠され、何回も何回も探しに行った。……とんだ茶番! 大概の場合僕が気が付くのは隠されてから随分後になってからで、悪戯のことをうっかり忘れていた同居人が慌てて僕の『失くし物』に顔を青くすることもあった。チャーミングなエピソードである。
 だから、いつものことだった。茶番とはいえども、台本のちゃんと用意された代物なのだから、何のイレギュラーも介入しないはずだった。同居人は僕に構って欲しかった。それだけの話。でも、悪いことというのは本人の意志とは無関係の場所で起こる。
 ある日、同居人はいつものように僕に悪戯を仕掛けた。僕はもう半ば慣れきってしまっていて、同居人の動向に全く気を配らず、その日の夜中が締切であるレポートに取り組んでいた。図書館に来るといつもそうだった。同居人は活字にさほど興味がなかった。
 僕はある程度まで真面目だったから、目の前の課題に必死だった。そういうわけで、同居人がこっそり僕の鞄から持ち物を抜き取って、はるばる遠くの棟の無料ロッカーに隠しにいったことなんか気が付かなかった。
 ささやかなサプライズを仕掛けた同居人は妙にご機嫌で、僕の横で落書きをしたり、持ち込んだ漫画を読んだりしていた。あとで儀式的な茶番が行われることがわかっていれば、同居人はどれだけ僕にほったらかされても、全然平気なのだった。
「……お前はレポートないの?」
「私は景ちゃんと違って要領いいですから」
「要領がいいとか悪いとか何だか不公平に感じるの何でだろうな。お前にもいつかしっぺ返しがくればいいのにって思ってるよ」
「喋ってる暇があるならさくさく書きなよ。私暇なんだよー?」
 同居人は可愛らしく頬を膨らませてそう言った。口の端に隠し切れない笑み。妙に殊勝で静かな同居人。きっとまた何か隠されたのだろうな、と思いながらレポートに戻った。レポートが書き終わるまでの三時間半の間で、同居人と僕がした会話はそのくらいだった。

「……携帯がない」
 レポートを書き終わって数分後、今回の失くし物はすぐにわかった。現代生活に追われる人間なら、何か一段落したら確認せずにはいられない代物、携帯電話だった。僕は隣でいつの間にか眠ってしまっていた同居人を文字通り叩き起こす。同居人が魚のように跳ねて、恨みがましそうな目で僕を見た。
「いったー……何するの!」
「また人の物勝手に隠しただろ」
「あ、わかった? 私が隠したもの」
「携帯だろ。どこにあるんだ」
 正解、と言いながら同居人が笑った。きっと、これから同居人は僕の手を引いて一緒に探しに行こうとのたまうのだろう。僕は溜息を吐いてそれに従うのだ。いつもの茶番。同居人をほったらかした僕へのささやかなる仕返し。
 でも、今回は少し様子が違った。
「ねえ景ちゃん。私、たまに不安になるの」
「何が」
「……上手くいえないんだけどさ、予想以上に景ちゃんのこと好きで困ってるのかも。でも景ちゃんはなかなか本心が見えにくいっていうか、私ほどわかりやすくないから」
 しおらしい言い方だった。
 でも、ありがちな言葉ではあった。女の子ならこういう風に悩むこともあるんだろうな、と理解出来なくはない凡庸な悩み。
「……不安にさせたならごめん」
 白々しく聞こえてしまったかもしれない。こういうことを言うのに慣れていなかった。
「私、ちょっと一人で携帯取って来るね」
 同居人はそう言って一人で行ってしまった。僕が同居人を追いかけなかったのも、単なるタイミングの問題だった。追えばいいのか待てばいいのか、瞬時に判断が付けられなかったのだ。
 ぬるい言い方をさせて貰えるのなら、僕は同居人が嫌いなわけじゃなかった。世間一般の恋人基準には十分適う程度には同居人のことが好きだったはずだ。
 けれど、同居人にとってはそうじゃなかったのかもしれない、と思う。この大学構内だけでも沢山のカップルがいるだろうし、その中の大半は自分の人生やらを懸けてまで、その相手と一緒にいなくちゃ駄目だと考えている人間じゃないと思っている。学生時代の男女交際なんてそんなものだ。同居人と僕は今の所別れるなんてことを考えたことはなかったけれど、一緒に居る為に『何か』を懸けなくてはいけない場面も確かにあって、それはまさに今なんじゃないか、と思ったのである。
 人が少なくなった図書館内で僕は大きく伸びをする。電源を切ったノートパソコンを寄せて、さっきの同居人がやっていたようにテーブルの上に突っ伏した。眠りのポーズ。同居人がいなくなった図書館は、どうにも居心地が悪かった。
 同居人はなかなか帰ってこなかった。
 珍しく本心を言ってしまって恥ずかしがっているのかもしれないな、と適当に思う。同居人はいつも奔放に振る舞っているようでいて、その奔放さに愛想を尽かされないかいつでもびくびくと怯えている。
 僕は同居人のことをちゃんと好きなのだと、どう伝えればいいのかわからなかった。だって、真っ直ぐに言葉にすることはとても気恥ずかしい。あの頃は僕にはそれなりにくだらないプライドがあって、それを守るのに必死だったわけだ。今の僕なら、自分に何の価値も無いことを逆手にとって、同居人に好きなだけ思うがままにそういうことを伝えてあげられるだろう。肝心の気持ちが入っていないから駄目だろうけれど。
 何かのタイミングがあれば伝えよう、だなんてそんなことを考えていたのだ。本当に。何かのタイミングさえあれば。
 ここまできて、同居人の帰りがやけに遅いことが気になりはじめた。いくら念入りに隠したとはいっても構内だろうし、少し遅すぎるじゃないかと。
 でも、動けなかった。万一入れ違いになってしまったら、携帯電話が無いと合流が難しいからだ。同居人は焦って僕を探しに外に出るかもしれない。僕はひたすら同居人の訪れを待っていた。それはもう長い間。そんなことをしている内に、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
 不意に、背後に人の気配を感じた。つっぷしていた所為でよく機能しない目を擦り背後を見る。
 同居人が立っていた。僕も慌てて立ち上がる。声をかけてくれよ、という自分の声がかすれていた。
 同居人の顔は蒼白で、手には僕の携帯電話が握られていた。
「あ、携帯……」
「……うん」
 同居人が震えた声で返す。
 僕は反射的に、陳腐な愛の言葉を、「好きだ」とか「不安にさせてごめん」とか、そういった言葉を言おうとした。携帯電話を差し出す同居人に向かって、取り繕うかのようにその言葉をあげるつもりでいた。
 同居人は、そんなもの少しも欲しくなかったというのに。
 同居人の口から意味のわからない呻きが聞こえた。切実な呻き声だ。同居人は僕の携帯電話を手に持って、とても真っ直ぐにそれを差し出す。
 流石の僕にも、同居人の様子がいつもと違い過ぎることには気が付いていたし、その原因が単なる色恋の話ではないんだろうということもちゃんと察せられた。同居人の手に持たれた携帯電話はいつもと変わらないはずなのに妙に不吉で、受け取るのを躊躇うくらいだった。
 携帯電話を受け取り、おもむろに画面を開く。そうして、全てのことに合点がいった。あまりにするりと謎が解けたので、少し笑いそうになったくらいだった。
 同居人はタイミングが悪かった。
 その一言に尽きた。
 僕の携帯電話は僕の心配性を反映して、ちゃんとセキュリティロックが掛けられている。パスワードを入れなければ、中身が見られることは一応無い。けれど、何という仕様だろう。最近の携帯電話は、メールの件名と本文の一部が画面に表示されてしまうのである。
 同居人がこの他愛のない悪戯をいい加減にやめようと携帯電話を取りだした時には、最悪な文字が画面いっぱいに広がっていたというわけだ。一度に表示されていたのは三通。内容はさながらグラデーションのようだった。
『件名 至急連絡ください・お母さんが事故に遭いました お兄ちゃん今どこ、お母さんは』
『件名 お兄ちゃん・はやく連絡ください お母さんが危ない まにあわなくなっち』
『件名 No title・お母さんがお兄ちゃんの名前よんでる わたしどうしたらいい』
 同居人が茫然として画面に出てきた切実なメッセージの欠片たちを見ていた瞬間、また新たにメッセージが加わった。どうやら回線が込み合っていたらしい。三通目と同じく、件名は無し。そして、本文は画面に表示される分だけで終わってしまうくらい簡潔なものだった。
『件名 No title・お母さん死んじゃった』
 最初のメールから最後のメールまでの時間は二時間三十二分。着信は十八回入っていた。妹ちゃんの方も大分動転していただろうから、僕にぱちぱちとメールを打ってやる余裕が、その二時間三十二分の間に三回しかなかったということだろう。四回目のメールは死んだ後に書かれたものだから、ノーカウントとする。
 四回目のメールは、丁度レポートが書き終わったあたりに送信されていた。
 メールの受け取りを知らせるメロディはカノンだ。特にその曲が好きだったという訳でもないのに、初期アラームの中に入っていたからそれにした。好きではないけれど、綺麗な曲だとは思っていた。あの綺麗な曲に誰一人として気付かない状況があるのだ、と知った。
 母親が死んだことを知らせるメールを受け取ってから、同居人が図書館で待つ僕に携帯電話を届けるまでにゆうに三十分のタイムラグがあったことについて、僕は責めるつもりはない。どうせ、僕が携帯電話を受け取る時には母親は死んでいたのだし、同居人はこの爆弾を抱えた携帯電話を届けるまでに、何度死にたくなったことだろう。あの時の同居人の顔と言ったら。僕は絶対に忘れない。
 揺り起こしてくる手がいつもよりもずっと優しくて、僕は起き抜けに同居人の名前を呼んだ。幸せそうに響いてしまったのかもしれない。同居人は泣きそうな顔をしていた。それでも泣かずに、同居人は僕の手に携帯電話を押し付けた。そこには、寝ぼけた眼でもしっかり認識できるような悲劇のグラデーションが並んでいた。
 甘くてなおかつ胸糞の悪い話で申し訳ないのだけれど、この時僕が設定していたパスワードは同居人の生年月日だった。今にも自殺を選びそうな同居人の前で、僕は同居人の生年月日を正確に入力し、そして、母親が事故にあってから死ぬまでを実況したメールを一通ずつ開封し始めた。
 同居人は一言も何も言わなかった。

 母親が死んでからのこのこと病院にやって来た僕を、妹ちゃんも医者も看護婦も信じられないような顔で見つめていた。僕を薄情者だと目線で罵らなかったのは母親本人くらいのものだ。
 今日は普通に大学にいると言っておいていた。講義は午前中で終わって、午後は図書館にいるとも。どう考えても三時間一切の連絡がつかない状況ではなかった。そこにいる全員がそう言っているような気がした。
 妹ちゃんには死ぬほど怒られたし、携帯電話を持っていること自体を詰られた。肝心な時に連絡がつかないのなら、最初から持たない方が良かったのだ、と言われた。
「お兄ちゃんがそんなもの持ってなければ、私は送信ボタンを押すたびに、コールボタンを押す度に、絶望的な気分にならなくても済んだのに」
 妹ちゃんにはその際、右手の薬指と中指を折られた。今となってはもう何で殴られたのかも覚えていない。頭はまずいよな、と思って手でガードをしてみたら、あっさり折れた。妹ちゃんは謝らなかった。僕は、母親が死んだ病院の整形外科にかかって、ギプスを巻いて貰った。こういう時に病院というのはいい。
 僕が気にしていたのは同居人のことだった。同居人は、母親の葬儀の時に、僕を罵り続ける妹ちゃんをダイレクトに見てしまったのである。
 僕は一切の事情を妹ちゃんに伝えることはなかったけれど、同居人は僕が妹ちゃんに責められるのを聞く度、蒼白な顔で手の爪を噛んでいた。余談だけれど、同居人は手をとても大事にしていた。実生活では不便そうなくらい爪を綺麗に伸ばして、いつでも艶々に磨いていたものだ。それが、葬式の時には見る影も無かった。血が滲んでボロボロで、汚かった。
 母親の葬儀の時が、僕が同居人に能動的に会った最後だと思う。母親と同居人は不本意ながら交流があった。母親は息子に美人の恋人が出来た時のテンプレートな気恥ずかしさをもって同居人に接していたし、同居人は同居人で誰からも好かれる性格をしていたから、二人は仲が良かったのだ。葬儀には出てもらうのが礼儀だと思った。僕と同居人の間に何があろうと、母親と同居人の間には何の関係も無い。それが正しい判断なのかは未だにわからないままだ。
 携帯電話のパスワードを変えた。ついでに同居人を含む全てのアドレスと番号を消した。妹ちゃんからの罵声で生活がままならなくなるのは恐ろしいので、妹ちゃんの電話番号は申し訳ないけれど着信拒否にした。
 妹ちゃんと同じ種類の絶望を同居人は味わったのかもしれない。
 どんなに焦っても、どんなに悲しくても、どんなに怒っても、相手がそれを知る由も無いという絶望。
 それのターニングポイントとなっていたのはどちらの場合も僕だった。それがどうした、と言ってしまえばそれまでの話だ。
 同居人と音信不通に意図的になってから四日くらい経ってから、僕は同居人と遭遇した。同居人は僕に会うなり地面に額を擦りつけて土下座をした。
 よりにもよって、同居人が謝罪の場所に選んだのは大学のメインストリートだ。きっと、僕が会うのを避けていた所為だろう。僕はまだ真面目な学生で、母親が死んでから一週間ばかりだというのに講義に出席していたのである。そこを、同居人は待ち伏せていたのだ。
 同居人は綺麗な格好をしていた。素晴らしい水色の、爽やかなスカート。綺麗だった。よくよく思い返してみれば、その服は僕が前に一度デートの時に褒めたコーディネートだった。同居人も、気合いを入れたお洒落だと嬉しそうに語っていた服である。媚びだとか、そういう穿った見方も出来なくはなかったけれど、直感した。彼女はどこまで自分を貶められるかを試しているのだった。大事なスカートは泥で汚れて、白いブラウスの袖にも汚い茶色が滲んだ。生憎のことに、その日はさっきまで雨が降っていたのである。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「……なんかこれ、僕がそういう趣味のある男みたいじゃない?」
 同居人は僕の冗談っぽい呟きに対しても土下座を貫き通していた。真剣な時に茶化す癖をやめろと怒っていた同居人がなかなか懐かしくもある。
 それ以上何も言わない僕に業を煮やしたのか、同居人は地面を這うような声で言った。
「どうして怒らないの。どうして、責めないの」
「怒って欲しいの?」
「そういうわけじゃない。でも、変だよ。全部私の所為なのに。どうして罵ってくれないの。憎んでるでしょ? 怒ってるでしょ? 妹さんみたいに、私の言殴ってくれたって構わないくらい酷いことしてもいいんだよ。私、許して貰えるなら何でもする」
 ……どうして、ねえ。
 僕は首を傾げる。どうしてと言われても、実のところよくわからないのだった。今となってもわからないのだから、あの時の僕にわかるはずがない。『憎しみよりもお前への愛が勝ったから、僕はお前のことをこれっぽっちも憎めなかった』と、そう言ってあげれば、同居人の罪悪感はきっと薄れただろう。罪悪感がスパイスになって、体よく愛情を深められたかもしれない。
 でも、僕はそれを言ってやれなかった。同居人は一度も顔を上げない。同居人は震えていた。メインストリートでは、立ち止まって見ている生徒もちらほら見受けられた。きっと、明日から僕は腐れサディストとして名を馳せるのだろう。
 僕は同居人の名前を呼んだ。同居人の背中が一際大きく跳ねる。けれど、顔は上がらなかった。仕方なく、僕は恭しくもうんざりした気分で顔を上げて、と言った。同居人が顔を上げた。涙やら泥やらでぐっちゃぐちゃになっていたけれど、その顔はとても可愛い。
 土下座も折れた二本の指も妹ちゃんの激昂も携帯電話もなんだかとてもどうでもよかった。何の感慨も覚えなかった。覚えていたとしても、それに対してどう接していいかもわからなかった。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。僕と同居人の間柄はこの時を境に永遠に道を違えてしまったのだ。
 単なる水ですら元の盆には戻せないのだから、飛び散った関係なんて言うまでもない。
 僕は同居人の目を真っ直ぐ見つめて、口を開く。
「別に、いいよ。僕はお前を責めたりしない。……僕は自分でも自分の状態が今よくわかってないから、言外にお前が何を感じるかどうかっていうのも、わかんないんだけどさ。僕の妹ちゃんみたいなストレートな罵倒やら制裁やらを求めてるんなら、多分期待には応えられないと思う」
 僕はひらひらと手を振ってみせようとした。けれど、いつもの癖で振った右手はそういえば綺麗に華麗に骨が折れていて、振れば普通に痛かった。ままならない。この指も、巡り巡って同居人の所為になるんだろうか?
「あと、もう恋人ではいられない」
 僕ははっきりとそう言った。同居人の顔が一層絶望的な色に染まったのはこの時だ。失ったものをやたらめったら美化するなんて悪趣味だと思っていたのだけれど、あの時ばかりは例外だった。案外愛されてたんじゃないか、と思うと、彼女の想いはやっぱり尊い。
「……本当にごめん」
「どうして景一郎が謝るの……? それって、私を、」
 同居人はその先が続けられなかった。何となく言いたい言葉はわかっていたけれど、それを言ってしまえば、色々とおしまいになってしまうことは察していたのだろう。同居人は聡い。そこそこ頭のいい大学通ってるだから当たり前だけど。
「別れようっていうのは僕のエゴだから。僕はそこそこ重い人間だからさ、一人の女の子の青春を頂いた挙句、勝手な事情で別れを告げるなんて人間として最低だと思ってる。だから、そこは謝らせてもらった。……悪いね、こんな男で」
「景ちゃん……、ねえ、」
「あと、僕、大学辞めようと思うんだ」
 同居人の顔がまた驚きと絶望に染まった。同居人は贔屓目に見ても、僕さえ関わらなければこれからも十分に素敵な女の子だった。
「だから、さよならだ。今までありがとう」
 同居人が返す言葉はわかっていた。僕から出された言葉に、同居人がNOと言えるはずがないのだった。そもそも、何一つ言えるはずがないのだった。
 こうして、僕は大学をやめた。同居人はそのまま残り二年の大学生活を粛々と送り、卒業して、そして、真っ当に就職した。

 そして、そこからまた色々があって、僕は同居人と同居を始めて、今もこの部屋で震えている。人生なんてわからないものだ。元恋人がうっかり同居人になってしまうだなんて、恐ろしいこともあるものだ。これだから僕は社会に上手く順応できないのだと思う。こんな滅茶苦茶なことが起こるのなら、死んだ母親にうっかりエンカウントとかしちゃいそうで怖いし。

 どうしてこうなってしまったのか、同居人の軽い悪戯の所為で母親の死に目に会ってやれなかったことが僕に一体どんな変化を施してしまったのかは、正直なところよくわからない。そもそも、母親の死に目に同居人の所為で合ってやれなかったことが、どうして僕が社会生活の中で上手くやっていけないことに繋がるのかも、自分ではよくわからなかった。トラウマの化学反応はいつでも鮮やかで脈絡がない。医者は『疲れているんですよ』と笑っているが、カルテに鬱とかなんとか失調だとかの文字があることを僕は見逃さない。
 そして同居人は、そんな僕を甘やかすことだけに全神経を注いで日々を送っている。罪悪感を見せないようにするのが苦手な彼女が出来るのは、僕を果てしなく赦し続けるだけなのだ。与え続けていれば、同じものが返って来るとでも思っているのかもしれない。僕はそれを黙って見ている。
 不幸な偶然だった。同居人だって、あの日母親の事故の知らせが飛び込んでくると知っていたなら、僕の携帯を隠したりなんかしないだろう。同居人はあのメールの列を見るまで、それが靴や上着や定期入れと同じ類のものだと思ってしまっていた。
 それでも、同居人は確かに僕と母親から最期の時間を根こそぎ奪ってしまった。僕はマナーの悪い大学生なので、あの日も携帯電話をマナーモードにするのを忘れていた。最初のメールが来た時に――否、最初に妹ちゃんがしてきたのは電話だった――何にせよ僕は気付いただろう。母親の病院は大学から車で二十分くらいだった。財布の中にはそこまでタクシーで行けるだけのお金があった。
 要するに、同居人があんなことをしなければ、何の問題も起こりはしなかったのである。
 僕と母親との仲も悪くはなかった。むしろ同年代の息子と母親に比べたら大分仲がいい方だったんじゃないかとすら言える。普通の母親だった。何の問題も起こさず、ユーモアを交えてよくもまあ僕と妹ちゃんを女手一つで育ててきてくれたものだと思う。
 薄々察しているかもしれないけれど、僕には父親がいない。理由なんか重要じゃないだろうからここでは割愛してしまうけれど、要するにここで重要なことは、妹ちゃんは本当に、たった一人で母親を看取らなくてはならなかったということだけだ。
 夢見が悪くなりそうな話だけど、妹ちゃんからのメールによると、母親は臨終の瞬間まで僕の名前を呼んでいたらしい。……会いたかったんだろうなぁ、と他人事みたいな気分で思う。一歩退いていないと、耐えられなさそうな想像だった。
 僕はお昼時にはふさわしくない想像をやめて、これまたお昼時にはあまり見たくないような現実に目を向けた。確か、同居人はお昼ご飯を作っていたはずである。それが今は、一体何に対して戦争を仕掛けようとしているのだろう。
「君さあ、それ先に火、止めた方がいいよ。そもそも、もう何作ってるのかわかんないんだけど」
 とりあえず、最も危なさそうなものから指摘してみた。最善が選び取れない時は大人しく最悪を回避しておいた方がいい。
「私、小さい時からこうなの。図画工作とかで何か一箇所失敗すると、その失敗を隠そうとしてどんどん失敗を重ねて、どんどん負の連鎖を生みだしちゃうの」
「馬鹿みたいな話だな。取り返しのつかないってことは確かにあるんだ」
 僕の言葉に、同居人は少しの間だけ火と共に手を止めて、何やら考え込んでいた。
 同居人が不意にこちらを向く。包丁を持ったままの同居人の立ち姿に何の危機感も覚えられなかった。手が震えている。料理が苦手な人間というのは、冗談かと思うくらい刃物を怖がるのだ。
「どこから失敗だったんだろう」
「差し当たっては、僕がお前に料理をさせたことだ」
 僕は心底面倒臭がりながら立ち上がり、同居人に近寄る。そして、どうにかさりげなく、同居人の手から包丁を抜き取った。人参の皮がべっとりとついている。人参って何でこんなに綺麗な色をしてるんだろうね?
 同居人はきょとんとした顔で僕を見ている。僕にこのまま刺し殺されることなんて一切想定していない顔だ。それは信頼と呼ぶにはあまりにお粗末だから、どう崩してやろうか迷う。
「……包丁」
「何?」
「いや……」
 同居人が困っている。包丁を取られてしまったら何も出来ないと思っているのだ。切ることだけが料理じゃないのに、同居人の料理の括りはあまりに狭い。
「渡さないよ、これは」
「ええ……」
「当面は没収だ。今日はもういいでしょ?」
 別に刺すとか刺されるとかそういう昼ドラめいた展開を予想したわけじゃない。同居人は料理に関しては奇跡の人なので、うっかり転んで僕に包丁をぶっ刺してしまう可能性を考えたのである。
 悪意が無くても悲劇は起こる。
 そういう風に出来ている。
「とりあえず、ここからは僕がやるから。ここから君がどうやろうと、絶対に食べ物は生まれないよ」
「でも、トマトとかは生でも食べられるんだし」
「それを知っていながらどうして悲劇を食い止められなかったんだよ」
「包丁一つでは語り尽くせないことが世の中には沢山あるってことに遅ればせながら気が付いたんだよ」
 同居人は今でも素敵な人間だ。でも、あの頃のような輝きはもう無い。同居人と僕の間にあった感情も多分もう無い。僕達を繋ぎとめているのは偏にあの罪だけなのだ。タイミングが悪かった。それだけの話だ。
「あと、このゴミの山は捨てるぞ」
「捨てちゃうの? 勿体ない」
「いいじゃん。お金ならあるんだろ」
 何しろこんな不良債権を抱えても悠々と暮らしてしまえるくらいには。同居人が黙る。否定しないその余裕が疎ましい。困窮してしまえば良いのに。料理が壊滅的に下手な癖に家政婦すら雇わずにのうのうと僕を抱えて暮らしているしっぺ返しを、いつかどこかで受ければいいのに。躊躇いなく僕は生ゴミ入れに野菜を放り込む。すぐにいっぱいになってしまった。
「残ったもので何作れる?」
「よくわかんないけど全部切ってコンソメで煮込めばいけそうだろ。そもそも、これ何作ろうと思ってたんだよ」
「……何だろう。何でもいいから作ろうと必死だったんだよ」
「楽にいこうじゃないか。必死になったからって上手くいく訳じゃない」
 社会復帰然り。関係修復然り。
 僕は残った食材を見渡す。よく使っていた大きい鍋はどうしたことか完全に焦げ付いてしまっているから、小鍋を使うしかない。下手な好奇心と義侠心は猫じゃなくて鍋を殺した。……困ったことだ。
 やる気になった僕を見る、同居人の目が輝いている。いっそのこと、これすらも今から全部ぶち壊してやろうか、と一瞬だけ思った。けれど、何にせよ僕は腹が減っているのである。空腹は全てのメタファーよりも優先される。面倒な暗示なんてすべて無視して、僕は新しい人参に包丁を入れた。ざくり、と赤い音が響く。
 最高に平和なお昼時だった。

夏のキラキラサーキュレーション


「センセイ、センセイ。私を導いてくれませんか」
「はあ。でも俺は可愛いメスゼミとか知らないよ。ごめんね。そもそも、蝉の可愛さもよく判別出来ないし。あ、やっぱ蝉の中にも米倉涼子似の蝉とかいるの?」
「残念、私にとっても蝉の顔はどれも同じに見えるんですよね」
 灘嶺くんが人間の言葉を話す蝉に会ったのは、お誂え向きの暑い夏の日だった。七年近くも土にいるらしいのに、何故だか彼らの大半は少しも迷うことなく夏に姿を現す。季節どころか自分さえ見失っているような人間達を相手取る灘嶺くんにしてみたら、それは少しだけ評価に値する才能だった。
 言葉を商売道具にしている灘嶺くんは、言葉の通じないものが苦手である。例えば被害者意識の強いモンスターペアレントや、オーバードーズで幻覚や女子高生や、虫などが苦手だった。特に蝉は好きじゃない。サイレンよろしくミンミンビービー鳴いている声には、物語性が全く見いだされなくて怖い。
 そのけたたましい鳴き声の正体は「セックスしてください!」という素直で切実なお誘いらしい。灘嶺くんはその事実を知って一層恐怖した。人間が偉そうに叫んでいる言葉と蝉のサイレン染みた謎の声は内容の面で大差がないことが、とても恐ろしかったのだ。
 そういうわけで、灘嶺くんは蝉が嫌いだった。出食わしたらげんなりするし、鳴き声のする木は密かに呪っていた。その癖、道ばたに転がっている蝉の死骸を見ると、なんだか酷く悲しくなるのだから困る。
「それで、生殖第一セックス大好きな蝉さんが、人間である俺に導いて欲しいことってなんだろう。言っておくけど、蝉が大好き! っていう女の子も多分俺は紹介できないよ。女の子の友達は少ないし、」
「これには、色々と超常的な理由があるのですよ。そう、それも含めて、私はセンセイに助けをお求めさせて頂いているのです。こういうことにかけて、センセイほど適切な方はいらっしゃらないでしょう?」
「・・・・・・そうかなぁ」
「ね、そうでしょう? アルカディアの灘嶺センセイ」
 蝉は、適当なチョイスで灘嶺くんを選んだ訳ではなさそうだった。溜息を吐いて、目の前の蝉をまじまじと見る。なるほど、本当にこれは、俺くらいしか適切な人材がいない案件なのかもしれない。
「私は生前、人間でした。名前を御船といいます。貴方の講演を聞いたのは蝉になってからですが、蝉ながら立派な信者です」
「なるほどね」
 灘嶺くんはようやく納得する。

 灘嶺くんは新興宗教の教祖を生業として暮らしている。教団の名前はアルカディア。牧人の楽園という意味を持つその教団は、灘嶺くんの博愛主義という名のお人好しと、色々な事情が積み重なって出来た冗談みたいに理想的な宗教である。
 人間は救いを求める生き物だけど、その救いがドラマチックであればあるほど満足度が高いらしい。即ち、神様絡みの救済が一番好き。だって、神様ほど物語において素晴らしい素材なんてないでしょう?
 そういうわけで、お人好しの灘嶺くんは人を慰める為だけに神様の存在を都合よく持ち出し、公園などで演説をし、段々と信者を集めていった。宗教団体ってどうやって出来ていくのかなぁと思っていたはずの灘嶺くんは、いつの間にか宗教団体アルカディアを結成させてしまった。
 ははぁ、と灘嶺くんは思う。この蝉は、灘嶺くんの有難いお話を聴いていたに違いない。ついこの間、灘嶺くんはここの公園の隅にある公民館で講演会をしたばかりなのだ。
 発足一年足らずで推定信者一万人弱達成というアルカディアの教祖、灘嶺くんともあろう人がそんなところで、と思われるかもしれないけれど、こういう地道な布教活動が、ウン千万円の寄付金に結びつくのですよ、と灘嶺くんの第一の側近である松永が宣うのだから仕方がない。実際、アルカディアの人気な理由はそういう気安さにあるのだろうし。
 それに、灘嶺くんはそういう行為を全く厭わなかった。自分の話を聞いてほっこりしたり、ふわふわしたり、とにかく幸せになれる人間がいるのなら、灘嶺くんは話をすることを厭わなかった。灘嶺くんはそういう人間だったのだ。
「御船さんはあの時の講演を聞いてたわけだ」
「ええ。あの公民館で催された、アレです。流石というべきか、公民館の中は人で埋め尽くされていたじゃないですか。だから、壁に貼りついて聞かせて頂きました。へへ、蝉っていうのもこういう時にはいいですね」
「そうかな。俺はそういう類のメリットを聞いても蝉になりたいとは思わないけど……」
「ともあれ、私は七年土に籠って、ようやく土から出てきた時にはもうすっかり蝉な気分になりかけていたんですが……センセイの素晴らしい御言葉を聞いて、ハッと気づいたんです。このままでいいのか、と。私は御船明という人間だったはずじゃないか。センセイはあんなに熱心に人間の使命と神からの御言葉を説いていらっしゃるというのに、私のこの体たらくは何だ、と思ったのですよ」
「……へえ」
 出来れば、俺の言葉なんて聞かずに蝉として一生を終えて欲しかったなぁと灘嶺くんは不謹慎にも思う。無機質なはずの蝉の目がキラキラしているように見えてげんなりした。
 人間は素晴らしいとか、神様はいつも見守ってくれているとか、そういうのは確かに灘嶺くんがいつも言っていることだけど、それってそこまでキラキラする言葉かなぁ? とも密かに思っているのだ。死後の幸せとか、現世利益とか、神から与えられた個人個人の役割とか、そういうものを聞く度に目をキラキラさせている人を見ると、そのキラキラを求めてやまなくなるくらい絶望させたものは何なんだろう、というところまで頭がいってしまう。
 灘嶺くんの悪い癖だ。大きなお世話とも言う。
「それで、センセイのお話の中に、死後の世界の話が出て来たじゃないですか」
「あー。『アルカディア』ね。死後の牧人の楽園」
「そうです。善良な人間は全て迎え入れられる、死後の楽園です。そこには苦しみも悲しみもなくって、毎日遊園地に住んでいるような気分を味わえる楽園だって、センセイおっしゃってましたよね」
「うん。言った」
「それなら、一体どうして私はアルカディアに行けなかったのでしょう?」
「ああ……はぁ……なるほど」
 ここでようやく灘嶺くんは更なる疑問に対する答えにも思い至った。要するに、灘嶺くんは天国に対する責任を負わされようとしているのだ。
 灘嶺くんが語った牧人の楽園、アルカディアに対する責任だ。目の前の蝉のいう事が本当なら、人間は死んだら牧人の楽園に行くのではなく、蝉とかになる羽目になるわけである。アルカディアの教えを根本から揺るがす、あまり認めたくない事実だ。
 幸運なことに、御船と名乗るこの蝉は、灘嶺くんを嘘吐きだと責めるつもりはないらしい。灘嶺くんの意見に異議を唱えるつもりはあまりなく、自分だけがイレギュラーだと思っているのだ。
 それは、灘嶺くんにとって大分好都合なことだった。嘘吐きだとクレームを入れられるよりは、信じて貰った方がどれだけ気分がいいか。
「それで、私がアルカディアに迎え入れられず、こうして蝉に生まれ変わったのには、何か理由があるんじゃないかな、と思ったのですよ」
「はあ、理由」
「そうです。センセイなら、神のお言葉が聞けるはず。私がこんな状態になった理由も、貴方様ならおわかりになるはずなんです」
 灘嶺くんは、曖昧に微笑む。正直知ったこっちゃなかった。けれど、優しい灘嶺くんは「それ、御船さんが善良な人間じゃなかったんじゃないの?」とバッサリ切り捨てることも出来ない。だって、蝉に生まれ変わるってどれだけ悪人だったんだよ? 蝉には悪いけど、灘嶺くんは蝉に生まれ変わるくらいだったら地獄に堕ちた方が数百倍良い。
 齢二十六歳の灘嶺くんは当然のことながら死んだことがない灘嶺くんは、死後の世界のことなんか全く知らないし、皆が求める牧人の楽園アルカディアがあるかどうかもわからない。あったらいいな、とは思っているけれど。
「神様の言葉って結構不定期なんだよね。俺が好き勝手に聞けるわけじゃなくて、神様の意志で来てるの。今のところ、御船さんがどうして蝉に生まれ変わらせられたとか、どうして人間の言葉を喋れるようにしちゃったのかっていうことについての情報は入ってきてないかな」
 灘嶺くんはお決まりの台詞を返した。大抵の物事は神様の所為にすればいいわけで、神様というのは大抵の場合とかく気まぐれなのである。
「そうですか……いいえ、そうですよね。神様が一々私の存在理由について教えてくれるはずがありません。私は、私で自分が蝉になってしまった理由を探るしかないんですよね」
「うん。そうだよ。それが神様の試練なんだ」
「ああでも、センセイ。どうか、ヒントだけでも与えてくださらないでしょうか。センセイは、私がどうして蝉になってしまったのか、おわかりになりませんか?」
「うーん……そうだなぁ。アルカディアが気に入らなかったとか?」
「まさか! センセイの話を聞く限り私が迎え入れられるのであれば、今すぐにでも入れて頂きたい、素晴らしい場所です。あそこは」
 うっとりしたような声で御船はそう呟いた。苦笑が止まらない。灘嶺くんのファンタジックに幸せなでっちあげのお伽噺が、人をこんな風に取り込んでしまうのはいつ見ても慣れない。いつか、とんでもないしっぺがえしが来るんじゃないかと怖くなってしまうのだ。
「それじゃあ、あれだよ。よくあるやつ」
「よくあるやつ? とは?」
「小説とか漫画とか映画とかによくあるやつだよ。即ち、何かこの地上にやり残したことがあるから、御船さんは蝉としてこの世に舞い戻ってきた……多分」
「ほほう、流石はセンセイ。私の考えの及ばないところを思いつきになる」
 こんな定石染みたものを思いつかないだなんて、もしかしたら御船さんはあまり映画はや小説に慣れ親しんでいなかったのかなぁ、と灘嶺くんは思う。いつだって人間は後悔し続けていて、やり直せる機会を伺っているのだ。
 恐らく、それは灘嶺くんにも当てはまるのだろう。
「それは蝉じゃなくちゃ出来ないことなんでしょうか?」
「そうなのかもしれない。人生、何が起こるか本当わかんないからね」
 灘嶺くんは適当に、それでも笑顔を忘れずに答える。蝉の進退なんてどうでもよかったが、頼ってきた者を邪険に扱う訳にもいかない。灘嶺くんは皆のセンセイなのだ。
「ああー……どうしてでしょう! 折角センセイにお言葉を頂いたのに! 七年間も土の中にいた所為でしょうけど! 思い出せない! 思いつかない! 私、何をやり残したんでしょう! ああ!」
「何だろうねー。そういうのを探す為に人は生きていくんだろうねー」
「センセイ、ちょっぴり投げやりになってきてませんか?」
「なってないない」
 でも、蝉の脳内を灘嶺くんが覗けるわけもない。
「俺、これから行くところあったんだけどさ、よくよく考えてみたらそこ、御船さんの悩みにも役に立つかもしれないんだ。だって、御船さんはどうして自分が現世に蝉になって戻ってきたのか知りたいわけでしょう?」
「はい、その通りです」
「それならまず、御船さんが前世どんな人だったかを思いだした方がいいんじゃない? 御船さんがどんなことを無念に思って死んだのか、それを思い出した方がいいんじゃない?」
 御船は何かを思うようにしばらく振り子のように行ったり来たりを繰り返していたが、不意に灘嶺くんの目の前で止まると、大きく一度身体を前に傾けた。頷いたつもりらしかった。
「・・・・・・なるほど。流石はセンセイ。その通りかもしれません」
「でしょ? 何事もまずはそこからだよ。幸い、俺が今から行くところは、多分どうにかして人間の記憶を蘇らせたりしてくれちゃう素敵な施設のはずなんだ」
「そんな場所、あるんですか? ディストピアですね」
「ああ、やだなぁ。そんなにおどろおどろしいところ想像しないでよ。言うならばあそこはドラクエでいう教会だから。素敵な場所だよ」
 言いながら、灘嶺くんは自分の抱える愛しの信者たちに思いを馳せざるを得なかった。今から自分が行こうとしている場所と、自分が作り上げた場所が、あまりにも似ている所為だ。辛くなった時に駆け込む場所は皆同じ。それなら、もう皆アルカディアなんかじゃなくて灘嶺くんと同じ場所へ向かうべきだと思う。だってそっちは、アルカディアと違ってちゃんと認められているのだし。
「それで、センセイは結局どちらへいらっしゃるのですか?」
 灘嶺くんは爽やかな笑顔で告げる。
「カムカムハッピー総合病院精神科」

 カムカムハッピー総合病院はこの街で一番大きな総合病院である。というより、この小さな街は、大体この総合病院を中心に回っていると言っても過言ではない。この街に住む人間の何割かはカムカムハッピーというご機嫌な名前の病院で生まれてこの病院で死ぬ。もしかしたら、御船さんもそうだったのかもなぁ、と灘嶺くんは適当な想像をした。
 けれど、その想像に反して、カムカムハッピーに着いた途端に御船がぺらぺらと前世の記憶を語り出すようなことはなかった。ただひたすら、うるさい蝉の羽音が聞き咎められないか心配している。
「だって、蝉なんですもん。蝉なんか、いたら潰しちゃうでしょ?」
「うーん、俺は蝉がいても積極的に潰そうとは思わないけどね。だって気持ち悪いじゃん。ぐちゅって何か色々見たくないものが見えちゃいそうじゃん」
「そうでしょうか・・・・・・躊躇いなく潰す人は潰しますよ。ああどうしよう、私が蝉になった理由がそうやって前世で蝉を潰し回った所為だったらどうしよう・・・・・・」
「とりあえず、見つかるのが怖いなら俺の背中のあたりに隠れてなよ。あ、ちょっと背中にくっつくのは勘弁して欲しいけど・・・・・・」
「ええはい、弁えております」
 そう言いながら御船は灘嶺くんの影に隠れた。精神科へ向かう廊下はやたら人が少ない。たまにすれ違う人間も皆が皆自分のことに必死だった。だから、灘嶺くんと御船は誰にも咎められることなく待合室まで辿り着いた。精神衛生にいいんだか悪いんだかわからない、黄緑色に塗られた待合室だ。夏を感じる。
 程なくして、不健全さや不健康さとは縁がなさそうな軽やかな看護婦さんが灘嶺くんの名前を呼んだ。御船も灘嶺くんを追って診察室へ入る。

「眠れないんですか、灘嶺さん」
「灘嶺くんって呼んでくださいよ。言うのは三回目だけど、そっちの方がずっといい」
「眠れないんですね、灘嶺くん」
「もうずっと眠れないです。そうじゃなきゃこんなところ来ませんよ」
 灘嶺くんの担当である初老の医師はまるで死にかけの金魚を見るような時の目をしていた。可哀想だけれど、あまり直視もしていたくないと正直に訴えかけてくるようなその目。でも、悲しいことに灘嶺くんの相手は正真正銘彼のビジネスだ。支払だって滞りのない善良な患者の灘嶺くんを追い返す術は医師には無い。溜息を吐きながら、医師はカルテを捲った。昔ながらの手書きのものだ。
「食欲はありますか?」
「あんまりありません。でも、好きなものだったら食べられるんです。うどんとか」
「眠れないのは夢を見るから?」
「うん。それも、凄い悪夢を。何回も何回も」
「お薬ちゃんと飲んでます?」
「飲んでますよ。ちゃんとお薬カレンダーとオブラートを使って、毎日頑張ってるんだ。あ、そうそう。毎回言ってるけど、お薬は粉末じゃない方がいいんだけどな」
 医師は灘嶺くんの話を真摯に聞いて、カルテにすらすらとそれを書き留めていった。灘嶺くんはそれを適当に盗み見る。字の綺麗な医者のカルテは盗み見が容易だから困るのだ。でも、結局書いてあることは先週と殆ど変わらなかった。灘嶺くんの状態がそこから進化していないのだから当たり前と言えば当たり前の話だった。
「ねえ先生、俺が新たに言葉を喋る蝉の幻覚を見始めたって言ったら、お薬増えちゃう?」
 医師は、少しだけ首を傾げて灘嶺くんのことを見た。すかさず、ノック式ボールペンがカチリと鳴る。
「見えるんですか?」
「いや、何ていうか、例え話ですよ」
 灘嶺くんが診察を受けている間、御船は空気に吸い付いてでもいるかのように静かに大人しくしていた。背中にくっつくなという灘嶺くんの無体なお願いも素直に受け入れて、灘嶺くんが座るイスの裏に黙って貼りついている。
 灘嶺くんはほんの一瞬だけ、言葉を喋る蝉が自分の妄想なんじゃないかという恐怖に襲われた。言葉を喋る蝉が自分の脳内から生み出されたものだとして、そこからどんなメッセージを受け取ればいいのかが、わからな過ぎて怖かった。
「君の例え話は難解なんですよね」
「そうですかね。こういう話が往々にして好まれるものなんですけど」
「僕は君の信者じゃないですからね。うん、難解ですよ。あんまり好きにもなれないし」
 初老の医師はボールペンをもう一度カチリと鳴らして、テーブルに置いた。もうカルテに書き込むつもりはないみたいだった。例え話は病状じゃないから仕方がない。
「その蝉は君を責めるんです? 例え話でもいいですけど」
「責めませんよ。責めませんけど、救いを求めたりはしてきます」
「あーそれ、結構スタンダードにノイローゼなんじゃないでしょうか。ノイローゼ。君の信者からの求められ具合が君に喋る蝉を見せているんです。ほら、ミンミンうるさいでしょう。灘嶺くんもね、心の奥底では信者のこと『うっせーな、カウンセリングでも行っとけよ』って思ってるんでしょう。そういうことですよ、きっと。ははーん」
「先生、それはちょっと乱暴すぎる解釈なんじゃないでしょうか。フロイト先生もびっくりですよ」
「まあ、例え話に対する態度なんてこんなもんですよ」
「その蝉はね、前世は人間だったって言いだして、前世の記憶を取り戻したいって俺に言ってくるんですよ。これってどういうことなんでしょう」
「あの、灘嶺くんその蝉は自分のメタファーとかじゃないんですよね」
 灘嶺くんは今までにないくらい強くはっきりと首を振った。
「それで、先生。昔の記憶を思い出すいい方法とかありませんかね? やっぱり、脳に電極を刺してビリビリするしかないの?」
「それは悪趣味なカルトムービーの世界ですよ、灘嶺くん。そうですねえ、それも気長にやっていくしかありませんよ。思い出す為の手掛かりになりそうなワードを拾って、糸を手繰り寄せるように思い出したいことの名残を探るんです。思い出すきっかけになるのは匂いかもしれない、音楽かもしれない、人かもしれない、あるいは場所かもしれない。何にせよ気長にやることですよ」
 気長に、というところを医師は繰り返し強調した。気長にとはいっても、蝉の寿命は多分そこまで長くないから、そういう話には限度がある。蝉は七日間しか生きられないというのは迷信らしいけれど。
「これは経験則ですけれど、忘れてしまった記憶を思い出すことって、そこまでいいことでもないかもしれませんよ。そういう記憶は忘れるべくして忘れたんです。思い出したくないから思い出さないんです。そういうものを引っ張ってきた時、八割はろくでもない事態になってしまいます。大惨事です」
「そういうもんですかね? あ、そういえば、先生の名前何て言うんでしたっけ」
「担当医の名前すら怪しいんですか?」
「思い出せないことは思い出さない方がいいんじゃなかったでしたっけ」
「お薬、錠剤で出しておきますねー。お大事に」

「結局錠剤と粉薬二パターンで処方されてるんですけど……」
 灘嶺くんはお薬袋の中を覗き込みながら苦々しく呟く。やけにカラフルな錠剤と、その合間を縫うように粉末。嫌がらせをするような人じゃないと信じているから、きっとこれは間違えちゃったか忘れちゃったかのどちらかだろう。人間の記憶も蝉の記憶も当てにならない。
 カムカムハッピー内の薬局で薬を受け取ってから、そこを出る時には、御船は何も気にすることもなく、灘嶺くんの周りをふわふわ飛び回っていた。夏の暑い日に蝉が飛び回っているのは不自然なことじゃない。その蝉が人間の言葉を喋っていることはもしかするととても不自然なことかもしれないけれど、何せ夏だから。夏はどんな突拍子のないことにも概ね優しい。
「眠れないんですか」
 医師と同じことも御船は聞いた。クリスマスの朝の靴下みたいに睡眠薬を詰め込んだ袋を携えながら、灘嶺くんはなるべく気を抜いた声で応える。
「うん。眠れないよ」
「どうしてでしょう」
「ストレスだって先生は言ってる。結構揉め事も多いしさ、あんまり見たくないような結末を見せつけられるようなことも往々にしてあるんだよね。俺が力不足だから」
「そんなことありませんよ! センセイは素敵なお方です!」
 そうやって言い切る姿勢が、灘嶺くんにとって、こうなんだか・・・・・・居心地の悪いような気分にさせられるようなものの一つなんだけれど……結局何も言えなかった。御船がそんなことを言うのは偏に灘嶺くんの為だとわかっているからだ。
 百パーセントの信頼はどうしてこんなにも怖いのだろう。信頼されるのは嬉しいことなのに、どうして不安になってしまうんだろう。ちなみにこの問題の答えは、人間は百パーセントの信頼は一瞬で百パーセントの憎悪と失望に変わる恐れがあると、心の何処かではわかっているからだ。けれど、灘嶺くんがこのことに気が付くのは、残念ながらもう少し後の話だ。
「だから、俺はそろそろヨガでも始めちゃおうかなって――あ」
「どうしたんですか?」
「十枝先生だ」
 灘嶺くんは珍しく目を輝かせる。目の先には、四十代前半くらいの医師がいた。遠目からでもわかるくらい姿勢がいい、凛とした男だ。灘嶺くんはとても楽しそうに「十枝せんせーい!」と駆け寄る。その瞬間、十枝は眉間にいきなり蝋燭を垂らされたかのような、不機嫌そうな顔をした。
「ああ、十枝先生これからご出勤なんですね。頑張ってください」
「もう来るなって言っただろ。何しに来たんだ」
「どうして? 俺は患者だよ。患者が病院に行くのに、何の不思議があるの?」
「ここはお前みたいな人間を救える場所じゃないんだよ」
「ねえ、どうして十枝先生は俺を嫌うの? 俺はこんなに善良なのに」
「お前のその善良さが、傲慢が、一体どれだけの人を地獄に落としてるんだろうな」
「地獄じゃない。天国に連れて行ってるんだ」
 正確には牧人の楽園だ。皆が憧れるアルカディア。御船は迎え入れられなかったアルカディア。
「お前の宗教では人が死んだ」
 十枝は淡々と言った。
「仕方ないことだったんだ。俺の所為じゃない」
「死んだのは事実だ」
「ああそうだよ、死んじゃった。でも、止められなかったんだ。ねえ十枝先生。俺、悪夢を見るくらい悩んでるんだよ」
「それで、もしかして赦されると思ってるのか?」
「少しは」
 灘嶺くんの言葉を聞いて、十枝は一瞬とても不愉快そうな顔をした。起こられるかもな、と灘嶺くんは少しだけ身構える。
 けれど、不愉快な相手にこれ以上構っていられないと判断したのだろう。灘嶺くんに出会うよりもずっと早いスピードで去っていく。しゃんと伸びていた背が丸まっていた。それが灘嶺くんには、とても残念だった。
 灘嶺くんはその背中を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
「なんなんですか……あの人」
 御船が嫌悪感丸出しの声を出した。御船は自分の好きな人が嫌いな人は滴、という典型的な考えを持つ側の人間らしい。
「あの人はね、カムカムハッピーで一番のお医者さん。俺の主治医に、一回だけなった人。それ以後は、主治医になりそこねた人」
「治療拒否ですか?」
「十枝先生っていうのは優秀なお医者さんでね、心理学的に有名な学者さんでもある。テレビによく出てるんだよ。主に新興宗教にだだ嵌りしちゃった女の人が、ニュースで取り上げられる時なんかは」
 そこまで聞いて、蝉である御船にもおおよその察しがついたようだった。素性が割れるや否や診察室から追い出された灘嶺くんは、そのあまりにストレートな対応に面食らって傷つきもしたけれど、同時に好ましくも思った。宗教というものがどうしても受け入れられない人間だって一定数はいるものなのだ。宗教の部分を政治や、贔屓のアイドルに置き換えてもいい。そういうものに一々傷ついてはいられない。
「御船さん、生き辛いなぁ」
「蝉の私には計りかねますけど、そうでしょうね」
「生き辛いでしょうよ、蝉だってさ。蝉なら尚更さぁ」
 蝉はビービー悲痛に泣き叫んでいた。本当は悲痛でもないのかもしれないけれど、そう思い込んでも構わない程度には煩く泣き喚いている。生き辛いよ、と灘嶺くんはもう一度繰り返す。
「どうなの? 御船さん。嫌なところも見ちゃったけど、それでも蝉になった御船さんは、アルカディアのことが好き?」
「私、あの人の言葉を聞いたら、なんだかこう、胸が苦しくなりました」
「十枝先生のこと? まあ、耳に痛いこと言ってるよね」
「でも、センセイのことやアルカディアのことを思うと心がキラキラするんです」
「俺のこと? ・・・・・・キラキラ? キラキラって、結構ふわふわな言葉だよね」
「私、センセイを見ると、こんな状況でも生きてやろうって思うんですよ。蝉になってでも、七年間を土で過ごす憂き目を味わっても、アルカディアに迎え入れられなくても、・・・・・・このキラキラを求めて、生きてやろうと思うんです」
 それはまるで向日葵のように真っ直ぐな気持ちだった。土に潜っている蝉が間違えずに夏に出てこれる蝉にふさわしい気持ちだ。
「だから、私はアルカディアを好ましく思います。十枝先生がどう思おうと、アルカディアのことをキラキラっと見ますよ」
「キラキラかぁ。なんか良い言葉だよね」
「ですね」
 そもそも蝉の目にちゃんとした色覚とか、その得体の知れないキラキラを感じられる心とかがあるのかなぁ、と灘嶺くんは思う。御船は何かに追い立てられるかのように灘嶺くんの元にやって来て、スピーディーに成果を上げられもしないこの状況に文句も言わない。何というか、それが酷く不気味だった。御船に迷いはない。ここにいることが、本当に神様の思し召しだったかのようだ。
「私、アルカディアの信者だった気がするんです」
 不意に御船はそう言った。そろそろアルカディアの宿舎の方に戻らないといけない、とそれとなく別離を仄めかした灘嶺くんに対しての、牽制みたいな言葉だった。
「だって、そうじゃありませんか? 私、こんなにアルカディアに心惹かれているんですよ」
「……心惹かれる、かぁ」
「あの先生――あ、睡眠薬をくださった先生の方ですよ。あの先生もおっしゃっていたじゃありませんか。記憶を呼び戻すには、自分が心惹かれるものに素直になった方がいいって」
 キラキラの源泉。御船の心に引っかかる、蝉と人間を繋ぐ何か。他人の心なんてわからないから、ましてや蝉の心なんて絶対にわからないから、灘嶺くんは黙るしかなかった。御船の人生だ。御船の好きにしたらいい。御船は人じゃないけれど。蝉だけど。
「でも、俺、『御船明』って名前の信者さんに会った覚えがないんだ」
「あんなに沢山信者がいるなら、センセイが覚えてなかったとしても不思議じゃないんでは?」
「御船さん、この仕事を続けるコツを、一つだけ教えてあげる。それは、人の顔と名前を忘れないこと。自分の名前も憶えてくれない人間を、人は信用したりしないよ」
 それは確かに灘嶺くんの才能の一つに数えられるものだった。誰かの前で話をするのが上手いこと、とにかく誰かを安心させようとして常に努められること、人の顔と名前をしっかりと覚えていられること。ともすればエリートセールスマンに必要とされるようなその資質たちが、教祖としての灘嶺くんのことを支えてきたのだ。
「それじゃあ、どうして私は、アルカディアにキラキラを感じるんでしょう……?」
 御船の声が途端に小さくなる。あっ、しまった、と灘嶺くんは心の中で舌打ちをした。例え灘嶺くんの記憶力に自信があったとして、御船明なんて名前の信者がいなかったとして、そのことを御船に断固として言い渡すことが正しいとは思えなかった。真実とか正論とか、そういうものって大体あんまり美味しくない。それはさっき十枝が証明したばかりのはずだった。
「……そうだよね。いくら俺が記憶力に自信があったとして、忘れてるかもしれないよね。ヒューマンエラーっていうのはどうしたって起こりうるものだし。ね、御船さん。とりあえず、アルカディアの合同生活施設に来てみる?」
「合同生活施設?」
「そのままの意味で、信者達が一緒に暮らしてる大きなシェアハウスみたいなところなんだけど。老若男女かいる老人ホームのイメージでもいいし、合宿所みたいなところをイメージしてもらってもいい」
「ほほう」
「そこに、御船さんの前世を巡る何かがあるかもしれない」
「本当に、私が行ってもいいんでしょうか?」
「そこで御船さんが何かを掴めるかもしれないからね」
 灘嶺くんはまっすぐにそう言った。元より、灘嶺くんは病院が終わったら真っ直ぐにそこに帰るつもりだったので、行きずりで話しかけられてしまった蝉に付き合って当てもない度に出るよりは、アルカディアに戻った方がいい。
「ありがとうございます! センセイ、ありがとうございます!」
 御船は大きく飛び上がって、嬉しそうに空中で一回転をした。なかなかメルヘンチックな光景だった。連想されるのは皆から愛される耳の大きなゾウさんである。
「御船さん御船さん。もし御船さんが死んだ原因が――俺とかだったらさ、御船さんは俺のこと憎むかなぁ?」
「そんなこと、怒りませんよ。死んでしまったものは仕方がないし、忘れてしまったものは仕方がないんですから。私がセンセイを恨むことなんて絶対ありませんよ。この世のある程度の物事は水に流せばそれで済むんですし、水に流せば済むようなことなんか、一度死んだ私に流せないはずあるわけないじゃないですか。だって、こっちは血まで流してるんですもん」
「はは、上手いこと言ったね」
「上手いこと言ったんでしょうか? これ」
 御船という名前の奇妙な蝉は、滔々と灘嶺くんの跡をついてくる。灘嶺くんはなるべく御船のことを意識しないようにしながら、アルカディアへの道を進む。血を流す、とかいう物騒な表現が耳に残った。御船さんは、血を流したんだろうか?
 灘嶺くんは血が嫌いだった。流れるところを想像するのも好きじゃない。単純に怖いからだ。流血沙汰は嫌い。好きなものは甘いものだ。
 真夏の太陽が遠目に見える景色を華麗に歪めてみせる時みたいな、力技の嫌な予感がした。

 アルカディアに着くなり、御船はその宿泊施設の端正さと、美しさと、システマチックな感じに驚いていた。この施設の建設費や運営費は主に寄付金で成り立っているんだよー、と灘嶺くんが言うと、御船は更に素直に驚いていた。それが灘嶺くんには嬉しかった。世の中の人はどうしたって汚いお金や裏のカラクリが無いと我慢できないものなのである。クリーンな状態なんてお呼びじゃないのだ。彼らの大半は泥にまみれたお話が好き。そうじゃないと、傷がついた脛を隠せないからだ。
「凄いですね。これが信者の皆さんの善意なんですね。喜捨なんですね」
 御船は素直にそう感嘆した。もしかするとそれは彼が蝉であって、傷つく脛を持たないからかもしれなかった。
 灘嶺くんは御船の言葉に答えないで、黙って奥へと進んで行く。数人の信者が灘嶺くんとすれ違って手を振ってくれた。誰も彼も、正気の沙汰じゃないくらい幸せそうな顔だった。
「あー、またこんなにお薬を貰ってきましたね。駄目だって言ったじゃないですか。ぷんぷん」
 応接室に着くなり、示し合わせたかのように一人の女性が部屋に入ってきた。ショートボブの黒髪に、少し吊り気味の目がシャム猫みたいで可愛い佐藤さんだった。有能な秘書兼お目付け役の彼女の言葉に、灘嶺くんは咄嗟に手に持っていた薬の袋を隠す。もう既に見咎められたものを隠したって意味がないのにそうしてしまうのは、彼が佐藤さんに怒られ慣れている所為だ。
「あんまりこういうものに頼っちゃいけませんよ、って私言いましたよね? 信者も含めて皆、センセイがこんなだと不安になるじゃありませんか。何の為に私はおやすみ前にホットミルクを淹れさせられているんです? ぷんぷん」
「だって……。というか佐藤さん、『ぷんぷん』っていう語尾はもしかすると俺を必要以上に怖がらせない為の処置なのかもしれないけど、無表情でやられても逆効果だよ……」
「ぷんぷん」
 佐藤さんはそのまま、長く長く溜息を吐いた。ホットミルクを淹れるのも、語尾に『ぷんぷん』と付けるのもさしたる手間じゃないから、佐藤さんは純粋に、灘嶺くんのことを心配しているのだと思う。優しい灘嶺くんは佐藤さんに少しでも心配をかけること自体が耐えられないのだけれど、如何せん、睡魔だけはどうしようもなかった。
 大抵のことには耐えられるつもりだったけど、眠れない夜の、あの段々とカーテンの向こうが青々としていく感じや、時計の秒針が擦り切れる音さえ聞こえてきそうなあの感じ、大好きなはずのタオルケットがどうしても身体に馴染まない感じ、『感じ』塗れで感覚器官だけがどんどん滲み出してような感じは、どうしても無理だった。あのフィリップ・マーロウだって、眠れない夜には手前勝手にギムレットを煽ったはずだ。そうであってくれ、と灘嶺くんは半ば祈りながら、タオルケットの中で丸くなる。
「……薬は治すものなんですよ。貴方、治す気はあるんですか」
「俺はマゾヒストじゃないんだよ。治るならとっくにどうにかしてる」
「自分では正確なところがわからないのが、ブラジャーのカップ数と性癖なんですよ。前者は下着売り場で、後者は五反田でしかわからない」
 果たして、佐藤さんは五反田に行ったことがあるのだろうか?
「佐藤さん、佐藤さんって五反田行ったこと――」
「センセイ、田辺新美さんは、勝手に死んだんですよ。アルカディアに魅せられ過ぎて、自分で死を選ぶことも全く恐ろしくなかったんでしょうね」
 灘嶺くんの存外真剣な質問は、あっけなく無視された。それと入れ替わりに、聞きたくもない言葉が耳に入ってくる。
「天国は死ぬ為の場所じゃないのに」
「田辺新美さんにとってはそうではなかったんでしょうね」
 淡々と佐藤さんはそう告げる。
「私が言いたいことは主に二つです」
「はい」
「あんまり人の死に気を揉まないこと。お薬は用法要領を正しく守って、なるべくなら飲まないこと」
 佐藤さんはびしりと指を二本天井に向けて突きだした。あまりに堂々とし過ぎていて、灘嶺くんはそれが純然たるピースサインであることを一瞬忘れかけた。平和からかけ離れたような表情をしている佐藤さんがやると、まるで目潰しのジェスチャーに見えて少し怖い。
「……肝に銘じておきます、脳味噌がそれに従ってくれるかはわかんないけど」
「んふふん」
 佐藤さんは灘嶺くんの返答に満足したのか、楽しそうな声を上げた。それでも、彼女の表情は殆ど変わらない。彼女の中の神様は、ポーカーフェイスをお好みなのだろうか? と灘嶺くんは本気で思う。何でもかんでも神様に絡めたくなるのも、一種の職業病なのかもしれない。
「俺からも二つ、聞いてもいいかな?」
 佐藤さんの真似をして、灘嶺くんもピースサインを向ける。贔屓目かもしれないけれど、特に物騒な要素は見られない。ピースサインの威圧感は、人によりけり。
「どうぞ」
「アルカディアに、『御船明』っていう名前の信者はいたかな? 俺には正直覚えがないんだけど」
「いません。私が覚えている限りでは」
 やっぱりな、と思う。自分の記憶力に自惚れているわけじゃないけれど、少しいい気分にはなった。灘嶺くんは信者のことを絶対に忘れたりなんかしない。しないからこそ、こんなに苦しんでいるのだから。さながらスティグマだ。灘嶺くんが少しでも自分の抱え込んだ宗教という代物に疑念を抱いた瞬間、そのスティグマは赤く鈍く痛むのだ。
 十枝のような態度を取る人間を見てもそうだ。『理解されないものである』ということを意識した瞬間、灘嶺くんはそれと戦わなくてはいけない状況に追い込まれる。
「それで、あと一つは?」
「うん?」
「あと一つの質問ですよ」
「ああ、そうだ」
 灘嶺くんは辺りを見回す。御船の姿が見えなかった。室内に佐藤さんの存在を認めた瞬間、サッと隠れたのかもしれない。
「佐藤さん、蝉は好き?」
「好きですよ」
 サラリと答えられてしまった。女性は須らく虫が嫌いなものである、という信仰が崩れた瞬間だった。
「私、秩父出身なので、よく見かけたんです。捕まえたりもしました」
「へえ、なんていうかその、意外」
「別に蝉の造形や生き方や鳴き声やくりくり黒目が好きだったわけじゃないですよ。そんなのは全然評価対象になりません。ただ、蝉は簡単に捕まりますから。鳴くのに必死過ぎるのか、生きるのに必死過ぎるのか、凄く簡単に捕まるんですよ。それこそ素手でも」
「素手かぁ……あんまり触りたくないけどな」
「簡単なものっていいですよ。簡単に捕まるもの。簡単に手にはいるものは、簡単に愛せるんです。そうして、すっかり好きにさせられました」
 その瞬間、佐藤さんがこらえきれなかったかのように、ふふっと小さな笑い声を漏らした。口元が小さく逆アーチの形を作る。夏の熾烈な日光の下では幻聴と間違えても差し支えないくらい、唐突で素敵な笑顔だった。
 もしやアルカディアも佐藤さんにとっては蝉と同じ? と聞こうとして踏みとどまった。久しぶりに理性的な判断だった。
 不意に、応接室にノックの音が響いた。規則正しい間の後に、一人の男性が部屋に入ってくる。所場博文。ちゃんと名前を思い出せたことに安堵した。所場は、佐藤さんに何やらを耳打ちすると、また慌ただしく出て行ってしまった。佐藤さんの顔が露骨に不機嫌そうになる。さっきまでの笑顔なんて欠片も無かった。
「センセイ、お手数ですが、正門の方には行かれない方がよろしいかと」
「何で?」
 佐藤さんは溜息を吐きながら、事の顛末を話してくれた。思わず、灘嶺くんも顔を曇らせる。あまりいい話じゃなかった。夏になってからは、いい話の方が少ないような気さえする。
「尚更、俺が行った方がいいんじゃないの?」
「貴方の御言葉は届きませんよ。ああいうのは、動物か何かだと思った方がいいんです」
 でも、俺の言葉は蝉にも届いているようだよ? 灘嶺くんは薬の袋を手近にあったテーブルに放り投げながら思う。
「まあ、気が向いたら見に行くよ。……大丈夫、別に。俺が見ておきたいだけだし」
「センセイがそうおっしゃるのなら、止めませんけど」
「うん」
 灘嶺くんはただ頷く。


「御船さん? 御船さーん」
「はい」
「うわっそこにいたの」
 応接室から廊下に出て、一声呼んだ時にはもう御船は背後にいた。鳴かない蝉の静かなことを思い知る。ビジュアルだけで煩い存在だから、そんな単純なことにすらなかなか気付けなかった。
「センセイがお入りになる部屋の中に女の方が見えたものですから、部屋に入るのが躊躇われましてですね」
「あー、別に入っても良かったのに。佐藤さんは蝉が好きなんだって。きっと殺されたりしなかったよ? ああでも、捕まえるのが好きって言ってたからそれはそれで危なかったかな……」
「私、死ぬのが怖いんですよ」
 ポツリと御船がそう言った。
「廊下で一人で考えていると、何だか怖くなってきたんです。蝉に生まれ変わったところまではよしとしましょう。でもそこからは? 死んだら、どうなるんでしょう。御船明としての意識はどうなるんでしょう。私、本当にアルカディアに迎え入れられるんでしょうか」
「迎え入れられるよ。だって、御船さんは本当に善良な人だったんでしょ? 大丈夫だよ。怖がることなんて何もない。人は皆、幸せになれるんだ。最終的には皆お誂え向きのハッピーエンドが待ってるはずなんだ」
「私は蝉です」
 言い切る言葉に迷いが無くて、内心ギョッとする。
 動揺する灘嶺くんを余所に、御船は窓の外に見える中庭の子供達にご執心のようだった。何がおかしいのかもわからない子供達の嬌声が聞こえる。今の子供はもう虫捕りなんかはしないのだろうか。
「……私もここに入っていれば良かったのに。そう思います。信者は皆幸せそうじゃありませんか。そうですよ、シンプルな教え。規則正しく楽しい共同生活。死後の幸せの確約。信者達からの善意の寄付で成り立つ運営。非の打ちどころがありません。ああ、そうだ。ここに入信していなかったからだ、そうです。私がアルカディアの信者じゃなかったから……こんな、蝉なんかに生まれ変わっちゃったんです……」
 御船の言葉にはジリジリという奇妙なノイズが混じっていた。それはさながら、蝉の羽音のようだ。寒気がする。御船の言葉が熱を持てば持つほど、灘嶺くんの心の内は冷えていくみたいだった。どうしてだろう。アルカディアを讃えてくれる嬉しい言葉なのに、凄く怖い。
「御船さん、あの、ちょっと落ち着いてもらえるかな」
「ねえ、そうじゃありませんか? 私がやり残したことっていうのはこれですよ。アルカディアの信者にならなかった前世の私の代わりに、今の私がセンセイの御言葉を受けなくちゃいけないんです。ああほら、センセイを見ているとキラキラが、キラキラが溢れてくる」
「御船さん、わかったから。ねえ、とりあえず落ち着いたらいいよ。ね? もうじき夜になるよ。だから、一旦外に出てくれないかな? あの、明日にはさ、御船さんの部屋を用意させるから。ね?」
「ああ、大丈夫です。センセイの言う事なら何でも聞きます。部屋も要りませんよ、蝉ですから。とりあえず、外に出た方がいいんですかね?」
「うん。でも、あんまり人に見られるとまずいから、そっちの窓から出て。それで、来る時にくぐった正門の方には絶対に行かないで」
 灘嶺くんは懇願するような口調でそう言った。もし御船に掴むだけの肩があれば、掴んで縋っているかもしれない。そのくらい必死だった。
 灘嶺くんの気色ばんだ表情を見て、御船はそのまま一礼をして(蝉が一礼だなんて! 灘嶺くんは密かに頭を抱える)御船の、出会った時よりずっと耳障りになった羽音が聞こえなくなるまで待って、灘嶺くんは正門の方へ向かった。
 正門前で、一人の中年女性が泣いていた。佐藤さんの報告通りの光景だった。一見するとアルカディアに救いを求めに来た人間のようにも見えるけれど、叫んでいる内容があからさまに違う。眉を顰めた。
「息子を返してください! お願いします! 何でもしますから! お金も払います! 息子を抜けさせてください! 何でもしますから!」
 黙って見ている灘嶺くんの元に、佐藤さんとはタイプの違う美人が走ってきた。信者の一人、高田さんだ。駆け寄って来たくせに、彼女は何も言えずに黙り込む。言うべき言葉が見つからない。灘嶺くんにあんなものを見せてしまったことに、彼女はあっさりと絶望している。ああ確かに、と灘嶺くんは納得する。こんな程度で絶望しているようじゃ、確かにアルカディアの外では生きて行けやしないだろう。
「あの人の息子さん、返してあげなよ」
 灘嶺くんは淡々と言った。子供を産んで手塩にかけて育てて愛を捧げてきた子供なのだろう。彼女は親なのだ。親なのに、あんなに地面に這いつくばって泣いて喚いて、アルカディアに懇願している。アルカディアに懇願する人間は多いけれど、あれは種類が違った。高田さんは悲しそうに首を横に振る。
「駄目ですよ、センセイ。私達はあの方の息子をアルカディアの施設から退所させようとしたんですが、彼は頑なに拒否しましてね。自分を追い出すなら死んでやると言って、今朝がた酔い止めを百六十三錠も飲んで自殺をはかりました。幸い命に別状はありませんでしたが、今は眠っています」
 素晴らしい袋小路だ、と灘嶺くんは舌打ちを返す。誰かの幸福と誰かの幸福は同じ形や色をそているとは限らないのだ。牧人の楽園アルカディア。個々が望むその場所にあるものは、同じとは限らないのである。
「彼はここでしか生きられないんだそうです。バナナフィッシュを思い出しませんか、センセイ」
 高田紫央奈はなかなかいい文学趣味をしているらしい。灘嶺くんは誰であってもサリンジャーを読んでいれば相手をなかなかいい趣味の人間だと思うのだ。そういうささやかな価値観でさえも違うのだから、況や幸せをや? ……そんなことじゃ駄目なのだ。アルカディアは皆を幸せにする為に生まれたのだから、誰かが不幸になってはいけないのである。皆の幸せの形は一つでなければ。
 灘嶺くんはこれを御船に見られるのを恐れた。今も怯えている。何故だろう、とても嫌な予感がした。そろそろ、あの中年女性を引き剥がしに警備員が駆けてくる。彼女がまるで変質者みたいに追い出されるのを見て、灘嶺くんは何もしない。
 さて、一体誰が信じるものが幸せだと呼ばれるのだろうか?

 アルカディアに入らなかったことを後悔して、蝉になってまでこの世に戻ってきたという話を、御船はそれから三日間の間真摯に信じ込んでいた。灘嶺くんの宿舎に泊まり(実際にはそれは、留まると言った方が正しいけれど)、灘嶺くんは神様の話やどうして人は生まれて来たのかみたいな話をするのを、ただ熱の籠ったキラキラとした目で見るだけで、彼は無邪気に満足しているようだった。
 灘嶺くんは、気が滅入っていた。佐藤さんに約束させられてしまったから、オーバードーズなんて絶対にしない。それでも、心底気が滅入っていた。
 そもそもアルカディアという存在が人によって幸せそのものにも害悪そのものにもなることを知ってしまった灘嶺くんは、多分御船の無邪気な盲信を怖れていたのだと思う。一向に昔の記憶を取り戻さず、ここに幸せを見出す御船のことを、どうしてこうも不吉に思うのか。灘嶺くんは本当は蝉が嫌いなんじゃないかと本気で悩んだ。思春期の虫取り少年が陥りそうな煩悶だった。
 蝉の寿命が七日間であるという話を、灘嶺くんはそこまで信じていない。だって、そんなのは美し過ぎるからだ。神様が世界を作った日数と、たかだか蝉の寿命を合わせる必要が一体どこにあっただろう? 気に食わない。
 ともあれ、その俗説で言えば、御船はそろそろ死ぬはずだった。蝉にしては長生きをしたとしても、二・三日の違いだろう。御船は蝉だけれどアルカディアの信者だから、きっと、あそこの部屋で死ぬ。人一人が優に暮らせるあの部屋で、蝉だけがコロンと転がって死んでいるのを想像すると、無理矢理蝉を食わされたような気分になった。
 灘嶺くんは、もうアルカディアで人が死ぬのを見たくはなかった。
 御船は蝉だけれど蝉じゃない。人の言葉を話している時点で、灘嶺くんの中で御船は蝉じゃなくて人間だった。七日間しか生きていなくても、人間だ。
 どうすればいいかわからなかったし、今更御船を追い出すほど冷酷になれないから困る。袋小路もいいところだった。
 袋小路に追い詰められた人間は大抵の場合そこで死ぬ。袋小路に追い詰められた人間には羽が無い。

 袋小路状態の転機はやっぱり羽のある生き物の方からもたらされた。三日目のある日、御船は急にいなくなってしまったのである。
 御船の部屋を尋ねるのは灘嶺くんの一応の日課となっていた。会いに行くというよりは生死の確認をしているのに近い、何だか歪んだ訪問だった。
「御船さーん。御船さん?」
 いつもなら蝉にしては礼儀正し過ぎる挨拶が返ってくるのだけれど、その日は何の物音も返ってこなかった。灘嶺くんは半狂乱で部屋に飛び込み、御船の姿を探した。正確には死体を探したのだ。とうとう御船が死んでしまったのだと、灘嶺くんは叫びだしそうな焦燥に襲われた。けれど、そういうわけでもないらしい。御船は、自分の意志でここを飛び立ったのだ。灘嶺くんにはわかる。
 何しろ、御船の部屋の机がじっとりと濡れていたからだ。真夏だというのに、その湿りけは拭いさられていない。直感的に、あるいは思い込みに似た一途さで、灘嶺くんはそれが涙だと悟った。きっと、舐めたら塩辛い味がする。蝉に涙腺があるとは思えないけれど、御船はまだ人間なのだ。涙くらい流せるだろう。
 この夏の苛烈さにも関わらず机が湿っているということは、御船はさっきまでこの部屋にいたのだ。この部屋で涙を流して、そうして飛び立ったのだ。じっとりと湿った気持ちの悪い表面を撫でながら、灘嶺くんは決意した。御船を探さなくちゃいけない。蝉はそんなに長く遠くへは飛べない。ここに来るのだって、ちゃんとタクシーにひっついてきたのである。ということは、まだ灘嶺くんの探せる範囲にいるに違いない。
 蝉を探すのなんて初めてだった。入ってくるのと同じくらい勢いよく外へ飛び出しながら、灘嶺くんは思う。長らくインドア派を貫いていた灘嶺くんは虫捕りに行ったことがない。でも、大体蝉のいそうな場所はわかった。小説や漫画やドラマや映画のお陰である。何事もイメージが大事。
 アルカディアには信者の情操の為に綺麗な森が設置されている。何から何まで人の手が加わった人工的な場所だけど、無いよりはいいと思った。そもそも、絶対に本物がいいとは限らない。
 蝉はそこまで体力がないらしい。御船は森の入り口で見つかった。一年前に植えられたばかりの真新しい木に、黙ってしがみ付いている。蝉の区別なんかつかないけれど、灘嶺くんにはそれが御船であることが何となくわかった。
 彼はただ黙っているのではなく、何かに反抗するかのように沈黙していた。
「御船さん、どうしたの」
 灘嶺くんは、恐る恐る尋ねる。
「どうしたの、とは」
 御船が声を返してくれたことで、灘嶺くんは少しほっとした。
「だって、急にいなくなっちゃうんだもん。……あの部屋に入った時、凄く怖かった。俺、ああいう部屋の感じ、前にも経験したことがあるんだ。……あの、何とも言えない、嫌な感じ」
 灘嶺くんは苦虫を噛み潰した時のような顔をして、軽く左右に首を振る。けれど、悪夢は出て行かない。神様の加護を説いているはずの灘嶺くんは、今夜も睡眠薬無しでは眠れない。悪夢の糸を辿り、原因を掬い取る。灘嶺くんは、そこに蝉の影を見ていた。その気になれば、鳴き声の幻聴だって思いのままだろう。
「でも、そのお蔭で、御船さん。あんたの正体がわかりました」
「……はい」
 まるで名探偵か何かのように灘嶺くんはそう告げる。こんな物言いをするのはこれっきりだ。灘嶺くんは教祖であって名探偵じゃない。真実を究明するより、真実を隠蔽してでも誰かに幸せになってもらいたい。
「とはいっても、消去法なんですけど」
「消去法はどんな局面でも使える魔法の戦術ですよ。試しにセンター試験で消去法禁止令を出してみてでもごらんなさい。平均点は大きく下がりますよ」
「ありがとうございます、御船さん。っていうか、御船さんって呼んだ方がいいんですかね?」
 軽く首を傾げて、灘嶺くんは微笑みかける。御船以外の蝉は、まるで灘嶺くんの言葉に対して激しいブーイングを投げかけるかのように鳴いている。どいつもこいつも自分のことしか考えていない癖にうるせえよ、と灘嶺くんは思った。灘嶺くんだって今、自分のことしか考えていないのに。
「どういう意味でしょう」
「貴方、御船明さんじゃないんですよ。……多分、貴方の本当の名前は田辺新美さんだ」
「……素敵な名前ですね」
「御船さんはね、多分どっかで、御船さんの名前を見たんだよ。田辺さんが死んでから数日の内に、『御船明』っていう名前の男が死んだんじゃないかな? それを見て、田辺さんは自分を御船明だと思い込んでしまった。何故なら、田辺さんは、……自殺までしたんだから、もう田辺新美さんでいたくなかったんじゃないのかな?」
 自分の推理を滔々と語るのはなんだか恥ずかしいような、いたたまれないような、そんな気分だった。証拠なんて何一つ無い。ただ、何となく、そう思っただけだ。アルカディアに縁のある死者なんて、田辺新美くらいしかいなかった。数日前に正門の前で騒いでいた女性の息子は、今だってちゃんと生きている。
「田辺さんは田辺さんって名前に聞き覚えはないかな? 引っかかるところは? 丁度、半年前くらいのことだ。田辺さんがあの宿泊施設の一室で、首を吊って死んでいた。遺書も無かった。前触れも多分無かった。……田辺新美さんがどうして死んだのか、俺にはわからない。でも、俺はあの日から、俺の作った宗教の何がいけなかったんだろうって、ずっと眠れないでいる」
 佐藤さんや幹部の松永さんやその他いっぱいの人が、灘嶺くんにそれを見せまいと必死になっていたのを思い出す。灘嶺くんの教団なのに、灘嶺くんが起こっていることを知らないなんて妙だ。だから灘嶺くんは、制止を振り切って田辺新美の部屋に入った。あの時、得体の知れない嫌なものを感じた。今朝御船の部屋に入った時と同じだ。
 田辺新美の死体の印象は虫に似ていた。人間の形をしているのに、それはもう人間じゃなかった。
 灘嶺くんは言葉が通じないものが苦手だ。
「間違ってたら、ごめん。怒る?」
「怒りませんよ、そんなことじゃ」
 御船は、とても穏やかな声をしていた。灘嶺くんの周りを飛び回るんじゃなく、蝉らしくちゃんと木に留っているからかもしれない。黒くて丸い、ビーズみたいな目は本当に灘嶺くんのことを見えているのだろうか、と思う。
 一拍置いて、また話し出す。
「それで、よかったら、教えて欲しい。……田辺さんは、どうして死んだのかな? 田辺さんは、それを伝える為に、蝉になって戻ってきたんじゃないかな」
 生まれ変わりなんて信じていなかったけれど、もしそういうものがあるのなら、多分この為にあるはずだ。伝えられなかった思いを伝える為に、御船が言っていた『キラキラ』の正体を、伝えて欲しい。
 そして、なるべくなら彼は、田辺新美にとってアルカディアが安息の地であったと言って欲しい。そうじゃなくちゃ、これからも灘嶺くんは眠れないからだ。
「……私は、センセイの期待に沿えませんよ」
 御船の声が響く。蝉の鳴き声とは程遠い。でも、うら若き女の子とも違う声だ。
「わからないんです。田辺新美がどうして死んだのか」
「それは、思い出せないってこと? それとも、俺の話は全然見当違いで、御船さんは田辺新美さんと何の関係もないってこと? ねえ、御船さん」
「見当違いじゃありませんよ。私は、全部全部思い出しました」
「え、本当?」
「でも、彼女が死んだ理由なんて、わからないままです」
 どういう意味? と灘嶺くんが聞くより先に、御船が木から離れた。空に放たれる時の羽音が、如何にも蝉です、と言わんばかりの濁音で、灘嶺くんは少し驚く。
 御船のことが握りこぶし大の点に見える程度の距離をとって、今度こそ御船と灘嶺くんは向かい合った。息を飲む。
「ねえ、センセイ。御存じですか。蝉はね、暑さが苦手なんですよ。蝉の寿命が七日間しかないのは、暑さが苦手なのに、夏に土から出てくるからなんですよ。季節外れの蝉なんかは寿命が長くて、一ヶ月ほど生きるんです。なんででしょうねえ。それなら秋に出てくればいいじゃないですか。どうしてそんなこともわからないんでしょう」
 蝉が蝉について語るのは、なんだか気味が悪かった。これは他の生き物にも当てはまることかもしれない。猫が猫について語るのも。クジラがクジラについて語るのも。人間が人間について語るのも。それなら、人間が神様について語るのは? セーフだろうか? アウトだろうか? アウトじゃなくても、気持ち悪くない?
「……御船さん、あの」
「でもね、ようやくわかりましたよ。彼らにも彼らで夏に出て来なくちゃいけない理由があるんですよね。蝉には蝉の理由があるんです。狂おしいほどの夏に出て来なくちゃいけない、キラキラの理由が」
 御船の周りに、得体の知れないキラキラが取り巻いている。
「新聞のコラムだったかなぁ、そういう話を読んだんですよ。私が新聞をあんなに真剣に読んだのは初めてだったかもしれないなぁ……。新美の名前が無いか、アルカディアの糾弾記事が無いか、目を皿にして探したんだ」
「……………………」
「御存じですか。今日、新美の誕生日。生きていたら、二十一歳でした。ああ、あの子、夏が似合う子でしょう。夏に生まれたからなんですよ。あの子ほど太陽が似合う子はいなかった」
「うん、新美ちゃんは、……夏が似合う子だった」
 田辺新美が死んだのは、寒さの厳しい冬の朝だった。
「新美の誕生日に、間に合わなくちゃいけなかったんだ」
 影みたいな御船の姿がぐらぐらと揺れていた。
「思い出したのは、昨夜、信者達のとある怪談話を聞いていたからでした。他愛の無いきっかけでしょ? 蝉が聞き耳を立てているとかいないとか、普通の人間は気にしないんですよ。夏に相応しいものは蝉と怪談話ですよ。ねえ、新美が使っていた部屋は悪魔の部屋って呼ばれているんでしょう? アルカディアの教義では道徳的に問題のあるものはいけないってされているんでしょう? 自殺なんていけないことですもんね。新美はアルカディアに迎え入れられず、地獄の山羊に食い殺されるんですって。何度も何度も何度も」
 灘嶺くんはそんなことを教えたつもりはない。自殺は確かにいけないことだけれど、そんな、地獄にいる山羊に食い殺されるとか、そんな怖いことは絶対に言わない。そんなことを聞いたら、灘嶺くんは怖くて死ぬに死ねなくなる。
「…………フラッシュバックとはこのことだと思いました……。ねえ、危うく忘れるところでした。あのキラキラ、アルカディアを、センセイを見た時のあのキラキラの正体がようやくわかりましたよ。憎悪ですよ憎悪。どうして気が付かなかったんでしょう。天才と馬鹿とは紙一重だっていいますけど、性質の違うものは紙一枚隔てたところに置かなくちゃいけないって、誰が決めたんでしょうね? 神様? あの綺麗なキラキラの正体がこんなものだなんて酷いや!」
 御船の声は段々と大きくなっていく。あの小さな身体の何処から声を絞り出しているのかまったくわからない。
「御船さん、あの、ちょっと、帰」
「そうです! 田辺新美は私の実の娘! 離婚して母親に引き取られてからは普通に会ったことはありません! でも幸せでいてくれていると思っていました。アルカディアなんてクソみたいな宗教に! 娘がハマって死ぬまでは! 母親が泣きながら報告してきました! 妙な宗教にハマってから娘をほったらかしていたらいつのまにか娘は原因不明の自殺をしちゃってたってさ!」
「帰りたい……」
 一刻も早くここから逃げ出したかった。さっきまでの名探偵っぷりは何処へやら。仕方がない。灘嶺くんは名探偵じゃなく単なる宗教家だ。
 灘嶺くんはどうして名探偵が真相を話そうとしている間犯人はうかうかとそれを聞いちゃったりしているのかなぁと常々思っていたものだけど、何となく理由がわかる。――逃げられないよ。こんなに怖い状況でさぁ。
「俺は新美の母親を責めた。どうして新興宗教になんかハマってるのに、助けようとしなかったんだって! そうしたら、ふふ、幸せそうだったからって。赦せんよなぁー、アルカディアは妙な壺を買わせたりしない、寄付を強要したりしない。馬鹿か! 騙されてるんだよ! 新興宗教なんてものはいつだってトラブルの種だろうが! 不幸の源泉だろうが! どうして新美を助けなかったんだ!」
「……御船さん、田辺さんが死んだのは、アルカディアの所為かな? 田辺新美さんは、特に遺書とか、ダイイングメッセージとか、そういうものを残していなかったはずなんだけど」
「わからないなら、こじつけるしかないだろうが」
 なるほど、それはとてもシンプルな方法だった。
 よくよく考えれば、灘嶺くんの手前勝手な悪夢やトラウマも、そうしたシンプルな方法に則ったものじゃなかっただろうか? 灘嶺くんは、田辺新美が死んだ理由がアルカディアであることが怖くて、そういうことになってしまっていたんじゃないの?
「俺は母親を刺し殺したよ。新美を助けられなかった罰だ。続いて俺は、自分の喉に刃物を突き立てたんだ。新美を助けられなかった罰だ」
 灘嶺くんは新聞を読まない。傷つきやすい灘嶺くんが楽しく見られるページが、恐ろしいほど少ないからである。田辺新美の自殺と違って、その件は大いに報道されただろう……。でも、確かあの時期は中学生が同級生を誘拐してどうこう、みたいなセンセーショナルな事件が起こっていた気がするから、ありきたりな心中事件なんて見過ごされていたかもしれない。
 そうして、御船明は蝉になる。
 気が付いたら、彼は蝉になっていた。時空も記憶も歪んで、七年間を土の中で過ごす。彼はただ、自分の信じるキラキラを信じて夏に這い出て、灘嶺くんの語る神様の話を聞く。
「そうだ、お前だ。お前が新美を殺したんだ。そうだ、だから俺は、俺はお前に、アルカディアに復讐を」
 キラキラが止まらない。蝉を迷わず夏に導く目的が滾る。彼らの多くはただ漫然と遺伝子のリレーを繰り返している。それが彼らの輝きだから。ああ、灘嶺くんが少し前まで絶望していたそれの、健全さといったら!
「御船さん。あんたはアルカディアに救われる側の人間だと思ってたんだけど」
「救われない。忘れない。七年土にいたって、忘れない。思い出したよ。センセイ。俺は、お前に、復讐する為に出会ったんだ。神様がその機会を与えてくれたんだ」
「ねえ、御船さん。御船さんは神様を、信じて――」
「それに今の俺は人間じゃない。ただの蝉だ」
 何を今更、と思う。御船が本当の蝉だったら、そんな悲しみも、そんな激情も憎しみも持ち得ないだろう。彼は灘嶺くんの周りにいる生き物の中で、今週はトップクラスに人間だった。アルカディアの信者の中には、一週間丸々アニメの再放送を惰性で見続けて潰す人間だっているというのに!
 それでも、灘嶺くんは少しだけ期待する。人間だった頃の御船がおよそ理解し得なかったアルカディアというものに、彼は蝉になって触れたはずだった。そして、あんなにキラキラしながらその素晴らしさを汲んでくれていたはずじゃないだろうか? ……あの時の言葉が、色々な誤解の賜物であったとは、あんまり考えたくない。
「それで、御船さんは・・・・・・その、どうするんですか。これから。し、進退とか?」
 蝉は表情が変わらないので、一縷の期待をこっそり掛けた。でも、そう上手くはいかないらしい。蝉の無機質でつやつやとした両目に、灘嶺くんのひきつった笑顔が映る。
「殺してやる」
 夏に似合わない重苦しい声がした。夏の風物詩失格だと思う。
「そういうの、やめようよ」
「来世では控えよう」
 今世で控えてくれる気は、どうやらなさそうだった。
 なんてこった、完全に失敗だった。何が名探偵だ。こんなにも殺意というものに鈍感だった癖に!
「……蝉に、人が殺せるんでしょうか」
「残念ながら」
 そう言うと、御船は急に歩道側へ飛んでいった。公園から一歩出れば、そこは人と車が行きかう何の変哲もない道である。一人の会社員がスーツに汗染みを作りながら、歩道を赤い自転車で走っていた。自転車で歩道を走るのは、あまりよくないことだ。でも、悪人と呼ぶほどじゃない。
 会社員は熱にあてられて、大きく旋回して近づいてくる御船にまだ気が付いていないようだった。大多数の人間は虫をそこまで警戒しない。だからまんまと、顔に突っ込まれてしまうのだ。
「うわっ!」
 御船に突っ込まれた会社員が、勢いよく車道側へバランスを崩す。いきなり顔に蝉が飛んできたら、大抵の人間は動揺する。それが人間の知能と悪意を持った蝉なら尚のことだ。御船は飛びついた会社員の眼球に足を掛けてから、また飛び立っていく。それと同時に、会社員の顔が地面に着いて、鈍くて嫌な音を立てた。
 会社員に向かって運送屋の軽トラックが突っ込んできたところで、灘嶺くんはたまらずに反対側へ駆けだした。背後で悲惨な音が聞こえた気がするけれど絶対に気にしない。灘嶺くんの大嫌いな、臓物を撫でさすられるような悲劇の予感がした。それは全て怒り狂った御船の行き場のない憎しみと無差別な暴力衝動の所為で、それらは全て灘嶺くんを苗床としているのである。
 どうしてこうなったんだろう。救いを求める者に手を差し伸べすぎたからだ。そもそも、蝉に手を差し伸べて俺はどうしようと思ってたんだ! ジーザス! 灘嶺くんは久しぶりにこんなに鮮烈な後悔をした。体が震える。蝉が怖い。
 真夏に走り回るなんて正気の沙汰じゃないけれど、逃げなくちゃ殺されるのが明白な状況で、逃げない人間はいない。インドア派の灘嶺くんはすぐに日光に足を取られた。殆ど吐きそうになりながら走る。御船は訳の分からない叫び声をあげていた。怖い怖い怖いよ! けれど、灘嶺くんの元に神様からの助けは来ない。
 アルカディアの建物内に入り、急いで扉を閉める。ぜえぜえという大袈裟な呼吸音は蝉の羽音よりもうるさい。
「ううぅ……ひいいいぃ……」
 なんて鮮やかな手の平返し。コペルニクスもびっくりの転回! 人間の価値観は気分次第でいくらでも変わる。そのことを灘嶺くんは深く思い知った。目の端に涙が浮かぶ。こんなはずじゃなかったのに……という弱々しい呟きが漏れた。
「そうとも。俺だってこんなはずじゃなかったよ」
 背筋が冷えた。オーソドックスなホラー展開は、実際に経験するとこんなにも怖い。
 灘嶺くんのすぐ真横に、御船がいた。一体何処から入って来たんだろう。何処からでも入って来れるさ、だって、蝉だから。
「逃げられると思うなよ、センセイ」
 灘嶺くんは転がるようにして、御船から距離を取った。もつれた足を懸命に走らせて、廊下の奥へ向かう。震えた手でドアノブを握った。バッと室内に入る。そこで、とうとう足が動かなくなった。膝を誰かに掴まれているかのようで、もう少しも逃げられない。
「室内に逃げたな! 室内に逃げたな! 逃げ場はどんどん無くなるぞ! お前の体内に入って内臓を食い散らかしてやる! 死ね! 死ね!」
「うわああああん! 助けてえええええ!」
 そんなことを言われているのだから口を閉じてしまえばいいのに、灘嶺くんは大声を上げて泣き叫んだ。これが今までやってきたことの報いなのかと思うと、やりきれない。灘嶺くんに悪意なんてこれっぽっちも無かったのだ。
「新美の仇だ」
 御船さんのハードボイルドな処刑宣告が響く。灘嶺くんは目を瞑った。万事休す。休んでいる場合じゃないのに。その時だった。パアンと銃声のようなものが響いた。驚いて灘嶺くんは目を開ける。平和主義者の集まりであるアルカディアで、響いてはいけない音だった。
 涙でぼんやりとする視界に、見慣れた顔が映る。蝉には見えなかった。
「大丈夫ですか、センセイ」
「佐藤さん、佐藤さんだ……」
「すいません。センセイのお部屋に勝手に入ってしまって。センセイが朝ごはんを食べにいらっしゃらないので、心配していたんです」
「いや、それはいいんだけど……心配かけてごめん……」
 灘嶺くんはようやく、佐藤さんの今の状況を把握した。彼女は仁王立ちで灘嶺くんの前に立っていた。右手には、丸めたクロスワード雑誌が握られている。灘嶺くんを待っている間、解いていたのだろう。
 その雑誌の表面に、何かがこびりついていた。いや、何かと呼ぶのも白々しい。そこにひっついているのは、紛れもなく蝉だった。
「どうかしましたか?」
「いやあの……佐藤さん……」
「はい」
「佐藤さんって、蝉、好きじゃなかったっけ……?」
 色々言いたいことはあったはずなのに、それだけが口を衝いて出た。夏の風物詩ですからね、と軽やかに言ってのけた彼女の笑顔を今でもまだ鮮明に思い出せる。ハードボイルドな彼女の笑顔は貴重で輝かしいのだ。それはもう、凄く。
「ああはい、好きですけど。でも、センセイったらまるで蝉に殺されるんじゃないかってくらい怯えていらっしゃったので。処分しました」
 事も無げに佐藤さんはそう言った。最早佐藤女史とか、そういう風に言った方がいいんじゃないだろうか? と思うような貫禄だった。聞いてしまえば単純な理由である。大事な大事な灘嶺くんが、蝉を怖がっていたので排除した。ええ、はい。素晴らしく明解な行動だったわけですね。
「センセイ、蝉がお嫌いだったんですね。少し前に蝉と一緒に歩いているところを見たばかりだった気がするのですが」
「佐藤さん。人間っていうのは一クール毎に嫁を取り替えたり、抱いていたシャチのぬいぐるみを明日には捨ててクジラに抱き替えたりする生き物なんだよ」
 灘嶺くんは丸めた雑誌に貼りつく御船の欠片と、床に散らばる御船の大部分を交互に見た。完膚なきまでに死んでいた。酷くて惨い死にざまなのに、蝉であるというだけでこんなにも精神的ダメージが少ない。なんて素晴らしい蝉補正。
「殺しちゃったね……」
「殺しちゃいましたけど。もしかしていけませんでしたか? アルカディアの教義に蝉を殺してはいけないとは載っていませんでしたけど。あと、人間以外の生き物の殺生も明文化されて禁止はされていませんよね。そうでしたらすいません。わかりませんでした」
 佐藤さんは軽く唇を尖らせる。不満なのだろう。何せ、彼女は灘嶺くんの為に蝉を――御船を殺したのだから。肩で息をしている顔面蒼白の灘嶺くんが、一言も自分を労ってくれないのが少しばかり気に食わないのである。彼女はハードボイルドで真面目でクールだけど、基本的に、愛しの教祖様のことが大好きなのだ。
 灘嶺くんはようやくそのことに気付く。そして、まだ少しぎこちない表情のままどうにか笑顔を作ると、佐藤さんに言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 佐藤さんはピクリとも表情筋を動かさずにそう返す。
「……俺の為に蝉が死んじゃったよ。本当、悪いことをした」
「あら、お優しいんですね。流石はセンセイです。私はセンセイのそういうところが、嫌いではありませんよ。むしろ大変大好きです」
「ねえ佐藤さん。これでよかったのかな」
 重々しく問いかける灘嶺くんに向かって、佐藤さんは軽く首を傾げる。心底不思議そうな顔だった。何せ、彼女は自分の中にちゃんと確固たる信念を抱えているのである。迷いなんか欠片も無い声で、彼女は答える。
「当然ですよ。だって、蝉なんかより人間の方が大事じゃないですか」
 況やセンセイをや。と彼女は締めくくると、しっかりと頷いた。
「そうだよねー。……そうなんだよねー……」
「そうですよ」
 喋らない蝉は、本当に単なる蝉だった。潰れた姿はゴミに似ていた。
 こうして、言葉を話す蝉と灘嶺くんの一夏の『キラキラ』は終わりを告げた。随分呆気ない終わりだけれど、仕方がない。蝉との物語なんて、潰れて死んだ虫との話なんて、この程度の幕切れが相応しいのである。灘嶺くんが学んだことは三つ。一つ、物事は人の見る目によって恐ろしいほど変わるということ。一つ、いくら言葉を喋り人間の知能を持った蝉がいても、潰してしまえば全く怖くないということ。一つ、憎しみや怒りや嘆きや殺意なんて感情でも、ひたむきであればそれはキラキラした生きる意味に変わるこということ。異常だ。
 結局、どうして御船明が蝉になってしまったのかだけは、わからないままだった。もしかしたら、人間は死ぬと須らく平等に蝉になってしまうのかもしれない。そして、生殖への飽くなき渇望と、人間だった頃のやるせなさや後悔や嘆きや痛みを全部載せて、夏の間執拗に鳴き続けるのかもしれない。
 そう思うと、灘嶺くんはつくづく、死にたくないなぁと思うのだった。

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